見出し画像

続・昔は「てれてれ法師」といったのか【てるてる坊主の呼び名をめぐって#11】

はじめに

 てるてる坊主の数ある別名のひとつ、「てれてれ」という語を用いた呼び名をめぐって、以前に整理・検討を試みたことがあります(★詳しくは文末に掲載した「昔は「てれてれ法師」といったのか【てるてる坊主の呼び名をめぐって#10】」参照)。
 「てれてれ」という語の新旧について言及している文献を整理するなかで、課題として浮かび上がってきたので以下の3点。

・てるてる坊主の最古の呼び名は「てれてれ法師(坊主)」なのか。
・もし最古ではないとしても、「てれてれ法師(坊主)」は古い呼び名なのか。
・「てれてれ法師(坊主)」という呼び名には地域的な偏りが見られるのか。

 これらの課題を明らかにすべく、以前に注目したのは、古今の辞書の説明文でした。引き続いて、本稿では辞書以外の文献に登場する「てれてれ」の具体的事例に目を向けてみましょう。辞書の記述の検討から得られた見通しをもとに、前掲した3つの課題について探ります。

1、「てれてれ」は最古の呼び名なのか

 1つめに、てるてる坊主の最古の呼び名は「てれてれ法師(坊主)」なのかという点をめぐって。
 天気や風習をテーマとした書物や週刊誌の記事などで、昭和30年(1955)ごろからあちこちで紹介されてきた説です。その発端はというと、わたしの管見の限りでは、昭和8年(1933)発行の『大百科事典』。その第18巻、「照々坊主(てるてるぼうず)」の項を引くと、「今ではてるてる坊主といふが、最も古い呼名は恐らくてれてれ●●●●法師であつたであらう」と記されています(傍点は引用者。以下同じ)[平凡社1933:183頁]。
 ただし、「てれてれ法師(坊主)」という呼び名が最古である点に触れたいずれの文献においても、その根拠は明示されていません。ならば、本稿ではまず、てるてる坊主の呼び名がわかる事例のなかから、可能な限り古いものを整理してみましょう。わたしの管見の及んだ限りで、古い順に10点並べたのが表1です。「てれてれ」は最古ではなく、5番目に位置しています(同じ音の繰り返しを表す踊り字(くの字点)は横書きできないため、本稿では「〳〵」と表記)。

 最も古い事例は、いまから360年以上さかのぼった寛文元年(1661)発行の句集『絲瓜草へちまぐさ』の「照つけ坊」(表1の❶)。あまり耳慣れない名前ですが、『江戸時代語辞典』(2008年)でてるてる坊主の別名として紹介されています。
 同様に❸の「日照り坊主」も、俳句に詠まれた語です。やはり、『江戸時代語辞典』でてるてる坊主の別名として紹介されています。
 しかしながら、この「照つけ坊」(❶)と「日照り坊主」(❸)はてるてる坊主ではない可能性があります。それらが、実は太陽の呼び名である可能性をかつて検討しました。太陽が照る様子に「坊」や「坊主」を付けて、親しみを込めて擬人化したのではないか、という見かたです(★詳しくは文末に掲載した「太陽とてるてる坊主のあいだ【てるてる坊主の呼び名をめぐって#9】」参照)。

 てるてる坊主であることがはっきり確実な最古の事例は❷。随筆『榊巷談苑』に記されている「照法師」です。ただし、「照」の読みかたは不明です。「てる」なのか「てり」なのか、はたまた「てれ」なのか。
 読みが明らかな最古の事例は❹の「てる〳〵●●●●法師」。享保12年(1727)発行の句集『篗纑輪わくかせわ』(11集、巻4)に登場します。そのあとが❺の「照れ〳〵●●●●法師」。❹から5年後、享保17年(1732)発行の句集『裏若葉』に登場します。
 続いて、読みかたが不明の「照々坊主」(❻)を挟んで、「照々法師てる〳〵ほふし」(❼)「照る〳〵」(❽)「てるてる法師」(❾)と、「てるてる」が並びます。そして、❿は「てり〳〵●●●●ほうす」で、「てりてり」の初出。
 整理してみると、わたしの管見の限りでは、読みかたが明らかなてるてる坊主の事例のなかで最古は「て」ではなく「て」。「てれてれ」は惜しくも2番目です。そして、その後てるてる坊主が続々と文献に登場しはじめた江戸時代中ごろ(18世紀)には、主流は「て」だったようです。

