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【つの版】ウマと人類史EX45:和田合戦

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 鎌倉幕府の実権を握った北条時政は、娘の政子および子の義時と対立し、元久2年(1205年)閏7月の政変で隠居に追い込まれます。この2人が父に代わって幕府を取り仕切ることになります。

◆鎌◆

◆倉◆


北条義時

 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で主人公をつとめた北条義時は、謎の多い人物です。母は伊東祐親の娘でした。長寛元年(1163年)の生まれといいますから頼朝より16歳年下で、同母姉の政子とも6歳年が離れており、頼朝が挙兵した治承4年(1180年)には10代後半の若者です。父の時政の仮名けみょうが四郎であることから、元服すると「小四郎」と呼ばれました。名の義時のうち時は父からですが、義は母方の縁者の三浦氏の通字であるため、当時の三浦氏の当主である義澄か義明を烏帽子親としたのでしょう。

 父の時政、同母兄の宗時(三郎)とともに頼朝に従って挙兵したものの、同年に兄は戦死し、彼が時政の最年長の息子となります。同母弟の時房(時連)は安元元年(1175年)生まれで、まだ幼少でした。父の時政はこの頃に後妻(牧の方)を迎えましたが、男子の政範が誕生するのは文治5年(1189年)、奥州合戦の頃です。ただ義時は北条庄の隣、狩野川の対岸にある江間えま(江馬、現静岡県伊豆の国市南江間)に所領を授かり、江間四郎とか江間殿と呼ばれていました。北条氏邸から歩いても30分かかりません。

『曽我物語』や読本系『平家物語』、『源平盛衰記』『源平闘諍録』等によると、頼朝が流人であった時、伊藤祐親の三女(八重姫)と密通して千鶴御前という男子を儲けましたが、祐親は怒って千鶴を殺させ、娘を江馬次郎という者に嫁がせました。彼は祐親・平家に従って頼朝らと戦い、寿永2年(1183年)に義仲に敗れて戦死しましたが、その遺児は義時に引き取られ、義時を烏帽子親として江馬小次郎と称したといいます。流布本『曽我物語』では「江馬小四郎」としますが、これは義時と混同したものでしょう。同時代史料や『吾妻鏡』にこの話はなく、祐親の娘と頼朝が密通したかも定かではありませんが、頼朝が祐親と対立するようになったのは事実のようです。

 義時は頼朝の義弟として信頼され、翌養和元年(1181年)4月には頼朝の寝所を警護する11名(寝所伺候衆、家子)の1名に選ばれています。寿永2年(1183年)には長男の金剛(泰時)が誕生しましたが、生母の名は伝わっていません(御所の女房の阿波局とも)。元暦2年(1185年)には源範頼率いる平家追討軍に加わって西国へ赴き、奥州合戦や頼朝上洛の時にも随行しています。建久3年(1192年)には頼朝の乳母・比企尼の孫娘(姫の前)を正室に迎え、翌年に嫡男の朝時を、建久9年(1198年)に重時を儲けました。

 この頃の義時は30代の若造で、父・時政ともども朝廷の官位を受けてもおらず、有力御家人の一人ではありましたが、さほどの権力は持っていませんでした。しかし頼朝死後の「十三人」には父とともに加わり、比企の変に際しては比企氏の娘である正室と離縁し、御家人の伊賀朝光の娘(伊賀の方)と再婚しました。続く頼家廃位と実朝擁立によって父が幕府の実権を握ると、元久元年(1204年)3月に相模守に任じられます。鎌倉を擁する相模国の受領ですから、公的な行政権や警察権も有します。

 同年に時政と牧の方の嫡男である政範が急死し、翌年に父が畠山重忠を討伐させて衆望を失うと、義時は姉の政子と手を組んで父を隠居に追い込みます。父の命令で頼家や重忠を殺したのは義時ですし、重忠の所領を北条氏以外の遺族に返還してもいませんからマッチポンプな気もしますが、彼は政所別当を兼務して父の権力基盤を受け継ぎつつ、姉や中原(大江)広元らと協力して幕府運営に尽力しました。時政は性急な権力独占を行って反発を招いたため、義時は父を反面教師としたのです。また「御家人の所領は大罪を犯した場合以外一切没収しない」と宣言し、文字通りに「安堵」させます。

泉親衡乱

 この時、鎌倉殿・征夷大将軍である実朝は13歳の若者でした。朝廷からの官位は年々贈られて来るものの、実権は母の政子と義時、広元らが握っており、実朝は和歌を詠んだり痘瘡(天然痘)を患ったりしています。承元3年(1209年)には17歳で従三位・右近衛中将に叙任され、公卿に列せられ、政所を開設して親裁を行う資格を得ます。

 実朝は義時と対立はしませんでしたが、義時の「自分の被官を御家人扱いにして欲しい」との要望は却下しています。また義時と姫の前の子が建永元年(1206年)10月に元服した際、実朝は偏諱を与え「朝時」としましたが、6年後に彼が実朝の妻の女官に懸想して誘拐したため怒り、義時は朝時を一時義絶して駿河国で蟄居させています。

