黒沢清「蛇の道(2024)」(高橋洋原案)
大きく開かれた澄んだ黒い瞳の柴咲コウ。深淵を覗く目差し。虚無を称える眼。悲しみも憎しみもとうに過ぎた無情の相貌。パリの街中、アパルトマンの狭間の通りに漠然と立つ彼女から始まる物語。
行くでもなく、来るでもない。感情も人生もどこかなげうたれ途絶えた、そのどこにも行けない幽霊のような佇まいが、パソコンの画面越しに終わらない悪夢の終わりを見つけた彼女の放つ鋭い蛇の瞳に繋がる。
悲哀。憤怒。憎悪。絶望。そして虚無。そこにはもはや何もなく。何も生まれず。もしあったのだとしたら、それは画面の外側。語られる物語の語られざる思い出のなかにだけあるのだろう。
まるで黒沢清は感情も情緒もキャメラの外に投げ捨てているようだ。捕らえた敵にサディスティックな高笑いを浴びせるダミアン・ボナールと対称的に、柴咲コウはただ坦々とひたすらに彼らを処理していく。
すなわちこれは完全なる復讐譚。見えぬ標的。暗中模索の暴力。度重なる忘却。後出しされる事実。連鎖する証言。作られる理由。不在の証明。存在しない真実。
感情は理不尽で、行動には動機がともなう。そして復讐には対象がおらねばならず、暴力には相応の理屈が必要となる。復讐は何も生まない。そんなこと最近は子供でも簡単に言ってのける。
では本当に?黒沢清と高橋洋は恐るべき観察眼で人間による復讐というものの根源的なあまりの無意味さを写生する。もちろん復讐には標的と理由が必要だ。
それは一見、そこにあるように思える。男は娘を惨殺され、所属していた団体の幹部がその犯行について供述する。理由も標的もばっちりだ。それらを見つけているのにこの物語は始まりから終わりが見えない。
標的は別の標的をほのめかし、その別の標的はまた別の仲間を語り出す。追っていく事実の断片が語られぬ事柄を呼び起こし、娘の仇を追っていたはずの父親自身を追い詰めていく。
なぜ復讐をするのか?いや。なぜ復讐をしないといけないと思うのか?すなわち復讐はどこから来てどこへ行くのか。復讐とは何か。男が語らぬことが別の者たちから語られていくとき、父親による復讐という都合のいい事実に隠されてきた復讐などというものが存在しえない都合のわるい真実が見えてくる。
そう。復讐とは脳の回路が引き起こしたバグに過ぎないのだ。耐え難いストレスに焼かれた神経が見せる華麗なる復讐譚という虚像。暴力的な心象に晒された人間が逃避する標的と理由をこさえたイメージとしての物語。
ダミアン・ボナールをリードする狂言回しとしての柴咲コウがささやくように、娘を殺された善良な父親をロールプレイするダミアン・ボナールは与えられた標的に理由をつけて自らのストレスを解消していくわけである。
例えば任侠もののように、もしよくある復讐物語ならば殺すに値する理由とその暴力による解消が描かれるならば、それはさぞ爽快なことだろう。すなわちそう描かれるということが、突然大事な人を失ってしまったストレスに対してそのストレスの原因となるであろう存在を消すという復讐の脳内的エクスタシーの物語化なのだ。
しかし感情などどこかに投げ捨ててしまったような黒沢清の映画ではそんなエクスタシーは存在しえない。復讐という感情的かつ理由のある暴力、その理由も感情もただ漠然と与えられ、どこからともなく沸いてきたものに過ぎないのだということをこそ高橋洋の物語と黒沢清のキャメラは追い詰めていくのだ。すなわちこれは深淵を覗く行為である。絶望には絶望に値するだけの理由があるのではなく、人々は、あるいは父親は勝手に、自ら絶望しているだけなのだ。
ある場面でダミアン・ボナールは銃を持った自らの姿を鏡越しに見つめる。まさしく黒沢清の縁取りは鏡を見るような映像である。虚無を写す鏡だ。
そこには何かが写っているのだが、何も写ってないのだとも言える。なぜならそれは失われたのではなく、初めから無いものだからだ。
復讐物語というものは、すなわち誰かの喪失の物語だ。ある加害によって、被害を受けて、大事なものを喪失したからこそ生まれるはずの物語だ。そんな物語を見つめる鏡のような映像に写るものが、本来そんな物語に写るはずの、感情や情緒、そして何より爽快感を、黒沢清は撮さない。何故ならそこには初めから何もなかったのだから。
殺された娘への愛も、復讐するだけの理由も、殺すべき相手も、そもそも何もないのだ。まるで自己都合を捏造することこそが人間の本質であるとさえ言うように、映画の後半にかけて加速度的に描かれていくのは、ただひたすらな「身から出た錆」である。だから復讐は何も生まない。そもそも復讐など存在しえないからだ。
無いものの根源を辿る旅路は修羅の道だ。途中、人知れず自殺する西島秀俊が重要なのは、終わりのない悪夢よりも終わってしまうことのほうが楽な道だと説く柴咲コウの虚ろな笑みに呼応するからだ。
後になればわかることだが、彼女こそ他人に押し付けられた終わらない悪夢を生き続ける当事者であり、それこそが異国の地にとどまり続ける理由となっていた柴咲コウに対して、自らが病める理由を外部に見つけられない西島秀俊は自らにその理由を見つけてその自らを終わらせることしかできなかったのだ。
復讐とはその理由を他人に見つけ続ける終わらない悪夢なのかもしれない。穴の空いた器に独り善がりな満足感を注いでいくだけの身も蓋もない行為。
得体の知れない狂人に愛する善良な娘を殺されたということを訥々と言葉にしながら、残された娘の在りし日の映像と検死結果の読み上げだけを繰り返す父親。
しかし事実を追っていくことでその前提が一つずつ覆され、最後には純真無垢な子供であったわけでも、彼が娘を愛していたわけでもなく、狂った犯人がいたわけでもなく、自身よく知る仕事仲間と自らの妻しかそこにいなかったのだとわかるとき、もはや残るのはビデオカメラに納められた映像だけなのだ。
人間は嘘をつく生き物である。他人にはもちろん、あるいは自分自身に。ゆえに言葉など役に立たず、暴力は確実に人にその痕跡を与え、死に至らしめる。ただ映像だけが嘘をつくことも、暴力を身体に残すこともなく、そこにあり続ける。なかったはずの愛を幻視させ、己の起こした行いの結果を直視させる。夫婦の関係、子供への愛情、仕事への関心。どれも彼にはあったはずで、しかしそのどれもが欠けていた。
誰もが見たくないものは見ずに見たいものだけを見続けるのである。会計係はお金の流れだけを、実行係は獲物の生死だけを、撮影係はうまく撮れるかだけを、調達係は有効な選別だけを、そして販売係は売り先だけを、意識する。分散された仕事としての悪行。誰もが自らが手を下したとは思わず、誰かがやったことだとシラを切る。あるいは自分さえも欺いてるのかもしれない。
荷担していた自らすら振り返ることなく虚偽と隠匿によって正当化される自意識は、復讐すべき他人という責を負わせる相手を探し続け、己を省みない傲慢と無関心がもたらす因果応報としての復讐が描かれる。
誰もがこの心の痛みを他人のせいにしていなければ自分で自分を殺してしまうのだろうか。それはジャンルを越えたジャンル。サスペンスを逸脱したサスペンス。ミステリーを紐解くミステリーとなって、復讐の根源を探究する復讐譚として観るものの心を抉るだろう。
黒沢清は人の心という深淵を覗く。その深淵に映るのはひたすらな虚無である。
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