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【つの版】ウマと人類史EX24:清和源氏

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 将門が藤原忠平を私君としたように、秀郷や貞盛の家門も摂関家など朝廷の有力者を後ろ盾としていました。彼らと並び武門として権勢を誇ったのが源経基つねもとの家門、すなわち清和源氏の経基流です。

◆光◆

◆源氏◆


清和源氏

 平安京に遷都した桓武天皇は、現在まで続く皇室の直系の先祖にあたり、彼以外の子孫からは以後天皇が出ていません。彼の子らのうち三人が天皇となり(平城天皇・嵯峨天皇・淳和天皇)、葛原親王の子らは臣籍降下し桓武平氏の祖となりました。平城天皇は弟(嵯峨天皇)に譲位したのち平城京に都を戻そうとしますが失敗し(薬子の変)、子孫は在原氏となっています。

 嵯峨天皇は多数の皇子・皇女らを臣籍降下させてみなもとの朝臣あそんの氏姓を授け、嵯峨源氏の祖となりました。彼らは平安時代前期には公卿となり繁栄したものの、数代経つと勢力を失い、桓武平氏ともども地方に派遣されて中級官人や豪族、初期の武家となります。嵯峨天皇の子が仁明天皇、孫が文徳天皇、曾孫が清和天皇、玄孫が陽成天皇です。仁明・文徳・清和・陽成の子らも源氏や平氏を賜って臣籍降下しました。

 陽成天皇は母方の叔父で摂政の藤原基経もとつねと仲が悪く、元慶8年(884年)に退位させられ、仁明天皇の子・時康親王が擁立されて即位します(光孝天皇)。光孝天皇は在位3年で崩御しますが、その子孫は代々帝位を継承し(宇多天皇・醍醐天皇・朱雀天皇・村上天皇)、現在まで至っています。基経の子孫も代々天皇の姻族・摂関家として政権を握りました。平将門の私君・藤原忠平は基経の子にあたります。このため清和・陽成天皇の子孫は傍系皇族となり、中央の政界からは遠ざかりました。平高望が坂東に赴任したのもこの頃です。

 源経基は清和天皇の六男貞純さだずみ親王(873頃-916)の子で、母は文徳源氏の源能有(845-897)の娘です。従って彼は桓武天皇の玄孫の孫(六世孫)にあたり、桓武天皇の玄孫の子(五世孫)である将門より世代上は一つ下ですが、祖父が天皇なので皇室との近さでは上です。

『尊卑分脈』には応和元年(961年)に45歳で没したとあり、とすると父の死後の延喜17年(917年)の生まれで、武蔵介として赴任した承平8年(938年)には21歳の若造です。『勅撰作者部類』には天徳2年(958年)に45歳で没したとありますから、この場合は延喜14年(914年)の生まれです。誕生年は他にも寛平年間(889-898年)とするなど諸説あります。

 前述の通り、彼は武蔵権守・興世王の補佐官(介)として武蔵国に赴任しますが、平将門に敗れて京都に逃げ帰り、将門を謀反人として告発します。一旦は誣告として投獄されますが、将門が新皇を称すると釈放されて従五位下に叙せられ、征東大将軍・藤原忠文の副将として坂東へ派遣されます。しかし彼らが坂東に着く前に将門の乱は平定され、帰京しました。

 翌天慶4年(941年)には追捕凶賊使に任命され、小野好古の部下として藤原純友の乱の平定に派遣されます。しかし純友の乱も同年のうちに好古らによって鎮圧され、経基は純友の部下を捉えるにとどまりました。それでも功績によって武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めたといいます。武人としては惰弱でも、世渡りのうまさと政治力では将門より優れていたと言えるでしょう。

多田満仲

 経基には多くの子がおり、正妻の子らのうち長男を満仲みつなか、次男を満政みつまさ、三男を満季みつすえといいました。満仲らは父の後を継いで武官となり、摂関家に仕える中級貴族・官人・受領層として活動しています。天徳4年(960年)、平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使らとともに捜査を命じられたのが記録上の初出ですから、この頃には成人していたのでしょう。『扶桑略記』には「応和元年(961年)、前武蔵権守の源満仲の邸宅が強盗に襲撃された」とあり、自ら強盗の一味を捕縛しています。この犯人は醍醐天皇や清和天皇の皇孫であったといいます。

 のち左馬助となり、康保2年(965年)には村上天皇の鷹飼に任じられ、同4年(967年)に天皇が崩御すると、藤原千晴(秀郷の子)とともに伊勢固関使に任じられます。ただ千晴は源高明に仕え、満仲はその政敵である藤原摂関家に仕えていたため、皇位継承を巡って緊張していた京都を離れるのを嫌って辞退を申し出ます。結局は藤原氏の後押しで満仲のみが辞退を許され、千晴は伊勢へ派遣されました。源高明を守る軍事力を削いだわけです。

