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【つの版】徐福伝説09・徐巿過此

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

徐福の登場から1500年余りの歳月が流れ、日本に徐福が渡来したという伝説は、チャイナでも日本でも人口に膾炙するようになりました。富士山を蓬萊とする説、秦氏を徐福らの子孫とする説も現れ、紀州熊野に徐福の祠までも出現します。政治的意図もあってのことでしょうが、徐福伝説はさらに独り歩きを始め、日本全国徐福の渡来地が現れることになりました。

◆I wanna know◆

◆the truth◆

出港入海

まず、チャイナ側から徐福伝説の地を探しましょう。『史記』始皇本紀によるならば、徐福の年齢も出身地も不明で、ただ斉人琅邪にいたとあるだけです。徐氏ということは、先祖は斉の南方の徐(山東省臨沂市郯城県)におり、琅邪へ移り住んだとも考えられます。

しかして山東省煙台市竜口(もと黄県)には「徐福鎮」があり、徐福の故里(ふるさと)と伝えられます。黄水河が渤海湾に流れ込むあたりで、北の海上に桑島があり、蓬萊を臨む地としてはふさわしいでしょう。また竜口の東隣には蓬萊市があり、北の海上には長山列島、廟山群島が連なっています。史記始皇本紀にも、始皇帝が黄を通過したと記されています。元代の学者・于欽(1284-1333)が編纂した山東省の地誌『斉乗』にも、この地名を引いて「けだし徐福求仙するをもって名となす」とあり、後世に徐福を祀る「徐公祠」がここに建てられました。

また臨沂市の東、江蘇省連雲港市の贛楡(かんゆ)区金山鎮には徐阜村があります。1982年に『中華人民共和国地名辞典』編纂の際の調査中、ここが清の乾隆帝の時代以前には「徐福村」と呼ばれていた、と判明したそうです。徐阜村には徐家が一人もいませんが、古老によれば徐福が東海へ旅立つ時に親族を集め、「わしが成功しなければ、徐氏は秦に亡ぼされるだろう。これより徐氏を名乗ってはならぬ」と言い聞かせたといいます。

この地は実際徐の地ですが、現地の旧家では「明代に先祖がここに移住した」と伝承されており、徐福云々は観光客を誘致するための村おこしのたぐいのようです。また徐氏は秦の後も珍しくもなく、『三国志』に登場する徐庶はもとの名を福と言ったそうですから、徐福の名も珍しくありません。

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渤海湾の北、河北省秦皇島市も出発地とされますが、徐福ではなく燕人盧生の出発地でしょう。また浙江省寧波市慈渓も候補地とされ、2000年には「徐福記念館」が開館し、2001年には「徐福小学」も開校しましたが、中世には日本と宋・明の交易で栄えたとはいえ、秦代には会稽郡です。夷洲や亶洲と会稽の繋がりを拡大解釈したのでしょうか。

さて徐福が出港したとして、それからどうなったのでしょう。バッドエンドルートは、海上で風浪に遭って沈没し、どこにもたどり着けなかったという一番現実的でつまらない話になります。もしくは出港したはいいものの戻ってきてうだうだしている間に死んだか殺されたか、となります。夢がないので除外するとして、もし徐福がどこかへたどり着けたなら、どのようなルートでどこへたどりつけそうでしょうか。

徐巿過此

三神山は渤海湾にあるとも、琅邪の東南にあるともいいます。徐福や盧生が秦の支配を逃れて新天地を目指したとすれば、秦がすでに支配権を及ぼしている遼東半島や朝鮮半島北部は危険ですから、可能性があるのは朝鮮半島南部(真番・辰韓)、そして済州島(耽羅)です。

韓国の徐福伝説
https://ko-sho.org/download/K_028/SFNRJ_K_028-07.pdf

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韓国の徐福伝説は、全羅道・慶尚道・済州島に集中しています。「徐巿過此(徐巿がここを通り過ぎた)」と読めるという岩文字もあるといい、口頭伝承もありますが、あまりはっきりとはしていません。韓国の沿岸にも多くの島々がありますし、金剛山や智異山といった霊地名山はありますから、それらと結び付けられたのでしょうか。

特に有名な徐福伝説があるのが済州島です。この島は標高1950mの漢拏(ハルラ)山が聳える火山島で、北部を済州市、南部を西帰浦(ソギッポ)市といいますが、これは徐福が到来した後「西(秦)に帰った」からとも、ここを経由して日本に渡ったとも言われています。また瀛州とは済州島のことだとも、『高麗史』などにいう「三姓神話」のもとになったともいいます。

