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【つの版】ウマと人類史EX08:倭地入馬

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 古代チャイナでは西方から伝来した二輪戦車が戦場の花形として活躍しましたが、戦国時代末期からは騎兵が取って代わります。ただ優秀な騎兵戦力を大量に動員できるモンゴル高原の騎馬遊牧民に対しては劣勢に立たされ、しばしば征服されています。それについては長々と見てきましたね。

◆帽◆

◆子◆

絹馬貿易

 秦の滅亡後にチャイナを再統一したは、北方の騎馬遊牧民の帝国・匈奴に敗れ、服属することになります。漢は毎年食糧やなどを匈奴へ貢納し、長城を境として交易を行いました。匈奴からは羊やウマが交易商品として輸出され、絹を西域諸国へ転売して利ざやを稼いでいます。これが有名なシルクロード(絹の道)の始まりで、チャイナとの間では絹とウマが主に取引されたことからこれを「絹馬交易」と呼びます。

 のち漢は武帝の時に匈奴から西域を奪い、西域のウマ(汗血馬)や商品を直接輸入して匈奴を干上がらせます。衰えた匈奴は分裂して漢に服属し、代わりに勃興した烏桓や鮮卑を防ぐこととなりました。漢もあまりの大事業によってガタが来ており、両国は衰えながらも存続します。しかし漢は内乱によって滅亡し、続く魏晋も弱体で、匈奴や鮮卑は晋の内乱に乗じて華北を征服し、独立政権を各地に打ち立てます(五胡十六国)。日本列島にウマが伝来したのはようやくこの頃でした。

倭地入馬

『三国志』東夷伝によると、マンチュリアの夫余や挹婁、高句麗などではウマが飼育されています。夫余では名馬を産出しますが、高句麗のウマは小柄で山を登るのに向いており、濊(朝鮮半島東部)では「果下馬」という小柄なウマ(ポニー)を産するといいます。これは成長しても体高が三尺(1メートルほど)にしかならず、人が乗ったまま果樹の下を潜り抜けることができることからそう呼ばれます。朝鮮半島のみならず雲南や四川、広西などにもおり、丈夫で大人しく、乗用馬や荷馬として利用されました。

 朝鮮半島の南西部を「馬韓」といいますが、その地の住民は牛馬を飼育していても乗ることを知らず、葬式の時に犠牲として捧げています。馬韓の南東には辰韓と弁韓(弁辰)があり、倭地と地理的に最も近い地域ですが、そこでは牛馬に乗ることが行われています。この地の住民は秦や漢から亡命して来たチャイニーズとされ、燕や斉で使われていた古いチャイナ語を話していますから、牛馬に乗ることもチャイナから持ち込まれたのでしょう。

 しかし倭は「其地無牛馬」と記されており、3世紀にはまだ牛馬がいませんでした。海を挟んだ弁韓には牛馬がいるのですから、交易によって多少は持ち込まれたかも知れませんが、少なくとも漢魏晋の使節は記録していません。邪馬台国とか都市牛利とか地名や人名に牛馬の字が使われているのは当て字に過ぎず、日本列島/倭地に牛馬が入ってきたのは4世紀後半からです。

 高句麗の『好太王碑文』によれば辛卯年(西暦391年)、倭が海を渡って百済や新羅を破り臣民とした、とあります。前に詳しく見たように、これは百済や任那・加羅(弁韓)が高句麗と新羅に圧迫されたため、友好国である倭国に救援を求めたことによります。大挙して朝鮮半島南部に上陸した倭人らは、新羅は屈服させたものの高句麗の軍事力には敵わず、苦戦を余儀なくされます。新羅は結局高句麗側に戻り、百済は倭国や東晋を後ろ盾にして、なんとか独立を保ちました。

 倭地にはこの頃から牛馬が初めて出現し、耕作や一部の貴人の乗用に用いられ始めます。それらは「遊牧騎馬民族」が征服王朝として持ち込んだものではなく、倭国の支配層が奪い取ってきたものです。

