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【つの版】ウマと人類史EX35:頼朝挙兵

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 治承3年(1179年)のクーデターにより、平清盛は反抗した後白河院を幽閉し、朝政を単独で牛耳ります。翌年には以仁王と源頼政らが平家討伐を呼びかけて挙兵しますが、衆寡敵せず討ち取られます。しかし彼らが点けた火は天下に燃え広がり、平氏政権を打倒する原動力となりました。世に名高い源平合戦、治承・寿永の乱の始まりです。

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伊豆流人

 平治の乱で敗れた源義朝には多くの妻妾と子らがいましたが、嫡男の義平は処刑されており、次男の朝長は父とともに東国へ逃げる途中で死んでいるため、生き残った義朝の子らのうち最年長なのは三男の頼朝です。

 義朝の四男の義門は平治の乱ののち行方知れずとなり(戦死?)、五男の希義は土佐国に流され、六男の範頼は遠江国に隠れ、七男の全成は醍醐寺、八男の義円(乙若丸)は園城寺、九男の義経(牛若丸)は鞍馬寺に預けられました。ただし義経は1174年に奥州平泉へ出奔し、奥州藤原氏の庇護のもとで育っています。義朝の弟たちは多くが処刑され、剛勇で知られた為朝も1170年に伊豆大島で反乱を起こして処刑されています。

 平治の乱の後、14歳の頼朝は伊豆国へ流されます。流人とはいえ、坂東において頼朝は父・義朝らの名声もあって名士として扱われました。当時の伊豆国守は頼政の子・仲綱ですし、頼朝の乳母・比企尼の夫は武蔵国比企郡の武士で、妻とともに頼朝の衣食の世話をしています。比企尼の娘婿らも頼朝に仕え、頼朝は周辺の武家の巻狩りに参加するなど比較的自由でした。

 しかし『吾妻鑑』によれば安元元年(1175年)9月、伊豆の豪族・伊東祐親頼朝を殺害しようとしました。祐親の子・祐清は比企尼の娘婿であったため、これを頼朝に密告し、頼朝は走湯権現に逃げたとあります。『曽我物語』等によると頼朝が祐親の娘と密通して男児を儲けたためといいますが、真偽の程は明らかでありません。頼朝は祐親の娘婿である北条時政のもとへ身を寄せ、治承元年(1177年)頃に時政の娘・政子を娶りました。

 北条氏は伊豆国田方郡北条を本拠地とする中小規模の豪族で、桓武平氏国香流の平直方の子孫と称しましたが怪しく、時政の前半生以前も謎に包まれています。保延4年(1138年)の生まれといいますからこの頃には40歳ほどで、嫡男の宗時、長女の政子、次男の義時、三男の時房らが生まれていましたが、妻(祐親の娘ないし妹)を亡くしていたらしく、祐親との仲は微妙だったようです。結局祐親は頼朝を殺すことを断念し、出家入道しました。

 また、時政はこの頃に後妻として駿河国大岡牧(現静岡県沼津市)の荘官であるまきの娘を娶っています。牧氏は藤原北家傍流と思われ、時政の舅となった宗親は平清盛の異母弟・頼盛に仕えた人物です。頼盛の実母で清盛の継母にあたる池禅尼の弟ではないかともいい、京都と太いパイプを持っていました。時政は彼の娘婿として大岡牧の地頭(現地管理者)となり、伊東祐親に対抗できるほどのパワーを手にしたのです。ただ時政と牧氏との婚姻はこれより後のことではないかともされます。

頼朝挙兵

 治承4年(1180年)4月末、頼朝の叔父・行家が伊豆国に現れ、例の「以仁王の令旨」を頼朝に届けました。しかし流人に過ぎぬ頼朝には挙兵しようにも手勢がなく、以仁王と頼政も5月には敗死してしまいます。ただ伊豆国守であった仲綱も父・頼政に従って死んだため、清盛は6月に義弟(妻の弟)の平時忠に頼政の知行国であった伊豆を与え、時忠の猶子・時兼を伊豆国守に、時忠の部下・平兼隆(山木兼隆)を伊豆目代(代官)に任じます。

 兼隆は桓武平氏国香流の常陸平氏嫡流・大掾だいじょう氏の裔で、治承3年に罪を得て伊豆に流されていましたが、時忠の口利きで目代に取り立てられた人物です。彼は北条氏と同じ田方郡に本拠地を持つ地方豪族・堤信遠を後見人としており、頼朝の後見人である北条氏と対立します。また兼隆は仲綱の子・有綱が伊豆に潜伏しているのを捉えるよう命じ、頼朝にも反乱の疑いがかけられます。頼朝は挙兵を決意し、時政らと謀議して近隣の武家を味方につけ、8月に韮山の山木館を襲撃して兼隆・信遠を討ち取ります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E6%B2%BB%E6%89%BF4%E5%B9%B4%E3%81%AE%E9%96%A2%E6%9D%B1.png

 田方郡を制圧した頼朝らは、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)に移動します。ここは頼朝派の武士・土肥実平の所領で、東の三浦半島に本拠を持つ三浦氏との合流を図ります。しかし平家側の大庭景親・熊谷直実らが頼朝を討伐すべく攻め寄せ、伊東祐親も平家側について頼朝勢の背後を脅かしました。頼朝らは石橋山に布陣して三浦氏の増援を待ちますが、大雨により川が増水して三浦氏は間に合わず、頼朝勢は惨敗を喫してしまいます。

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 この敗戦で工藤茂光、佐奈田与一、北条宗時らが戦死し、時政と義時は甲斐国へ逃げ、頼朝は土肥実平ら僅かな手勢とともに海路で安房国へ逃走しました。三浦勢は頼朝の敗北を聞いて引き返しますが、鎌倉の由比ヶ浜で畠山重忠率いる軍勢と合戦になり、双方に被害を出しながら撤退します。頼朝の挙兵は呆気なく鎮圧されたかに見えましたが、彼は房総半島で再起します。

坂東制圧

 8月末に安房国に辿り着いた頼朝は、父・義朝の家人であった安西景益に迎え入れられ、安房・上総・下総の豪族たちに反平家のため軍勢に加わるよう呼びかけます。これに応じたのが上総広常千葉常胤らでした。上総氏と千葉氏は平忠常の末裔で、河内源氏とは頼信以来の縁があります。また前年に上総介に任じられた平家の家人・伊藤忠清は広常と対立していました。

 彼らを含め、坂東には平良文の末裔と称する氏族が大勢いました。相模の三浦・鎌倉・長尾・大庭・梶原・土肥、武蔵の秩父・畠山、下総の相馬も良文流です。特に上総・千葉の両氏は有力で、上総国と下総国の大部分を領有する大豪族でしたが、領地を巡って互いに争っていました。

 千葉常胤は9月に挙兵して下総国府(現千葉県市川市)を攻め、目代らを殺害します。頼朝は安房を出て下総国府に入り、常胤の歓迎を受けました。続いて下総と武蔵の境の隅田川に赴くと、上総広常が大軍を率いて参陣し、畠山重忠ら武蔵の豪族も続々と頼朝のもとへ集いました。頼朝の軍勢は数万に膨れ上がり、10月に頼朝は父祖伝来の所領である相模国鎌倉へ入って本拠地と定めます。坂東の武士団が義朝の子・頼朝を奉じる形で、坂東に反平家政権が誕生したのです。同時期には全国各地で同様の反平家勢力による武装蜂起が勃発しており、平氏政権は鎮圧のために奔走することとなります。

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【続く】

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