それによると、耽羅(済州島)はもと無人でしたが、漢拏山北麓の穴から良乙那、高乙那、夫乙那という三人が現れ、猟師をして暮らしていました。ある時、島の東の浜に紫泥で封蔵した木の箱が流れ着き、三人が開けてみると中に石の箱があります。そこへ紅帯紫衣の使者が現れ、石の箱はひとりでに開いて、青衣の乙女三人と牛馬、五穀の種が出てきました。

使者は「私は日本国の使いです。我が王は三人の娘を儲けられましたが、西海の中の山に三人の神の子が降臨したと聞かれ、配偶者を与えようとこれらを遣わしたのでございます」といい、雲に乗って去って行きました。三人は乙女らを娶って子孫を増やしたといいます。

この使者が徐福であって日本から来たとは後付だというのですが、あまり説得力がありません。『三国志』によると3世紀の済州島には州胡という野蛮人がいたといい、辰韓や弁辰のようには文明的でなかったといいます。

いずれも徐福は「通り過ぎた」とされますから、日本へ向かったという伝説から作り出された可能性はあります。まあ経由地にはなったでしょう。

金立権現

済州島から先と言えば、対馬・壱岐・九州です。そして九州を代表する徐福伝説の地は、佐賀の金立(きんりゅう)神社です。

佐賀市における徐福伝説
https://core.ac.uk/download/pdf/291692783.pdf

六国史の最後の『日本三代実録』によると、貞観2年(860年)に肥前国の諸社に神階を授けた記事があり、正六位上の金立神を従五位下に進めたと記されています。鎌倉時代には社領十町を保有し、江戸時代には雨乞いに霊験のある神として広く崇拝されました。また上・中・下の三宮があり、現在は保食神・罔象女神・秦徐福を祭神としますが、古くは金立山雲上寺という仏寺で、金立三社大権現を祀っていました。「権現」とは仏尊が仮に神の姿をとって現れた存在(権化)で、各々の本地(本体)は薬師・阿弥陀・観音であり、もと法相宗でしたが真言宗に変わったといいます。

『金立山注書』によると、その由来は「大明秦始皇第三王子徐福太子」で、始皇帝が不老不死の薬を求めて蓬莱島の金山へ遣わしたとされます。徐福は道を妨げる食人毒蛇を倒して蓬莱島(日本)へ渡り、金山すなわち金立山に至ります。徐福が山に登ると弁才天に出会い、不老不死の薬を授かります。徐福は父の始皇帝が悪政を敷いていたため、孝霊天皇に願ってこの国にとどまることとし、領地を賜ったといます。

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また『肥前古跡縁起』によると、権現(徐福)来朝の時は金銀珠玉の飾船に乗り、童男童女七百人が歌舞音楽を奏し、肥前国寺井津(佐賀市諸富町大字寺井津、筑後川下流部の川港)に上陸しました。浦の人は喜んで彼らをもてなし、権現が盃を海に浮かべたところ、浮盃の島となりました。また寺井津から金立山まで白布千端を引き延べ、権現はその上を御輿に乗って進んだので、千布の里といいます。権現はこの霊山にて修行を行い、山には道場が立ち並びました。また山上に大石があり、そこから不老不死の水が湧き出し、薬の材料を焼いて調合する煙が立ち昇っていたといいます。

阿弥陀・薬師・観音の三尊を本地とする権現とは、紀州熊野三山に祀られる熊野権現に他なりません。法相宗は興福寺、真言宗は高野山です。徐福の祠が熊野にあり、熊野権現として出現したとの伝説もあったことから、この地の熊野権現にそうした伝説が新たに加わったのでしょう。『金立山注書』では秦を「大明」としますから、チャイナが明代であった日本の室町時代から江戸初期にかけて書き記されたものと思われます。

ただ紀州熊野三山では本宮・速玉・那智の三神の本地を観音・薬師・阿弥陀としますが、金立権現は薬師・阿弥陀・観音の順で、下宮の観音を徐福とします。薬師を上宮としたのは徐福が「不老不死の薬」を求めたとの伝説によるものでしょう。仏教と道教が習合した感じです。

