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自分の中の制限に気づく事~当たり前のようになっていた事~



自分自身との向き合いを経てこの夏、私は既にもう十分満たされていると感じ、感謝して、自分を愛して、結果まわりを愛し愛されて、愛の循環の中で日々を過ごしていきたいと思いました。


ですが、幸せを感じて生活したいのに、笑顔で過ごしたいのに、本心でそう思いたいはずなのに、なぜか心の底からそう思えず、そう出来ない自分を感じていました。
幸せを感じる瞬間は多々あっても、心のどこかに、そうしてはいけないよ、幸せになってはいけないよ、笑顔で過ごしてはいけないよ、というような、私を引き止めるような、心の制限がある事を感じていました。
ずっと、一定の、ぼんやりとした、自分自身の内側に原因がある気がするけれど、何だろう...、どういう事だろう...どうしたらいいんだろう...というような感覚を感じていました。
向き合っても、よくわからないので、考え過ぎずに、必要ならいつか...わかるのかな...というふうに思っていました。


数日前、仕事帰りに、また職場の人から親切にして頂いて(事務所に忘れた物を少し離れた場所に停めている私の車まで急いで届けて下さるという...)、とても助かりました。
その事を申し訳ない、ごめんなさいと謝る事のみで受け取るよりも、ありがとうございますと感謝して受け取る事が出来て、嬉しさと幸せを感じながら帰宅しました。
その後、帰宅後にある出来事があり号泣しました。
頭の片隅で、少し前まで幸せな事があってハッピーな気持ちだったのに、どうして今はこんなにも泣いているのかと、感情の差に戸惑いつつ客観的に不思議に思う自分がいました。
同時に、そうやって泣いている自分に少し安心する自分を感じました。

え...これは何?どういう事...?と思いました。
その時にふと、自分の中から、悲しみが無くなったら泣けなくなってしまう...泣けなくなったら困るでしょ...という言葉を感じました。

はっ 、としました。

私は、幸せを感じたい反面、悲しみを感じて泣くという事で、安心してる。今は辛く苦しい気持ちなのに、泣けるという事にホッとしてる。そう思いました。
私は幸せに過ごしたい、もう悲しみ泣きたくないと、自分としては本心でそう思っていると思いながらも、本当の本音本心の奥深くでは心に制限がありました。
心の制限。
私の場合は、幸せになってしまったら、悲しい辛いと涙を零して泣けなくなってしまうという事、だと思いました。

私は幼い頃から実家を離れるまで、父親からの制限を受けて辛い時、いつも部屋で1人悲しみ、ひとしきり泣いた後に涙を拭いて、我慢して心を建て直して、気持ちを切り替えて、頑張って平気なように振る舞う、という日常でした。
結婚後、時々どうしようもない孤独感に襲われた時も、涙を流して泣く事で、心が救われて、次の日また頑張ろうと思えました。(note記事'私の過去⑪')

いつの間にか、そういう日常に慣れて、そのうち泣く事や涙する状況は、私にとっては生きていく中で、無意識に、当たり前に、必要な事になっていました。生きていく為には、泣く事も、涙する状況も、私には必要。泣いて泣き止んでそしてまた頑張れる、までが、一連の流れでセットでした。
だから、これからも頑張って生きていく為には、本当の本当に幸せになったらいけない、笑顔になったらいけないと。泣けなくなったら生きていけないよ...と、私には悲しく涙する状況が必要だよ...と。
気づかぬうちに、そういう思い込みが、幸せになりきらないように、私が私に幸せになる事を許可しないように、自分の心を制限していたようでした。
長年、幼い頃から辛い時を耐えて生きられるように私を守ってきてくれた、これも...私の中のエゴなの...?と思いました。


私にとって、継続的に繰り返される辛く悲しい状況を我慢して越えて行く時に、涙を流して泣くという事は、当たり前の事のようになっていて、なかなか気づけませんでした。
今年この自分自身との向き合いの中でも、未完了にして来た感情と向き合う度に、何度も涙を流し泣きながら、私は自分自身と深く向き合う事が出来、いろいろな事に気づき、今まで向き合いを続ける事が出来ました。
その、自分自身を守り救ってくれた向き合い方そのもの、その事自体も、私が生きて来られるように、守ってくれた、私のエゴだったと思いました。

