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【つの版】ウマと人類史EX27:前九年役

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 陸奥国に鎮守府将軍として赴任した源頼義は、奥六郡を本拠地として奥羽全域に覇権を及ぼしていた安倍頼時と和睦し、朝廷へ貢納を行わせました。しかし天喜4年(1056年)の事件をきっかけに両者の関係は決裂し、前九年の役と呼ばれる合戦が始まります。

◆征◆

◆夷◆

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Geofeatures_map_of_Tohoku_Japan_ja.svg

富忠離反

 安倍頼時は子の貞任・宗任ら一族を各地の柵に割拠させ、出羽の清原氏ら多くの地方豪族と同盟しており、地の利もあって頑強に抵抗します。攻めあぐねた頼義に対し、陸奥国気仙郡(現宮城県北東部から岩手県南東部)の郡司・こんの為時ためときらは敵将・安倍富忠とみただの調略を進言します。

 こん氏は金姓の新羅王族の末裔ともいいますが、気仙郡金氏は奥州安倍氏と同じく大彦命の後裔の阿部氏(安倍氏)の傍流で、貞観13年(871年)に初代気仙郡司の安倍為勝が領内の金山から黄金を朝廷に献じたために金氏を賜ったと伝えられます。気仙郡金氏は奥州安倍氏とも繋がりが深く、金為行は安倍貞任の舅であるため安倍氏側についています。

 富忠は安倍氏ですが頼時らとの血縁関係は定かでなく、在地の蝦夷系の族長(俘囚)かと推測されています。彼は奥六郡のさらに北方、鉇屋かんなや仁土呂志にとろし宇曾利うそりという三つの地域を支配下に置いていました。これらがどこかは諸説ありますが、奥六郡北端の岩手郡は現岩手県北部の葛巻町・岩手町あたりまでですから、その北は岩手県北端部から青森県東部になります。

 この地域にはのちに糠部ぬかのぶが置かれました。岩手県北部から下北半島までを含む広大な領域で、中世には優秀なウマの産地として知られています。奥六郡の背後に広がるこの地の主を寝返らせれば、頼時らを挟み撃ちにできるわけです。頼義は彼らに調略を任せ、天喜5年(1057年)5月、富忠は利益に釣られて首尾よく頼時を裏切りました。仰天した頼時は7月に富忠を説得するため北上しますが、仁土呂志付近で奇襲を受け、流矢に当たって重傷を負います。やむなく頼時は撤退し、鳥海柵(岩手県金ヶ崎町)で息を引き取りました。頼義は喜び、朝廷に頼時戦死を報告します。

 しかし頼時の子・貞任は抵抗をやめず、一族を率いて戦いを続けました。同年11月には北上川と砂鉄川の合流地・河崎柵(現岩手県一関市川崎町)に4000の兵を集め、その南の黄海きのみ(一関市藤沢町黄海)で頼義率いる国府軍を迎え撃ち、雪の中で戦って散々に打ち破ります。頼義は息子・義家ら僅か6騎と逃走し、佐伯常範・藤原景季ら有力な家来を失いました。

 勝ち誇った安倍貞任は衣川の南に勢力を伸ばし、陸奥の民は朝廷ではなく貞任側に租税を納めるようになります。頼義は坂東・東海・畿内の武士に働きかけて兵力を集め、康平5年(1062年)春に陸奥守の任期が切れた後も陸奥にとどまりました。郡司らは新任の陸奥守に従わず頼義に従ったため、朝廷は頼義を陸奥守に再任します。しかしこのまま貞任らをのさばらせていては頼義一門のメンツが丸つぶれですから、どうにかしなければなりません。

出羽清原

 同年、頼義は出羽の豪族・清原氏に参戦を要請します。彼らは天武天皇の皇子・舎人親王の末裔と称し、元慶2年(878年)に出羽に下向して蝦夷の乱を平定した清原令望よしもちの子孫ともされ、北上盆地の西の横手盆地に置かれた山北(仙北)三郡を支配する大領主でした。

 時の清原氏の長・光頼は、奥州安倍氏と姻戚関係にあったものの、頼義らとの戦いにおいては中立を保っていました。頼義は彼に多数の財宝を贈り、朝廷の権威を楯にして必死で働きかけ(臣下の礼を取ったとも)、ついに清原氏を動かすことに成功します。光頼は7月に弟・武則を総大将とし、安倍貞任を討伐するために7000の兵を派遣しました。頼義の率いる手勢は3000ですから倍以上で、合わせれば1万の大軍となります。

 これにより形勢は一気に傾き、安倍氏の拠点である小松柵・衣川柵・鳥海柵・厨川柵が次々と陥落、9月に貞任も敗れて討ち取られます。弟の宗任は降伏しますが、頼時の娘婿であった経清は屈服せず、錆び刀で首を鋸引きにされて処刑されたといいます。ここに前九年の役は終結しました。

