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【つの版】ウマと人類史EX17:貢馬千疋

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 日本列島にはウマの飼育に好適な火山性草原が豊富にあり、特に東国では多くの馬牧が作られました。さらに北方の奥羽/東北地方にも、倭国と蝦夷との交易や戦争などによりウマが導入されていきます。

黒ボク土の分布(赤)

◆馬◆

◆娘◆

貢馬千疋

 7世紀から8世紀にかけて、倭国・日本は蝦夷の領域への進出を強め、各地に城柵・郡家を築きました。そして東国から多くの民を入植させて植民地とし、柵戸(屯田兵)として開拓を行わせます。土地を奪われ租税を課された蝦夷らは抵抗して反乱を起こしますが鎮圧され、服属した蝦夷らは戸籍に編入されて公民扱いとなり、あるいは柵養きこう蝦夷として城柵・郡家に仕えました。彼らは倭国・日本の文化に触れ、貢納や交易を行っています。

 東北北部から北海道にかけて広がっていた続縄文文化は7世紀に終焉し、擦文文化に移行します。倭国・日本の土器や鉄器等が輸入され、末期古墳と総称される小型古墳群が出現します。蝦夷から輸出/貢納されたのは、食料や布、獣皮や砂金、狩猟用の鷹、奴隷や捕虜、それにウマでした。

『続日本紀』によると養老2年(718年)秋8月、出羽と渡嶋の蝦夷87人が朝廷に来て「馬千疋」を貢納し、官位や禄を賜ったといいます。当時としては過大であるとして「馬一十疋」の誤記とも言われますが、すでに蝦夷の地には日本国の朝廷に貢納するものとしてウマが存在していたのです。

 出羽国は712年に越後国北端の出羽郡を独立させ新設した令制国で、陸奥国から置賜郡と最上郡を割いて合わせており、ほぼ現在の山形県に相当します(のち秋田県まで伸びる)。渡嶋は北海道ともいいますが、ここでは越や出羽からさらに船に乗って北上した先、秋田県や青森県西部などを指すのではないかともされます。彼らは北陸道の先にいることから東夷ではなく北狄だとして蝦狄とも表記されますが、そこにウマがいたのでしょうか。

蝦狄産馬

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Geofeatures_map_of_Tohoku_Japan_ja.svg

 那須高原から北、東北地方を南北500kmに渡り貫く脊梁山脈を「奥羽山脈」と総称します。この山脈は東日本火山帯の那須火山帯に属し、福島県の吾妻連峰や磐梯山・安達太良山、山形県と宮城県の境をなす蔵王連峰、山形県と秋田県にまたがる鳥海山、岩手県の栗駒山や岩手山、青森県の岩木山や八甲田山など名だたる火山が連なります。当然その周囲には火山灰土が分厚く積もり、金鉱脈や黒ボク土が分布し、草原が広がっていたのです。

 今でこそ東北は米どころですが、土壌も気候も長く水田稲作には向かず、縄文文化が長く残っていたこの地域は、冷涼な草原に適応したウマの放牧に最適でした。交易や窃盗、放牧地から逃げたウマの自然繁殖等によって蝦夷の地にはウマが広がり、交易路を通って瞬く間に増え広がりました。狩猟の民であった蝦夷はウマに乗って戦うことを習い覚え、弓馬の道=騎射を得意とする勇猛果敢な弓騎兵へと変貌していくのです。

 平安時代の法令集『類聚三代格』によると延暦6年(787年)、太政官は陸奥の蝦夷との交易を禁止しています。日本の王臣・国司・百姓らがこぞって蝦夷のウマや奴婢を買い求め、代わりに綿や鉄を蝦夷へ輸出していたためというのです。蝦夷のウマを購入することを禁止する法令は弘仁6年(815年)と貞観3年(861年)にも発布されていますが、繰り返し発布されたということは禁令が無視され、なし崩しになっていたことを物語ります。

