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【つの版】ウマと人類史EX03:騎乗馬種

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 引き続き、中世ヨーロッパのウマについて見ていきましょう。今回は11世紀以後です。軍事面でも経済面でも、当時のヨーロッパはウマに大きく依存して社会を営んでいました。

◆うま◆

◆ゆる◆

乗用馬種

 中世欧州のウマは、現代のような血統による品種よりは、外観や用途によって区別されました。軍馬として鍛錬を積んだウマは、農耕馬とは気質も体格も異なり、各々の役割は容易に変更することはできません。ウマは本来臆病な(警戒心の強い)動物ですから、そこらの農耕馬を急に軍馬にしようとしても無理なのです。より軍馬に近いウマは乗用馬(riding horse)でした。

 古代ローマでは縦横無尽に道路網が整備され、馬車の轍(わだち)の幅も統一されて広範囲に移動できましたが、中世ではローマ街道は荒廃し、橋の多くも打ち捨てられ、各地は分断されました。古代ローマ街道が存在しなかった地域はなおさらです。しかし各地の封建領主は(カール大帝でさえ)領内を自ら巡回して租税を取り立てねばならず、次第に道路も再び整備されていき、巡礼者や商人も道路を盛んに往来し始めます。とはいえ馬車や荷車が通れるほどの道は限られ、徒歩かウマやラバ、船での移動が主でした。

 中世英国では、汎用の乗用馬はラウンシー(rouncey)と呼ばれました。これはアングロ・ノルマン語rouncieに由来し、古フランス語ではroncin、後期ラテン語ではruncinusと記され、おそらく古高ドイツ語hros、英語horseと同じく「ウマ」を意味します。遡れば印欧祖語krs-os(走るもの)で、同語源のケルト祖語karros、ラテン語currusは「車」を意味します。ラウンシーはもっぱら乗用馬として用いられ、時に荷馬ともなりましたが、荷馬車には用いられませんでした。現代のウマよりは小柄で、素早く走ったといいます。

 より上等な乗用馬を指すパルフリー(palfrey)は、アングロ・ノルマン語palefrei、古フランス語palefroi、後期ラテン語para-veredus(替えウマ)に由来し、veredusはガリア語weredos(ウマ)、ケルト祖語uɸo-redos(下に-乗る)まで遡ります。ドイツ語Pferd、オランダ語paardはparaverdusと同語源で、ドイツ北部と中央部では単に「ウマ」を指す語となり、ゲルマン系の語彙Rossは古風な呼び方とされています(南部ではRossも口語で用います)。

 パルフリーは貴族や貴婦人、騎士などが乗るものとされ、騎士は替え馬としても用いました。その歩行法は同じ側の両脚を片側ずつ同時にあげて動くものでアンブル(amble/側対歩)といい、未舗装の道路でも長距離をあまり疲労せずに移動できたといいます。そのため飛脚や郵便配達などには有用でした。ドイツでは小柄なハンガリー産のウマが好まれた他、スペイン産のジェネットも穏やかで従順な気質で、パルフリーとして用いられました。

 ハックニー(hackney)は、ラテン語equus(ウマ)を語源とするフランス語haquenée(アクネー)に由来し、パルフリーと同じく側対歩を行います。諸説ありますが、1200年頃には「中程度の大きさと質の乗用馬」をあらわす語として用いられ、女性などが乗るために有料で一時的に貸し出されたことから、次第に「有料で一時的に貸し出す」こと自体をハックニーと呼ぶようになったようです。英国でタクシー(古くは辻馬車)を「ハックニー・キャリッジ」と呼ぶのはこれに由来しますが、ロンドンのハックニー区は「沼地の島(hacan ieg)」を語源とし、貸し馬とは無関係のようです。中世日本の馬借と同じく、英国ではハックニー・マンと呼ばれる貸し馬屋が宿場町などにあり、盗難防止のために貸し馬には焼印が施されました。

