#復活
どこか無邪気な復活劇
ヨハネ20:19-23
復活したイエスは、ヨハネ伝では、マグダラのマリアにしか、まだ姿を現していませんでした。ペトロともう一人の弟子が空の墓は見て知っていました。この二人はしかし、まだ十分理解していなかった、とヨハネは記しています。こうした弟子たちは皆、ユダヤ人たちの襲撃を恐れていたのか、さる家へ閉じこもっていました。
部屋に鍵をかけていたというのは、心にも鍵をかけていた、と言っているの
イエスは教会と共にいる
マタイ28:16-20
復活したイエスは、墓へ来た女たちに出会います。女たちは、まず空の墓を見ました。天使が現れて、イエスは復活した、と女たちに告げました。先にガリラヤへ行っているから、そこで会えるだろうというのです。女たちは、恐れながらも大喜びだという複雑な感情を胸に、弟子たちのいるところへと走りました。走ったというのです。
イエスは、その行く手に立っていて、女たちはイエスに出会います
マリアたちの経験が私の経験となる
マタイ28:1-6
安息日が明けて、二人のマリアが墓を訪ねます。マタイはそう記します。二人は、墓穴の入口が大きな石で蓋されるのを、先に見ていました。マタイでは、翌日に祭司長たちやファリサイさの面々が、ピラトに申し出たことが描かれています。墓を見張っておくべきことを提言し、受け容れられました。何人か知れませんが、複数の番兵が付けられました。
二人のマリアが主の天使の現れに遭遇したとき、この
ラザロの許へ行く光の道
ヨハネ11:1-16
ヨハネ伝特有の記事ですが、ラザロの死は、11章全体で取り上げられており、一つの大きな記事であるように思われます。きっと、その復活こそが大きいのではなくて、当局のイエスへの姿勢が凶暴化する契機としての意味が、強かったのでしょう。マルタとマリアという姉妹と兄弟ラザロ。3人での暮らしは、何か曰く付きであるような気もします。
ラザロは、このエピソードでは物言わぬ人ですが、病
復活のイエスに出会う
ヨハネ20:19-23
その日が週の初めの日であることを、わざわざ説明しています。すでに礼拝として信徒が集まる日は、主の復活の曜日、安息日の明けた朝になっていたことを前提としているように思われます。そのいわば最初の集まりという場面です。但し、礼拝というよりも、単に隠れていたのだ、と言ったほうがよいでしょう。命が狙われているかもしれないのです。
イエスが処刑された。そのイエスの遺体がなくな
マリアが私の物語になる
ヨハネ20:11-18
イエスが葬られて3日目の朝のことです。ペトロたち2人は、マグダラのマリアの報告を聞いて、イエスの墓に駆けて行きました。マリアの言ったとおり、墓は蓋が開いていました。2人が見ると、墓の中は空でした。1人は何かしら「信じた」のですが、イエスの復活については、まだ理解していなかったことが記録されています。
2人は、家に帰って行きました。復活のリアリティは、当然ありません