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【つの版】ウマと人類史EX30:鳥羽院政

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 河内源氏は義家の晩年から勢力を失い、代わって白河法皇の寵愛を受けた伊勢平氏の平正盛が武家の有力者として台頭します。彼は各地の受領を歴任して勢力を広げ、平家政権の礎を築くことになります。

◆平◆

◆家◆


山門強訴

 天仁元年(1108年)、平正盛は源義親討伐の功により但馬守となり、義忠暗殺事件後の天永元年(1110年)には丹後守に転じます。子の忠盛は源為義と同じ永長元年(1096年)の生まれで、天仁元年に父の功により13歳で左衛門少尉となり、天永2年(1111年)には検非違使を兼ね、天永4年(1113年)には盗賊の夏焼大夫を逮捕した功績により従五位下を授かります。

 同年閏3月、大和国興福寺の大衆(僧侶)ら数千人による強訴が発生しました。これは白河法皇が延暦寺の仏師・円勢を興福寺の末寺である清水寺の別当(住職)に任じたことに反対したもので、法皇はやむなくこの人事を引っ込めます。興福寺は藤原氏の氏寺として大きな勢力と広大な荘園を持ち、延暦寺とは古来バチバチに争っていました。

 この時、興福寺の大衆が延暦寺の末社である祇園社(八坂神社)の神人に暴行を働いたため、今度は延暦寺の大衆が報復のため清水寺を襲撃します。さらに神輿を担いで院の御所に押しかけ、興福寺に対する処罰を要求しました。法皇は恐れてこれも飲んでしまい、またも興福寺の大衆が押しかけて延暦寺に対する処罰を要求します。

 法皇は平正盛・忠盛、源為義・光国・重時、藤原盛重ら配下の武者たちに院の御所や内裏を警固させ、京都の南の宇治や比叡山西麓の西坂本に軍勢を配備して興福寺・延暦寺の大衆を防がせました。この武力衝突によって興福寺大衆側に多数の死傷者が出、延暦寺も内部分裂して撤退しましたが、その後も各地の寺社は強訴を行い、院や朝廷を悩ませました。

『平家物語』によると白河法皇は「賀茂河の水(洪水)、双六の賽(確率)、山法師(延暦寺の大衆)」を「我が心にかなわぬ(意のままにならぬ)もの」として列挙しています。

西国赴任

 同年7月に永久と改元され、平正盛は功により備前守に任じられます。永久5年(1117年)には従五位上、元永2年(1119年)には洛中強盗追捕の功により正五位下、保安元年(1120年)には肥前国藤津荘の荘司殺害犯・平直澄追討の功により従四位下に昇叙されます。同年讃岐守に遷任しますが、翌年4月に逝去しました。

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 正盛の受領任地はいずれも西国で、河内源氏の所領が乏しい地域です。特に備前守には7年間も在任しており、次の任地・讃岐は備前の対岸で、瀬戸内海交通を抑える要衝です。彼はこれらの地の武士を家人として組織し、交易ルートを掌握して富を貯えました。伊勢はもともと海運業が盛んな地ですし、伊勢平氏は坂東の荒武者より商売上手ではあったのでしょう。

 正盛はまた白河院の近臣である藤原清隆源有賢らに娘を娶らせ、義忠と娘の遺児たち(経国、義高、忠宗、義清、義雄)も引き取って養育し、河内源氏の畿内における勢力を伊勢平氏に取り込んでいきます。

 忠盛は永久2年(1114年)、白河院の寵妃・祇園女御に鮮鳥を献上し、永久5年には右馬権頭・伯耆守を兼任し、鳥羽天皇に入内した藤原璋子(待賢門院)の政所別当となります。翌年には嫡男・清盛が生まれました。元永2年11月の賀茂臨時祭では新舞人に選ばれ、その華やかな装いは周囲を驚かせたといいます。翌保安元年には25歳で越前守に任じられ、殺人事件を起こした延暦寺関係者を逮捕しています。

