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【つの版】徐福伝説07・富嶽蓬萊

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

インデックスを作りました。

徐福が琅邪で始皇帝に会ってから千年余の歳月が流れました。彼の名は史書や儒教、士大夫の間では「始皇帝を惑わし人民を苦しめた詐欺師」として、道教や民間信仰では「蓬莱山に辿り着き、不死の薬を飲んで昇天した仙人」として伝わっていました。その話は東海の彼方、朝鮮半島諸国や倭国・日本にも届いたはずですが、史書には徐福がこれらの地に到達したという記録がありません。各地に伝わる徐福伝説はどこから始まったのでしょうか。

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義楚六帖

安史の乱の勃発から150年余り後の西暦907年、相次ぐ反乱で衰弱した唐は梁の朱全忠に禅譲して滅亡しました。これより五代十国時代となり、960年に成立した宋が979年に天下をほぼ再統一するまで乱世が続きました。

この頃、斉州(山東省済南市)に義楚という僧侶がいました。彼は相州安陽(河南省安陽市)の出身で、7歳で出家して斉州の開元寺に入り、21歳で具足戒を受けました。彼は学問を好み、仏教の教義体系を解説した『倶舎論』を諳んじるほどでした。しかし当時のチャイナでは儒者の間に「異国の邪教だ」として反仏教の風潮が強く、しばしば弾圧されたため、義楚はこれに対抗して『釈氏六帖(義楚六帖)』という仏教辞典を編纂しました。僧侶は出家して姓氏がないため、釈迦の門に入ったとして釈氏と称します。

これは白居易の類書『白氏六帖』を真似たもので、後晋の開運2年(945年)に始まり、後周の顕徳元年(954年)に完成しました。周の天子の世宗は「廃仏令」を出して肥大した仏教寺院の権益を抑圧しましたが、義楚の献上したこの書を喜び、紫衣袈裟を賜って「明教大師」の法号を与えました。

959年に世宗は崩御しますが、その子は幼かったため軍が従わず、将軍の趙匡胤が禅譲を受けてを建国しました。宋では木版印刷による出版が盛んとなり、開宝6年(973年)に『義楚六帖』も刊本化されています。この刊本版には新たな記事が追加されており、徐福のことも記されています。

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すなわち、『釈氏六帖』第21巻の「国城州市部」第四十三にこうあります。

日本國、亦名倭國。東海中。秦時、徐福將五百童男五百童女止此國也。今人物一如長安。又顯德五年歲在戊午、有日本國傳瑜伽大教弘順大師賜紫寬輔又云、「本國都城南五百餘里有金峯山、頂上有金剛藏王菩薩、第一靈異。山有松檜・名花・軟草、大小寺數百、節行高道者居之。不曾有女人得上至。今男子欲上、三月斷酒肉欲色、所求皆遂云。菩薩是彌勒化身、如五臺文殊。
日本国、またの名は倭国。東海の中にある。秦の時、徐福は五百の童男、五百の童女を率いて、この国にとどまった。今(その国の)人や物は(唐の)長安のようである。また顕徳5年戊午(958年)、日本国の伝瑜伽大教弘順大師で紫衣を賜った(高僧の)寛輔があり、こう言った。「本国(我が国)の都城(平安京)の南500余里に金峯山があり、頂上に金剛蔵王菩薩があって霊異は(日本)第一である。その山には松やヒノキ、名花や軟らかな草があり、大小の寺は数百あって、行い正しい修行僧がいる。いまだかつて女人が登ったことはなく、男子が登ろうとすれば三ヶ月酒や肉欲・色欲を断ってからで、祈り求めれば叶わぬ願いはない。(金剛蔵王)菩薩は弥勒の化身であって、五台山の文殊菩薩のようであると。

大和国の吉野山には金峯山寺があり、7世紀後半に役小角が開いたと伝え、修験道の聖地です。その本尊は金剛蔵王権現といい、釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の三尊が合体したものとされます。

又東北千餘里有山、名富士。亦名蓬萊。其山峻三面是海、一朵上聳、頂有火煙。日中上有諸寶流下、夜即卻上。常聞音樂。徐福止此謂蓬萊至。今子孫皆曰秦氏。彼國、古今無侵奪者、龍神報護。法不殺人、為過者配在犯人島。其他靈境名山、不及一一記之。」
また(都城の)東北千余里に山があり、名を富士という。またの名は蓬莱である。その山は三面が海で、一朶は上に聳え、山頂には火煙がある。日中には諸々の宝が山から下り流れ、夜になると却って上がる。常に音楽が聞こえる。徐福はこの地に訪れてとどまり、これを蓬莱と呼んだ。今その子孫はみな秦氏という。その(日本)国は古今他国に侵奪されることがなく、龍神が守護している。その法は人を(刑罰で)殺さず、罪人は島流しにされるだけである。その他の霊地や名山は、いちいちこれを記すに及ばない」

ついに徐福が倭国(日本)に来たと記されました。しかも蓬莱とは富士山のことで、徐福の子孫は秦氏となったというのです。

ただ唐宋の1里は540mとして500里は270km、1000里は540kmですが、京都御所から金峯山寺までは南に90kmあまりしかなく、富士山までは360kmほどです。まあ適当な数字を言ったのでしょう。熊野の串本までなら紀伊半島西岸を巡れば270kmですが。

義楚は最初の『釈氏六帖』を編纂し献上した後、顕徳5年(958年)に日本の高僧・寛輔からこの話を聞いたと記しています。彼は何者でしょうか。

賜紫寛輔

894年に遣唐使が廃止された後も、日本の僧侶や商人は外国の商船に載って新羅・高麗や唐、五代十国や宋へしばしば赴き、交易や留学を行っていました。一応日本国の許可がなければだめという「渡海制」が存在しましたが、海外からもたらされる文物の魅力には勝てず、お目溢しがあったようです。寛輔も唐の商船で留学した僧侶の一人でした。

