志賀直哉「国語問題」について書いて2年
志賀直哉のエッセイ「国語問題」に関する論考を書いてからちょうど2年がたちました。
これは長年考えてきた内容で、多くの人に読んで欲しかった。しかし込み入った内容だし、ポップな話題でもないから、アクセス状況のビュー数2000〜3000を目標としました。
いろいろと工夫をして、それは1年目で達成したのですが、ビュー数はTLに上がった数なども入り、能動的なアクセス数ばかりではないことを知って、それでは4000〜5000かなと思って2年経って、ビュー数4226。一応の目標達成です。
(その後2年半が過ぎビュー数5101になりました。)
noteは2年間、本当に楽しみながら続けてきた。そしてその核の1つに、この記事がある事を示せた結果かなと思う。
志賀直哉の「国語問題」についての論考
複数の論考が合わさっており、簡単に全体を良いとは言い難いだろうと思ったから、スキ(いいね)を目標としなかった。それでもスキ(いいね)をして下さる方も沢山いて、嬉しい限りです。
(アクセス情報でのスキは136で、表示されてる131より少し多いです。→2年半が過ぎ、アクセス情報のスキは147になりました。)
この論を本気で捉えてくれる人が少しでもいてくれたら、望外の喜びです。
補足が必要と思っていた部分も、注でだいぶ追加できました。良かった。(注は本文の下と本文中のローマ数字と紐づけた別アカウントとの記事の両方に載っています。)
注の追加について感想など
(「鬼滅の刃」と「進撃の巨人」、
レベッカとSPEED、
三島由紀夫と坂口安吾についてなど)
日本というわりと閉じられた社会にあって、志賀直哉、芥川龍之介、有島武郎、坂口安吾、三島由紀夫はそれぞれ別の観点から、外部と触れた特異な作家に思えた。
しかし彼らを元に考えても、彼らが試みたより遥かに手前の閉じられた内部に留まってしまう事が殆どに思えた。
志賀直哉の「国語問題」は、志賀が外部と接した事を示す特異な点に見えた。そこを起点に考えてみたかった。何か突破口になるのではないかと思った。
成功しているかどうか分からないが、自分に出来る限りのことはやりました。
これからしばらくは、この記事から離れ、noteや他の事を楽しもうと思っています。
追記: と言いつつ、また書いてしまった。
自分が前提としている事を元に、標準語・国語・言文一致体という言葉を無造作に説明もなく使っている事に気がついたからです。その事に関連して3つに分けて書きました。↓2024.2.4.
更に柄谷行人とメルロ=ポンティより引用しつつ。↓2024.2.12.
今までに上げたエッセイと論文
本レビュー・文学について
自己紹介の代わりに
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