騎兵馬種

 騎士とは文字通りウマに騎乗して戦う戦士です。英語knightは従僕・侍従を意味するcnihtに由来しますが、ドイツ語Ritter,オランダ語ridderは「騎乗する者(rider)」の意ですし、フランス語chevalier,イタリア語cavaliere,スペイン語caballeroは後期ラテン語caballarius(騎兵)に由来します。ラテン語caballusはequusとは別語源で、古代ペルシア語kabalah(ウマ)がギリシアを介して借用されたもののようです。古代ローマでもウマは貴重品で、自前で軍馬が用意できるほどの財産を持つ騎士階級(エクィテス)は、元老院に議席を持たない新興の富裕層を指します。ウマに騎乗して戦うだけの騎兵(horse-man)は異民族の傭兵などにもおり、騎士階級とは区別されます。

 彼らが乗る軍馬は一般にチャージャー(charger)と呼ばれました。これは古フランス語chargier、後期ラテン語carricare(積む、運ぶ)に由来し、騎士や騎兵を載せて運ぶことによります。騎士は軍馬1頭以上に加え、乗用馬や荷馬などが必要で、標準では5頭ほどのウマを飼っていました。

 中世欧州の騎士が最も重んじた軍馬は、英国ではデストリエ(destrier)と呼ばれました。古フランス語destrier、アングロ・ノルマン語destrer、後期ラテン語のequus dextrarius(右側のウマ)に由来します。これはこのウマが右脚から動き出すためだとも、戦場までは騎士の右側にいる従者に引かれて進み、戦闘時には騎士が別のウマ(ラウンシーやパルフリーなど)から乗り換えたからだともいいます。その体高は当時の平均的なウマ(12-14ハンド=122-142cm)より大きいものの16ハンド(64インチ=163cm)以下でしたが、他の軍馬よりも頑丈で重い体格をしていたようです。それでも現代のペルシュロンのような、輓馬めいた巨大なウマではありませんでした。

 デストリエは戦いのために鍛え上げられた最高の軍馬であり、種牡馬であって、希少で高価な財産でした。十字軍の時代には通常のウマの7-8倍もの価値があったといい、英国では13世紀末に銀80ポンド(1ポンド≒現代日本の72万円として5760万円)、14世紀半ばには100ポンド(7200万円)もしたといいます。この1/7-1/8とすると、通常のウマは10ポンド(720万円)ぐらいでしょうか。1265年のフランスでは、領主がラウンシーに20マルク(約10ポンド)以上支払うことを禁止しています。

 騎士同士の戦闘訓練と交流のため、有名な「試合(トーナメント)」が登場するのは11-12世紀頃、十字軍の時代です。徒歩での試合もあり、主要競技はトゥルネイ(団体戦)で、ジョスト(一騎打ち)はその前座でしたが、次第にジョストの方が人気になりました。狭義の「馬上槍試合」、すなわちランス(馬上槍)でのジョストはチルトといい、剣や短剣、斧やハンマーでのジョストも行われています。トゥルネイ/トーナメントは14世紀には廃れましたが、ジョストは1600年頃まで長らく行われました。

 デストリエは極めて高価であったため、通常の騎士や騎兵はラウンシーやパルフリー、コーサー(courser)といったより軽いウマを乗騎としました。コーサーはアングロ・ノルマン語cursier、ラテン語cursārius(競走馬)に由来し、cursus(コース)を走る軽量のウマを指しました。

 中世アイルランドでは、スペイン馬やバルブ種からホビー(hobby)と呼ばれる軽量の軍馬が開発されました。スコットランドやイングランドはこのウマを用いた軽騎兵で互いに戦っています。14世紀前半のスコットランド王ロバート・ブルースは1日に60-70マイル(100km以上)もの距離を駆け抜けてイングランド軍を奇襲しましたが、その時に用いたのはこのホビーであったといいます。

◆うま◆

◆よん◆

【続く】

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