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【つの版】ウマと人類史EX40:文治勅許

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 元暦2年(1185年)2月、源範頼率いる鎌倉軍は北部九州を制圧し、平家を瀬戸内海に封じ込めます。京都にいた源義経は寡兵を率いて摂津から阿波・讃岐へ向かい、平家の本拠地・屋島を奇襲して西へ撤退させます。平家は制海権を失って海上に漂流し、長門国の壇ノ浦で最後の時を迎えるのです。

◆平◆

◆家◆


平家滅亡

 讃岐を追われた平家軍は、安芸国厳島を経て長門国の赤間関(関門海峡)に浮かぶ彦島に逃亡しました。義経は朝廷や頼朝・範頼に報告した後、平家を討つべく兵船数十艘を徴発し、3月22日に出発します。周防を守っていた三浦義澄らは義経軍と合流し、海峡の東側に浮かぶ満珠島・干珠島に到着しました。『平家物語』によれば摂津・伊予・紀伊の水軍をあわせて840艘に達し、対する平家は本軍100艘、松浦党100艘、筑前遠賀郡の山鹿秀遠の300艘を加えて500艘であったといいます。総大将は平知盛でした。

 3月24日の正午頃、両軍は壇ノ浦で激突します。範頼も兵を率いて九州側に布陣し、平家の退路を断つとともに遠矢を射掛けて義経を支援しました。海戦に長けた平家軍は東へ向かう早い潮の流れに乗って船を操り、散々に矢を射掛けて義経軍を圧倒、義経軍は勢いに押されて満珠島・干珠島の沖合いまで追い込まれます。ところが午後には潮の向きが逆となり、義経軍は勢いに乗って反転攻勢を仕掛け、敵船に飛び乗って白兵戦に持ち込みます。

壇ノ浦の戦い

 ただ平家物語では「平家の船は汐に逢って出て来たる。源氏の船は汐に向かって押され」とあり、戦のさなかに「潮の流れが変わった」というのは、平家物語にも吾妻鏡にも玉葉にもありません。この説は大正3年(1914年)に歴史学者の黒坂勝美が唱えたもので、反論もありますがドラマチックではあるので現在では定説となっています。

 敗北を悟った平家一門は次々に入水し、清盛の妻・時子(二位尼)は安徳天皇および神器もろとも海中に沈みました。平家の総帥・宗盛も入水しますが泳ぎ回っているところを義経軍に捕らえられます。清盛以来の平家政権は滅亡し、以仁王の挙兵より6年近くに及んだ戦乱はひとまず終結します。

 三種の神器のうち、八咫鏡と八尺瓊勾玉は箱に入っていたため海上に浮かび上がり奪還されましたが、天叢雲剣(草薙剣)は二位尼が身に帯びて入水したためか浮かび上がらず、手を尽くして捜索されたものの見つかりませんでした。やむなく後鳥羽天皇は伊勢神宮から献上された剣を新たな神器としますが、このことは彼のコンプレックスとなったようです。草薙剣の本体は熱田神宮にあり、宮中のはその形代ですから良さそうなものですが。

文治地震

 4月4日、義経より京都に平氏討滅の報告が届くと、後白河院は坂東に使者を送り、頼朝の功績であると称賛します。25日には剣を除く神器が、翌26日には宗盛以下の捕虜たちが京都にもたらされ、27日には頼朝が従二位に叙されます。義仲討伐の功績により正四位下まで昇格してはいましたが、彼はついに三位を越えて公卿・殿上人に列せられたのです。従三位だと摂津源氏の頼政と同格ですし、正三位だと平治の乱の時の清盛と同じで、頼朝が不快に思うかも知れないと後白河院が配慮したと『玉葉』にあります。同日、後白河院は追討軍の総大将である義経を院御厩司に任じています。

 5月には捕虜たちの罪が決定され、6月に宗盛、その子の清宗、宗盛の弟の重衡(一ノ谷の戦いでの捕虜)が処刑されます。平時忠ら9名の貴族・僧侶らは(武家でないため)流罪とされました。なお義経は彼らの処刑前に鎌倉へ凱旋し、頼朝に対面しています。『吾妻鏡』などでは頼朝が義経の専横を嫌って鎌倉に入れることを拒んだとありますが、これは曲筆のようです。

 それからほどない7月9日、近江・畿内に大地震が発生します。家屋・寺社は多くが倒壊・破損し、琵琶湖の湖水が北側に溢れて湖岸が一時干上がり、宇治橋が落下して1人が溺死しました。前震は6月20日から数日間続き、余震は9月にまでおよび、東は美濃や三河、西は伯耆でも揺れが感じられたといいます。記録には誇張や風説も多いため被害の範囲は定かでありませんが、琵琶湖西岸断層地帯南部を震源とするようです。

 人々は平家の祟りではと恐れおののき、朝廷は8月14日に「文治」と改元しました。それで歴史上ではこれを文治地震といいます。また後白河院は平家による焼き討ちののち重源らの勧進で再建された東大寺の大仏開眼供養を自ら執り行い、天下の平穏を祈願しています。