 同年、藤原忠実は白河法皇の勅勘を蒙って関白を罷免され、息子・忠通が代わって関白とされます。また保安4年(1123年)正月には鳥羽天皇が21歳で退位して上皇となり、数え5歳の皇太子・顕仁親王が即位します(崇徳天皇)。70歳の白河法皇はこの曾孫の後見人として引き続き院政を続けます。

 忠盛は白河法皇より院の昇殿を許され、大治2年(1127年)には従四位下・備前守となり、左馬権頭を兼任し、院御厩司も兼務しました。これは院の牛馬の管理を行う役職で、軍馬を各地の牧から調達でき、軍事貴族・武門として重要な地位です。大治4年(1129年)3月には山陽道と南海道の海賊追討使に抜擢されますが、同年7月に白河法皇は77歳で崩御しました。

鳥羽院政

 崇徳天皇はまだ10歳で、26歳の父・鳥羽上皇が院政を行います。彼は白河院の近臣を自らの近臣に横滑りさせる一方、藤原忠通を引き続き関白としつつもその父・忠実を呼び戻し、摂関家との関係修復を試みます。忠通は娘・聖子を崇徳天皇の中宮とし、忠実も娘・勲子を鳥羽上皇の妃(のち皇后)としました。しかし聖子は崇徳天皇との間に子を産まず、勲子は入内時に39歳で出産は望めず、摂関家が皇室の外戚に戻ることはありませんでした。

 忠盛は引き続き鳥羽院の近臣となり、正四位下に叙されて官職もそのままとなります。天承2年(1132年)には上皇勅願の得長寿院の落慶供養に際して千体観音を寄進し、内昇殿を許されて殿上人に加わります。武家で殿上人になるのは源頼光以来で、当時は破格・未曾有のこととして公卿たちから驚き憎まれています。

 この頃、チャイナでは大変動が起きていました。1125年、宋が女真族の金と結んで契丹遼朝を滅ぼしますが、翌年には金が宋を攻め滅ぼし、華北を制圧します。宋は南に逃れて南宋となり、木材や銅などの資源を求めて日本との交易を強化しました。宋と日本の間に正式な国交はありませんでしたが、両国の僧侶や商人は私的に渡航しており、薩摩坊津、筑前博多、越前敦賀などに在留宋人のコミュニティが築かれます。忠盛はこれに目をつけます。

 長承2年(1133年)、院領荘園である肥前国神埼荘(現佐賀県神埼市)に宋人・周新の船が来航すると、大宰府から臨検のため役人がやってきます。神埼荘の預所(管理人)であった忠盛は鳥羽上皇の院宣を楯に臨検を中止させ、大宰府を介さぬ密貿易(私貿易)を事実上承認しました。

 神埼は有明海の奥にあり、弥生時代には吉野ヶ里遺跡が栄え、中世には徐福がこの地に渡来したとの伝説も生じました。宋が成立した10世紀後半には「徐福が日本に来た」との伝説が(日本の僧侶により)生じていますから、渡来した宋人も日本との縁を造るために語り伝えたことでしょう。

 また長承4年(1135年)には中務大輔に任じられ、4月には再び西海諸国の海賊追討使に任命されます。彼は各地の海賊(在地領主)を降伏させて自らの家人に組織し、従わぬ者は海賊として追討し、8月に凱旋しました。西国は伊勢平氏のシマとなったのです。翌年には美作守を兼ね、その翌年(1137年)には息子清盛が20歳で肥後守に任じられました。南宋との貿易は莫大な富をもたらし、忠盛一門は圧倒的な財力を獲得します。

 またこの頃、鳥羽上皇は故・権中納言の藤原長実の娘・得子を寵愛するようになり、保延5年(1139年)には彼女との間に男子を儲けます。崇徳天皇に男子がなかったため、鳥羽上皇は生まれたばかりの彼を崇徳天皇の養子とし、躰仁なりひと親王と名付けて皇太子とします。しかし翌年崇徳天皇は寵妃・兵衛佐局との間に男子(重仁しげひと親王)を儲けたため、鳥羽上皇は翌年(1141年)12月に崇徳天皇に迫って躰仁親王に譲位させます。これが近衛天皇で、まだ数え3歳でしかありませんでした。