2、近世・近代の「てれてれ」事例

 次に2つめの課題、もし最古ではないとしても、「てれてれ法師(坊主)」は古い呼び名なのかという点をめぐって。
 かつて、古今の辞書を手がかりに検討したところ、「てれてれ」を主(メイン)に据えている例が2点見られました。江戸時代後期にあたる19世紀前半ごろ編まれた辞書1点と、明治45年(1912)に編まれた辞書1点です。
 すなわち、てるてる坊主の数ある呼び名のなかから「てれてれ」を主(メイン)と位置づけても、違和感なく受け入れられた時期があったようなのです。上記2点の辞書が編まれた、江戸時代後期から明治末期にかけてのことです。
 もとより、「てれてれ」という語に言及している辞書はたいへん数少ないものでした。そこで本稿では、辞書以外の「てれてれ」の具体的事例を整理・検討してみましょう。
 まずは、「てれてれ」の文献上の初出である江戸時代(近世)から、明治・大正を経て昭和前期(近代)にかけての事例をめぐって(★表2)。

 「てれてれ」の初出は先述した『裏若葉』の「照れ〳〵法師」(表1の❺、表2の①)。享保17年(1732)に発行された句集に登場します。
 続く②と③は留保が必要です。②は①と同じく俳句に詠まれている事例。品川の遊郭を舞台として、雨に降られたので「照れ〳〵坊主」を作ったことと、遊女に振られて「照れ坊」になってしまったことが掛けてあります。
 「照れ坊」とは、決まりが悪く恥ずかしい思いをしているひとのこと。「照れ坊」という語に寄せるために若干の無理をして、てるてる坊主を「照れ〳〵坊主」と呼んでいる可能性があります。
 また、③は幕末に江戸の街で見られた風変わりな人びとを列挙したなかで、「照々坊主(てれ〳〵ばうず)」と呼ばれた乞食僧が紹介されています(★詳しくは文末に掲載した「銭をもらう「てれてれ坊主」【てるてるmem#9】」参照)。

 このほかの④~⑬の10例は、本稿で注目しておきたい、まじないの人形であるてるてる坊主の呼び名として「てれてれ」が用いられている事例です。年代としては、明治末期から大正を経て昭和前期まで。この時期、「てれてれ」のついた呼び名が思いがけず頻繁に使われていたことがわかります。
 ④~⑬の10例のうち、⑩を除いた9例が「テレテレ(テレ〳〵)」とカタカナ表記であるのが目立ちます。そして、後半はすべて「法師」ではなく「坊主(ボウズ)」。
 注目したいのが⑫の『実力成長小学国語読本の教授』(尋常科用 巻2)です。昭和8年(1933)の発行で、著者は坂本豊(1899-2002)。同年に発行されて全国の尋常小学校1年生が用いた『小学国語読本』(通称「サクラ読本」)の解説書です。
 『小学国語読本』では、「アシタ ハ エンソク」というお話のなかにてるてる坊主が登場します。表記は「テバウズ」。『小学国語読本』記載のいくつかの語句について⑫で解説が付されており、「テルテルバウズ」については「テバウズの訛」と説明されています[坂本1933:53頁]。
 すなわち、主流な呼び名は「テバウズ」であり、『小学国語読本』記載の「テバウズ」という呼びかたは「訛」に過ぎないとする見解が示されているのです。

3、現代の「てれてれ」事例

 続いて、昭和中期以降(現代)の事例をめぐって。この時期の「てれてれ」16例のうち、まじないの人形であるてるてる坊主の呼び名として用いられているのは、半数以下の7例に過ぎません。そのほかの9例では、たとえやパロディとして用いられている例が目立ちます(★表3)。

 たとえやパロディである9例の内訳に簡単に触れておきましょう。最も多いのは、先述した②と同様に「照れ坊」あるいは「照れ屋」のたとえに使われている事例で4例を数えます(⑯⑰⑱⑲)。いずれも昭和37年(1962)に集中しているのは不思議です。
 そのほか、ペンネームとして2例(㉒㉔)、漫画やアニメのキャラクターとして2例(㉓㉙)。残る㉗では、日本テレビが略称の「日テレ」をもじって「日本テレテレ坊主製作所」と呼ばれています。

