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【つの版】ウマと人類史EX44:畠山之乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 源頼朝が急死したのち、跡を継いだ頼家は比企氏を後ろ盾としますが、母方の祖父・北条時政との対立を深め、比企氏もろとも粛清されます。時政は頼家の同母弟・実朝を新たな鎌倉将軍に擁立して幕府の実権を握りました。

◆鎌◆

◆倉◆


時政専横

 北条時政はもと伊豆国の小豪族ですが、娘の政子を頼朝に嫁がせており、頼朝の挙兵時から彼を支えた重臣でした。その後は目立たなくなるものの、後妻の牧氏の所領があった駿河に勢力を広げ、平家滅亡・義経失脚後は京都守護として後白河院や朝廷との折衝にあたっています。安田義定が粛清されると遠江守護となりますが、頼朝の生前には次男の義時ともども朝廷の官位を持たず、有力御家人の一人に過ぎませんでした。それが頼朝の死後に政敵を次々に粛清し、幼い実朝の補佐役として幕府の実権を握ったのです。

 建仁3年(1203年)10月、時政は大江(中原)広元とともに政所別当まんどころべっとう(政務長官)に任じられ、いわゆる「執権」となりました。執権とは朝廷の蔵人(秘書官)や院庁雑務の筆頭を指す呼び名でしたが、鎌倉幕府では鎌倉殿の家政機関である政所の長がそう呼ばれています。のち執権と政所別当は別とされたため、広元を執権とはあまり呼びません。

 広元は謎の多い人物です。久安4年(1148年)生まれといいますから頼朝の1歳年下で、建保4年(1216年)閏6月に朝廷から大江氏に改めることを許されるまでは中原氏を名乗っています。『吾妻鏡』『尊卑分脈』では中級貴族・大江維光の子で中原広季が養父としますが、実父は中原広季だとも、参議・藤原光能であるとも諸説あります。兄の親能ちかよしは早くから頼朝に仕えていました。広元は官僚として朝廷に出仕して従五位上まで昇り、元暦元年(1184年)には兄のツテで鎌倉へ赴き、武士ではなく実務官僚の長(公文所別当)として頼朝政権の政務を統括するようになります。翌文治元年(1185年)には正五位下となり、頼朝が公卿に列すると最初の政所別当に就任、朝廷の官位も賜りつつ頼朝政権を支えました。土御門通親など朝廷の公卿とも独自のパイプを持ち、頼朝没後は北条氏と連携しています。

平賀朝雅

 時政は政子の他にも娘が多く、頼朝の異母弟の全成、河内源氏・源義国の孫の足利義兼、武蔵の畠山重忠稲毛重成、伊予の河野通信らにも娘を嫁がせています。そうした娘婿の一人に平賀朝雅(朝政)がいました。

 祖父盛義は河内源氏・源義光の子で、信濃国佐久郡平賀郷を所領として平賀氏を名乗りました。父の義信は平治の乱に際して頼朝の父・義朝に従い、信濃で挙兵した義仲に与したのち頼朝に仕え、元暦元年(1184年)には武蔵守に任じられ、北条氏より格上の源氏門葉筆頭として重んじられました。義信の子(朝雅の異母兄)の惟義は伊賀守護・相模守を歴任しています。

 義信の妻は頼朝の乳母・比企尼の三女(もと伊東祐清の妻)で、寿永元年(1182年)に朝雅を産み、比企の乱の前年(1202年)に夫に先立って逝去しました。朝雅は頼朝に猶子(養子)として扱われたともいい、比企の乱においては妻の父・時政につき、実朝が擁立されると京都守護に任じられます。

 頼朝死後の幕府の内紛により、各地の反鎌倉勢力は挙兵の機をうかがっていました。また建仁2年(1202年)には朝廷の有力者・源通親が急逝し、後鳥羽院が「治天の君」として院政を敷いていたため、反乱者が建仁の乱の時のように院を脅して鎌倉追討の宣旨を求める可能性もあります。

 果たして建仁3年12月、伊勢国で平氏の一党が挙兵し、伊勢・伊賀守護の山内首藤経俊の館を襲撃しました。翌元久元年(1204年)2月には伊賀・伊勢で平氏が挙兵し、経俊は衆寡敵せず逃亡します。3月、急報を受けた幕府は平賀朝雅に鎮圧を命じ、後鳥羽院も朝雅に伊賀国を知行として与え、追討の便宜をはかっています。追討軍は反乱軍が籠る鈴鹿関を迂回し、美濃を経由して伊勢に入ると、4月10日から討伐を開始し、わずか3日で伊勢を平定します。それゆえこの反乱は「三日平氏の乱」と呼ばれました。

