見出し画像

銭をもらう「てれてれ坊主」【てるてるmemo#9】

はじめに

 明治18年(1885)に『古今百風ここんひゃくふう 吾妻余波あずまなごり』と題された書物が出版されました。作者は岡本昆石こんせき(1852-1927)。
 江戸から東京へと名前を変えたころの当地の習俗が、ときには挿絵をまじえて幅広く記録されています。そのなかで「てれ〳〵ぼう」として紹介されている謎の人物に、本稿では注目してみましょう(★図1参照。同じ音の繰り返しを表す「くの字点」は横書きできないため、本稿では「〳〵」と表記)。

1、岡本昆石『吾妻余波』(1885年)

 岡本昆石は嘉永5年(1852)に江戸で生まれました。本名は経朝。明治元年(1862)から6年にかけて、明治維新の混乱を避けるように浜松(現在の静岡県)へ疎開していた時期を除き、江戸・東京に暮らしました。そして、自らが見聞きした江戸・東京の習俗を記録し続け、数多くの著作をのこしています。没年は昭和2年(1927)。
 『古今百風 吾妻余波』は昆石が33歳のころの著作です(以下、『吾妻余波』と略して表記)。出版元は東京の森戸錫太郎。表題のしたに「壱編」と付されていますが、続編が書かれることはなかったようです。
 同書で取り上げられているテーマはさまざま。女性の服装や髪形、子どもの言葉や遊びのほか、街角の看板、名物・銘菓などどれも興味深い内容が並んでいます。

2、幕末の江戸の「銭貰」

 そうしたなかの一節が「東都あづまぜにもらひ図寄づよせ」。英語も堪能だった昆石らしく、「THE KIND OF BEGGAR.」と副題が付いています。序文の概要は以下のとおり。

家々の門口に立ち、芸能や技を披露することで金銭を乞うような者は、概して「乞食」と呼ばれる。鳴りものを鳴らしたり、ものまねをしたりする者をはじめ、その種類は古今を通じて実にさまざまである。

 そうした遊行の芸能者たちをめぐり、「これまた当時たうじ風俗ふうぞくをあらはすをもつて、かきのこしおきぬ。」と記して、序文は結ばれています[岡本1885:46丁オモテ]。
 昆石のいう「当時の風俗」とはいつの時代のことを指すのか、明記はされていません。おそらくは、昆石の幼少期(10歳ころ浜松へ疎開する以前)に見た幕末の江戸(「東都あづま」)の習俗が、記憶を手繰り寄せつつ書きのこされているのでしょう。
 登場する「ぜにもらひ」は48種類。そのなかで、「ぐわんにんばう」や「なんきんばう」などと並んで、「てれ〳〵ぼう」が登場します。
 表題に「図寄づよせ」とあるとおり、48種類すべてに挿絵が付いています。挿絵を描いたのは浮世絵師・鮮斉永濯(1843-90)。天保14年(1843)の生まれなので、昆石より9歳ほど年上です。そして、生まれも育ちも江戸・東京であることから、作画にはやはり当地の習俗が色濃く反映されているはずです。

3、鮮斉永濯が描いた「照々坊主」

 前置きがたいへん長くなってしまいましたが、鮮斉永濯が描いた挿絵に注目してみましょう(★上記の図1(再掲)参照)。
 ふんどしを締めた裸の男が描かれています。腹のあたりにも、褌と同じ色の布を巻いているでしょうか。「てれ〳〵ぼう」という名のとおり、頭は坊主頭。ねじり鉢巻をしており、結んだ先は斜めうえに向かって角のように立っています。
 右手には白扇を開いて掲げ、左手には桶を提げています。昨今、墓参りのときに使うようなかたちの手桶です。桶は立派なたがで締められています。水が入っているのかどうかは確認できません。
 そして、なんといっても注目したいのは手桶に付いている白い物体。把手の部分にぶら下がっているのは、てるてる坊主ではありませんか!
白い頭に目鼻はなく、のっぺらぼう。紙か布を2枚重ねた着物を着ているようです。そでたもとのかたちは左右で異なり、向かって右側の袂は丸みを帯びています。
 昨今のてるてる坊主は、衣装のすそをヒラヒラさせた姿をしています。けれども、歴史を少しさかのぼってみると、長らくのあいだ、てるてる坊主はこうしたそでのある着物を着た姿が一般的でした(★下記の図2参照)。