 いっぽう、てるてる坊主の呼び名として用いられている7例の内訳はどうでしょうか。⑭⑳㉕の3例では雑誌記事や解説文の説明のなかで、てるてる坊主の別名の1つとして「てれてれ坊主(ぼーず、ぼうし)」が挙げられています。
 また、㉑と㉘は小説や短歌といった文芸作品における表現の工夫であり、やはり留保が必要でしょう。
 前者の㉑は小説。「二つになつた孫」が「まわらぬ口で」「あど気なく」歌うなかに「テレテレボーズ」が登場します。あどけなさを表現するために、わざとてるてる坊主ではなく「テレテレボーズ」が使われている可能性があります。
 後者の㉘は短歌。呂律ろれつが回らないもどかしさを表現すべく、「てらてりてるてる」と回り道をしたあとに、「てれてれ坊主」が登場しています。巧みな言葉遊びと言えるでしょうか。
 そして、⑮も同じく短歌ですが、㉘のような言葉遊びではなくおそらく無意識に、てるてる坊主の別名として「照れ照れ坊主」が用いられています。昭和35年(1960)の事例です。
 注目したいのは残る1例の㉖。雑誌に掲載されている日記とその批評文です。日記には「モグラの人形をテレテレボウズのかわりにぶらさげようかな」と綴られており、それを批評したなかで「テボウズをテボウズとしてあるのは、あきらかにカナづかいのまちがい」と指摘されています[『小説新潮』1992:210、212頁]。
 「テレテレボウズ」と日記に綴ったのは、イラストレーターの沢野公(さわのひとし。1944-)。評者は小説家の椎名誠(1944-)。この日記が誌上に掲載された平成4年(1992)当時、てるてる坊主の呼び名として「てれてれ」を使おうものなら、「あきらかにカナづかいのまちがい」と見なされてしまったことがわかります。

4、「てれてれ」と呼ぶ地域

 3つめに、「てれてれ法師(坊主)」という呼び名には地域的な偏りが見られるのかという点をめぐって。
 以前に明らかにしたのは2例。1つは『岩手日報』の昭和33年(1958)の連載記事のなかに「テレテレ法師(法主)」と記載されている例。もう1つは、平成13年(2001)発行の『日本国語大辞典』(第2版)の「照照坊主」の項に、鳥取の方言で「テレテレボーズ」と呼ぶことが明記されている例でした。
 本稿で紹介した文献のなかでも、たとえば雑誌記事㉕に「てるてる坊主」をめぐって、「地方●●によっては〝てりてりぼーし〝〝てれてれ●●●●ぼーず〝と呼んでいる」と記されています[『週刊文春』1990:115頁]。平成2年(1990)発行の『週刊文春』(32巻23号)に掲載された、評論家・ひろさちや(1936-2022)の連載「私家版歳時記」に見られる記述です。ただし、「地方」とは具体的にどこを指すのかは明示されていません。
 地域が明記されているのは2例。1つは、各地の伝説や風習を集めた雑誌『旅と伝説』から。昭和11年(1936)発行の『旅と伝説』(第9年12)に、国井重三が「播州加東郡市場村附近の呪文歌と呪」を寄せています(⑬)。「播州加東郡市場村」は現在の兵庫県小野市。当地に伝わる、日照を乞うまじないの歌に「テレテレ坊主」が登場します。
 もう1つは、昭和42年(1967)発行の『黄木の詩』から(⑳)。滝石登鯉のぼり(1892-1971)の漢詩集です。詩の解説文のなかに「てりてり坊主(土佐ではてれてれ●●●●坊主という)」と見えます。
 このほかにも、てるてる坊主の呼び名として「てれてれ」が使われている文献18例のなかには、著者の生まれ育った土地や当時の居住地がわかるものが9例あります(★表4)。

 東京や名古屋といった例もあるものの、目立つのはそうした大都市圏以外の地域。前掲した例も含めると、東のほうでは岩手・栃木、北陸では富山・福井、そのほか兵庫に2例、そして西のほうでは鳥取・島根・高知・長崎に見られます。

