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【つの版】ウマと人類史EX42:鎌倉幕府

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 義仲、平家、義経、そして奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、日本全国の武士を武力と政治力によってまとめ上げ、天下統一を果たします。しかし彼の上には院や天皇がいます。武家と朝廷の関係はどうなるのでしょうか。

◆鎌◆

◆倉◆


建久新制

 文治5年(1189年)11月3日、頼朝に対して朝廷より奥州征伐を称える書状が下され、従二位から正二位に昇格し、按察使への任官と勲功のあった御家人の推挙を促されます。按察使とは奈良時代に唐の制度を真似て設置された令外官で、数カ国に及ぶ地方行政を司ります。文治2年(1186年)には後白河院の近臣・藤原朝方陸奥出羽按察使に任官され、義経に与したとして頼朝の圧力で解任されていますから、頼朝を後任にでも任じようとしたのでしょうか。しかし頼朝は任官を拒み、御家人の推挙も朝廷に御家人を奪われるようなものなので拒絶しました。同年末に奥州で起きた反乱も翌年には鎮圧され、頼朝は奥州の支配を強化しつつ、上洛の準備を進めます。

 大河おおかわ兼任かねとうは藤原泰衡の郎党で、文治5年末に出羽で挙兵しました。陸奥国では奥州藤原氏の家来たちが土地を没収され、鎌倉側の武士が地頭に任じられていたのに対し、出羽国では在地豪族の勢力が温存されていたのです。兼任らは義経や義高(義仲の子)、秀衡の子らが味方に加わったと喧伝して仲間を集め、出羽から津軽方面へ進軍し、鎌倉側の駐留軍を打ち破ります。頼朝は再び動員令を発し、千葉常胤、比企能員、足利義兼、千葉胤正らを大将として派遣しました。兼任は南下して多賀城府に迫りますが鎌倉軍に討ち破られ、3月に落ち武者狩りで殺されて乱は平定されます。頼朝は伊沢家景を多賀城府に駐留させ、平泉の葛西清重とともに奥州を統治させました。ただ葛西清重は同年に奥州を離れています。

 文治6年は4月に建久と改元され、同年10月に頼朝は御家人1000余騎を率い上洛を開始します。父義朝が討たれた尾張や美濃を経て、11月7日に入京すると、六波羅に新築された邸宅に入り、9日からは後白河院および九条兼実との会談を行います。頼朝は権大納言・右近衛大将(右大将)に任じられますが、公務の上で京都滞在が不可欠なため12月3日に辞任し、14日に鎌倉への帰還を開始します。なおこの間、頼朝の有力御家人10名(千葉・梶原・八田・三浦・和田・佐原・足立・小山・比企・葛西)が左右の兵衛尉・衛門尉に任じられました。

 12月29日に鎌倉に戻った頼朝でしたが、翌建久2年(1191年)3月には鎌倉が大規模な火災に見舞われ、その再建に追われます。同月22日、朝廷は「建久新制」を発布し、頼朝に対して諸国守護権(日本全国の治安警察権)を公認します。これ以前に頼朝へ臨時的に与えられていた全国に対する捜査・兵粮徴発権(日本国惣追捕使・惣地頭)を恒久的なものとしたのです。ただし朝廷は「京畿諸国所部官司等」にも頼朝とともに治安警察行動にあたるよう命じており、朝廷が最上位の命令権者であることは変わりません。

鎌倉幕府

 建久3年(1192年)3月、後白河院は病によって66歳で波乱の生涯を終えました。後鳥羽天皇はまだ数え13歳で、関白・九条兼実が朝政を主導します。そして同年7月12日、頼朝は朝廷より征夷大将軍の官位を授かりました。

 建久元年に授かった右近衛大将は、近衛府の長官ですから京都に駐在して宮中の警護に当たらねばなりませんが、頼朝は鎌倉に駐在して権力の源泉たる坂東武者を統治し、平定成ったばかりの奥羽にも睨みをきかせる必要があります。そこでまず「大将軍」の官位を望みますが、東国にあるから「征東大将軍」だと義仲と同じで縁起が悪く、「惣官」は平宗盛と同じでもっとダメです。「上将軍」は古代チャイナに例がありますが、日本には前例がありません。ならば蝦夷を征伐した坂上田村麻呂にちなみ「征夷大将軍」ならふさわしかろう、というわけです。頼朝は武家の長の箔と鎌倉在留の大義名分が付けばそれで十分だったらしく、建久5年(1194年)に辞任しています。

 さて、頼朝の鎌倉における武家政権を「鎌倉幕府」と呼びます。かつては征夷大将軍を授かった建久3年(1192年)をその始まりとして来ましたが、右近衛大将に任官された建久元年(1190年)以来、頼朝の居館は大将軍の陣営(帷幕)における政庁(府)=「幕府」と呼ばれ得ます。また実質的な「鎌倉幕府」の始まりは、平家を滅ぼして全国に地頭を置くことを勅許された文治元年(1185年)であるとも、東国沙汰権を授かった寿永2年(1183年)であるとも、坂東南部の武士団をまとめ上げて鎌倉に入った治承4年(1180年)であるとも諸説あります。要するに「鎌倉幕府」と呼ばれる政権は、1180年から1192年までの間に段階的に形成されていったのです。

