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【つの版】ウマと人類史EX37:義仲上洛

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 治承4年(1180年)10月、東国討伐に向かった平家軍は富士川で甲斐源氏軍と対峙しますが戦わずして撤退し、反平家勢力は勢いづきました。平清盛は畿内や近江の反乱軍を必死で鎮圧しますが、翌年には高倉上皇と清盛が相次いで世を去り、天下の動乱は混迷を深めていきます。

◆飛◆

◆天◆


清盛病没

 治承4年11月末、福原から京都に戻った清盛は高倉上皇に院宣を出させ、畿内を脅かす近江源氏や園城寺ら寺社勢力を謀反人として追討させます。これには伊賀を本拠とする平(平田)家継と清盛の四男・知盛があたり、12月のうちに近江を平定します。また平盛澄・源(飫富)季貞らに命じて河内の石川源氏一門を攻め滅ぼさせ、清盛の五男・重衡と甥の通盛らに命じて南都興福寺を攻撃させます。抵抗する興福寺勢に対して重衡らは苦戦し、僧坊に火を放って敵を駆除しようとしますが、火は予想外に燃え広がって興福寺と東大寺を焼き払い、大仏さえも焼け落ちます。重衡は先に園城寺も焼き払っており、平家は「仏敵」として悪名を重ねることになりました。

 ともあれ畿内の大規模な反乱はおおむね鎮圧され、清盛は興福寺・東大寺の所領や荘園をことごとく没収しますが、翌治承5年(1181年)1月に高倉上皇が21歳の若さで病気により崩御します。安徳天皇は数えでも4歳でしかなく、清盛はやむなく後白河法皇を解放し、院政を再開させました。後白河院が反平家勢力と手を結べば危険ですし、各地の反乱者たちを院の権威で威圧できます。しかし「高倉院の遺詔である」として、清盛の三男(生存している息子では最年長)の宗盛を「畿内惣官」に任じています。

 これは五畿内・近江・伊賀・伊勢・丹波の9カ国にまたがる強力な軍事指揮権で、後白河院政に対して平家が軍権を手放さないことを公的に認めさせたものです。また後白河院には治承3年の政変で没収した院領が返還されましたが、これも高倉院の遺詔を持ち出して高松院領を中宮徳子に相続させ、平家の優勢を保ちます。2月7日には兵糧や軍資金をかき集めるため丹波国に諸荘園総下司職を設置し、平盛俊が任命されます。越後の城資永、奥州の藤原秀衡には武田信義・源頼朝追討の宣旨が出され、翌閏2月には宗盛が東国追討使として出陣する予定でしたが、その矢先に清盛が病気で倒れました。

 清盛は宗盛に後事を託し、後白河院に宗盛と協力して政務を行うよう奏上して、閏2月4日に64歳で薨去しました。死因は頭風(脳梗塞/脳出血)とも熱病ともされ、平家物語などでは平家が園城寺と興福寺・東大寺を焼いた報いだとして大げさに書き記しています。ともあれ平家の棟梁の座は宗盛に引き継がれ、宗盛は各地の反乱を平定するために奔走することになります。

養和飢饉

 清盛の薨去からまもない閏2月15日、宗盛は後白河院の院宣をもって平重衡を東国追討使に任じ、美濃を越えて尾張へ軍を派遣します。この頃の尾張と三河には源義朝の末弟・行家が勢力を広げており、頼朝の異母弟の義円、尾張源氏の山田重満らも加わって有力でした。3月に両軍は美濃・尾張国境に近い墨俣川(長良川)を挟んで対陣し、行家は渡河夜襲を仕掛けますが打ち破られ、義円・重満らを失って三河まで撤退します。しかし平家軍も兵糧不足で追撃できず、美濃・尾張を平定して引き上げました。

 前年からの旱魃や戦乱、地方からの年貢輸入の停止などにより、同年から翌年には京都を中心とする西日本で大飢饉が発生しました。死者は京都だけで4万人を超えたといい、市内には多数の死体が転がり、疫病が蔓延して地獄の様相となりました。同年7月に養和と改元されたためこれを「養和の飢饉」と言いますが、頼朝ら反平家側はこの元号を承認せず「治承」の元号を使用し続けています。腹が減っては戦は出来ず、西日本に拠る平家の勢いは日に日に衰え、東日本の反平家軍は勢いを増すことになります。