おわりに

 本稿のはじめに掲げた3つの課題について、もう一度整理してみましょう。
 1つめは、てるてる坊主の最古の呼び名は「てれてれ法師(坊主)」なのかという点。てるてる坊主の読みかたが明らかな最古の事例は、わたしの管見の限りでは、「てれてれ」ではなく「てるてる」。俳句に詠まれた享保12年(1727)の事例です。「てれてれ」の初登場はそれから5年後の享保17年。やはり俳句に詠まれた事例です。
 もとより、これらは文献上の事例に過ぎず、てるてる坊主の風習そのものは、記録に残る以前からもちろん見られたはずです。当初なんと呼ばれていたのかは依然として謎のまま。ひょっとすると、さらに古くは「てりびな」と呼ばれていたのではないか、という予感がしています(★詳しくは文末に掲載した「雛としてのてるてる坊主【てるてるmemo#6】」参照)。
 2つめは、「てれてれ法師(坊主)」は最古ではないとしても古い呼び名なのかという点。かつて、古今の辞書を手がかりに検討したところでは、江戸時代後期と明治末期に「てれてれ」を主(メイン)に据えている例を確認できました。
 それを踏まえつつ、本稿では辞書以外の文献にも目を向けたところ、てるてる坊主の呼び名に「てれてれ」が使われている例が目立つのは、明治末から大正期を経て昭和前期まで。1911~36年の四半世紀のあいだに多く見られます。
 3つめは、「てれてれ法師(坊主)」という呼び名には地域的な偏りが見られるのかという点。東日本の岩手から西日本の高知や長崎まで、日本列島各地に散見されました。とりわけ、大都市圏から離れた地域に目立ちます。
 ここで注目したいのが、民俗学者・柳田国男(1875-1962)が提唱した方言周圏論の考え。柳田によれば、言葉のかたちは文化の中心地で発生し、それが周辺へ同心円状に伝播していくといいます。そのため、言葉の古いかたちは中心から遠く離れた場所に残って分布するという考えです。
 先述したとおり、「てれてれ」を用いた呼び名は、多くが大都市圏から離れた地域に散見されます。柳田のいう文化の中心地を大都市圏と見立てるならば、そこから離れた地域に広く見られる「てれてれ」の分布は、呼び名としての古さを反映しているのかもしれません。

 本稿で注目してきた「てれてれ」という表現。かつて、わたしは「てれてれ」には「てるてる」よりも願望が強く表現されているのではないかと指摘しました。「てれてれ」が「照る」の命令形であるためです。しかしながら、いまはそうした考えが揺らいでいます。
 はたして、「てれてれ」は「てるてる」よりも強力な表現なのでしょうか。手がかりとしてここで想起したいのが催眠術師の唱え文句。ひとに催眠術をかける際に使われるのは、「眠くなれ」という命令形ではなく、「眠くなる」という終止形(現在進行形?)です。
 「眠くなれ」が言うまでもなく命令であるのに対して、「眠くなる」には当然そうなるだろうという自明性が感じられます。そうして暗示をかけて誘導しているのです。
 てるてる坊主の呼び名に関しても同様のことが言えるでしょうか。「てれてれ」に強い願いが込められているいっぽう、「てるてる」には当然に照るはずだから大丈夫だろうという信頼が感じられます。まじないの効力への期待度は、「てれてれ」より「てるてる」のほうが高そうです。

参考文献

・石川栄助「テルテル坊主」(『岩手日報』1958年3月31日付け。のちに『おりふしの記』(新岩手社、1962年)に所収)
・日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部〔編〕『日本国語大辞典』第9巻(第2版)、小学館、2001年(第1版第1巻は1972年)

【表1に関わるもの】(丸数字は表の№に対応。発行年のあとのカッコ内は掲載箇所の詳細。二重カッコ内は原典にあたることができなかったための参照元。以下同じ)
❶専庵道甘〔編〕『絲瓜草』、中野五郎左衛門、1661年(巻第4 夏部下「青梅」)
❷榊原玄輔『榊巷談苑』 ≪太田南畝〔編〕『三十輻』第1、国書刊行会、1917年(巻之2)≫
❸松月堂不角〔編〕『篗纑輪』、1727年(11集 巻3) ≪穎原退蔵〔著〕尾形仂〔編〕『江戸時代語辞典』、角川学芸出版、2008年≫
❹松月堂不角〔編〕『篗纑輪』、1727年(11集 巻4) ≪穎原退蔵〔著〕尾形仂〔編〕『江戸時代語辞典』、角川学芸出版、2008年≫
❺苔翁『裏若葉』、1732年 ≪鈴木勝忠〔編〕『雑俳語辞典』、東京堂出版、1968年≫
❻四時庵紀逸〔編〕『武玉川』、1753年(5編) ≪国書刊行会〔編〕『徳川文芸類聚』第11、1914-16年≫
❼自楽『地獄楽日記』、太田庄右衛門ほか、1755年(巻之2 第1) ≪古谷知新〔編〕『滑稽文学全集』第7巻、文芸書院、1918年≫
❽川柳〔評〕『万句合』、1758年(満) ≪石川一郎〔編〕『江戸文学俗信辞典』、東京堂出版、1989年≫
❾川柳〔評〕『万句合』、1761年(桜2) ≪石川一郎〔編〕『江戸文学俗信辞典』、東京堂出版、1989年≫
❿如露〔評〕『風丈・如露評万句合』、1762年 ≪鈴木勝忠『未刊雑俳資料』第43期、1968年(8「風丈・如露評万句合」)≫

