見出し画像

マット・シャックマン「ワンダビジョン」

怒りと哀しみのあまりの暴走。
言葉にするのは簡単だけれど、そんなのあまりに無惨じゃないかと思う。大切な人を(永遠に)喪わない人なんていないのだから。
だからこれは教訓。どこの誰でも決して人の心を踏みにじるような真似をしてはいけないのだと。心に土足で踏み入られた人間は、また誰かの心に踏み入ってしまうことに気づけない。自分のなかに入られたことで他人のなかに入ってしまっていることの境界に気づけない。
それは悲劇だ。残酷な。誰もが経験のあるはずのことだからなおさらだ。
家族を欲しいと思うことはどんな罪なのか?愛を取り戻したいと思うことはなにかの罰なのか?可能性かあれば追求し、機会があれば実行してしまうものではないか?それを弱さだと誰が言えるだろうか?
ワンダが陥った状況は誰も責めることが出来ないことだからこそ悲劇としか言い様のないものなのだ。
愛する誰かを喪ったものは永遠に孤独でいろと?
『ワンダヴィジョン』、あるいはマーベル作品は自らが良識的であるゆえに自らのキャラクターたちを苦しめる。すなわち社会一般に善としてあらねばならないことは、個人の独善的幸福追求をたやすく否定するのだ。
それは言い過ぎかもしれないけれど、ワンダの欲した幸福は社会の倫理に反し、人々の道理からは外れていた。
ただ家族を、日常を、普通を求めただけなのに。それこそ最も難しいということを教えてくれるのかもしれない。
少なくとも孤独な人間や愛するものを喪ったことのある人間、その事に自覚的な者には劇薬のような作品であることは間違いない。ワンダの暴走は自らを写す鏡になりかねないからだ。
孤独と絶望のあまり我を忘れて他者を省みないモンスターと化していないか?その問いはユニバースの物語に引き継がれている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?