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【つの版】ウマと人類史EX21:将門調伏

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 天慶2年末(西暦940年1月)、平将門は常陸・下野・上野国府を制圧し、自ら「新皇」と称して弟や家臣を国守に任じ、坂東の独立を宣言しました。日本国の朝廷は驚愕し、ただちに将門追討軍を派遣します。

◆新◆

◆皇◆


北山決戦

 天慶3年1月中旬(西暦940年2月)、将門は兵5000を率いて常陸国北部の那珂郡・久慈郡へ出陣し、10日にわたって平貞盛と藤原為憲を捜索します。彼らの行方は知れませんでしたが、貞盛の妻と源扶みなもとのたすくの未亡人を見つけ出します。将門は彼女らを放免して捜索を中断し、下総に戻ると(春の農繁期に入ったので)諸国の兵を還したため、手元には1000足らずの兵しか残りませんでした。

 この頃、貞盛と為憲は下野国へ逃れ、藤原秀郷のもとに身を寄せていました。彼は前下野守・従四位下の藤原村雄の子で、藤原北家・左大臣魚名うおなの末裔と称し、代々下野国府の在庁官人や国司層として勢力を保っていた土豪です。彼の姉妹は平国香に嫁いで貞盛を儲けており、秀郷は貞盛の母方の叔父にあたります。生年は不詳ですが『田原族譜』には寛平3年(891年)とありますから天慶3年には50歳近くになります。

 秀郷の有り様は坂東平氏と大差なく、延喜16年(916年)には上野国衙への反対闘争に連座して流罪を課せられていますが、これを無視しています。延長7年(929年)には乱行の廉で下野国衙より追討官符を出されていますが従わず、唐沢山(現栃木県佐野市)に難攻不落の城を築いて本拠地としていました。朝廷は彼を下野国押領使(警察長官)に任命し、将門の乱を鎮圧するよう命じます。早速秀郷らは兵4000を集めて将門を脅かしました。

 国香の弟で上総介の良兼は前年に病没しており、その子・公雅きみまさ(公正、公雄、忠望とも)が跡を継いでいました。彼の姉妹は将門の妻となっていたため、将門とも貞盛とも距離を置いて中立を保っていますが、朝廷は彼にも使者を遣わして東国の掾に任じ、将門を牽制させています。

 天慶3年2月1日(940年3月中旬)、将門は秀郷らが兵を集めていると聞いて驚き、残った兵を率いて下野へ侵攻します。副将軍の玄茂らは秀郷の陣営に奇襲をかけますが打ち破られ、秀郷らは逃げる敵兵を追って下総国結城郡川口村(茨城県結城郡八千代町水口)に侵攻しました。将門はやむなく撤退し、勢いに乗った秀郷らは周辺の土豪を呼び集め、兵力は倍増しました。

 将門は残党400人あまりを率いて南に撤退し、幸島さしまの広江(猿島郡、現茨城県坂東市・常総市付近)に隠れます。ここは河川が入り組んだ広大な沼沢地で、敵の侵攻を防ぐにはうってつけでした。貞盛らは将門の居館と周辺の集落を焼き払って敵を誘き出そうとしますが、将門は幸島の北山(坂東市辺田の北山稲荷か)を背にして陣を張り、味方の増援を待ちます。

 天慶3年2月14日(西暦940年3月末)未申の刻(午後3時)、貞盛・秀郷らは北方から将門の陣営に攻めかかりました。将門は南風を背にして敵の勢いをくじき、騎馬武者を突撃させて打ち破りましたが、突如風向きが変化して北風となり、額(右目やこめかみとも)に流矢が命中して討ち取られます。時に享年38歳、新皇を称してからわずか2ヶ月でした。貞盛・秀郷・為憲らは残党を追撃して皆殺しにし、朝廷に将門の首級を送って報告します。

 将門の七人の弟(将頼、将平、将文、将武、将為、将種、将広)は尽く討たれ、興世王は上総で、藤原玄茂らは相模で討たれました。将門の子らについての同時代記録はありませんが、生き延びたとしても逆賊の子ですから官位にはつけません。『扶桑略記』天徳4年(960年)10月2日条には「将門の息子が入京したとの噂がたち、検非違使らが探索をした」とあります。

論功行賞

 京都からの遠征軍が坂東に到達する前に将門が討ち取られたとの報告を受け、朝廷は大いに喜びました。藤原忠文・源経基らは京都へ引き返し、将門の首級は京都にて梟首(晒し首)に処せられます。功績によって藤原秀郷は父と同じ従四位下に叙され、11月には下野守に任じられました。また貞盛は従五位上、為憲は従五位下を賜り、平公雅は安房守に任じられます。秀郷・公雅はのち武蔵守ともなり、秀郷・貞盛は鎮守府将軍ともなっています。承平年間から天慶年間に及んだ一連の騒動は、同時期に西国で起きていた藤原純友の乱と合わせて「承平天慶の乱」と総称されることになります。

