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【つの版】ウマと人類史EX25:平忠常乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 源経基の子・満仲は摂津国多田荘に居を構え、畿内において武士団を形成し、藤原摂関家を後ろ盾として富と権勢を集めました。彼の子孫は武家源氏の名門となり、諸国の武士たちを従えていくことになります。

◆鬼◆

◆滅◆


摂津源氏

 満仲には多くの子がおり、嫡男の頼光よりみつは父の所領を相続して摂津源氏の祖となりました。後世に酒吞童子退治の伝説で名高い人物です。ただ酒吞童子伝説は南北朝時代以前に遡れず、1120年代に成立した『今昔物語集』には、頼光が春宮権大進とうぐうごんのだいしん(皇太子の御所に務める役人)の時に狐を射た話があるばかりです。この狐は妖怪ではなく春宮(皇太子)の邸宅の櫓で寝ていただけで、春宮の命令により頼光が見事に射殺したというだけです。

 頼光の生年は天暦2年(948年)ないし天暦8年(954年)で、父の満仲が927年生まれなら21歳か27歳頃に生まれています。母は嵯峨源氏の源すぐるの娘で、同母弟に頼平・源賢がいます。春宮権大進に任じられたのは寛和の変の後、花山天皇の異母弟の居貞親王(のちの三条天皇)が春宮となった寛和2年(986年)頃ですから、すでに32-38歳の壮年です。翌年には父満仲が出家引退し、頼光は家督と武士団を相続します。

 花山天皇を強制退位させ、その従弟で7歳の懐仁親王(一条天皇)を擁立した藤原兼家は、天皇の外祖父として実権を握り、摂政の座につきます。しかし兼家は正暦元年(990年)に薨去し、子の道隆・道兼は長徳元年(995年)に相次いで薨去したため、兼家の五男・道長が道隆の嫡男・伊周これちかを抑えて藤氏長者・右大臣・左近衛大将に任じられます。伊周は翌年失脚し、道長は左大臣に昇格、自らの娘・彰子を一条天皇に娶せました。

 伝説によれば酒吞童子退治はこの頃のこととされますが、11世紀末に編纂された歴史物語『栄花物語』には、長徳の政変に際して平維叙・維時(貞盛の養子)、弟の頼親らと伴に宮中の詰め所に動員されたとありますから、鬼退治をしている暇はありません。実際退治されたのは伊周というわけです。

 源頼光は道長の側近となり、正暦3年(992年)には従四位下・備前守・春宮大進に昇進し、長保3年(1001年)には正五位下・美濃守を兼務します。道長の日記『御堂関白記』にも頼光の記事が見え、京都一条にあった彼の邸宅に道長がしばしば訪問しています。

 寛弘8年(1011年)に一条天皇が崩御し居貞親王が即位(三条天皇)すると、60代の頼光は正四位下・但馬守に昇進し、昇殿を勅許され殿上人となります。三条天皇は長和5年(1016年)に退位し(翌年崩御)、一条天皇と藤原彰子の子・敦成あつひら親王が8歳で即位します(後一条天皇)。道長はついに父兼家と同じく自分の外孫を天皇としたのです。同年には摂政、翌年には従一位・太政大臣に任じられ、位人臣を極めました。

 寛仁2年(1018年)正月、道長は天皇の元服式を行ったのち太政大臣を辞任し、3月には娘・威子を天皇に娶せ、10月には中宮(皇后)とします。その日に道長は祝宴を開き、「この世をばわが世とぞ思ふ、望月の欠けたることもなしと思へば」という有名な歌を詠みました。公卿一同は返歌せずに唱和したといいます。道長は摂政・藤氏長者の座を長男・頼通にすでに譲っており、翌年には出家入道して行観と称しました。晩年は極楽往生を願って壮大な寺院(無量寿院・法成寺)を建立し、万寿4年末(1028年)に62歳で薨去しました。藤原摂関家による支配体制は頼通に受け継がれます。

 頼光は戦場に立つこともなく殿上人として朝廷に仕え、治安元年(1021年)に68歳ないし74歳で逝去しました。子の頼国、頼家らも受領や文人として活動し、娘らもみな貴族に嫁いでいます。武士団を率いて軍事力を保有してはいましたが、その長たる頼光らは文人貴族と化していたのです。

大和源氏

 史実の頼光に武勇伝が乏しいのに対し、異母弟の頼親・頼信には多くの武勇伝があります。彼らの母は藤原南家の中流貴族・致忠むねただの娘で、母の兄弟には武勇の士として名高い保昌やすまさ、盗賊として名高い保輔やすすけがいます。

 頼親は康保3年(966年)、頼信は安和元年(968年)の生まれといいますから、頼光より20歳近く年下です。ともに「武勇人」として盗賊の追捕を行い、検非違使・左兵衛尉・左衛門尉など武官を歴任し、ともに諸国の受領に任じられて富を蓄えました。また頼親は摂津国豊島てしま(現大阪府池田市全域、豊中市・箕面市の大部分、吹田市の一部)を父から所領として受け継ぎ、摂津守になることを望んでいましたが、「国内に居住し多大な所領を持つ者を国司とするのはどうか」と意見が出て認められませんでした。

 やむなく頼親は受領経験のある大和国に所領を求めますが、藤原氏の氏神や氏寺である春日大社・興福寺、東大寺など南都の寺社勢力と所領を巡って争います。また母方の叔父である藤原保昌が大和守になると彼とも対立し、寛仁元年(1017年)には保昌の郎党である清原致信むねのぶ(清少納言の兄)の邸宅を手下に襲撃させ、殺害する事件を起こしています。道長はこれを聞いて彼を「殺人上手」と日記に記していますが、流石に庇えず官職を解いています。その後も頼親らは大和国を騒がせ、晩年には土佐国へ流罪とされていますが、子孫は大和国に土着して大和源氏となりました。