 蝦夷との交易は莫大な利益となったため、官吏らは競ってウマや金、鷹や奴婢を買い求め、都の貴族に貢いで有利な官位を獲得しようとしました。蝦夷の側もこれらの交易品なしでは生活が立ち行かなくなり、交易を司る族長の権力が高まり、社会が変容していったのです。

俘囚移配

 倭国・日本に服属した蝦夷らのうち、国境の内側に取り込まれた者を俘囚(捕虜)、国境外にとどまった者を夷俘(蝦夷の捕虜)といいます。俘囚は夷俘や蝦夷と連携して反乱を起こすおそれがあったため、内地へ強制移住(移配)させられました。最初の移配は神亀2年(725年)に行われ、130名が伊予国へ、578名が筑紫(九州)へ、15名が畿内の和泉監へ移されています。天平10年(738年)にも115名が摂津国へ送られ、最終的には筑紫へ送られて国境警備を行う防人さきもりにされたようです。

 8世紀後半から9世紀にかけて、日本国と蝦夷との衝突が激化すると、俘囚や夷俘の内地への移配が急激に増加します。彼らはその地の国司から食糧や布(俘囚料)を支給され、租を除く税を免除される代わりに、狩猟や武芸の鍛錬を認可されました。これは蝦夷の軍事力を日本側が利用し、蝦夷の勢力を削りつつ同化をはかったものです。しかし内地の公民と文化が異なる蝦夷らは各地で騒動を起こしたため、弘仁2年(811年)には大規模な内地への移配は停止されました。代わってすでに移配された俘囚・夷俘が小集団に分けられ、俘囚長・夷俘長が任命されて各集団の統率を命じられています。

 この頃、隣国・新羅では災害や飢饉で流民が発生し、各地で盗賊が蜂起しました。日本にも新羅から難民や商人と称して新羅の盗賊が流入し、しばしば害をなしたため、日本は防人を増やして国防にあたらせ、俘囚らも動員されています。一方で待遇改善を求めた俘囚らは各地で武装蜂起し、875年には下総、883年には上総で俘囚の反乱が起きています。これは十年以上にもわたって続き、朝廷は鎮圧に手を焼きました。

 また馬牧適地が多い東国ではウマによる租税や物資の運送業が発達していましたが、その運搬や護衛を担った集団を「僦馬しゅうばの党」と言います。僦とは「借りる」「送る」「雇う」等の意で、のちの馬借に相当しますが、盗賊に対抗するため武装し、自らも他の僦馬の党や村落を襲撃してウマや荷物を奪うようになります。こうした連中には俘囚が加わっていたともいい、ことに交通の難所である碓氷峠や足柄峠で盛んに活動していました。

 朝廷はこれらを鎮圧するため下級の軍事貴族らを派遣し、各地に関所を設けて盗賊を阻む一方、俘囚らを奥羽へ還送させました。日本の文化に触れていた彼らは、蝦夷の地において俘囚長を称し、日本との交易を取り仕切る有力者へと発展していきます。奥州の豪族である安倍氏清原氏/奥州藤原氏は、こうした俘囚長(あるいは俘囚長に任じられた下級貴族)の末裔とも考えられています。奥州藤原氏に育てられた源義経が馬術や騎兵戦術の達人だったというのは、このような背景によるのでしょう。

 中世において最も優れたウマの産地のひとつが、青森県東部から岩手県北部に存在した糠部ぬかのぶです。奥州藤原氏が鎌倉幕府に滅ぼされたのち、甲斐源氏の南部光行が封じられて南部氏の祖になったといい、以後この地に産するウマは「南部馬」として知られました。寒さに強く体格もよいことから各地の戦国武将に重んじられましたが、明治時代以後に西洋馬種との混血により純血種は絶滅しています。青森県下北半島北端に放牧されている寒立馬かんだちめも混血ながら南部馬の系統に属します。

◆武◆

◆士◆

【続く】

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