 将門の乱は終結したものの、坂東に私兵を率いた在地豪族(武者)が割拠して朝廷や国府にしばしば逆らう状況は改善されていません。また彼らが力を結集すれば国府ばかりか朝廷をも脅かし、反乱鎮圧に用いれば大いに役立つことも天下に知れ渡ります。朝廷は坂東武者らを手懐けんと官位を授け、互いに争わせて勢力を削ろうとしますし、坂東武者らは朝敵・逆賊として袋叩きにされた将門の轍を踏まぬよう合法的に朝廷から権威を獲得して、自らの権益を拡大することになりました。のちの鎌倉幕府はその帰結です。

 家人であった将門が新皇を称し、遠縁(藤原北家)の純友が西国で反乱したにも関わらず、摂政・藤原忠平の権勢はいささかも揺らぎませんでした。天慶4年(941年)に朱雀天皇が元服すると61歳で摂政を辞しますが、詔勅によって関白に任じられ、引き続き朝政を主宰します。天慶9年(946年)に朱雀天皇が成明親王(村上天皇)に譲位した後も関白とされますが、天暦3年(949年)に70歳で薨去しました。忠平の子の実頼・師輔は左大臣・右大臣に任じられて村上天皇を輔佐し、その治世は「天暦の治」と讃えられます。

将門調伏

 呪術・宗教的な面では、将門の乱を鎮めるため、朝廷は各地の寺社に「将門調伏ちょうぶく」の祈祷を依頼しています。調伏とは仏教用語で降伏《ごうぶく》ともいい、ブッダがマーラを降伏したように、本来は「心身を調えて悪業や煩悩を打ち伏せ取り除くこと」「怨敵・悪魔・敵対者を信服させて障害を打ち破ること」を意味しますが、ここでは「仏神の力によって敵を呪い殺すこと(呪詛)」の意です。

 伊勢神宮や宇佐神宮、比叡山延暦寺などでも祈祷が行われ、各地で「我が祈祷で乱が鎮まった」と喧伝されています。宇佐神宮は将門に位記を授けたという八幡大菩薩の本社ですが、「将門の僭称だ」「坂東の田舎巫女が勝手に言ったことだ」とすれば丸く収まります。むかし道鏡が宇佐神宮の神官から「皇位につくべし」との託宣を受けたものの、和気清麻呂が託宣を受け直して事なきを得た故事がありますから大丈夫です。

『将門記』でも「将門は神鏑(神の矢)にあたって死んだ」と伝えられますが、坂東武者も各地の寺社も手柄を誇るために将門の恐ろしさを強調し、それを打ち破った側はもっとすごいし正義であると喧伝します。また反中央・反体制の武者や庶民は、彼を志半ばで死んだ悲劇の英雄とします。かくて将門は菅原道真に次ぐ怨霊、魔王として語り継がれ、各地に将門伝説が発生していくことになるのです。

 その菅原道真は、将門の乱が終結した後にとして祀られ始めます。伝説によれば天慶5年(942年)、右京七条の少女・多治比たじひの文子あやこに道真の霊魂が憑依し、「北野(京都市上京区、内裏北西郊外)に我を祀る社を立てよ」と託宣しました。5年後の天暦元年(947年)には近江国の神官の子である少年・太郎丸に同様の託宣があり、朝廷はついにこれを許諾します。すなわち北野にあった朝日寺(現東向観音寺)に道真を祀る社殿を造営させ、菅原氏出身で比叡山曼殊院門跡の是算を初代北野別当職に任じました。のちの北野天満宮です。怨霊を祀って鎮めようとしたのでしょうが、その後も疫病や戦乱など災害はやむことがありませんでした。

 北野とは平安京・内裏の北に広がる小高い野原で、天満宮のあたりは標高70mほどもあり、馬喰町ばくろちょうと呼ばれています。馬喰とは博労・伯楽とも書き、ウマを取引する商人のことですから、このあたりはウマを飼うのに適していたのでしょうか。

◆暗黒◆

◆破壊神◆

 さて、将門の本拠地であった下総には、彼の叔父・平良文が赴いて鎮撫しています。彼は高望の庶子で五男にあたり、武蔵国熊谷郷村岡(現埼玉県熊谷市村岡)に所領があったことから「村岡五郎」と称しました。彼の子孫は将門の跡を継いで勢力を広げ、やがて坂東に再び戦乱を巻き起こします。

【続く】

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