「徐福が来たのは史実であり、後世に伝説が付け加わったに過ぎない」と言うこともできるでしょう。上陸地が寺井津とすると、徐福らは有明海を北上して筑後川河口部に着き、秦や斉の先進技術をもって佐賀平野を治めていたことになります。確かに平原・廣澤ですが、前3世紀末にそのような考古学的形跡は見いだせません。

近くに吉野ヶ里遺跡はありますが、前4世紀には集落がすでにあり、次第に大型化はしているものの、徐福らが来たのなら相当な文化的インパクトがあったはずです。しかしそのような様子もなく、玄界灘沿岸の奴国や伊都国の方がよほど栄えていました。倭奴国王が徐福の子孫と名乗った様子もなく、「呉の太伯の子孫」と称していたようです。

付近の福岡県八女市には八女古墳群があり、「童男山古墳」があります。これを徐福の率いていた童男童女と結びつけ、江戸時代から「童男山ふすべ」なる徐福祭りが行われているようですが、考古学上は6世紀後半のものに過ぎません。磐井を祀った方がよさそうな気もしますが、まあ古代史ロマンを謳って観光客を呼び込むのは勝手です。

また、徐福がここに留まって死んだとすると、熊野や富士の徐福伝説はなんなのか、ということになります。多少合理的に解釈すれば、徐福の弟子たちが蓬萊を目指して東へ進んだとか、童男童女の一部を残しつつ東へ進んだということになるでしょう。

薩摩冠嶽

九州には他にも徐福伝説の地があります。例えば南九州、鹿児島県西部の冠岳(かんむりだけ)です。1992年、その麓のいちき串木野市にチャイナ風庭園の「冠嶽園」が作られ、巨大な徐福像が建てられ、これを祀る「徐福花冠祭」なるものもあるといいます。徐福が当地に稲作や五穀を伝え、霊峰に自分の冠を捧げて封禅の儀式を行ったというのですが、本当でしょうか。

確かに琅邪からは東南にあり、東シナ海に面しており、風や潮流に乗れば漂着できるかも知れません。また南には笠沙の岬があり、天孫ニニギが訪れて妻を娶ったとの神話も記紀に書かれています。ただ、さほど古くからあった話とも思えません。

冠岳には冠嶽山鎭國寺頂峯院という真言宗の寺院があります。『頂峯院来由記』によると、6世紀後半に用明天皇が蘇我馬子に命じて東岳、中岳、西岳のそれぞれに社を建てさせ、東岳には勅願寺として興隆寺を設けたとされ、平安時代中期に阿子丸仙人が頂峯院を開山したといいます。

冠岳は山頂に熊野権現が勧請されており、その別当寺だった天台宗の興隆寺が頂峯院の前身寺院と考えられ、元来は山岳信仰の霊地でした。中世には島津氏の信仰を受け、薩摩における重要な霊山でしたが、南の蔵王権現を祀る金峰山観音寺とは対立関係にありました。

明治2年(1869年)、薩摩には廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、藩内の寺院がほぼ全滅します。頂峯院も観音寺も破却され、神仏分離により神社に変えられました。昭和58年(1983年)に頂峯院はようやく復興されましたが、熊野権現の伝承から徐福伝説を売り物にした、ということでしょうか。

笠沙の岬を挟んでさらに南、南さつま市の坊津(ぼうのつ)にも徐福伝説があります。この地は8世紀頃から新羅を経由しない遣唐使の寄港地となり、755年には唐から鑑真が到来しています。中世には倭寇や遣明船の寄港地ともなって繁栄し、筑前の博多津、伊勢の安濃津と並び「日本三津」のひとつに数えられたほどでした。

坊津には真言宗の寺院である如意珠山龍厳寺一乗院があり、根来寺や仁和寺の別院として栄えました。しかし明治2年の廃仏毀釈で廃絶し、跡地は小学校になっています。熊野信仰とチャイナとの交易関係が徐福伝説の背景にあることは有り得そうです。他にも宮崎県延岡市の今山八幡宮に「徐福岩」があり、ここが蓬莱であると称していますが、古い伝説ではないようです。

徐福は佐賀と冠岳・坊津のどちらに来たのでしょうか。佐賀平野へは有明海を北上する必要がありますから、全部に来たとすると坊津に漂着し、冠岳を経て筑後川河口を目指したのでしょうか。それとも日南海岸を北上して延岡に到り、黒潮に乗って熊野や富士山を目指したのでしょうか。そればかりか瀬戸内や日本海側にも徐福伝説があります。それらも見ていきましょう。

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【続く】


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