自分が自分の心を制限していた。
その事には何となく気づきながらも、それが何なのか形がはっきりとはわからず、どういう事か腑に落ちずにいました。部分的かもしれませんが、やっとわかったように思います。
自分との向き合いをしてきて、私は生き辛さを感じる度に、無意識に、心にブロックを作ってきていたんだな...と感じましたが、今回それは、心を、薄いベールで1枚1枚、いろいろな角度から、何層にも重ねて包むようなイメージが湧きました。辛い時、悲しい時、事ある毎に大事に包み、心が壊れないように、緩衝材で衝撃から守るように、ベールの層で自分の心を守って来たように思いました。
動きたいと思う心なのに、何かが自分の行動を制限してしまう時には、心は傷つく事を恐れて、まだ薄いベールに包まれているという事...と思いました。


悲しみを感じて泣く事でまた次へ歩める。涙を流しきる事で、また頑張れる。生きる為には頑張らないといけない。ずっと、そんな生き方をしていました。そういう生き方が必要だった時、そしてそんなふうにしか生きられなかった時だったと思います。
長年、両親への怒りと、その奥にあった深い悲しみが、私の生きる原動力の根本でしたが、それらが根深いものになってしまっていた事と、その事から自然に身に着けてしまった生き方の癖に、未だ囚われ続けていたんだと思います。(もしかしたら、未だ 'いるんだ' という現在進行形です。)
もう、頑張らなくていい。今はわかります。頑張ろうとしなくてもいい。もう悲しみを感じて泣かないで大丈夫。泣きたい時は泣いてもいいけれど、もう、頑張る為に泣かなくてもいい。
泣かなくても、涙する状況がなくても生きていける。大丈夫。頑張らなくても、歩めるし、頑張らずに、歩んでいい。心地よく、歩めばいいと、今はそう思えます。
私は幸せになってもいい。笑顔で過ごしてもいい、大丈夫。本当の本音本心からそう思っていい。
今まで、私の心を守って来てくれた私のエゴ。もう、大丈夫だよ...、大丈夫だからね、ありがとう。今まで守って来てくれて、本当にありがとう...。心から感謝してる。幸せになるね。そう思いました。
気づいた事で、これからまた1歩、乗り越えて行けるのではないかと思いました。
もう悲しみを生きる原動力にしなくてもいい。
これからは、生きる原動力を、私が愛しそして愛される愛の循環と、私が心地よい事、好きな事、わくわくする事に変えて行けるのでは...と思いました。
そうやって、日々、自分が心地よく生きる事を許し、焦らずに、感謝して、ゆっくりと時を体験して行くうちに、心を包み守ってくれている、まだある気がする薄いベールは、必要ならば、自然にめくれて、ふわりととれる気がします。


気づくきっかけになった出来事を、私は迷いながら私なりに解釈しました。短時間のうちに、いろいろな感情と感覚を感じました。私の中をぐるぐる巡り、通過していく流れのようでした。
ごく自然に感じた喜び、その後不意に動揺して、気持ちが複雑に撹拌されて、感じて思考しました。
驚きと戸惑い、迷い、肯定と否定、感動、尊敬と劣等感、疑問、悲しみや嫉妬や納得や諦めや無償の愛を感じながらその流れを乗り越える事に繋がりましたが、号泣しながら私は私の今ある本心に気づく事が出来て、泣ききった後に、その出来事に対して感謝する気持ちになりました。
解釈は私の勝手な解釈でしたが、この事は、私に気づかせるために、なぜかわからないけど、必要だったから起こり、この日この時に気づきが起きたんだという気持ちになりました。
この事が起きたお陰で、私は考えて感じる事が出来て、時間が掛かっていた、今回の大きな気づき、自分自身の心の制限に辿り着く事が出来たと思いました。だから、ありがとう...と、ありがとうございました...と、心からそう思いました。


夏の間、そして今もまだ、日々ゆっくりと、自分との向き合いは続いていると感じます。
そしてきっと、必要なタイミングで気づきながらの日々なんだと、実感しています。気づいて、自分なりに腑に落ちて、ゆっくり自分のペースで乗り越えながら、変化に見えないような変化をしながら歩んでいる今なんだと思います。


これからも悲しみという感情も、どんな感情も、すべて素直に感じる事、共感する事は大切にしたいと思います。
時にはまた涙を流す事があるかもしれませんが、そんな時、今までと同じような、何かに絶望し嘆き悲しみ心を痛ませ嗚咽する、出来ればもうそういう涙ではなくて、愛を感じたり、幸せを願ったり、何かに感動したり、喜んだり、感謝して、自然と心から込み上げてくる気持ちと共に優しく溢れる、そんな涙を流せたらと思います。




お読み頂き、ありがとうございました。





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