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重なりあう二つの歴史【イクスピアリおたのしみマニュアル①】

イクスピアリとは、JR舞浜駅直結のショッピングモールである。
東京ディズニーランド、東京ディズニーシーの近くに存在するこのショッピングモールは、「東京ディズニーリゾート」の中の一施設。ディズニーランドと同じ会社が運営している商業施設なのである。

日本国内に数多あるショッピングモールの中でも一味違うイクスピアリ。この記事では、イクスピアリの歴史、デザイン、そして商業施設を取り巻く現代の環境などの様々な視点から、「ディズニーランドに入らないディズニーリゾートの楽しみ方」を提案する。
なおこの記事は二部構成になっており、前半にあたる今回は、イクスピアリの基本事項を確認した上で、この商業施設に二重に存在する「二つの歴史」に迫る。そして後半の記事では、ショッピングモールとディズニーパークの意外な関連性に触れ、イクスピアリを解釈していく。


イクスピアリとは「街」である

イクスピアリとは、体験を意味するExperience(イクスペリエンス)とペルシャ神話に登場する優しく善なる妖精peri(ピアリ)の2つの言葉から作られた造語。
海辺の街が交易を通じて世界中の人々と触れ合い、独自の物語と歴史に基づいて形成された建築デザインと街並みは、他に類を見ない商業施設です。

コンセプト|施設案内|イクスピアリ・IKSPIARI

今となっては当たり前のような「コンセプト型ショッピングモール」だが、その中でもイクスピアリほど独創的なものは類を見ないだろう。

イクスピアリを経営するのは「株式会社イクスピアリ」であり、東京ディズニーリゾートを運営する株式会社オリエンタルランドの子会社だ。
この会社の事業内容は主に「DV事業」と「直営事業」なのだけれど、彼らはこれをそれぞれ「街づくり」に「店づくり」と呼んでいる。言わば、ディズニーランドが従業員を「キャスト」=演者と呼んで、ディズニーパークを「青空を背景にした巨大なステージ」に見立てているのと同じである。

ディズニーランドが「遊園地」と「物語」を組み合わせたように、イクスピアリは「ショッピングモール」と「街」を掛け合わせた。つまり、一つのショッピングモールを複数の地区=「ゾーン」に区切り、それぞれ全く異なる外観をまとわせ、それぞれに歴史と物語を与え、適したテナントを誘致している。
例えば、1階の「ガーデン・サイト」は、緑を中心としたアール・ヌーヴォー調のデザインでガーデンの雰囲気を醸し出している。店舗は自然派レストランやリラグゼーション施設、生活雑貨の店などが集っている。一方、2階の「シアター・フロント」は「夜のショービジネス街」が舞台となっており、リラグゼーションとは真逆。テーマ色の強いレストランや「シネマイクスピアリ」、ファッションアイテムを扱う店が並んでいるのだ。

ガーデン・サイト
ガーデン・サイト内の「タリーズコーヒー」
シアター・フロント
シアター・フロント内の「KUA'AINA」

「世界中どこにもない“街”を創造する」ことを使命とする株式会社イクスピアリだが、近年はマクドナルドやスターバックス、ダイソーなどの店舗を次々誘致してきた。いやー! 世界中どこにもない“街”を創造できそうだなあ!
こういう傾向を批判する以前からのファンは多いのだけれど、マクドナルドは「世界中の食材や織物、書物などあらゆるものを取引する市場」を舞台とした「ザ・コートヤード」に設置し、スターバックスは歓迎ムードあふれるイクスピアリの玄関口「トレイダーズ・パッセージ」に設置するなど、まだ良心があるものだ。ダイソーですら、通路が狭く閉鎖的な「トレイル&トラック」にある。

ザ・コートヤード内の「マクドナルド」

イクスピアリと戦いの歴史

さて、株式会社イクスピアリのホームページをよ〜く見てみると、「株式会社オリエンタルランドが初めて本格的に手がける独自の事業として企画され」たとある。

実はこの文言に、イクスピアリのある意味で“最も面白い”ストーリーが詰まっている。この地にはある「戦いの歴史」があるのだ。
それは、株式会社オリエンタルランドとディズニー社による「東京ディズニーリゾート」プロジェクトをめぐる戦いの歴史なのである。

スグわかる“東京ディズニーリゾート”

