希望か野望か、それとも陰謀か?【イクスピアリおたのしみマニュアル②】
本記事は、『重なりあう二つの歴史【イクスピアリおたのしみマニュアル①】』の続きもの。
イクスピアリとは、JR舞浜駅直結のショッピングモールである。
ディズニーランドと同じ会社が運営していて、日本国内に数多あるショッピングモールの中でも一味違うイクスピアリ。この記事では様々な視点から、「ディズニーランドに入らないディズニーリゾートの楽しみ方」を提案する。
前回はイクスピアリの基本事項を確認した上で、この商業施設に二重に存在する「二つの歴史」を解説してきた。イクスピアリが建設された背景にはオリエンタルランドが夢見ていた「舞浜リゾート」があり、同社とディズニーの間にはリゾート開発計画上の駆け引きがあったことを書いた。「舞浜リゾート」計画の生き残りであり、時の社長であった加賀見俊夫氏(通称かがみん)の肝煎りプロジェクトであったイクスピアリ。ここは、架空の歴史を持った「街」として演出されており、それが商業施設の構造にも関係しているのだった。
後半に当たる今回は、ディズニーパークとショッピングモールの意外な関連性に触れ、その延長線上にあるイクスピアリを解釈する。
『都市と消費とディズニーの夢──ショッピングモーライゼーションの時代』という書籍において速水健朗氏は、晩年のウォルト・ディズニーとショッピングモールを結びつけている。一見すると全く別のものに見える二者の間には、一体どのような関係があるのか?
そして、この両者の関係は、現代のイクスピアリにどう影響しているのだろうか?
ディズニーランドの陰謀論(ガチのやつ)
ディズニーランドの何がすごいの?
さて、突然だが、ディズニーランドはどうして多くの子供達に愛され、大人たちまで惹きつけるような場所になったのだろうか?
日本の東京ディズニーリゾートを見ていると……あるいは現代の世界のディズニーパークを見ていると、あたかも「ディズニー映画の世界」「ディズニーキャラクターとのふれあい」がその鍵であるように見える。
だが、少なくとも、1955年にオープンしたディズニーランドについては、全くそんなことはなかったと言える。
実は、ウォルトがディズニーランドを作った理由の中にその秘密が隠されている。
東京ディズニーリゾートのホームページには「親と子供が一緒に楽しめる場所があるべきだ」という章が掲載されており、以下のように語られる。
公式に書かれたこの記述だけを読むと微笑ましいが、実際はもっと生々しい。
ウォルトが父として当時に通った遊園地は彼(そして当時の大人たち)にとって嫌悪の対象であり、魅力のないものであったのである。
そんなわけでディズニーランドは、従来の遊園地とは一線を画す存在として構想された。
彼は様々な遊園地を調査して発見した「テーマ化」という技術によって、ディズニーランドを開園当初の形に作り上げたのである。
テーマ化とは、「ナラティブ(物語)を組織や場所に適用」し、「対象の物体に意味を吹きこむことで、実際よりも魅力的で興味深いものに変える」ことである(同書籍40頁)。この「テーマ」は多くの場合、外部から輸入される。東京ディズニーランドの場合、ファンタジーランドは「御伽噺」、ウエスタンランドは「西部劇」の要素を拝借していると言える。
先に引用したアラン・ブライマンの『ディズニー化する社会─文化・消費・労働とグローバリゼーション』では、「ディズニーランド以前の遊園地は、大半が様々なスリルを伴うライドの無秩序な寄せ集めだった」ことに触れ、「スリルよりもむしろテーマを強調することで、ウォルトはディズニーランドを伝統的な遊園地と差別化することができた」と書いている(同書籍50〜51頁)。
要約すると、「テーマパーク」とは「テーマ化が行われた遊園地」のことであると見て差し支えない。
しかしここで、一つの疑問が生まれる。ディズニーランドは「テーマ化」によって従来の遊園地との差別化を図り、大人たちの支持を集めた。だが、この「テーマ」には一体どのようなものが選ばれたのだろうか?(そして、選ぶ“べき”なのだろうか?)
冒険の国「アドベンチャーランド」、御伽話の国「ファンタジーランド」、未来の国「トