見出し画像

なおも神をほめたたえる

詩編42:2-12 
 
「私の魂よなぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、神をほめたたえる「御顔こそ、わが救い」と。わが神よ。」これが繰り返されました。そればかりか、43編にもこれが現れ、結ばれます。元はつながっていたと解する研究者が多くいます。しかし、別々だとしても問題はないと思います。こちらには裁きの気配はありません。
 
窮状を訴えてるこの詩は、まず涸れ谷の鹿を描きます。長閑な風景ではありません。飢え渇き、死にそうなのです。命が涸れているのであり、苦しいのです。それほどに、私の魂は神を求めている、というのです。これは生ける神。この神を信じる私に対して、人々が何と言っているか。「あなたの神はどこにいるのか」という刃のような言葉です。
 
こんな上品な日本語で表現してよいものでしょうか。神がいるなら見せてみろ。エリヤが、バアルの預言者を嘲笑ったときの、あの風景が思い浮かびます。が、ここではもう少し深刻です。いま私は、「敵の虐げの中を嘆きながら」歩いています。神の家へ仲間と共に歩んだ思い出も空しく思えるほどに、敵に言われ放題の状態です。
 
イスラエルの歴史の中のどの時だろうか、と詮索する必要はありません。また、詮索してはなりません。他人事の問題として、これを眺めてはならないのです。「神を待ち望め」と詩人は意を決します。「私はなお、神をほめたたえる」とのリフレインは、決して単なる強がりではないのです。私たちもこうありたいではありませんか。
 
それでもなお、と主に向き直り、主とつながりを保ちたいではありませんか。美しい詩的表現が並んでいますが、いまは取り上げません。私と共に主の歌があります。それは、主が私に送ってくださったからです。ここに目を留めたいと思います。歌は、自分の中から絞り出すものではなく、神が与えてくださるものだ、と知るのです。
 
この歌は、神への祈りです。「なぜ私をお忘れになったのか」と嘆くのは、一見不信仰の極みのようですが、そもそも不信仰なら、神へ訴えることすらしないはずです。神を信じているからこそ、神に向かって嘆くのです。神がいるならここに出してみよ、私に対するそういう敵の声をも、神はもうすでに聞いていてくださるはずなのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?