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【つの版】ウマと人類史EX02:馬耕三圃

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 今回は、中世ヨーロッパのウマについて見ていきましょう。とはいえ中世は長いので、まず5世紀から10世紀末までの中世前期とします。古代ローマ帝国が崩壊し、蛮族が跳梁跋扈して「暗黒時代」とも評されたこの時代に、ウマは大きくヨーロッパ社会を変動させました。

◆うま◆

◆ゆる◆

重装騎兵

 重装歩兵を主要戦力とした古代ギリシアやマケドニア、ローマにおいてもウマは重要な家畜でした。貴重かつ手間がかかるため貴族や金持ちしか自前の軍馬は持てませんでしたが、テッサリアやマケドニアでは盛んに軍馬が育成され、ペルシア帝国を滅ぼすほどの騎兵戦力を保持しています。ローマも各地にウマを育成する牧場を設けていますし、平時でも四輪馬車が運搬や郵便配達に活用されました。二輪戦車(チャリオット)は戦場では廃れたものの、ギリシアと同じく戦車競走が娯楽としてもてはやされました。

 戦車競走は、少なくとも紀元前14世紀以前のミケーネ文明に遡り、古代オリンピックでも正式競技として長く行われました。現代の競馬とサッカーとモータースポーツを合わせたようなこの催しは観戦者を熱狂させ、そのチームやサポーターは皇帝ら有力者の支援を受け、政治団体やギャング団と化しています。古代オリンピックが消滅した後も東ローマ帝国では戦車競走が重要視され、儀式化しつつ13世紀初め頃まで続けられました。

 ローマ帝国は蛮族の侵入を防ぐため騎兵戦力を強化し続け、ついには蛮族に乗っ取られて西半分が滅びました。サルマタイ、ゴート、ヴァンダル、ブルグント、フン、アヴァール、マジャールといった蛮族たちは欧州各地に移住してウマを持ち込み、騎兵戦力によって自らの領地を守りました。ことに6世紀にハンガリーに到来したアヴァール人は、ウマの左右に足を載せる(あぶみ)をもたらしたことで知られます。蹄鉄の出現もこの頃でした。

 8世紀にイベリア半島の大部分がイスラム勢力(サラセン/ムーア人)によって征服されると、アラブ種やバルブ種のウマが持ち込まれて在来のウマと混血しました。イベリア産の比較的小柄なウマを、中世以後の英語ではジェネット(jennet)といいます。これはラバを意味するジェニー(jenny)とおそらく同語源で、フランス語genest、カタルーニャ語genet、スペイン語jinete/ginete、北アフリカのベルベル(アマジグ)人のうちザナータ(Zanata/Iznaten)部族にまで遡ります。彼らが育成・騎乗したウマをザナーティー(ザナータ部族の)といい、訛って欧州諸国に伝わったのです。

 これらイベリアのウマは各地に輸出され、あるいは戦争によって獲得されました。フランク王国では古代ローマ時代からの牧場が維持されており、北欧系やイベリア系のウマと掛け合わされ、頑強で大柄な軍馬が生み出されます。また鐙を導入することで騎手の安定性も増し、落馬しにくくなり、大型の馬上槍(ランス)を構えて突進する戦法が普及します(論争はありますが)。突撃後は馬上で剣を振るい敵陣を蹂躙するのです。その突破力はアヴァールやマジャール、サラセンの軽騎兵らをしばしば打ち破りました。そして重装騎兵らは中世を彩る騎士となり、十字軍遠征において聖地を蹂躙することになったのです。

 東ローマ帝国はバルカンやアナトリアに優れた軍馬の牧場を持ち、騎兵によってペルシアやアラブなどの外敵に対抗しています。当初は弓騎兵が主でしたが、のち騎手とウマに甲冑を纏わせた重装騎兵が発展し、カタフラクトやクリバナリウス/クリバノフォロスなどと呼ばれました。

 これら騎士や軍馬を養うには、農業生産力にそれなりの余裕がなければなりません。近場で戦ったり現地調達(掠奪)したりすれば兵站はさほど気にしないで済みますが、日々の食事や飼葉も必要です。それらを下支えしたのもウマの力と人間の労働、技術の革新でした。

馬耕三圃

 アルプス以北の中世欧州では、ウマが開墾や農耕に用いられ出しました。種まきや苗の植え付けに備えて、最初に田畑を耕し起こす(からすき/プラウ)を、牛ではなくウマが牽くようになったのです。

 牛は古来くびき(頸木)という重い横木を背負い、二頭が並んで犁を牽きましたが、ウマがこれをやると本来の速度や力が出せず、首の血管が絞まって長続きしませんでした。またウマは牛より多くの食物を必要とするため、農耕を行わせるには割に合いません。これを解決する方法として、犁に車輪をつけて動かしやすくし、ウマに頸環(ホースカラー)を懸けて肩甲骨で牽くようにさせる方法が7世紀頃に出現します。頸環で馬車を牽く方法は5世紀頃に敦煌で描かれているため、東方から伝来したもののようです。耕した地面を引っ掻いて均すための馬鍬(まぐわ/ハロー)もこの頃に伝来しました。

 乾燥した地中海世界とは異なり、湿気が多く重い土壌が広がるアルプス以北では、通常の犁では深く耕せず、農地も少なくて麦などの生産力は劣っていました。しかし犁を重くして車輪をつけ(重量有輪犁/カルーカ)、持続的に速く動くウマに牽かせることにより、森林の開墾が進んで農地が広がり始めます。牛も耕作に用いられ続けましたが、重量有輪犁を用いる場合、牛は8頭立てで1日平均半エーカーを耕作できたのに対し、ウマは4頭ないし6頭で1日1エーカーを耕作できたといいます。

 7世紀後半から8世紀末にかけて、ライン川とセーヌ川に挟まれた北西ヨーロッパでは三圃式農業が行われ始めます。古来欧州では村落共有の農地を二つに分け、一方を一年間休耕地として地力を回復させる二圃式農業が主流でしたが、三圃式農業では農地を三区分します。春耕地では春にウマの食糧となる豆・燕麦・大麦を蒔いて秋に収穫し、秋耕地では秋に小麦・ライ麦を蒔いて春に収穫し、残りを休耕地として家畜の共同放牧に利用したのです。家畜の排泄物は肥料となり、休耕地の地力を回復させました。

 この方式は人口増大をもたらし、フランク王国を西欧の盟主、神聖ローマ帝国にまで発展させる原動力となります。また13世紀までにはイングランド南東部、ユトランド半島南部、ロワール川やローヌ川流域、エルベ川流域やドナウ川以北にまで伝播し、西ヨーロッパ世界を形作っていったのです。

◆うま◆

◆ゆる◆

【続く】

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