「そもそも、東京ディズニーリゾートって何なの?」という方もいらっしゃるだろう(そういう方にもこのnoteを読んでほしいという個人的な願いもある)。また、「我、筋金入りのディズニーオタク也」と自称する方でも、なんとなく見知っている「東京ディズニーリゾート」の定義は一度知っておいて損はないのである。
ここでは、「東京ディズニーリゾート」という語の定義を確認しよう。

どうやら公式ホームページを見ても「東京ディズニーリゾート」の定義は載っていないようである。そこで、このリゾートを運営する株式会社オリエンタルランドのホームページに向かう。

“夢がかなう場所”、東京ディズニーリゾート。ここはそれぞれが明確に異なるテーマと楽しさを持つ個性的な施設の集まりでありながら、エリア全体としては調和のとれた時間と空間が創出される場所です。東京ディズニーリゾートで生みだされる複合的かつ高品質なアメニティ、ホスピタリティ、そしてエンターテイメントに満ちあふれた体験が多くのゲストの夢をかなえ続けています。

施設概要 | 東京ディズニーリゾートについて | 株式会社オリエンタルランド

すげえ、何一つ具体的なことを言っていない
株式会社オリエンタルランドは、ディズニー・エンタプライゼズ・インク(ざっくり言うと「ディズニー社」)のライセンスを受けて、ディズニーブランド施設の運営を許可されている。

1960年代中ごろから始まったレジャーランド構想の検討作業では何回か修正が施されたのち、最終案である「オリエンタルランド(レジャー施設)基本計画」が、1974年に千葉県に承認されました。メインテーマを「すばらしい人間とその世界」としたこの基本計画は、テーマ性を備えたプレイランド(テーマパーク)、ホールエリア、ファッションスクエア、ホテルなどが集積した画期的な総合レジャー施設構想でした。

株式会社オリエンタルランド創成期 | OLCの沿革・歴史 | オリエンタルランドについて | 株式会社オリエンタルランド

オリエンタルランドは当初、千葉県浦安市の埋立事業を行ってその上に「商業施設」「生活域」そして「レジャー施設」の建設を行う企業として設立された。
彼らの使命は舞浜地区全体の“独自開発”である。オリエンタルランドの人々は当初、このエリアを「舞浜リゾート」と呼んで実現を目指していた。

1970年代、オリエンタルランドは、アメリカ合衆国カリフォルニア州にある「ディズニーランド」を、「舞浜リゾート」中心部のレジャー施設として採用しようと、誘致活動を行う。東京ディズニーリゾートの歴史は、我らが「東京ディズニーランド」から始まったのだ。
1983年にオープンした「東京ディズニーランド」は単なる遊園地ではなく、日本初の「テーマパーク」であった。テーマパークというのは、遊園地を特定の一貫したテーマで飾り付け、ナラティブ(物語)の機能をつけたもののことであった。

さて、東京ディズニーランドの大成功の直後──1990年代に入ると、オリエンタルランドとディズニー社は具体的な成長戦略を企画した。これが、東京ディズニーランドに続く第2のテーマパークを含む、「リゾート地」開発の計画である。
2001年9月4日にオープンするのが、第2テーマパークの「東京ディズニーシー」。この一大イベントに向けて、2000年7月7日には商業施設「イクスピアリ」およびホテル「ディズニーアンバサダーホテル」がオープン。2001年3月1日にはディズニーグッズ専門店「ボン・ヴォヤージュ」が登場。7月27日にはゲストの輸送機関として「ディズニー・リゾートライン」が開通した。
これらを以て、東京ディズニーランドは「テーマパーク」から「テーマリゾート」に生まれ変わった。テーマパークと同様の論理で作り上げられたリゾート地である。

オリエンタルランド社の「使命」と「主権」争い

戦いの火蓋が切って落とされたのは1990年代。東京ディズニーランド成功ののち、第2テーマパークを中心とした「舞浜リゾート」の開発に勤しんでいた加賀見俊夫氏(通称かがみん)は当時、株式会社オリエンタルランドの社長であった(会長を経て現在は取締役会議長)。彼はディズニー社との書簡のやり取りの中で、「東京ディズニーリゾート」という呼称が突如出現していることに気がついた。