 その西日本でも反平家の勢いは強まり、伊予では河野氏が武装蜂起し、鎮西(九州)では肥後の菊池氏・阿蘇氏、豊後の緒方氏・臼杵氏、肥前の松浦党らがこれに呼応して平家に反旗を翻し、大宰府を焼き討ちしています。平家の地盤たる西国を脅かされ、宗盛は急ぎ追討軍を派遣しますが、兵糧不足は如何ともしがたく、追討は困難を極めました。

北陸出兵

 治承5年2月、越後の豪族・城資永が脳卒中で急死し、弟の助茂(資職、長茂とも)が跡を継ぎます。城氏は桓武平氏維茂流に属する越後平氏の嫡流で、越後北部の阿賀野川流域を本拠地とし、惣領である伊勢平氏/平家に仕えた有力氏族です。この頃、越後の南の上野および信濃北部には木曽義仲が割拠しており、城氏は平家の命令を受けてこれを討伐せんと南下しました。

 同年6月、越後・会津・出羽の諸将を率いた城氏は信濃へ侵攻し、千曲川のほとりの横田城(現長野市横田)に入城しました。義仲は信濃国佐久郡から北上してこれを打ち破り、城氏は越後へ逃げ帰りますが離反者が相次ぎ、会津にまで逃げ込みます。義仲は勢いに乗じて越後を制圧し、能登・加賀・越前・若狭など北陸道諸国で反平家勢力が蜂起します。平家は東西に加えて北からも脅かされ、広大な所領と食料補給地を失うことになりました。

 坂東で勢力を貯えていた頼朝は、この頃に後白河院へ密使を派遣し、謀反ではなく朝敵たる平家を滅ぼすための挙兵であると弁明しています。後白河院は宗盛に和平を打診しますが、宗盛は当然拒絶しました。そして8月には鎮西へ平貞能を、北陸へ平通盛・経正を派遣し、城長茂を越後守、藤原秀衡を陸奥守に任じます。通盛は越前国府に入りますが、反乱軍に敗れて11月に帰京し、北陸諸国を奪還することは叶いませんでした。また大飢饉は翌養和2年/寿永元年(1182年)まで続いて戦どころではなく、信義・義仲・頼朝らも地盤固めなどで動けず、情勢は膠着状態に陥ります。

 この頃、義仲を頼って以仁王の子(諱は不明)がやってきました。彼は永万元年(1165年)の生まれとされますから16歳ほどで、父が敗死したのち僧形となって北陸に潜んでいたといいます。義仲は彼を歓迎して越中国に御所を設け、自らの挙兵の正統性を示すものとして推戴しました。これが北陸宮ほくろくのみやです。

義仲上洛

 飢饉が終わった寿永2年(1183年)4月、宗盛は平維盛・通盛らが率いる軍勢を北陸道に攻め込ませます。平家軍は越前の反乱軍が籠もる火打城を陥落させ、越前・加賀・能登を奪還して越中に迫ります。越後にいた木曽義仲は自ら兵を率いて迎撃に赴き、先遣隊の今井兼平は越中般若野で越中前司の平盛俊らを打ち破ります。平家軍本隊はいったん退き、越中との国境である礪波山で待ち構えますが、義仲は家来の樋口兼光率いる部隊を密かに敵陣の背後に回り込ませてから夜襲をかけます。慌てふためいた平家軍は退路を塞がれて逃げ惑い、倶利伽羅峠の断崖から谷底に転落して壊滅しました。

 維盛らは加賀まで撤退しますが追撃を受け、6月1日には清盛の七男・知度や老将・斉藤実盛が戦死します。義仲は10日に越前、13日には近江に入り、比叡山を挟んで京都を脅かしました。義仲軍に合流していた源行家は伊賀を経て宇治に入り、源義清は丹波に向かい、摂津・河内では多田行綱が反乱して船による物流と逃げ道を遮断し、京都は東西南北から包囲されます。さらに遠江の安田義定も呼応して進軍を開始し、平家は滅亡の危機に瀕します。

 6月25日未明、後白河院は平家を見限って比叡山に脱出します。同日朝、宗盛は六波羅殿に火を放ち、三種の神器と安徳天皇を伴い、建礼門院ら一門を率いて京都から福原へ逃走しました。義仲は北陸宮を加賀に残し、27日に後白河院を奉じて京都に入ります。後白河院は義仲を従五位下・左馬頭・越後守に、行家を従五位下・備後守に任じ、「前内大臣(宗盛)が幼主(安徳天皇)と神器を持ち去ったゆえ追討せよ」と命じました。平家は朝敵・賊軍に転落し、福原を経て大宰府まで逃走することになります。

◆unified◆

◆perspective◆

【続く】

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