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聖書と信

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聖書はひとを生かすもの、という思いこみだけで、お薦めします。信仰というと引かれそうですが、信頼などの信として、ひとや世界を大切にする思いが、少しでも重なったらステキだな、と思いつ…
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#教会

説教を読む

説教を読む

礼拝説教は、語りの中にこそ意味がある。それが本筋であろう。その時、その場で語りを聞く。そこに、神の力が働く。古来、文字を読むというのは特別な能力であり特権であったのだから、言葉は本来聞くものであった、というのは本当だろう。
 
礼拝説教は、ユダヤ教がエルサレム神殿詣でがままならぬ事態になってからは、あるいは広い世界に散っていった民族の礼拝においてだからこそ、地域の会堂における礼拝の中で、浮かび上が

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アドベントに思う

アドベントに思う

いわゆる「アドベント」の期間に入る。「待降節」と訳される。クリスマス前の4週間が基本である。12月がほぼすっぽり入ることになる。そもそもクリスマスは、「キリスト礼拝」というような意味で、神がこの世に救い主を送ったこと、その救い主が人間として誕生したことについての礼拝である。もちろん、聖書にこの時期がそうだと書かれているわけではなく、いわば便宜的に決めたということになる。
 
信仰の上では、このよう

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見えざる教会

見えざる教会

聖書を直接読めるということは、古代においては特別な能力の持ち主であっただろう。殆どの人にとって、聖書は「聞く」ものだったと思われる。いまでも、礼拝説教を私たちは「聞く」。
 
音声は、時間と共に一方向に届けられる。絵画と違って、音楽はその芸術性において、どうしても時間性が関わってくる。音声も同様だ。聖書を目で読むとなると、1行前に戻ることもできるが、聞くとなると、そうはいかない。つまりは、ぼーっと

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『主が、新しい歌を 加藤さゆり説教集』(加藤常昭編・教文館)

『主が、新しい歌を 加藤さゆり説教集』(加藤常昭編・教文館)

説教者を知らなくても、編者の名前から検討がつくだろうと思う。日本で説教を最も重視し、説教塾を立て、何百人もの牧師の説教に対する考え方をつくりかえた加藤常昭氏の妻である。
 
2014年8月、本書の発行後間もなく召された。
 
1964年の大きな手術以来、多くの病を担い続け、もはや治療不可能という事態になり、本書が編まれた。夫常昭氏の、感情溢れんばかりの、しかし結局は信仰に溢れた形の、「まえがき」や

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安息日とは何か

安息日とは何か

安息日とは何だろう。ずっと気になっている。そもそも「安息日」の「日」は何と読むのがよいのだろうか。聖書により、「び」「にち」「じつ」と、なんと3種類あるのだ。
 
もちろん、それは「休みの日」である。キリスト教徒は、日曜日を安息日だと呼ぶ。元々は、旧約聖書の時代に、神が世界を創造したときに7日目を休んだことから、7日目を人間も安息せよと命じたことに基づく。但し、このときには土曜日が安息日であった。

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『困惑を超えるもの 大沼隆遺稿説教集』(大沼隆・教文館)

『困惑を超えるもの 大沼隆遺稿説教集』(大沼隆・教文館)

日本基督教団仙台川平教会主任担任牧師、宮城学院宗教総主事などを務め、東北の地で50年にわたり伝道に奉仕した牧師が残した説教集。膨大なノートの束から掬い上げられた、生涯をかけて福音をあかしし続けた著者による心打つ魂の言葉。
 
本の帯にそう説明されており、これが本書の概略を簡潔明瞭に伝えている。その帯に、より大きな文字で書かれてある文句はこうである。「信仰とは、困惑があってもそれを超えて生きてゆくこ

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『わたしたちはいま、どこにいるのか』(日本基督教団代田教会編・新教出版社)

『わたしたちはいま、どこにいるのか』(日本基督教団代田教会編・新教出版社)

