Sagesse Sauvage〜サジェス・ソヴァージュ〜 〜内気で開放的なクオリアと自由意志のフラクタル〜 5章&6章 13年前の佐藤ツヨシの思考

5 思考の自由者の自由意志のいかがわしさ - “ Do YOU Love Me ? ” he said.-

さて、ずいぶんと時間がかかってしまった が、ここまで辿り着くことができた。ここまで読み進んでくれたみんなに感謝したい。もう少しの間だけ、僕の話を読んでいってもらいたい。

「自分がどう世界を認識しているか」ということを≪クオリア≫によって、「自分を自分たらしめている何か」を≪フラクタル・アイデンティティ≫と≪コア・アイデンティティ≫によって、そして「自分の思考をどう世界につなげていくか」を≪三位一体モデル≫によって語ってきた 。ここからはさらに僕の主観を押し出して話を前に進ませていきたい。

僕はその場その場の雰囲気が結構好きで、話す内容もその場の雰囲気によって左右される。テレビや録音では感知できない場の雰囲気をクオリアが感じ取ることの高揚感が僕をトーキング・トランス の状態に持っていく。これが時として僕を制御不能の状態にさせることもあれば、ひとつの話を効果的に進める場合もある 。コア・アイデンティティや三位一体モデルでいうところの「父」が持つ話す内容の一貫した何かを、フラクタル・アイデンティティとして表出しているその場の僕が、クオリアによって感知した世界の上で話す。しかし、その状態が僕だけで、もしくは僕とその場、だけで出来上がっているのだろうか。僕という人間の意志は僕のみの所有物なのか。僕は何かある種の思考のフレームワーク(枠) の中で動いてはいないだろうか。フレームワークの連続体が立体になるように、思考のフレームワークの連続体が人間という立体 を作っているのだとしたら、僕という思考の立体型はある意味コピー&ペーストの産物である。思考の自由や、自由意志というものは実は案外、規定されてしまった何かを自分が選択しているだけなのかもしれない。

6 Saggese Sauvage ― その序に変えて ―

≪サジェス・ソヴァージュ≫とは、これまた大それたタイトルを掲げてしまった。フランスの思想家であるクロード・レヴィ・ストロースによる「パンセ・ソヴァージュ(野生の思考)」、日本のニューアカデミズムのブームの旗手である中沢新一 の「カイエソヴァージュ (野生のノート)」に続く、佐藤ツヨシの「サジェス・ソヴァージュ(野生の叡智)」である。おこがましいにも程がある。

でもいいんだ。決めたんだから。これをライフワークにするって決めたんだ 。お前、ちゃんと読んだのか、パンセソヴァージュもカイエソヴァージュも、と言われるとグゥの音も出ないのだが、僕がなぜそれでも「サジェス・ソヴァージュ」というタイトルに拘ったのか、ということをここでつらつらと述べていきたい。

6−1 野生の叡智、とは何か ― サジェス・ソヴァージュという野望 ―

サジェス・ソヴァージュという語感と、野生の叡智という言葉の持つ可能性を目の前にして、僕はタイトルを即決めしてしまった。しかし、ここまで述べてきたこととの関連性ももちろんあるわけで、それは何かと問われれば、「今ココで感じ、今ココで発信している自分が何者であるか、何かに規定されている何者かであるのか、という事よりも重要なのは、今ココで感じ、今ココで発信している自分そのものの重要性」である。たしかに、自分というものはフレームワークの中の人間かもしれない。しかし、そこで悩むよりも、そのことを頭に入れて認識しつつ、行動するということに僕ら一人ひとりが自信を持って生きて欲しいのである。サブゼミの中にいることが、何の意味をもっているか、ということは答えのないものである。サブゼミで成長する部分もあるのかもしれないが、別の活動でも同じだけ、いや、それ以上の成長だってできるかもしれない。しかし、現にサブゼミにいる僕らは今ココに存在しているわけであるから、その選択肢の結果を最大限に活用し、活動して欲しい。

その、何かのフィールドを選び取ったときの直感、主観を僕は「野生」という言葉に載せてみたいのである。フィールドという言葉には2〜4章で述べ、5章で結んだ言葉達がその中に包含されていることをもう一度確認して欲しい。そして、そのフィールドを選び取り実際にしなやかに動いている僕らの活動スタイルというのは、自分がどう認識しているのかによって規定され、自分が思うように世界は変化していく。主観的、直感的といえば、客観的でも合理的でも論理的でもなくネガティブなキーワードのようである。しかし、自分のフィールドを自分の住みやすいよう、愉しめるような姿に的確に掴み取っていく僕らの主観、直感というものの驚異の判断力は、一般に思われるほど危ない賭けではなく、むしろ、どんな科学計算よりも理知的なものなのではないだろうか。ここに僕は「叡智」という言葉を与えたいのである。

6−2 サジェス・ソヴァージュのはじまり ― おわりはひとつのスタート ―

論の最後の最後で、僕のライフワークが形成されてしまった。僕はこれからどこに向かっていくのだろう。それは僕にしかわからず、ぼくにもわからない旅の道のりである。「佐藤ツヨシの悪ふざけ」は一生モノの悪ふざけになりそうだ。サジェス・ソヴァージュをめぐる僕の旅がこうしてはじまった。一遍の詩の様に軽やかに紡ぐ予定だった僕の<サジェス・ソヴァージュ>は僕の考えをはるかに超えて壮大な物語になってしまった。途中で読むのを止めてしまった人がいれば、それは僕の力足らずなのだろう。いつかまた、みんなに読んでもらえるだけの魅力をもった≪サジェス・ソヴァージュ≫を紡いでいこう。それが僕に与えられた宿題だ。

最後まで読んでくれた皆様に感謝申し上げます。

参考文献

中沢新一「三位一体モデル」糸井重里事務所 2007年
茂木健一郎「クオリア入門」筑摩書房 2006年
茂木健一郎「脳の中の人生」中央公論新社 2005年
西平直「シュタイナー入門」講談社 1999年
山田ズーニー「考えるシート」講談社 2005年
横山雅彦「高校生のための論理思考トレーニング」筑摩書房 2006年

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