おそらくディズニー社の社内ではすでにこの名称が流布していたのだろう。だが、私は困惑した。そもそもここは「舞浜リゾート」であり、ディズニー社が一方的に名前をつけてよいものではないのである。(中略)。ここで当社の姿勢をはっきり示しておかなければと思った。(中略)。
「だれがいつこの名称を認めたのか。当社では『東京ディズニーリゾート』と名づけたつもりはない!」

加賀見俊夫『海を超える想像力─東京ディズニーリゾート誕生の物語』206ページ

結果としてオリエンタルランドは「ディズニーランド誘致」という選択肢を取ることが最善だと判断した。しかし、それはあくまで手段でしかなかったはずである。「舞浜リゾート」はオリエンタルランド社の計画であって、東京ディズニーランドと次なるテーマパークは、あくまでその一部に過ぎない。加賀見氏には当初、「東京ディズニーリゾート」という呼称が受け入れ難かったのである。
こうした確執は具体的なリゾートプランの上にも影響が表れていた。

当初、オリエンタルランド独自のプランでスタートしたイクスピアリ内のホテル開発だが、このプロジェクトにはほかならぬディズニー社から強いクレームが入った。同時進行していた第二パークのクリエイティブ作業を一方的に中止してまで、彼らはホテルの開発にこだわっていた。
ディズニー社の思惑は明らかであった。彼らはもともと舞浜を全域「ディズニーリゾート」にしようと考えていたのである。

加賀見俊夫『海を超える想像力─東京ディズニーリゾート誕生の物語』180〜181ページ

ここでいう「第二パーク」とは後の「東京ディズニーシー」のことであるはずだ。しかしディズニー社にとって、ディズニーブランドを冠したホテルはある意味でテーマパーク以上に重要なものだったのである。

ディズニーアンバサダーホテル

ディズニー社の得たもの

この勝負の結果はどうだったのだろうか?
結果は引き分け、二勝二敗、そして引き分けが一つであった。

まずは、ディズニー社の獲得した二点のハイライトをご覧いただく。
ディズニー社が獲得した一点目は何よりも、「東京ディズニーリゾート」という名称を勝ち取ったことだろう。
加賀見氏は後にこの名称を受け入れ、以下のように書き綴っている。

われわれがどれほど独自開発にこだわったところで、訪れるゲストにその意図が通じるとは限らない。顧客のイメージやニーズ、それこそが大切なのである。舞浜を世界に冠たる一流リゾートにするためには、ディズニーブランドの力を借りる柔軟性も大切ではないか。

加賀見俊夫『海を超える想像力─東京ディズニーリゾート誕生の物語』207ページ

この書籍の中で語られることだが、加賀見氏は株式会社オリエンタルランドの初期メンバーなのである。三名しかいない社員のなかでも帳簿をつける役割だったという加賀見氏は、経理の観点から舞浜リゾートを見ていた。彼ならではの舵取りだったとも言えるだろう。

ディズニー側の二点目といえば、同書籍内で「イクスピアリ内のホテル」と呼ばれているこれを「ディズニーアンバサダーホテル」として開業したことだろう。
オリエンタルランド社が独自開発していたこのホテルについて、加賀見氏は「当初私たちはアンバサダーホテルにディズニーの冠をつけることに反対だった」とも発言している(163頁)。

ところで、ディズニー社はどうしてこれほどまでにホテルにこだわるのか? それは至極単純な「ブランド」と「お金」という二つの理由からである。
第一の理由「ブランド」については、前回の記事で触れたとおりである。実はディズニー社にとって、ディズニーパークの周囲に自身の目の届かないホテルを置くことは、古傷に塩を塗られるも同然なのである。
例えば能登路雅子氏は、ウォルト・ディズニーの以下の発言を翻訳して引用している。

何百マイルという距離をはるばる運転してここにお客さんがやってくるのは、我々が長年かけてつくりあげた質の高いイメージのためだ。ところが、その道筋の安ホテルは料金を必ず三倍にハネ上げる。そういう光景を私はこの目でみてきたし、それは私にとって耐えがいことだ。我々のイメージに泥を塗られるからだ。

能登路雅子『ディズニーランドという聖地』210ページ

この発言は、1955年にオープンしたディズニーランドの後、1971年にオープンしたウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートについて言ったものである。このリゾートは、山手線円内の1.5倍ともいう敷地面積を誇り、その中には30にものぼるディズニー直営ホテルが存在している。
第二の理由はシンプルだ、「お金」である。ディズニー社はディズニーホテルがすごく「ビジネスになる」ことを知っていた。一方のオリエンタルランド社は、ディズニーブランドホテルの収益力を甘く見ていたのだ。

そもそも、われわれがはじき出していた稼働率と収入規模と、彼らのそれとでは大きな隔たりがあった。われわれが出した数値では、ディズニー社の要求するロイヤルティーなど、とうてい払えないことになる。だが、彼らの計算は違った。ディズニーブランドの持つホテルの収益力の高さを、彼らはアメリカの実績に基づいてはじいていたのである。

加賀見俊夫『海を超える想像力─東京ディズニーリゾート誕生の物語』181ページ

オリエンタルランド社の得たもの

では、株式会社オリエンタルランドが勝ち取った二つのものとはなんだったのか?

第一に、オリエンタルランド社が「東京ディズニーシー」の主導権を握ったことは大きいだろう。
東京ディズニーシーの内容にオリエンタルランド社が大きく立ち入っていることは、あまり知られていない。ディズニー社での会議には、オリエンタルランド社内から5名の社員が派遣された。「海を超える想像力」によれば、「ディズニー社に日本人の考え方と当社がこのパークに求める魅力や独自性を伝え、納得させること」が彼らの使命であった(116頁)。
東京ディズニーシーの象徴である「ディズニーシー・アクアスフィア」=入り口のクソデカ地球儀は、東京ディズニーランドを成功に導いた高橋政知社長(当時)の提案であり、5名の社員はこの案を死守した。
また、東京ディズニーシー全体に漂うロマンチックな雰囲気は、加賀見氏自身が「モア・ロマンティック!」と二言で主張して直談判したものであった。ティーンエイジャーや男性に向けた冷たい印象のパークを、ある意味では加賀見氏が作り替えたのである。

ところで、2001年にオープンしたディズニーパークは二つある。「東京ディズニーシー」ともうひとつ、カリフォルニア州のディズニーランドの向かいに建つ「ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャー」だ。
この二つのテーマパークのクオリティには雲泥の差があっただけでなく……実は、そのことが公式にも認められているのだ。
ディズニープラスの『イマジニアリング〜夢を形にする人々』では東京ディズニーシーについて、「莫大な資金が必要で埋立地に作るのは難し」いにも関わらず「驚いたことにアイデアは受け入れられた」と語られている(S1,E4,27:23)。ディズニーパークを造るイマジニアたちは「“第2のディズニーランドを造るぞ”と意気込んだ」のだそうだ(S1,E4,26:56)。

「東京ディズニーシーにテーマパークの女神は微笑み コンセプトも経費もゲストの満足度も合格でした」と、東京ディズニーシーのコーナーは締め括られる。しかし、「同じ創作的自由と資金援助は本国では得られません」(S1,E4,30:53)。時のウォルト・ディズニー・カンパニー社長であったポール・プレスラーは方針を大転換、テーマパークではなくマーチャンダイズを主力に据え、テーマパーク部門の規模を縮小しにかかった。そんな時代に生まれたテーマパークが「ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャー」だったのだ。
伝説のイマジニアことジョン・ヘンチはこのパークの感想を聞かれて、「“昔の駐車場の方がよかった”と言った」らしい(S1,E4,43:18)。また、2007年から12年まで同パークのクリエイティブ・リーダーを勤めたボブ・ワイスも開園当初を振り返り「カリフォルニア・アドベンチャーには人気のアトラクションはいくつかあったが全体としては失敗だった」と語っていた(S1,E5,5:29)。

イクスピアリに託されたオリエンタルランドの夢

さて、東京ディズニーシーに次いで第二にオリエンタルランド社が守り切ったものこそ、「イクスピアリ」だったのである。
ディズニー社に支配されず、互いに協力関係を維持しながらよりよいものを作る。オリエンタルランドが夢見た「舞浜リゾート」の名残こそ、このイクスピアリなのだ。

イクスピアリの偉人
3人の偉大な男たちの想像、勇気、そして熱意により、イクスピアリは今日の姿となった
加賀見俊夫 高橋政知 加藤康三

エントリー・プラザのプレート(訳は筆者)
「シアター・フロント」内の広告(加賀見俊夫氏および加藤康三氏の名前がある)

ちなみに、高橋政知氏は東京ディズニーランド開園時のオリエンタルランド社社長のこと。加藤康三氏は彼の次の社長で、株式会社イクスピアリほか多数子会社の設立に関わった。彼の次の社長が加賀見俊夫氏である。

ここまでの話を踏まえれば、株式会社イクスピアリの主張する「株式会社オリエンタルランドが初めて本格的に手がける独自の事業」という文言の重要さがわかっていただけるのではないだろうか。
イクスピアリは、オリエンタルランドが思い描いていた「舞浜リゾート」の名残であり、オリエンタルランドが「舞浜リゾート」に込めたテーマが結晶しているのである。

イクスピアリとは、体験を意味するExperience(イクスペリエンス)とペルシャ神話に登場する優しく善なる妖精peri(ピアリ)の2つの言葉から作られた造語。
海辺の街が交易を通じて世界中の人々と触れ合い、独自の物語と歴史に基づいて形成された建築デザインと街並みは、他に類を見ない商業施設です。

コンセプト|施設案内|イクスピアリ・IKSPIARI

冒頭に述べた通り、イクスピアリは架空の歴史を伴った街としてデザインされている。こうしたテーマが選ばれたのは一体どうしてだろうか?

『海を超える想像力─東京ディズニーリゾート誕生の物語』によれば、株式会社オリエンタルランドと共に“舞浜リゾート”全体のプランを担当したのは、台湾系アメリカ人のポール・マー氏であった。
彼は加賀見氏(かがみん)をサンフランシスコの南にある「カーメル」という街に視察に連れて行ったという。これがイクスピアリの原風景となったのである。

細い路地はどこまでも続いていて、とんでもないところにパティオがあり、そこには模型の店が開いていた。ここにたどりつけるのは相当カーメルを知っている人だけであろう。だが、店にはちゃんと人が入っているし、店主も堂々としたものだ。入り口に大きな看板があるわけではなく、ひと目で模型だとわかるセンスのよい、しかし小さな看板があるだけである。人々はこれを見て興味を惹かれ、路地の奥まで導かれるのだ。
日本のショッピングセンターを見慣れた私の目には、とても信じられない光景であった。派手なアイキャッチと単純で明確なストリートが商売の鉄則として重宝される日本。それとの余りの違いに驚かされた。

加賀見俊夫『海を超える想像力─東京ディズニーリゾート誕生の物語』165〜166ページ

彼はまた、この光景を京都に重ねている。京都には「細く入り組んだ路地、看板の目立たない通だけが知る店。それを発見する楽しみ」があるとし、「日本人はいつのまにかこういう発見の楽しみを忘れているのではないだろうか」と綴っている(同書籍166頁)。
加賀見氏はこの経験を踏まえ、「路地の楽しさを舞浜に」というコンセプトを掲げ、「わかりにくい」という社内の批判に耐えつつイクスピアリを完成させたのである。
「海を超える想像力」第8章のタイトルは「独自開発の街 イクスピアリ」。この章につけられたキャプションは以下のようなものだ。

おみやげよりもここでしか買えないもの、リゾートにおけるショッピングやダイニングの楽しさを展開したいと思っている。自分のためにお金を使う、自分にとって心地よいことやモノを、この街に集めるのだ。

加賀見俊夫『海を超える想像力─東京ディズニーリゾート誕生の物語』161ページ
路地の楽しさを舞浜に(ミュージアムレーン)

ミッキーマウス「みんな仲良く!」

あ、ちなみに「引き分け」ってなんだったの?
それは「ボン・ヴォヤージュ」のことである。これは、JR舞浜駅から東京ディズニーランドに向かうデッキの途中に位置する、園外のお土産ショップのことである。
このお店、ディズニー社との周辺地域開発交渉の最中、担当者の田丸氏が提案した“打開策”だったとのこと。

「加賀見さん、ここに実は使われていない土地があります。オリエンタルランドがここにディズニーグッズを売る店を出すといったら、ほかの件では譲歩するのではないでしょうか?」

加賀見俊夫『海を超える想像力─東京ディズニーリゾート誕生の物語』197ページ

この案は加賀見氏だけでなく、ディズニーランド・インターナショナル社のコーラ社長も賛辞を送ったという。このことが交渉を推し進める起爆剤となったというから、現在の東京ディズニーリゾートが存在するのは「ボン・ヴォヤージュ」のおかげかもしれない。

ボン・ヴォヤージュ

イクスピアリを歩こう!