 ただ頼朝の御家人たちは、治承の挙兵以来頼朝と私的な主従関係にあり、彼とその政庁・政権を「鎌倉殿かまくらどの」と呼びました。これは鎌倉に拠点を置いた源為義・義朝ら河内源氏の棟梁の呼び名でもあり、『平家物語』でも頼朝を「鎌倉殿」と呼んでいます。「幕府」という唐風の呼び名は江戸中期以降のもので、鎌倉殿と征夷大将軍は本来無関係でした。

 かつ、鎌倉殿の政権は、平氏政権と同じく朝廷の公的な土地や法律の制度(荘園公領制)を前提とし、朝廷から幾重もの権限承認と委譲を受けて成立したものです。頼朝は平家追討等の功績と官位にふさわしく広大な荘園を世襲の所領として授かり、清盛に勝るとも劣らぬ大土地所有者として荘園を経営し、そのあがりで武士団を養っていました。古代の共和政ローマが「元老院とローマ市民(SPQR)」を主権者としつつ、軍閥同士の内乱を制したオクタヴィアヌス(アウグストゥス)がインペラトール(軍事司令官)など様々な権限を合法的に付与されたのと似てはいますね。

富士巻狩

 そして頼朝の権威と権力の源泉は、先祖代々の河内源氏の棟梁としての輿望と貴種性であり、それによって彼に従う武士たちでした。建久4年(1193年)5月、彼は数万と推測される御家人・郎党らを駿河国の富士山麓に召集し、大規模な「巻狩まきがり」を行います。巻狩とは広大な野原を囲い込み(巻き)、その中の鹿や猪などを弓矢で狩るもので、弓馬の道を家業とする武士たちの遊興かつ軍事演習の側面も持ちます。

 この巻狩において、頼朝の嫡男・頼家は12歳で鹿を射止め、父を大いに喜ばせます。武家の棟梁たるもの、従う武士たちを納得させるだけの武勇がなければなりません。しかしその後、不穏な事件が起きています。

 巻狩最終日の5月28日深夜、頼朝の寵臣・工藤祐経が「父の仇討ち」として曾我祐成時致兄弟に暗殺されたのです。祐経は挙兵前から頼朝と確執のあった伊豆の豪族・伊東祐親の甥にあたり、彼の娘を娶っていましたが、京都へ出張中に所領を祐親に押領され、妻も土肥遠平(実平の子)に与えられてしまいました。怒った祐経は祐親を襲撃し、彼の嫡男・河津祐泰を射殺します。彼の妻は2人の息子を連れて曾我祐信と再婚しました。

 伊東祐親が頼朝に敗れて自害すると、祐経は頼朝に仕えました。彼は平重盛の家人だったため京都の様子に通じており、武功は立てませんでしたが外交や政治方面で活躍したようです。結構調子に乗っていたようで、油断しきっていた彼は遊女や知人と酒を飲んで寝ていたところを曽我兄弟に殺されたのです。現場は大騒ぎとなり、兄の祐成は駆けつけた荒武者の仁田忠常に殺されますが、弟の時致は頼朝の宿所に押し入ります。頼朝に事情を話そうとしたのか、血気に逸って殺そうとしたのかわかりませんが、彼も御所五郎丸なる荒武者に捕獲され、尋問の末に斬首されました。

 この「曽我兄弟の仇討ち」は美談・悲劇として語り継がれましたが、その割りを食った人物が頼朝の弟・範頼です。彼は平家討滅ののち奥州合戦にも参戦し、頼朝上洛にも随行しましたが、南北朝時代に成立した『保暦間記』によると、騒動の時に「頼朝が討たれた」との誤報が鎌倉に伝わりました。頼朝の妻・政子は仰天して嘆き悲しみますが、鎌倉にいた範頼は彼女を慰め「私がおります、ご心配めされるな」と発言してしまいます。鎌倉に戻って政子からこれを聞いた頼朝は「わしの跡目を狙っておるか」と機嫌を損ね、8月に忠誠を誓う起請文を出させるなど難癖をつけた末、伊豆国の修善寺に幽閉したうえ、家人ともども誅殺しました。『吾妻鏡』には起請文の話と修善寺幽閉の話があるものの、誅殺されたとは記しませんが、これ以後範頼は歴史の表舞台から消えてしまいます。

 同8月、頼朝挙兵の時から従ってきた老臣・大庭景義岡崎義実が出家入道します。景義は65歳、義実は80歳ですから引退は不自然ではありませんが、景義は2年後に「疑いをかけられ鎌倉を追われた」云々と書き送って頼朝に許されたともいい、この頃に起きた何らかの事件に関わっていた可能性があります。

 さらに同年11月、甲斐源氏の越後守・安田義資が頼朝の命令で暗殺・梟首され、その父で遠江国守護の義定も所領や官位を剥奪されたのち、翌年8月に謀叛の疑いで梟首されています。安田義定は頼朝挙兵の直後に挙兵して平家追討に活躍し、奥州合戦にも参戦した大物でしたが、他の甲斐源氏ともども頼朝に粛清されたのです。駿河と甲斐の国境付近で催された「富士の巻狩」は、甲斐源氏を牽制する狙いもあったのでしょう。「狡兎死して走狗烹らる」のコトワザ通り、鎌倉には功臣粛清の嵐が吹き荒れます。

◆粛◆

◆清◆

【続く】

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