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関係がうまれる瞬間の手ざわりを拾いあつめること(松家仁之『光の犬』/第6回河合隼雄物語賞)

「神が『光あれ』と言ったのはなぜかしら」

「……どうしたの急に?」

「地は形がなく、ガランとしていた―というのも、宇宙の誕生の話みたいに聞こえる。いきなりそこから始まるのはなぜなの」(一八六頁)

 この小説で問われるのは、因果性への懐疑よりも根本的な、あらゆる物の相互関係である。自然と文化、モノと人間が分かたれる前の情景であり、カントの「コペルニクス的転回」よりも前に遡る試みが、高解像度の手ざわりある描写の併置を通じて行われている。それぞれの物が存在し、相互に働きかけ、そこに因果性や法則性が見出されるとはいかなることであるか、哲学史としては近代以前あるいは近代初頭の問題系へと立ち返る試みがなされている。

 人間たちの人生の瞬間を描くこの小説から因果性の懐疑およびそれ以前への遡行をするための跳躍は、血縁による影響に対する懐疑的視点からの検討を足場とする。

しかし川によってことなる魚の様相は、千年単位でつくりあげられた血のつらなりの果てにあるものだから、おなじヤマメでも、種類がちがうといってもいいのではないか。(二一三頁)

 種を同じくする魚でも、生まれ育つ環境によって様相が異なる。ここで言う環境は魚が育った山がどこか、川がどこか、ということを意味する。魚の血縁においては、育った場所が異なることが即自に異なる血のつながりを持つことを意味する。土地による影響と血縁による影響、そして各個体の持つ個性の差異は魚において問題にならない。土地を同じくすることは血のつながりを同じくすることであり、人間の個体の差異を検討する際に持つ解像度で魚の個体差を見つめることはできないのだから。

「影響があるとすれば、ポールの音楽にロックじゃない音楽の要素があることかな。だけどそれは血とかそういうものじゃない。家でくりかえしかけていたレコードをポールが耳で覚えていただけだよ。」(一一三頁)

 ジョン・レノンのロック以外の要素が、どこからきたものかについて語る場面である。祖父がアイルランド人で、移住の後にアメリカの歌手になったことについて、ジョン・レノンへの影響の有無を検討している。人間において、あるいは語り手遠く離れた人間においては土地や血縁は問題にならず、個の人生においてふれてきたものがその人を形作ると結論づけられる。

 一方で、語り手の一族の血統について検討する際の視点は、かなり歪なものである。

生まれたばかりのころからずっと、幼稚園、小学校としだいに大きくなってゆく歩を、イヨは見ていた。歩が四年生のとき、イヨは病気で死んだ。まもなく父が手に入れたエスは猟師にもらわれていき、誤って毒饅頭を食べて死んだ。どちらも牝だった。いま家で飼われている牡の北海道犬ジロは、歩の小さかったときを知らない。(四六頁)

 一緒に暮らしてきた犬たちを媒介した検討が行われる。犬を媒介としない語り手一族の語りもないではない。しかし、その持続を拒否するかのように、犬を媒介としない語りはたえず行き詰まる。

眞二郎と登代子の間に長女の歩が生まれた。とりあげたのはよねだった。(……)よねにとって初孫だったが、いつもの手順となんら変わることはなく、表情も同じで、特別なやりとりもなかった。歩が三歳の誕生日を迎える直前に、よねは突然、脳溢血で亡くなった。自分の孫をとりあげたのは、これが最初で最後になった。(二一六頁)

 《人間》の血縁が各個の人生について魚や犬のような《動物》と同じ解像度で検討するには、遡行に耐えうる血縁の痕跡が乏しい。いくつもの世代を遡行しながら起源まで辿り着くには、遡行に耐えうる《動物》を媒介として考えるという方法がありうるというわけだ。

人間である自分は、祖父母の名前までしか知らない。ところがイヨは、さらに二世代もさかのぼって、玄祖父母までたどることができるのだ。イヨの親族は、両親までふくめると三十頭もはっきりとしている。(二一五頁)

 《人間》あるいは個の問題、生の問題、持続の問題へのアプローチは、カント以降では多様なパースペクティブをもって自然を解釈すること、あるいはモノを解釈することの総合を通じて行われてきた。しかしここにおいてモノや自然は恒常的で一貫した法則に従うものとみなされ、単一なものとして特権化されてきた。あるいはその欠如を前提とし、それを表象する過程によって語られてきたと言ってもよい。