4、「照々坊主」と「御日和坊主」

 本稿で紹介してきた『吾妻余波』記載の「てれ〳〵ぼう」とよく似た、「御日和坊主」という存在について、かつて紹介したことがあります(★詳しくは文末の「街を駆ける御日和坊主【てるてるmemo#5】」参照)。清水晴風(1851-1913)が著した『世渡よわたり風俗図会』にのこされた記録です。
 晴風は江戸生まれの玩具研究者。『吾妻余波』の作者・岡本昆石より1年早い生まれです。『世渡風俗図会』には、幕末から明治期にかけて江戸の街で見られた多彩な人びとの姿が描きとめられています。そのなかの1枚が「御日和坊主」(★下記の図3参照)。絵は無彩色です。

 「御日和坊主」について本稿では詳しく触れる余裕はありませんが、『世渡風俗図会』では「願人坊主」の一種であることが明記されています。願人坊主は江戸時代に江戸市中をまわって、門付けや大道芸をした乞食僧です。
 いっぽうの「てれ〳〵ぼう」も、先述のように『吾妻余波』では「ぜにもらひ」の一種として、「ぐわんにんばう」などと並んで紹介されています。やはり乞食僧と位置づけてまちがいないでしょう。

 幕末ごろ江戸の市中で見かけられた「てれ〳〵ぼう」と「御日和坊主」、両者を比べてみると、見た目にもいくつかの共通点があります(★上記の表1参照)。ともに名前のとおりの坊主頭に鉢巻をして、裸でふんどしを締めています。右手に白扇を持っている点も共通しています。

5、「照々坊主」の特徴

 逆に「てれ〳〵ぼう」と「御日和坊主」の相違点に着目することで、「てれ〳〵ぼう」の特徴も見えてきます。2点ほど挙げておきましょう。
 1つめに祈願の内容をめぐって。「御日和坊主」は「御日和〳〵」と唱えて祈祷をしながら、江戸の街をせわしく駆けまわっていたといいます。「御日和」とは空もようとかお天気のこと。すなわち、「御日和坊主」がおこなう祈祷には好い天気(好天)に恵まれるようにという願いが込められています。
 いっぽう、「てれ〳〵ぼう」に唱え文句があったのかどうかは、明記されておらずわかりません。ただ、名前から察するに、「てれ〳〵ぼう」に期待されたのは「(日が)照る」こと、すなわち日照でしょう。
 整理すると、「御日和坊主」は好天をもたらすと期待される存在、いっぽう、「てれ〳〵ぼう」は日照をもたらすと期待される存在、と位置づけることができそうです。そして、「御日和坊主」よりも「てれ〳〵ぼう」のほうが、晴天をもたらす存在である太陽に対して、直接的に働きかけている印象です。

 2つめに左手の持ち物をめぐって。「御日和坊主」は藁わらの銭緡ぜにさしに穴明き銭を連ねて提げています(★前掲した図3参照)。家々を門付けして集めた銭なのでしょう。
 いっぽう、「てれ〳〵ぼう」が手にしているのは、てるてる坊主の付いた手桶。
 昭和34年(1959)に、1回めの東京オリンピック開催決定を記念して、『吾妻余波』の復刻版が国際貿易観光協会から出版されました。書名は『吾妻余波』(傍点は筆者)。
 この復刻版には、原本に簡単な解説を加えた「解説版」も付されています。その「解説版」で「てれ〳〵ぼう」の項を見ると、「水をまき歩きながら銭を乞う」と説明されています[岡本・吾妻1959b:36頁]。
 前掲した挿絵を見る限りでは、「てれ〳〵ぼう」が水を撒いているのかどうか定かではありません。左手に持った手桶には、おそらく水が入っていたのでしょう。その水をすくって撒くためには、右手には柄杓が欲しいところですが、実際に手にしているのは柄杓ではなく扇です。

おわりに

 ともあれ、「てれ〳〵ぼう」は手にした手桶にてるてる坊主を付けています。まじないの人形であるてるてる坊主と同じように、「てれ〳〵ぼう」自身にも日照(ひいては晴天)をもたらす力がある、ということをアピールする狙いでしょう。
 ここでは、人形のてるてる坊主が晴天祈願のアイコンとしての役割を果たしているわけです。裏を返せば、当時の人びとはてるてる坊主の人形を一目見れば、それが晴天祈願を意味するまじないであると、自明のこととして理解できたのでしょう。昨今と同様に、てるてる坊主の風習が巷に深く浸透していた様子が窺えます。

 ただし、昨今とは違ってかつては、てるてる坊主の呼び名は実に多彩でした。
 乞食僧の「てれ〳〵ぼう」が江戸の街を門付けして歩いていたのは江戸時代の終わりごろ。当時、まじないの人形のほうは「て坊主」という呼び名がもっとも一般的だったようです。
 前半の「てりてり」の部分が「て」であったり、後半の「坊主」が「法師」であったりする場合も散見されます。
 乞食僧の「てれ〳〵ぼう」と同じように、前半部分を「て」とする事例は稀です。わたしの管見の限りでは、江戸時代の終わりごろにはまったく見られません(★下記の表2、および、文末の「「てりてり」が先か「てるてる」が先か【てるてる坊主の呼び名をめぐって#1 近世(江戸時代)編】」参照)。

 まじないの人形が「て坊主」と呼ばれることがなかった時代に、なぜ、乞食僧の「てれ〳〵ぼう」はそう呼ばれたのでしょうか。
 「照れ」とは言うまでもなく「照る」の命令形。「て」や「て」よりも、「て」と命令形で繰り返すほうが、晴天をもたらす存在である太陽に対して強く働きかけている印象です。
 先述のように、「てれ〳〵ぼう」に唱え文句があったかどうかはわかりません。ことによると、「照れ、照れ」と命令形で唱えていたのかもしれず、それが名前の由来である可能性もぬぐえません。

 なお、命令形の「て」をめぐっては、本稿で紹介した乞食僧の「てれ〳〵ぼう」だけでなく、まじないの人形であるてるてる坊主のほうにも気になる点があります。
 てるてる坊主の呼び名のもっとも古いかたちは「て法師(て坊主)」であった、とする説明が古今の文献資料に散見されるのです。こうした見解については、「て」が用いられている事例の収集を進めながら、また稿をあらためて検討できればと思います。


参考文献

【全体に関わるもの】
・岡本昆石『古今百風 吾妻余波』1編、森戸錫太郎、1879年
・岡本昆石〔編〕吾妻卯女〔企画〕『吾妻の余波』復刻版(オリンピック東京開催記念出版 第1年度第4回配本)、国際貿易観光協会、1959年a
・岡本昆石〔編〕吾妻卯女〔企画〕『吾妻の余波』解説版(オリンピック東京開催記念出版 第1年度第4回配本)、国際貿易観光協会、1959年b
・清水晴風『世渡風俗図会』第2巻、未刊本

【図2に関わるもの】
②万亭応賀〔作〕静斉英一〔画〕『幼稚遊昔雛形』、吉田屋、1844年(尾原昭夫『日本わらべ歌全集』27 近世童謡童遊集、柳原書店、1991年)
③松井由谷『麗新画帖』、本田書店、1900年
④『ひかりのくに 生活習慣と社会性が身につく』13巻6号、ひかりのくに、1958年

#創作大賞2023

この記事が参加している募集

雨の日をたのしく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?