彼については、永観元年(983年)に日本から宋に渡った奝然(ちょうねん、938-1016)という東大寺の僧侶が『在唐記』に書き記しています。これは散逸しましたが、成尋(1011-1081)の『参天台五台山記』や心覚(1117-1182)の『鵝珠抄』などに引用されて残っています。

それによると、奝然は洛陽で超會という85歳の日本人の僧侶に出会い、日本語を忘れた彼と筆談で会話することが出来ました。彼は半世紀以上前、醍醐天皇の延長5年(927年)、奈良興福寺の僧侶・寛建に従って唐に渡りましたが、寛建は五台山へ巡礼するという目的を果たせず、建州(福建省南平市)で亡くなりました。

平安後期の比叡山の僧・皇円による私撰仏教史書『扶桑略記』には、延長4年(926年)5月21日、興福寺の寛建法師が唐の商人の船で入唐し仏法を求めたいと朝廷に願い出て許されたことが記録されています。彼は黄金百両等の旅費と物資、菅原道真ら日本の文人の漢詩集や書を授かり、従僧3人、童子4人、従者2人を率いて出発したとあります。興福寺は藤原氏の氏寺で、比叡山延暦寺と並び立つほどの権勢を誇りました。

寛輔・超會・澄覚ら残った人々は遺志を継いで華北へ向かい、後唐の明宗の長興年間(930-933)に首都開封に入りました。一行は明宗の庇護を受け、五台山をはじめチャイナ各地の聖地を巡礼しました。寛輔は明宗から弘順大師の称号と紫衣を賜り、洛陽へ赴いて瑜伽大教(真言密教)の普及に貢献しました(興福寺は弘法大師空海の影響で密教も盛んでした)。

澄覚は漢語を学び唯識を講じていましたが、帰国のために浙江へ向かって連絡がとれなくなり、寛輔は30人の高弟を輩出した後、超會が奝然に出会う数年前に亡くなったといいます。980年頃とすると50年以上チャイナにいたわけで、後唐・後晋・後漢・後周・宋の五王朝の興亡を見たことになります。

後周の顕徳5年(958年)というと、寛輔が唐土に来てから30年も後です。超會と同い年とすれば60歳ぐらいでしょう。彼が祖国でそのような話を聞いたのか、唐人に祖国を誇って語ったのかはわかりませんが、少なくともこれより前に徐福と日本、富士と蓬萊、徐福と秦氏を結びつけた文献記録は見つかっていません。寛輔の作り話か、民間伝承を繋ぎ合わせたのでしょうか。

富士信仰は古くから存在したようですが、『うつほ物語』でも『竹取物語』でも「徐福が日本に渡った」とは記されず、富士と蓬莱山は別物とされています。不死の薬を富士で焼いたから「不死の山」と呼ぶのだという話は有名ですが、「蓬萊の玉の枝」を富士山へ取りに行った様子はありません。ただ興福寺の僧侶であった寛輔であれば金峯山や熊野を蓬萊とすれば良さそうなのに、富士山を蓬萊としています。そうした伝承が日本にあったかも、程度は言えるかも知れません。富士と徐福については後で考察してみましょう。

なお奝然は宋の太宗に日本の『王年代記』を献上しており、1060年成立の『新唐書』日本伝や、1345年成立の『宋史』日本伝に引用されていますが、どちらも日本書紀の皇統紀の異伝で、徐福については記述がありません。『新唐書』は945年に後晋で編纂された『旧唐書』を補うため新たに編纂されたものですが、そちらにも徐福が日本へ渡ったとは書かれていません。

日本刀歌

この話がもとになってか、宋の欧陽脩(1007-1072)の「日本刀歌」には、徐福と日本を結びつけた部分が存在します。

 昆夷道遠不復通 世伝切玉誰能究 宝刀近出日本国 越賈得之滄海東
 魚皮装貼香木鞘 黄白閑雑兪与銅 百金伝入好事手 佩服可以禳妖凶
 伝聞其国居大島 土壤沃饒風俗好 其先徐福詐秦民 采薬淹留丱童老
 百工五種与之居 至今器玩皆精巧
 前朝貢献屡往来 士人往往工詞藻
 徐福行時書未焚 逸書百篇今尚存 令厳不許伝中国 挙世無人識古文
 先王大典藏夷貊 蒼波浩蕩無通津 令人感激坐流涕 綉渋短刀何足云

「徐福は秦民を詐り、薬を採ると称してとどまり、童男女は年老いた」「百工を連れてきたので日本の製品が精巧である」「徐福が出発した時は焚書の前であり、チャイナでは失われてしまった書物が日本では今なお存在する」といった伝説が語られています。実際日本にはチャイナに現存しない書籍が多く伝わっていますが、別に徐福が持ってきたわけではないでしょう。また焚書坑儒は始皇34年・35年(前213・212年)に起きていますが、徐福は始皇28年(前219年)に出航したものの戻ってきており、始皇37年(前210年)にはまだ琅邪にいたと史記に書かれています。

ともあれ「徐福が日本に渡来した」という伝説は、彼が琅邪で始皇帝と会ってから1000年以上も後になって、ようやくチャイナにおいて出現し、記録されました。そしてこの伝説が日本に輸入され、様々なバリアントを生んでいくことになったようです。次回はそれを見ていきましょう。

◆富嶽◆

◆蓬萊◆

【続く】

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