 この頃、和田義盛が不穏な動きを見せます。彼は三浦氏の一族で頼朝挙兵以来の重臣であり、平家討伐や奥州合戦にも従軍し、「十三人」の一人にも名を連ね、梶原景時の追放、比企の変や畠山重忠の乱に際しては北条氏側についていました。彼は長らく侍所別当の地位にありましたが、朝廷からの官位は頼朝上洛の際に左衛門尉に任じられただけで不満がっていました。

 侍所さむらいどころとは、本来は貴人の家政や身辺警護を行う侍従さぶらいの詰め所ですが、幕府の侍所は御家人・武家を統率して軍事・警察を担う重要部署であり、別当はその役人(所司)の長です。中原広元は政所別当とはいえ軍事力を持たず、北条氏も侍所は掌握していません。

 承元3年(1209年)、義盛は上総国司(上総介)の職を内々に望み、実朝に嘆願しますが、政子から「御家人が受領(国司)となるのは」と難色を示されます。しかし時政も義時も、平賀朝雅も八田知家も受領になったことがあるのですから、義盛だけがだめという法はありません。義盛はその後も嘆願書を提出したものの、後鳥羽院の近臣である藤原秀康が翌年上総介に任じられたため、渋々嘆願書を取り下げています。

 数年後の建暦3年(1213年)2月、下総国の千葉氏の当主・成胤のもとに安念という僧侶が信濃から訪れ、源頼家の遺児を擁立し鎌倉を攻め、義時らを倒そうという陰謀を持ちかけました。驚いた成胤は彼を捕縛して義時のもとへ連行し、実朝にも報告されます。訊問を受けた安念は計画を白状し、御家人で信濃源氏の泉親衡が首謀者であると発覚しました。またこの計画には和田義盛の子の義直と義重、甥の胤長、上総広常の親類の臼井十郎、八田知家の子の三郎ら多くの有力御家人の子弟が加わっており、驚愕した義時は彼らを捕縛させました。しかし泉親衡は逐電して行方知れずとなっています。

 義盛自身はこの陰謀に加わっておらず、一族郎党を率いて鎌倉に駆けつけ赦免を願い出ます。これにより義直・義重らは赦免されたものの、胤長は許されず、陸奥国岩瀬郡に配流となります。彼の鎌倉の邸宅は没収され、義盛は自分に胤長の邸宅を下げ渡すよう嘆願しますが、義時は自分の家人に下げ渡してしまいます。度重なる侮辱に面目を潰された義盛は、ついに義時打倒のため一族郎党を率いて鎌倉で挙兵しました。

和田合戦

 建暦3年(1213年)5月、和田義盛は150騎を3つに分け、実朝の住まう大倉御所、義時邸、広元邸を襲撃します。義時・広元らは事前に通報を受けて大倉御所へ馳せ参じ、迎え撃ちます。この時三浦義村は義盛に同心し、起請文まで書いていましたが、義時側へ寝返って御所へ駆けつけました。

 メフィラスこと三浦義村は三浦氏の当主・義澄の嫡男で、政子・義時と同じく伊東祐親の娘を母とします。仁安3年(1168年)頃の生まれとされますから和田義盛より20歳も若く、義時より5歳年下です。正治2年(1200年)に父が没すると三浦氏の当主を継ぎ、梶原景時追放、畠山重忠の乱、牧氏の変においても重要な役割を果たしています。同族の長老である義盛を唆して挙兵を焚き付け、裏で義時に内通していたと見るのが自然でしょう。

 義盛の子・朝比奈義秀は無双の剛力で奮戦し、北条泰時・朝時、足利義氏らが守る御所の門をぶち破って南庭に乱入、武田信光ら並み居る武士たちを蹴散らしつつ御所に火を放ちます。実朝らは慌てて脱出しますが、駆けつけた御家人たちが踏みとどまって戦い、さしも剛勇の和田勢も多勢に無勢で由比ヶ浜へ撤退しました。しかし武蔵から横山時兼率いる武士団(横山党)が駆けつけ、和田一族に味方して勢力を盛り返します。

 翌朝、千葉成胤および相模や伊豆の御家人たちが急報を受けて鎌倉に駆けつけ、実朝の名による御教書を受けて幕府側につきます。和田勢と横山党は鎌倉に突入して激しい市街戦を繰り広げますが、衆寡敵せず討ち破られ、ついに和田義盛が戦死します。子の義直・義重・秀盛らも討ち死にし、常盛は横山時兼とともに甲斐へ逃げますが追い詰められて自害します。朝比奈義秀は血路を開いて安房まで逃げ、その後は行方知れずとなりました。

 京都や近江へ逃れた者もいましたが、和田一族はほぼ全滅し、義盛以下200名以上の首級が晒されます。和田一族の所領は没収され、義時は美作守護職と山内荘を授かります。さらに彼は政所別当と侍所別当を兼ね、政治・軍事の両面で幕府の実権を掌握しました。事件の発端となった頼家の遺児は祖母政子のとりなしで出家しますが、翌年和田氏の残党に京都で擁立され、義時の追手に襲撃されて自害しています。畠山重忠の遺児・長慶も和田合戦と同年に日光で乱を企てますが露見して処刑され、義時に逆らう御家人はほぼいなくなりました。

◆劇場◆

◆支配人◆

【続く】

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