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【つの版】ウマと人類史EX14:東国馬牧

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 古墳時代に日本列島に導入されたウマは、瞬く間に各地へ広まり、ウマを飼育するための牧が設置されました。特に東国では信濃・甲斐・坂東などに多くの馬牧が作られ、のちに武士が台頭する基盤となります。

黒ボク土の分布(赤)

◆信◆

◆濃◆

甲信馬牧

 東国(あずまのくに/とうごく)の範囲は時代によって変遷しますが、基本的にはヤマトから見て東の地域です。伊勢の鈴鹿関・美濃の不破関より東を特に「関東」と呼びますが、美濃から東に進んで木曽川を遡り、木曽山脈(中央アルプス)を神坂峠で越えると、信濃国南部の伊那谷に出ることができます。交通の要衝である木曽地域には、今も在来馬「木曽馬」がいます。

 木曽馬は現存する日本在来馬のうち本州では唯一の種類です。木曽地方でウマの放牧が始まったのは飛鳥時代とされますが、4世紀後半には甲斐(山梨県)にウマがいたことが確認されていますから、木曽・伊那谷・諏訪を経て甲斐にもたらされたのでしょう。特に甲斐はウマの名産地として知られ、「甲斐の黒駒」の伝説が日本書紀等に残されています。

 8世紀後半、信濃・甲斐・上野・武蔵の馬牧は天皇直属の「勅旨牧」とされます。このうち信濃には勅旨牧全体の半分にあたる16もの牧が置かれ、多数のウマが飼育され、優れたウマは畿内へ供給されていました。信濃・甲斐は寒冷で土地が痩せており、今も畑作が主で稲作にはあまり向いていませんが、ウマを飼育するには抜群に向いていたのです。諏訪明神が軍神として武家の尊崇を集め、木曽義仲、武田信玄、真田信繁(幸村)ら名だたる武将がこの地域から現れ、ウマを用いた軍事力で中央政権を脅かしたのも、こうした理由あってのことでした。

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信濃16牧
南信5牧
 伊那郡
  平井手:上伊那郡辰野町平出
  宮処 :上伊那郡辰野町伊那富宮所
 諏訪郡
  山鹿 :茅野市豊平
  岡屋 :岡谷市
  萩倉 :諏訪郡下諏訪町萩倉

中信3牧
 筑摩郡
  埴原 :松本市中山・内田
  大野 :松本市波田
 安曇郡
  猪鹿 :安曇野市穂高

東信5牧
 小県郡
  塩原 :上田市浦野、小県郡青木村
  新治 :東御市祢津地区新張
 佐久郡
  長倉 :北佐久郡軽井沢町
  塩野 :北佐久郡御代田町
  望月 :佐久市望月・浅科、東御市北御牧

北信3牧
 高井郡
  笠原 :伊那市美篶
  高位 :上高井郡高山村高井牧
 水内郡
  大室 :長野市松代地区大室村

甲斐3牧
 穂坂 :韮崎市穂坂町 甲府盆地北西部
 真衣野:北杜市武川町牧原
 柏前 :北杜市高根町念場原 八ヶ岳南麓

毛野馬牧

 信濃国東端の軽井沢から碓氷峠を東に越えれば上野国、群馬県です。日本書紀によると、東方遠征を終えたヤマトタケルは碓氷峠から東を振り返り、相模で入水した妃を悼んで「あづまはや」と嘆いたため、ここを「あづま」と呼んだといいます(古事記では相模の足柄坂)。律令制においては碓氷より東の東山道諸国を「山東」と呼び、足柄より東の東海道諸国を「坂東」と呼びましたが、奈良時代には両者が合わさって「坂東」と総称されるようになりました。坂東を関東と呼ぶのは室町時代以後のことです。

 古墳時代において、現在の群馬県と栃木県(那須地域を除く)を合わせた地域は「毛野けの」と総称されました。西のヤマトに近い方が上毛野(かみつ・けの)、遠い方が下毛野(しもつ・けの)で、のちに上野(こうずけ)と下野(しもつけ)と省略転訛しました。この毛野国には多数の古墳が築かれ、多数の牧が設置されています。