 鳥羽上皇(1142年に受戒し法皇)は引き続き「治天の君」として実権を握り、崇徳上皇は天皇の養父として権威を保ちつつ、次の「治天の君」の位を狙うこととなります。忠盛は得子の従兄弟で鳥羽院の寵臣・家成と姻戚関係にあることからさらに寵愛を受け、天養元年(1144年)には正四位上・尾張守、久安2年(1146年)には受領最高位の播磨守に任じられます。同年清盛は正四位下・安芸守となり、瀬戸内航路を掌握します。忠盛は崇徳上皇とも良好な関係を持ち、我が世の春を謳歌して羨望される存在でした。

義朝東下

 伊勢平氏が華々しく出世していく一方、河内源氏は勢力を衰えさせていました。為義は14歳で左衛門少尉に任じられて白河院の近臣となり、保安5年(1124年)頃には検非違使を兼任しますが、家人・郎党による乱暴狼藉を制御できないばかりが自らも罪人を匿うなど不祥事を重ね、鳥羽院から勘当を命じられるほどでした。このため受領にすらなれず、忠盛が美作守となった保延2年(1136年)には左衛門少尉を辞任して無官となっています。

 大治2年(1127年)10月、源義光が逝去しました。嫡男義業は常陸国久慈郡佐竹郷を本拠として佐竹氏の祖となり、三男義清は同国那珂郡武田郷を継ぎますが、所領争いで甲斐国に流され甲斐源氏・武田氏の祖となりました。義綱は天承2年(1132年)に佐渡で為義の追討を受け、自害しています。

 この頃、為義の長男・義朝が東国へ送られます。彼は保安4年(1123年)の生まれで、父が無官になった時は14歳の少年です。まず頼信以来の所領である安房国朝夷あさい郡のまるの御厨みくりや(現千葉県南房総市丸本郷)に入り、ついで上総国に移って上総氏(平忠常の後裔)の後見を受け、「上総御曹司」と呼ばれました。

 のち相模国鎌倉に移って本拠地とし、相馬・千葉・三浦・大庭・波多野など坂東の諸豪族を服属させ、下野・上野を領する義国とも同盟し、若くして坂東の盟主となります。為義が東国の地盤を強化するためにやらせたとも、廃嫡された義朝が勝手にやったことともいいますが、これが後の鎌倉幕府の基盤となったのです。

 為義の次男の義賢は河内源氏の後継者と目され、保延5年には東宮帯刀先生たちはきのせんじょう、すなわち皇太子の護衛役に任じられます。ところが翌年には殺人事件に関与したため失職し、弟の頼賢に嫡子を譲ることになりました。鳥羽院からの信任を失った為義は、事態打開のため摂関家を頼り、その警護や家人の統制、荘園管理などを担うことになります。義賢は能登国の摂関家荘園の預所となり、為義も久安2年(1146年)には10年ぶりに検非違使に復帰し、左衛門大尉の官位を授かりました。同年には義朝も東国から京都に戻り、翌年には義朝の子・頼朝が生まれています。

 しかし摂関家では忠実の子である関白の忠通と、異母弟・頼長の対立が深まっていました。忠通には長らく実子がなく、20歳以上も年下の頼長を猶子(養子)としていましたが、1143年に実子(基実)が生まれたため養子縁組を解消してしまい、怒った頼長は父・忠実と手を結んで対立します。久安6年(1150年)に近衛天皇が元服すると、頼長と忠通はそれぞれ養女を入内させ、皇后に立てようと張り合います。鳥羽法皇は仲裁しますがおさまらず、両者の対立はのちの保元の乱の原因となりました。

 こうした中、忠盛は久安5年に内蔵頭、仁平元年(1151年)には刑部卿となり、公卿昇進を目前としながら仁平3年(1153年)に58歳で逝去します。頼長はその死を悼み、「数国の吏を経、富巨万を累ね、奴僕国に満ち、武威人に過ぐ」と日記に記しています。清盛はこの父の遺産を受け継ぎ、国内屈指の富豪かつ武門の長として、次の時代を切り拓くことになります。

◆平◆

◆家◆

【続く】

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