 前述の通り、安和2年(969年)の政変において彼は謀反の密告を行い、源高明を失脚させました。藤原千晴らは満季に捕縛されて隠岐に流されます。満仲は功績により正五位下に昇進し、摂津・越後・越前・伊予・陸奥などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て正四位下・鎮守府将軍に至りました。満仲の弟や一族もみな受領となり、一門は莫大な富を獲得しますが、嫉妬した者たちにより天延元年(973年)には左京一条にあった満仲の邸宅が襲撃され、放火されるという事件が起きています。

 これより前の天禄元年(970年)、満仲は摂津守であった時に住吉大神の託宣を受け、摂津国川辺郡北部の多田ただ(現兵庫県川西市)に居館を設けました。また居館付近に多田院という仏寺(現多田神社)を建立して祖廟とし、多田盆地一帯(川西市全域、猪名川町全域、宝塚市北部、三田市東部)を荘園として開発します。この多田荘は「御領九万八千町」という広大さで、銀や銅の鉱山をも含み、満仲の家門を支える経済基盤となりました。

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 地図を見ればわかりますが、ここは京都の南西に連なる北摂地域の西部にあたり、交通の要衝であるとともにウマの供給地です。畿内周辺に置かれた6つの近都牧のうち、摂津には半数の3つがあり、鳥養牧は大阪府摂津市、豊嶋牧は大阪府箕面市、為奈野牧は兵庫県伊丹市稲野に存在しましたが、箕面市も伊丹市も川西市に隣接しています。周囲を山々に囲まれ、中央を猪名川が流れて潤す多田盆地は、満仲一門が治める別天地となりました。満仲はこの地に多くの郎等を集めて武士団を形成し、畿内における拠点とします。

 平貞盛ら桓武平氏高望流の武者たちは遥か坂東に地盤を持ち、鎮守府将軍として奥羽にも影響力を及ぼしましたが、満仲一門は京都のすぐ近くに広大な地盤を所有し、武士団を率いることになったのです。当然中央政界とのパイプも太く、畿内の貴人を警備・護衛する「さぶらひ」として、坂東の東夷あずまえびすよりは格上とみなされたことでしょう。

寛和之変

 村上天皇の子・冷泉天皇は安和の変の直後に生前退位し、弟の守平親王が即位して円融天皇となりますが、彼も藤原兼家(師輔の子で道長の父)と対立した末、永観2年(984年)に生前退位します。跡を継いだのは冷泉天皇の子・師貞親王(花山天皇)でしたが、やはり兼家の圧力を受け、寛和元年(986年)に在位2年で退位・出家しました(寛和の変)。兼家は円融天皇と自らの娘・詮子の子である7歳の懐仁親王を擁立し(一条天皇)、摂政の座につきます。永祚元年(989年)には太政大臣に登り、翌年関白となりますが同年に薨去しました。

 歴史物語『大鏡』によると、花山天皇を宮中から連れ出したのは兼家の子・道兼で、彼を警護していたのは「なにがしといふ源氏の武者たち」だったといいますから、やはり満仲やその部下が政変に関わっていたようです。摂関家がいかに天皇の外戚として権威を持っていても、最終的に物を言うのは武力による脅しでした。満仲一門や貞盛一門は、こうした中央の武力請負業者としての立場を巡って争うことになります。

 翌永延元年(987年)、満仲は多田の邸宅において郎党16人、女房30余人とともに出家して満慶と称し、多田新発意しんぼちと呼ばれました。息子の説得で発心したとされますが、天皇を脅して退位させたことにケジメをつけたものでしょうか。時に満仲は60余歳といい、出家引退する年齢としても申し分はありませんが、とすると誕生年は60年遡っても927年で、父経基が10歳頃の子となります。経基が20歳で満仲を儲けたとすれば907年頃の生まれで将門よりやや年下となり、938年には31歳となります。

『尊卑分脈』では、満仲は延喜12年(912年)に生まれ、出家から10年後の長徳3年(997年)に87歳で没したとします。しかし同書では経基の生年が延喜17年(917年)となるため、満仲は父が生まれる5年前に誕生したことになり辻褄が合いません。927年生まれなら没年には70歳です。

 満仲には多くの子がおり、嫡男の頼光よりみつは父の所領を相続して摂津源氏の祖となりました。後世に酒吞童子退治の伝説で名高い人物です。また次男の頼親は大和源氏、三男の頼信は河内源氏の祖となり、藤原道長のもと最盛期を迎えた摂関家を後ろ盾として繁栄することとなります。

◆侍◆

◆侍◆

【続く】

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