 しかし『光の犬』においては、自然―山や川と呼んできたもの―や動物―魚や犬と呼んできたもの―を固定化して人間―語り手の一族―を考える単自然/多文化的なアプローチを回避し、《動物》《自然》《人間》の境界を一度なきものにして小説における語りを行っている。

 犬⇒《動物》と《人間》の境界を揺らがせ、互いを見つめる眼―パースペクティブ―をあたえあい、またそれを受け取ることで一族の起源、あるいは一族という因果性―というか一族という因果性がどのように生じ、その過程で《動物》と《人間》がいかに分かたれたか―を検討している。

 語り手を総合する作者の試みに着目すると、あらゆる土地に登場人物を配置し、それを動かし、結ばれそうな血縁をあえて切断したしていることがわかる。この動力系は物語を形成する手ざわりによるものというよりは、ここまで考えてきた問題系について小説を書くという操作をしながら検討する手ざわりによるものに近い。

 動物と人間を、そして自然と文化が分かたれる前の状況を考察し、 因果性や法則性が見出されるプロセスを検討する試みとしては、思弁的実在論やオブジェクト志向実在論と共鳴する。『光の犬』と同じく関係性そのものが創発する状況についてはグレアム・ハーマンが本格的な議論を展開している。

 個は複数の個にとって知ることのできないそれ自体の実在をもっている。それは個同士の関係性の外部にある。ハーマンは「深淵のなかに脱去している」とするが、光の犬においては各個による個人的な描写によって描かれる。

 しかし一惟は不思議なことに、「いますぐにでも信仰を捨て」というくだりの学生の抑揚に、彼のどこともしれない故郷の景色や親の話しぶりが透けて見えるように感じ、その一節を妙に気に入った。しばらくのあいだ、ときおりそのことばが頭によみがえるたび、一惟ひとりで笑顔になった。

 これらの感性が他の個によって知覚され、関係を持ち始める―ハーマンで言えば《脱去した》個が代替物を通じて他の個へ感覚を伝える―手ざわりを執拗に描いている。これらの描写は小説という媒介を通じて同一平面上に併置され、作者は改稿をつうじて自由にレイアウトしなおし、読者は読者自身の深淵に脱去した実在と自由自在に結びつける。

「どうしていつも、ああいう絵を描いてたの」

一惟は腕組みをして答えた。

「そのへんに落ちてたものをひろってきて描いてただけだけど」

そう言っていったん口を閉ざしたが、もう一段小さな声で「……きれいだなと思って」とつけくわえた。

(八八頁)

 歩と一惟は各個人に宿る脱去した感性について、手ざわりごと相手に伝え、代替物としてしか現れない各個のあり方を表出し、関係をつくっていく。一方でその固定化を拒むかのように土地や感情を通じて距離をおき、ふたたび別の仕方で各個のあり方を表出して関係を構築する。個のあり方を表現し、相手に伝えることそのものを愉しむかのように、関係を再配置し続ける。

ソータツがニコリともせずに、「そこが直ったらスムーズになるけど、つまらなくなるね」とそっけない声で言うのが聞こえた。(八六頁)

 個自身の抱くもの以外なにもないところに見出される《動物》と《人間》の区別も越えた複数の個の関係が生じる瞬間をもとめ、人間も犬も離別する。

登山家が八〇〇〇メートル級の山の頂上をめざすのは、そこに樹木がなく、微生物のうごめく腐葉土もなく、空気さえはかなく薄く、囀りや水の流れる音や人のざわめきも耳に届かない場所だからではないのか。(二四四頁)

 離別と再会ごとに個を表出しあうこと、人と人との結びつき、複雑な感情という観点で、それは格別なものであるだろう。しかし、それを足がかりとして関係あるいは因果性そのものが生じる前段階まで遡行し、あらゆる先行する時代、過去とのつながり、動物や自然、無数の宇宙の存在がありながらこの宇宙に生きていることを通じて人生の瞬間を捉えなおすことこそ『光の犬』を呼んだあとも持続する生の醍醐味ではなかろうか。

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