 それが証拠に、倭国・日本には遊牧の伝統が全く根付いていません。馬を去勢する知識すらなく、羊も近代ですら珍獣扱いです。馬具は当時の百済から伝わった最新ファッションでステータスシンボルでしたが、戦争で騎兵が運用された形跡がなく、記紀にも馬に乗って戦う英雄がいません。ヤマトタケルも馬に乗ったかも知れませんが、船に乗った話はたくさんあっても、馬に関しては一言も触れていません。スサノオは馬の生皮を剥いで投げ込んでいますが、神代の話ですから後世の造作です。

 牛(うし)の語源は韓語の「ソ(sjo)」と思われ、古くは「うじ」と呼んだようです。馬(うま)は古くは「むま」と訓じますが、韓語mal、満洲語morin、モンゴル語morj、上古漢音*mˤraʔ のような r 音がつかないため、中古漢語の「馬(mˠaX)」が直接伝わったものと考えられます。高句麗にも百済にも新羅や三韓にも、夫余や漢人や匈奴や鮮卑が牛馬を飼う文化を持ち込んでいました。また3世紀から4世紀には大勢の胡人が奴隷として取引されており、牛馬の世話をしていたことが晋書に書かれています。倭国に持ち込まれた牛馬の文化は、そうした人々によるものに過ぎません。

 また『日本書紀』応神紀によると応神15年8月、百済の王が阿直岐(あちき)という人を遣わして良馬二匹を貢納しました。応神天皇は阿直岐に命じてこれを軽坂の上の厩で飼育させ、これによってそこは厩坂(うまやさか)と呼ばれるようになったといいます。これは現奈良県橿原市の石川町・大軽町にあたり、舒明天皇の時代にはここに厩坂宮が置かれました。倭人はこれまで牛馬を飼育した経験がありませんから、まずは渡来人/帰化人によって倭地での牛馬の飼育が行われたのです。百済としても援軍の倭人がウマを知らないでは戦力として不安ですから、戦闘兵器を訓練させるつもりでウマの世話係ごと貸し与えたのかも知れません。

 ウマの飼育は急速に倭地に広がり、山梨県甲府市塩部遺跡では4世紀後半の方形周溝墓からウマの歯が出土しています。これは日本最古級のウマの出土例です。倭王や豪族、渡来/帰化人は各地に墳墓を建設し、軍事力の象徴であるウマやその模造品(埴輪)、馬具などを副葬し始めました。

倭馬繁殖

 朝鮮半島から渡って来たウマは、まず対馬に上陸することになります。対馬には「対州馬」と呼ばれる在来馬がおり、日本在来馬(和種)の中では最も古いタイプと思われます。その体高は125cm前後ほどで、性質は大人しく従順であり、山ばかりの対馬では陸路で荷物を運搬するのに大変役立ちました。1952年には2408頭ほどもいましたが、急激に数を減らし、一時は25頭まで減少しました。現在は40頭ほどが対馬市の管理下で飼育されています。

 対馬からは壱岐を経て呼子へ渡ることになりますが、呼子の北西にはその名も馬渡島(まだらじま)という島があります。南北4km、東西5kmで佐賀県の離島では最も大きく、古代から人が住んでいました。島の名は伝説によれば「大陸から最初に馬が渡ってきた」ためといいます。またもとは斑島と書いたのを後から馬渡島としたとも、源義家の甥にあたる義俊が流されて来て改名したともいいます(義俊は史実では自決しているため伝説ですが)。

 また、古墳時代には対馬から壱岐を通らず、沖ノ島を経由して宗像へ上陸するルートが倭王権によって開拓されています。福岡県福津市津屋崎の渡半島には「神代に放ち給うた馬の牧跡」の言い伝えがあり、(まき)大明神が祀られているといいます。「まき」とは古くは「うまき(馬の柵)」といい、ウマを柵で囲んで飼育するための施設(牧場)です。

 倭地にはこうした牧が次々と作られ、倭王権や豪族の管理下に置かれました。九州では日向(現宮崎・鹿児島)、東国では信濃(長野)や甲斐(山梨)、毛野(群馬・栃木)などが優れたウマの産地とされ、多くの牧が設置されています。次回はこれら倭地のウマについて見ていきましょう。

◆埴◆

◆輪◆

【続く】

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