【表2に関わるもの】
①苔翁『裏若葉』、1732年 ≪鈴木勝忠〔編〕『雑俳語辞典』、東京堂出版、1968年≫
②呉陵軒可有ほか〔編〕『誹風柳多留』41篇12丁、石井佐太郎ほか、1808年 ≪『近世文芸叢書』第9 川柳 下巻、国書刊行会、1911年≫
③岡本昆石〔著〕鮮斉永濯〔画〕『古今百風 吾妻余波』、森戸錫太郎、1879年
④福地桜痴『桜痴全集』中編、博文館、1911-12年(「人生X光線」)
⑤巌谷小波『お伽歌劇』、博文館、1912年(「テレ〳〵坊主」)
⑥『少年倶樂部』2(8)、大日本雄弁会講談社、1915年(小柴博「お伽巡講記」)
⑦初等教育研究会〔編〕『教育研究』178、初等教育研究会・不昧堂出版、1918年(飯田恒作「研究 綴らんとする心」)
⑧『金の船・金の星』2(7)、ほるぷ出版、1920年(奥江武夫「遠足」)
⑨巌谷小波『犬と猿 : お伽選集』、九段書房、1921年(「雨の卯太郎」)
⑩『小泉八雲全集』第六巻、第一書房、1926年(田部隆次「あとがき」)
⑪墨田勝『犀の如く : 詩集』、瀬尾書店、1930年(「拳闘」)
⑫坂本豊『実力成長小学国語読本の教授』尋常科用 巻2、明治図書、1933年(「第二学期の計画 第七週 国語指導計画 三、アシタハ ヱンソク」)
⑬『旅と伝説』第9年12、三元社、1936年(国井重三「播州加東郡市場村附近の呪文歌と呪」)

【表3に関わるもの】
⑭『大日光』13、日光東照宮、1959年(矢島清文「青龍神社祈晴のこと」)
⑮『心の花』64(1)、竹柏会、1960年(佐佐木由畿〔選〕「作品」)
⑯奥野信太郎ほか〔編〕『世界短篇文学全集』第2、集英社、1962年(アラン・シリトー〔著〕河野一郎〔訳〕「長距離走者の孤独」)
⑰『円卓』2(3)、南北社、1962年(内山順「断ちきれぬ思慕」)
⑱『円卓』2(5)、南北社、1962年(内山順「今様勧進帳」)
⑲『平凡』18(8)、マガジンハウス、1962年(古今亭志ん朝「こんないいヒトみたことない! その2」)
⑳滝石登鯉『黄木の詩』、高知広報社、1967年
㉑『日通文学』27(2)、日通ペンクラブ、1974年(南久子「私のお城」)
㉒『新日本文学』30(6)、新日本文学会、1975年(テレテレ坊主「時標 教育 運動は教育の母なのだ」)
㉓『週刊少女フレンド』16(31)、講談社、1978年(古賀アンナ「チンクルベル子!」)
㉔『平凡』43(5)、マガジンハウス、1987年(水谷麻里・松本国彦「笑った泣いた1年間ぜ~んぶ告白」)
㉕『週刊文春』32(23)、文芸春秋、1990年(ひろさちや「私家版歳時記」)
㉖『小説新潮』臨時増刊、新潮社、1992年(「克美荘日記」)
㉗『週刊文春』41(34)、文芸春秋、1999年(高橋春男「いわゆるひとつのチョーさん主義」)
㉘『潮音』86(8)、潮音社、2000年(「潮音集Ⅱ」)
㉙あきやまただし『はなかっぱ』、2006年~

#雨の日をたのしく

この記事が参加している募集

#名前の由来

7,891件

#雨の日をたのしく

17,049件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?