 朝雅は功績により経俊に代わって伊賀・伊勢の守護に任じられ、後鳥羽院も彼を寵愛して院の殿上人としています。また後鳥羽院は鎌倉と京都の関係を深めるべく、自らの母方の叔父にあたる坊門信清の娘(後鳥羽院の従妹)を同年に実朝へ嫁がせ、朝雅はその取次役をつとめました。

畠山之乱

 しかし、この時に異変が起きます。元久元年11月4日、実朝の正室を迎える使者として時政とその子・政範らが京都に到着し、平賀朝雅の邸宅で歓迎の酒宴が催されました。その席で朝雅は畠山重忠の子・重保と口論となり、周囲の取り成しでおさまります。ところが、その翌日に政範が体調を崩し、わずか15歳で急死したのです。政範は時政の後妻・牧の方が産んだ唯一の男子であったため、時政は嘆き悲しみました。

 重保は重忠が時政の娘を娶って儲けた子で、政範や朝雅とは親戚にあたりますが、彼の母は牧の方ではなく先妻(伊東祐親の娘)の子で、政子・義時らの妹でした。朝雅の妻の母は牧の方の娘ですし、両者の間には確執があったのでしょう。また朝雅は父の後を継いで武蔵守を兼務しており、比企氏滅亡後は時政が彼の代理人として武蔵国の政務を行っていたため、重忠らは時政と対立するようになっています。『明月記』によると同年正月、「時政が重忠と戦い、敗北して山中に隠れた。広元はすでに殺された」というデマが京都に流れたといい、両者の対立は広く知られていたようです。

 畠山氏は坂東八平氏の一つ・秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(現埼玉県深谷市畠山)を所領とします。頼朝が挙兵すると重忠は当初平氏に味方し、頼朝側についた三浦氏と合戦していますが、頼朝が房総半島で再起して武蔵国に入ると彼に帰服し、御家人として義仲・平家・奥州討伐で活躍しました。頼朝上洛にも付き従い、頼朝没後は北条氏につき、梶原景時の弾劾状にも名を連ね、比企氏討伐にも加わっていました。精強な武士団を率い、本人も剛力無双の荒武者で、坂東武者の鑑と讃えられる人物です。

 翌元久2年(1205年)正月、時政は千葉成胤の取り成しで畠山重忠らと和解しますが、両者の対立はおさまらず、坂東は不穏な空気に包まれます。6月21日、時政は牧の方および平賀朝雅の讒訴を容れて重忠討伐を決意し、先妻との子の義時・時房を説き伏せて兵を集めさせます。翌日、時政の意を受けた三浦義村が重保を由比ヶ浜で殺害し、義時に率いられた御家人たちは大挙して畠山重忠のもとへ攻め寄せます。

 重忠は奮戦しますが衆寡敵せず討ち取られ、一族郎党は北条氏の娘である彼の妻を除いて皆殺しにされます。鎌倉に戻った義時は「重忠に謀叛の企みはなかった。気の毒なことをした」と時政に報告し、父を非難しました。同日夕刻、三浦義村らは「稲毛重成らの讒訴によるものだった」として彼らを皆殺しにし、罪を被せて口封じします。しかし時政の陰謀であることは明らかですし、畠山氏の遺産を誰がどう分配・相続するかで議論となりました。

 同年7月、政子は「尼御台」として重忠を討った武家に畠山氏の所領を分配します。また自らの女房(女官)たちや、寡婦となった重忠の妻(政子の妹)にも遺産を分け与えました。彼女は時政の娘かつ義時の姉ですが、亡き頼朝の妻かつ実朝の母という否定できぬ権威を持ち、本人も武士ではなく尼であるという比較的中立的な存在だったため、坂東武者たちを納得させられたのです。しかし、これは武蔵守たる平賀朝雅、その代理人の時政、そして牧の方のメンツを潰すことにもなりました。

 翌閏7月、時政は牧の方と共謀して実朝を廃位ないし殺害し、平賀朝雅を新たな将軍に擁立しようともくろみ、実朝を密かに自邸に引き入れます。しかしこの陰謀は露見し、政子・義時らは三浦義村らを遣わして実朝を奪い返しました。御家人の大半も時政を見限り、孤立した時政は出家して鎌倉から追放され、故郷である伊豆国の北条郷へ隠居します。同月には京都にいた朝雅も義時の命令により誅殺され、牧の方は娘(朝雅の妻)を頼って京都へ去り、政子・義時が時政に代わって幕府を仕切ることとなります。

◆Samurai◆

◆Mix◆

【続く】

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