さて、いよいよお待ちかね! 街としてのイクスピアリはどんなものか、ちょっと覗きに行ってみよう。「カーメルのように、わざわざ時間を作って人々が訪れる街にしたいのだ」と加賀見氏の言うイクスピアリはたしかに、近年のテナントの迷走を差し引いても楽しい街である。

イクスピアリの歴史

具体的にそれぞれのエリアを見ていく前に、イクスピアリの街の成り立ちを確認しよう。イクスピアリには、これまでみてきたような商業施設としての歴史以外にも、街としての歴史が反映されているのだ。
ゲストはショッピングやダイニングを楽しみながらこうした歴史の痕跡を見つけていくことで、イクスピアリ散策は街の観光として楽しめる仕組みになっているはず

角川書店が発行していたタウン情報誌「千葉ウォーカー」の特別号として、『イクスピアリパーフェクトガイド』というものがある。ここに記載されているイクスピアリの歴史は大きく四つの時代区分に分かれている(それぞれ筆者が要約した)。

  1. 創成期
    船大工と航海士の時代。彼らの腕を聞きつけて世界中からやってきた人々により街が賑わっていく。世界各国の文化を取り入れたことで「ザ・コートヤード」や「ミュージアム・レーン」が発展、また、世界中からアーティストや音楽家が移り住み始めたことで創作の街としても発展し「グレイシャス・スクエア」や「シェフズ・ロウ」が誕生する。

  2. 発展期
    交易と創作の時代。移民が増加し、街の中心部に鉄道駅ができる。「トレイダーズ・パッセージ」は当時のコンコースである。人が増えたことでスポーツやゲームが流行し、「トレイル&トラック」の原型を作る。

  3. 近代
    エンターテイメントと美意識の時代。盛り上がりを見せるイクスピアリに世界中からクリエイターが集まり、「シアター・フロント」や「B'ウェイ」そして「グレイシャス・スクエア」を発展させる。また、街の熱気が落ち着いた頃、アーティストが「ガーデン・サイト」で庭園文化を花開かせる。

  4. 現代
    我々が訪れる時代。創成期の名残である「ザ・コートヤード」および「ミュージアム・レーン」、発展期の「トレイダーズ・パッセージ」と「トレイル&トラック」、近代の「シアター・フロント」や「B'ウェイ」、そして芸術家や音楽家の愛した「グレイシャス・スクエア」や「シェフズ・ロウ」、「ガーデン・サイト」が連なる。

さて、以上の歴史を参照しながら、イクスピアリの全体の構造を見てみよう。

「タウンエリア」と「シネマエリア」

どうやらイクスピアリの街は、JR舞浜駅方面からディズニー・アンバサダー・ホテル方面に向かって発展して行ったらしい。そのことは、イクスピアリが「タウンマップ」=町内地図と呼んでいるいわゆる「フロアマップ」を参照するとわかる。
イクスピアリは大きく分けて二つの地区に分かれている。舞浜駅に近い「タウンエリア」と、ディズニー・アンバサダー・ホテルに近い「シネマエリア」である。そして、「セレブレーション・プラザ」という広場がこの二つのエリアの中心に位置している。

イクスピアリの仕組み(筆者作成)

「タウンエリア」に属するのは、1階の「ザ・コートヤード」「ミュージアム・レーン」「グレイシャス・スクエア」「シェフズ・ロウ」、そして「トレイダーズ・パッセージ」に「トレイル&トラック」といったイクスピアリの比較的古いゾーンである。これらのエリアは、イクスピアリの街に初期から住んでいた船大工や船乗りの住居兼仕事場であり、あるいは芸術家や音楽家が暮らした地域である。ある意味でイクスピアリの原風景と言えるだろう。
「タウンエリア」は、2階に直線的に走る「トレイダーズ・パッセージ」といわゆる側道にあたる「ミュージアム・レーン」がメインである。「トレイダーズ・パッセージ」が「セレブレーション・プラザ」に出る河口に位置する部分には「トレイル&トラック」ができている。この2階の入り組んだエリア間をくまなく通路で繋がれているので、「路地の楽しさ」に溢れている。