新教コイノーニアというシリーズの第27弾である。2003年に亡くなった、隅谷三喜男先生を記念する本である。東京の代田教会は、晩年隅谷三喜男先生が在籍した教会である。それで、亡くなった後も、先生の業績を大切にし、協力者を得て、シンポジウムを開催した。雑誌に一部公開されたが、質疑応答を含む全貌を世に問うために本書が成立した。
 
代田教会は、聖書から福音を毎週語る教会である。そこには日本で最高レベルの

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あなたの居場所ではない教会

あなたの居場所ではない教会

言葉としては同じものであるにしても、その概念というか、それが指している内容については、使う人により意味は様々であるだろう、というのが私の持論である。いつでもそれを前提にして考え始める必要があると思っている。そうでないて、同じことをその言葉で考えているように錯覚して決定したことが、後で、そんなはずではなかった、ということにきっとなるからである。
 
聖書は二千年以上昔の本である。新約聖書は新しいが、

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踏み込む勇気

踏み込む勇気

もしもその大切なことを、言わなければ、そのままでいられることだろう。いまのままの関係で、とりあえずしばらく過ごしていくことができるだろう。
 
けれども、もし自分が何かを言えば、いままでのままではいられなくなる。踏み込んだ結果、うまく事が運べば、次元の違う幸福な時空に入ることができるかもしれない。だが、逆の場合には、すべてが壊れてしまうかもしれない。これまでの関係に戻ることも、できなくなる。
 

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よい聴き手

よい聴き手

「説教者は、よい聴き手によって支えられる」――加藤常昭氏の『自伝的説教論』に出てきた一文である。加藤氏は、説教者の立場でこれを書いている。自分の生い立ち、特に説教者として立てられることと、立てられてからのことが、克明に書かれている。
 
「説教者は、よい聴き手によって支えられる」――まさに、その通りであると私も思う。私は聴き手としての立場でこれを書いている。そしてこのことは、「よい聴き手のいない説

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『説教集 先立ちたもうキリスト』(小川治郎・日本基督教団 代田教会・1974年)

『説教集 先立ちたもうキリスト』(小川治郎・日本基督教団 代田教会・1974年)

受難週のことだった。リモートで、祈りの会が開かれ、信徒がリードして短くお話をしてくれた。そのとき、この本の中のある説教について触れることがあった。それで私は感心をもち、探してみると、ウェブサイトに見つかった。ひとつの教会が発行所となっている。珍しいと思うが、半世紀前には時折あったのだろうか。その時代の価格としては高価であるが、発行部数などの関係であろうか。信徒のための製本ということなのかもしれない

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穴だらけの信仰論

穴だらけの信仰論

聖書に書いてある――とくにプロテスタント信仰に立つ人は、この言葉に弱い。教会組織の伝統を拒み、聖書のみの信仰を標榜するプロテスタント教会としては、聖書に書いてあることを否むことはできない呪縛というものが、潜在的にもあるものである。
 
たとえ感情でどう信仰しようと、聖書にはそう書いていないよ、の一言でそれは間違っていることになってしまう。だって聖書にそう書いてあるからね。これを、原語が読めて研究論

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教会学校は大切であるが

教会学校は大切であるが

教会学校。英語の頭文字からCSとも呼ばれる。日曜学校という呼称もあったから、そのときはSSとも言われた。教派や教会により、そのスタイルは様々である。子どもが多く教会に来ていたころは、幼児・小学生・中学生・高校生と分かれることもあり、小学校も上級生と下級生と別々になることが普通だった。信徒の子ももちろんいたが、その友だちや近所の子もたくさん来ていた。中には、教会というところがきちんと躾をするところだ

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行くべきところ

行くべきところ

その朝、子どもが授かることについて悩んでいた人から、よい知らせが届いた。やがて礼拝が始まった。創世記の16章であった。どうしてこの朝なんだ、とときめいた。
 
アブラムの妻サライには、子どもが生まれなかった。(16:1)
 
そこで、サライが夫に提案する。「主は私に子どもを授けてくださいません」とまず口を開く。すでに主は、アブラムに対して、あなたから生まれる者が現れる約束をしていた。アブラムは主を

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