義経謀叛

 しかし、世の戦乱はまだおさまりませんでした。頼朝の叔父・行家は義仲が討たれたのち京都に戻り、和泉・河内に割拠していましたが、頼朝は彼が不穏な動きをしているとして8月に追討命令を佐々木定綱に下します。恐れた行家は京都の義経に助けを求めました。

 義経は鎌倉から京都に戻ったのち、検非違使に留任されて畿内の治安維持にあたる一方、功績により伊予守に任官されていました。9月には頼朝から使者の梶原景季が義経のもとに派遣され、行家追討を命じられますが、義経は「同じ源氏で争うのもどうか」と拒みます。怒った頼朝は義経を討伐せよと家人の土佐坊昌俊に命じ、恐れた義経は後白河院に助けを求めます。

 後白河院は争いをやめるよう説得しますが、義経は10月17日に京都の自邸を襲撃してきた土佐坊昌俊を迎撃して捕縛し、後白河院に頼朝追討の院宣を求めます。軍事力を持った義経と行家に脅され、後白河院はやむなく院宣を出し、義経を四国の地頭、行家を九州の地頭に任命しました。しかし彼らのもとに集まる兵は少なく、頼朝は10月末に自ら兵を率いて鎌倉を出陣し、義経討伐に向かいます。11月3日、義経・行家らは戦わずして京都を捨て、海路で西国へ落ち延びんと図ります。義仲・平家の轍を踏んだわけです。

 義経らは200-300騎を率いて摂津へ向かいますが、太田頼基・多田行綱らに襲撃されて手勢を失い、密かに出港しますが暴風雨に遭って散り散りとなり、わずかな郎党や妾の静御前らとともに吉野山に潜伏しました。行家は和泉に潜伏し、義経を迎えようとしていた豊後の緒方惟栄も捕らえられます。しかし、頼朝は後白河院に対して態度を硬化させました。

文治勅許

 頼朝は状況報告を聞いて鎌倉へ戻りますが、舅の北条時政らを代官に任じて1000騎を授けて京都へ向かわせ、使者を派遣して朝廷に圧力をかけます。恐怖した後白河院と朝廷は、11月11日に義経・行家追捕の院宣を諸国に下しました。また15日には鎌倉に使者を送り「先の院宣は天魔のせいであり、出さねば義経が宮中で自刃すると脅したためである」と弁解しますが、頼朝は「私は朝敵を討滅し政務を返還する功績があったのに、かような院宣を出すとは何事か。このせいで諸国が疲弊し人民が滅亡するならば、日本国第一の大天狗(天魔)はそちらの他に誰がいるか」と糾弾します。

 11月24日、時政は兵を率いて上洛し、頼朝の怒りを告げて院・朝廷との交渉に入ります。28日、時政は義経らの追捕のためとして五畿内・山陰・山陽・南海・西海諸国に対する知行権を要求し、公領・私領(荘園)を問わず田地1反ごとに5升の兵粮を徴発する権限を与えるよう求め、勅許を賜いました。これはのちのいわゆる守護・地頭ではなく、国単位での兵粮徴収権や武士の動員権を持つ「国地頭くにじとう」を置くことを定めたもののようです。いわば国持ちの大名で、平家に続き頼朝率いる鎌倉の武家政権が、天下の軍政権を掌握することを認めさせるものでした。

 続いて12月には「天下の草創」として、院の近臣の解任、議奏公卿による朝政運営、九条兼実への内覧(事実上の関白)宣下など一連の朝政改革要求を突きつけます。兼実は摂関家の藤原忠通の子で、右大臣の位に20年間とどまり、平家や後白河院、義仲や義経・頼朝らとは距離を置いて中立的立場を保っていました。摂関家のうち近衛家は平家や後白河院と、松殿家は義仲と結んでいたため、残った兼実が頼朝に選ばれたようです。兼実は仰天して怯え、後白河院も側近の摂政・近衛基通(兼実の甥)を支持しましたが、翌文治2年(1186年)3月に基通は「頼朝追討の院宣を出させた張本人である」として失脚し、兼実が代わって摂政・藤氏長者となります。

 この間、時政は朝廷との政治折衝を行う一方、義経に代わって畿内周辺の治安維持にあたり(京都守護・七カ国地頭)、平氏の残党や義経らの捜索を行ってもいます。後白河院らは彼を気に入りましたが、頼朝は彼が義仲や義経にならぬよう4ヶ月で退任させ、義弟の一条能保を派遣して京都守護職を引き継がせています。同年5月には源行家が、6月には義経の娘婿で大和国宇陀に潜んでいた源有綱(頼政の孫)が討ち取られ、進退窮まった義経は文治3年(1187年)に伊勢・美濃を経て奥州藤原氏のもとへ逃げ込みます。頼朝は義経追討のため、ついに奥州藤原氏との合戦に挑むことになりました。

◆鎌◆

◆倉◆

【続く】

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