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たかぱん
2024年4月26日 12:20
詩編78:12-31 「しかし、彼らは」神に背を向けました。そもそもイスラエルは、神に導かれ、恵みを受けて来たのです。ここには出エジプトの歴史から語られます。詩人は歴史を丁寧に辿り、如何に神が民を愛しく導いてきたかを描きますが、人々は神に逆らいます。神に背きます。つまり、それを「罪」と呼ぶのが、聖書の聖書らしいスタンスでありました。 「しかし、神は」がこれに応答されてきます。こういうふう
2024年4月16日 11:43
詩編100:1-5 「全地よ」と呼びかけた相手は、人のことなのでしょうか。それとも被造物すべてであるのでしょうか。さしあたり人なのでしょうが、「主が私たちを造られた」というとき、「私たち」がどこまで及ぶのか、考えさせられます。この詩は、ダビデの作だとはされていません。「私たち」についても、どう受け止めてよいか難しいものです。 でも、イスラエルだけに対する呼びかけではないように思えてなりま
2024年3月9日 10:09
詩編134:1-3 エルサレムの神殿へ詣でるということは、信仰篤い人々にとり、大きな喜びであったことでしょう。一年に一度の楽しみであったかもしれません。中には一生に一度という人がいたことも予想できます。日本にも、伊勢参りというものがありましたし、旅もままならぬ時代、旅が危険だった人々にとり、一大イベントであったに違いありません。 そのときに声を合わせて歌ったのか、そのために作られたのか、
2024年3月7日 11:38
詩編42:2-12 「私の魂よなぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、神をほめたたえる「御顔こそ、わが救い」と。わが神よ。」これが繰り返されました。そればかりか、43編にもこれが現れ、結ばれます。元はつながっていたと解する研究者が多くいます。しかし、別々だとしても問題はないと思います。こちらには裁きの気配はありません。 窮状を訴えてるこの詩は、まず涸れ谷の鹿を描きます。長
2024年2月6日 11:17
詩編143:7-12 143編は、いつ見ても、かつての大きな闘いを思い起こさせます。自分の思いで動くことはよくない。この詩の指し示すままに、私たちは身を委ねていました。「歩むべき道を知らせてください」と主に魂を向けていました。「御旨を行うすべを教えてください」と叫んでいました。しかし、このダビデの名が付せられている詩は、もっと悲惨です。 「私の霊は絶え果てました」とまで追い詰められている
2024年1月27日 09:58
詩編90:1-7 「神の人モーセの詩」。こんな言葉付せられているのは、この詩だけです。モーセの詩といえば、申命記33章に、イスラエルの各民族へ向けた祝福の言葉が思い起こされます。今回は、まず「祈り」と書かれています。モーセが神へ向けて発した言葉なのです。「わが主よ」から詩は始まり、永遠の神であり、イスラエルの住まいはここにしかないとします。 主の業により世界は造られ、いまのように置かれま
2024年1月23日 11:15
詩編119:9-16 詩編はいったい神の言葉と言えるのかどうか、考えることがあります。神からの言葉が書かれていない場合があるからです。そこにあるのは、人間の信仰表明です。長大なこの119編は、一つひとつの節に、神の「言葉」を指す語がほぼすべてにわたり含まれるという、特殊な形で成り立っています。その意味では確かに神の「言葉」であるのでしょう。 主の道を歩む者でありたい。しかし人間にそういう
2024年1月7日 10:22
詩編65:6-14 自然と人間との関わりは、必ずしも牧歌的なものだとは言えません。自然を破壊する人間ということは一旦伏せておきます。自然は、嵐を以て人間を痛めつけもします。実のところ、自然が痛めつけようとしているわけではありません。文字通り「自然に」そうなっているだけです。しかし詩人は、そこに神の意図を見いだします。 神が自然を動かしている、というのです。時に、神のそのようなあり方を、詩
2024年1月1日 11:14
詩編19:1-10 擬人法などという用語を意識していたかどうか、私は知りません。箴言では、知恵なるものが自在に活動し、意志をもっています。あるいは、神をこの知恵という名で登場させているとの感覚があるとするならば、擬人法というよりも、初めからあるものを具体的な姿に見立てて描いている、と言ったほうがよいかもしれません。 しかし、詩人の見ている天は天、空は空です。しかも、並べ立てられているとき
2023年12月10日 10:30
詩編126:1-6 ペルシア王キュロスの政策により、バビロンに捕囚されていたエリート層を中心とするユダヤ人たちは、祖国に戻ることが許されました。ユダヤ人はこれでキュロスを、救世主とさえ崇めました。恐らくその出来事のことを歌っているものと思われます。再びシオンに還ることができたので、まるで夢を見ている人のようになった、というのです。 笑みが沸き、喜びの歌が戻ります。主なる神に対する一途なつ
2023年10月3日 12:06
イザヤ12:1-6 短い一章です。詩編の一つであってもよさそうなものに見えます。詩人たちもまた、預言者の一人なのでしょう。ここはイザヤ。数々の預言を発し、イスラエルの思想に多大な影響を与えた預言者です。そればかりか、新約のメシアの姿を決定づけたと言っても過言ではない、偉大な証言者でもあります。新約聖書での引用もイザヤ書が最多クラスです。 詩人の、主への賛美と、イザヤからの賛美には、少しば
2023年8月26日 07:59
詩編4:1-9 わが義の神。救いをなす神。祈りと呼びかけに応えよと求めているのではありますが、私を苦しみから解き放してくださった、とも言っています。先取りのようにも見えますが、すべて同じ一つのことだと捉えることもできるでしょう。ダビデの詩とされていますが、神への信頼の様子は、正にダビデらしいものだと思われます。 しかしまた、視点を換えて「人の子ら」にも呼びかけてきます。空しいこの世のもの
2023年8月14日 07:21
詩編62:8-13 「私の魂はただ神に向かって沈黙する」と始まる第62編の詩は、人を陥れる者を前にして、頼りになると思います。救いが神にのみあることは、もちろん初めから分かっているはずです。そう告白しています。しかし私たちは、実際の問題の場面で、それを忘れがちです。目の前の現象にすっかり心を奪われて、うろたえないように、頼りとしましょう。 詩人ダビデが、「どのような時にも神に信頼せよ」と差し向け
2023年8月12日 10:37
詩編27:1-6 ダビデの詩であるとすると、ダビデは今ピンチです。「誰を恐れよう」との反語で勇ましく立ち上がっていますが、実は誰かを恐れている姿を意識しているからこそ、そう言うのです。「わが光、わが救い」と叫ぶのは、それが現実の目の前に見当たらないからです。「誰におののくことがあろう」と言うからには、恐ろしいものに直面しているのです。 肉を食らおうと近づく者が、そこにいます。たとえばサウ