河内源氏

 頼信は20歳頃の寛和3年(987年)に左兵衛少尉に任官されたのち、31歳頃の長保元年(999年)に上野介となりました。在任中、頼信は上野国碓氷郡(現群馬県高崎市八幡町・安中市板鼻付近)に摂関家領として荘園を設立します。これは八幡荘やはたのしょうといい、北は烏川、南は碓氷川に挟まれ、碓氷峠を越えて信濃から坂東へ出る辺りに位置する交通の要衝です。当然ウマの飼育にも適していました。

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 頼光・頼親は摂津や大和を拠点とし、畿内に地盤を持ちましたが、頼信とその子孫はここを拠点として坂東に地盤を持つこととなります。頼信はのち常陸介(1012年以前)・石見守(1019年)・陸奥鎮守府将軍(1023年)・伊勢守(1028年以前)を歴任しました。

 とはいえ京都とのパイプも必要ですから、頼信は畿内にも拠点を築いています。伝説によると寛仁4年(1020年)、52歳の頼信は河内守に任じられ(実際に任じられたのは最晩年ですが)河内国古市郡壺井(現大阪府羽曳野市東部)に居館を構え、白楽天の詩になぞらえて「香炉峰の館」と名付けました。のち菩提寺として通法寺が、氏神として壺井八幡宮が建立され、頼信の子孫は「河内源氏」と呼ばれるようになります。

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 ここは河内国と大和国を結ぶ竹内街道(現国道166号線)を抑える交通の要衝で、二上山と葛城山の間の竹内峠を扼することができ、西に石川、北に大和川が流れています。東の山々や西の川辺ではウマを飼うことができ、古墳時代には石川の西に伝応神天皇陵(誉田山古墳)をはじめ多くの古墳が築造されました。異母兄の頼光が摂津国に、同母兄の頼親が大和国に所領を持つように、頼信は河内国に基盤を置いたわけです。当然河内の所領が本拠地ですが、東国における地盤も武者やウマの供給地として不可欠でした。

平忠常乱

 藤原道長薨去から半年後の長元元年(1028年)6月、東国では平忠常の乱が勃発します。これは将門の乱とは異なり、3年に及ぶ大乱となりました。

 平忠常は良文の孫で、父の忠頼は将門の娘・春姫を娶って忠常を儲けたともいいます。生年は康保4年(967年)とも天延3年(975年)ともいい、頼信とほぼ同年代です。祖父と父の広大な所領を受け継いだ忠常は、下総国千葉郡(現千葉県千葉市・船橋市・習志野市・八千代市)を拠点として千葉四郎と名乗り、将門の如く頼通の弟・教通のりみちを私君とします。彼は将門と同じく坂東において傍若無人に振る舞い、受領の命令に従わず、租税も納めませんでした。

 長元元年(1028年)6月、忠常は安房国府(現千葉県南房総市府中か)を襲撃し、国司の平維忠(仁明平氏か)を焼き殺します。原因は不明ですが、将門と同じく国司との所領争いによるものでしょう。忠常はさらに上総国の国衙(現千葉県市原市)をも占領し、国人(土豪)たちはこれに呼応して武装蜂起し、反乱は房総三ヶ国に広まります。

 90年ぶりに起きた坂東の大乱を聞いて朝廷は驚愕し、議論の末に平維時の子・直方なおかたを追討使に任命します。維時は貞盛の養子の一人で、貞盛の弟・繁盛の孫にあたり、良文流平氏とは代々の対立関係にあります。また直方は関白・頼通の家人ですから、この機会に良文流や将門派の残党を討ち滅ぼし、坂東を平定しようという目論見でしょう。

高望―国香―貞盛
      繁盛―維将―維時―直方
   良将―将門―春姫
   良文―   忠頼―忠常

 忠常は私君・教通に密書を送って追討令の不当を訴えますが露見し、同年8月に追討軍が京を出発します。また直方の父・維時は上総介に、平公雅の孫・致方は武蔵守に、維衡の子・正輔は安房守に、源頼信は甲斐守に任じられ、忠常に圧力をかけました。しかし同じく追討使に任じられた中原成道は消極的で、母親の病を理由に美濃国に滞陣して進まず(1029年末に解任)、討伐軍は苦戦します。朝廷は東海道・東山道・北陸道の諸国へ忠常追討の官符を下しますが、将門の時のようには行かず、戦は長引きました。両軍は疲弊し、食糧を現地調達したため飢饉や疫病が起こります。

 長元3年(1030年)7月、平直方は召還されて追討使を解任され、9月には甲斐守・源頼信が従四位下・追討使に任じられます。頼信が忠常の子を連れて東国へ赴き説得を行うと、忠常は長元4年(1031年)春に出家して常安と称し、子らを率いて頼信に降伏しました。捕縛された忠常は京へ護送されますが、同年6月に美濃で病没し(享年64歳か)、その首は京都で晒されたのち家族に返され、子らは助命されています。忠常の子孫は千葉氏・上総氏を名乗り、その後も房総一帯に勢力を持ちました。

 戦わずして勝利した頼信は朝廷から高く評価され、翌年には美濃守、長元9年(1036年)には相模守となりました。永承2年(1047年)には従四位上・河内守となりますが、翌年80歳の高齢で逝去します。彼の子・頼義は父の残した武士団と地盤・名声を受け継ぎ、河内源氏をさらに発展させます。

◆東京◆

◆香堤◆

【続く】

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