 康平6年(1063年)2月、頼義は貞任・経清・重任らの首を掲げて京都へ凱旋します。朝廷は頼義を正四位下・伊予守(受領の最高位)に、嫡男・義家を従五位下・出羽守に、次男・義綱を右衛門尉に取り立て、清原武則を従五位上・鎮守府将軍に任じました。清原氏は出羽に加えて陸奥をも支配し、安倍氏に代わる奥羽の覇者となったのです。

 頼義は勝利を記念して、鎌倉に鶴岡若宮(鶴岡八幡宮)を、河内に壺井八幡宮を建立しました。これは清和源氏の氏神であった京都の石清水八幡宮から勧請されたものです。また家来への恩賞を求めて朝廷と交渉したのち伊予に赴任し、国内に八箇所の八幡社を建立しています。

 安倍宗任らは弟や妻子ともども伊予国に流されましたが、伊予守に着任した頼義は彼らを庇護下に置き、陸奥へ戻して清原氏に対抗させようと目論んでいたともいいます。しかし治暦3年(1067年)に頼義の任期が終わると、宗任と家任は大宰府へ送られ、筑前国宗像郡の筑前大島へ遷されます。以後帰国が叶うことはなく、嘉承3年(1108年)に77歳で没しました。

 なお『平家物語』等によれば、彼の三男季任は肥前国に赴いて松浦氏の娘婿となり、子孫は平清盛に仕えました。元総理大臣の安倍晋三氏は安倍宗任の(女系を含めて)44代目の末裔と称しています。

延久征夷

 伊予守の任期を終えると頼義は出家入道し、承保2年(1075年)に88歳の高齢で逝去しました。跡を継いだ八幡太郎・義家は長暦3年(1039年)の生まれといいますから、前九年の役の終結時には24歳の若武者です。戦後には出羽守に任じられたものの、出羽を事実上支配している清原氏には頭が上がらず、翌年には越中国への転任を申し出ています。同年には義家の郎党が美濃で源国房(頼光の孫)と争いを起こし、義家は京都から美濃に駆けつけて国房の館を襲撃しています。

 治暦3年(1067年)、源頼俊が陸奥守に任じられます。彼は源満仲の次男頼親の孫にあたり、頼義・義家らとは遠縁の同族です。彼は鎮守府将軍である清原武則と海道平氏(桓武平氏の陸奥国における傍流)を重んじ、延久2年(1070年)には勅命により清原氏とともに蝦夷討伐を行っています。

 治暦4年(1068年)に即位した後三条天皇は、宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を直接の外戚とせず、藤原頼通から疎んじられていました。彼は桓武天皇にならって天皇親政による国政改革を目指し、荘園整理令の発布や宣旨枡の制定などを行っています。蝦夷討伐もその一環でした。

 この合戦については議論がありますが、報告によれば「閉伊へい七村山徒」と「衣曾別嶋えぞがわけしま荒夷あらえびす」を平定したといい、前者は陸奥国閉伊郡(現岩手県東部)、後者はその北の岩手県北部から青森県東部、あるいは北海道島南端までをいうともされます。すなわち安倍富忠が支配していた領域が含まれ、のち糠部郡などが置かれました。

 しかし、頼俊の留守中に陸奥国南部で変事が起きます。散位(官職を持たず位階のみ持つ者)の藤原基通らが国府の命令に従わず、国印と国倉の鍵を奪って逃走したのです。彼は下野国に逃げますが、下野守であった源義家に出頭して逮捕されました。これは義家が頼俊を貶め、陸奥における権益を取り返すための自作自演ではないかと推測されています。

 満仲・頼信・頼義は代々藤原摂関家を後ろ盾として勢力を伸ばしていましたが、後三条天皇の改革では摂関家ともども権益を脅かされる立場に置かれています。頼義が長年踏ん張って地盤としてきた陸奥国に、同族とはいえ別系統の頼俊が受領として送り込まれたのもその流れによるのでしょう。先に義家と争った国房は頼俊の友人でもありました。結局頼俊は謹慎を言い渡されてしまいますが、清原氏の軍勢を率いた清原貞衡(武則の娘婿か)は功績によって従五位下・鎮守府将軍に任じられました。

 後三条天皇は延久4年(1072年)に生前退位し、20歳の皇太子・貞仁親王に譲位しました(白河天皇)。後三条上皇は翌年崩御しますが、上東門院と藤原頼通・教通も1074-75年に相次いで薨去し、摂関家は内ゲバもあって権勢を失い始めます。白河天皇は頼通の子・師実らと協調しつつも親政を目指し、やがて上皇となって院政を行うことになります。

◆Change◆

◆the World◆

【続く】

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