 日本書紀によれば、上毛野君・下毛野君の祖は崇神天皇の皇子・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)です。父は彼と弟・活目入彦のどちらを後継者にすべきか悩み、彼らの見た夢を聞いて占うことにしました。兄は「私は御諸山(三輪山)に登り、東へ向かって矛や太刀を振り回す夢を見ました」と告げますが、弟は「私は御諸山に登り、縄を四方に張って雀を追い払う夢を見ました」と告げます。父は弟の方が国を保つのには向いていると考え、彼を跡継ぎ(垂仁天皇)とし、豊城入彦には東国を治めよと命じました。

 しかし日本書紀による限り、彼本人は東国に赴任していません。景行天皇の皇子ヤマトタケルが東国遠征から戻ることなく没したのち、豊城入彦命の孫の彦狭島王は景行天皇55年に東山道十五国都督に任命されますが、春日の穴咋邑(奈良市穴吹神社か)で病死し、彼の息子・御諸別命が東国に赴任したといいます。群馬県前橋市には4世紀中頃から巨大古墳が出現するため、これらは上毛野氏らの墳墓と考えられています。

 5世紀には毛野における古墳の大型化が進み、5世紀中頃には東日本最大の古墳である太田天神山古墳(墳丘長210m)が出現します。日本最大(かつ世界最大級)の古墳である大阪の大仙陵古墳(伝仁徳陵、525m)には遥かに及ばず、第2位の誉田御廟山古墳(伝応神陵、425m)の半分ほどの大きさですが、東日本において墳丘長が200mを超える古墳はここだけです。築造には畿内の巨大古墳と同じ様式が見られ、ヤマト王権との密接な関係が伺われます。その後も毛野には多くの古墳が築かれました。

 これほどまでに毛野が栄えた理由は、当然ウマを多数飼育・供給し、ヤマト王権を軍事力によって支えていたからです。関東平野の北部を占め、山と草原と河川に恵まれ、水田稲作より畑作に向いていたこの地は、ウマの牧を置くのにうってつけでした。後世には勅旨牧のうち9つが上野国に置かれています。前橋市・高崎市・渋川市などを含む領域を古代には車評(くるまのこおり)といい、713年には好字二文字に変えられ「群馬(くるま)郡」とされましたが、この字の選びもここに馬の群れがいたからでしょう。いま上野国を群馬県というのは、群馬郡の前橋に県庁が置かれたからです。

上野国の勅旨牧
 利刈 :渋川市北牧・南牧か
 有馬島:渋川市有馬
 沼尾 :吾妻郡長野原町羽根尾か(諸説あり) 沼尾川流域
 拝志 :渋川市赤城町(林庄)
 久野 :沼田市上久屋町・下久屋町
 市代 :中之条町市城
 大藍 :沼田市白沢町尾合
 塩山 :甘楽郡南牧村大塩沢
 新屋 :甘楽郡甘楽町

 上毛野氏は武人揃いでした。神功皇后の新羅征伐に際しては荒田別・鹿我別という武将が随行し、応神天皇の時には百済から博士の王仁を連れ帰っています。荒田別の子の竹葉瀬と田道も仁徳天皇の時に新羅と戦い、田道は蝦夷討伐に派遣されましたが戦死しています。7世紀前半、舒明天皇の時にも上毛野形名が蝦夷と戦っていますし、上毛野稚子は663年に前将軍として新羅へ派遣され、白村江の戦いに参戦しています。こうした功績もあり、上毛野氏・下毛野氏はその後も中央の中級貴族としても活動しました。

 8世紀に入ると、倭国改め日本国は東北地方に住まう蝦夷を服属させるための軍事行動を開始します。上毛野氏・下毛野氏ら坂東の豪族や、帰る国を失った渡来・帰化人もこれに加わり、軍事や開墾のためにウマが盛んに育成されます。次回は東国と蝦夷とウマの関係について見ていきましょう。

◆群◆

◆馬◆

【続く】

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