トレイル&トラック
ミュージアム・レーン
グレイシャス・スクエア
シェフズ・ロウ

また反対に「シネマエリア」に属しているのは、いずれも近現代になってから生み出された「シアター・フロント」「B'ウェイ」そして「ガーデン・サイト」などである。このエリアは、イクスピアリが世界中の耳目を集め、人々を招集してエンターテイメントの街として発展してきた頃のものだ。後に紹介するが、「シアター・フロント」はネオン輝くエンターテイメント街をイメージしていて、反対側にあたる「B'ウェイ」は劇場の舞台裏という設定。ある意味でよそ行きの姿と言えないこともない。
シネマエリアの中央には、1階から3階にかけて巨大なシネマコンプレックス「シネマイクスピアリ」が鎮座している。街路はそのまわりを囲むように円形になっており、「シアター・フロント」が半分と「B'ウェイ」がもう半分を占める。丁度表舞台と裏舞台がデザインされているというわけだ。コンセプトに裏打ちされたシンプルながら独特な設計で楽しい、これもまたイクスピアリのおもしろさである。
階段を下った1階には「ガーデン・サイト」があるが、これは「オリーブの森」という中庭や「ディズニーアンバサダーホテル」に通じている。

B'ウェイ
オリーブの森

「ディズニーアンバサダーホテル」は当初「イクスピアリ内のホテル」として企画されていたが、これは「ガーデン・サイト」よりも更に奥に位置している。このことから考えるに、イクスピアリ文化の集大成として現代に建設されたホテルが「イクスピアリ内のホテル」だったのだろうか。オリエンタルランドが独自開発していたらどんなホテルになったのか……気になるところである。

混沌を楽しむ

今度は横から階層構造を確認しよう。
JR舞浜駅を訪れると、改札口を出て正面に階段があることに気がつく。舞浜駅のホームは3階、改札は2階に位置しているのだ。イクスピアリはこの改札口から地続きになっており、したがって2階がメインフロアになっていることに注意されたい。

「タウンエリア」と「シネマエリア」、両エリア間の移動は2階と3階でのみ可能になっている。一方で、1階と4階はそれぞれ独立しているのだ。
これもまた、イクスピアリの歴史を見ると納得するだろう。「ザ・コートヤード」と「ガーデン・サイト」はどちらも1階にあるが、両者は最も古いゾーンと最も新しいゾーンであるということになる。したがって、直接的なつながりはないのである。(ちなみに商業施設としては両者の間の部分に駐車場があり、「ザ・コートヤード」と繋がっている)。
また、3階で両エリアの移動が可能になっているのも理由がある。これは、3階の全ゾーンを指している「グレイシャス・スクエア」が、イクスピアリの創世期と近代の両時代に成長したからだろう。
4階には「シェフズ・ロウ」があるが、これはイクスピアリの中でも最も狭いエリアであって、「シネマエリア」に4階はない。

ウォルト・ディズニーの亡霊

ここまで、東京ディズニーリゾートを巡る戦いの歴史とその渦中にあったイクスピアリを見、つづいてイクスピアリの“街”にまつわる歴史を確認してきた。

ところで、『都市と消費とディズニーの夢──ショッピングモーライゼーションの時代』という書籍において、速水健朗氏は、ディズニーランドの生みの親であるウォルト・ディズニーとショッピングモールを結びつけている。
一体この二つのキーワードにはどんな関係があるのだろうか?
そして、東京“ディズニー”リゾートに位置していながら、オリエンタルランド独自の施設として生み出された「イクスピアリ」は、この関係性をどのように眺めているのか?

実は、「東京ディズニーリゾート」に位置するイクスピアリが「街」を模した商業施設であることは、非常に大きな意味を持っている。
このことを紐解くには、ウォルトがディズニーランドの次に思い描いていたプロジェクトについて理解せねばならない。そして、そのプロジェクトについて理解するには……ディズニーランドについて理解せねばならないだろう。

「ウォルト・ディズニーの亡霊」にオリエンタルランド社はどのように立ち向かうのか。

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希望か野望か、それとも陰謀か?【イクスピアリおたのしみマニュアル②】

第1回▶︎『重なりあう二つの歴史【イクスピアリおたのしみマニュアル①】』
第2回▶︎『希望か野望か、それとも陰謀か?【イクスピアリおたのしみマニュアル②】
第3回▶︎『曲がりくねった道をまっすぐと進むには【イクスピアリおたのしみマニュアル③】

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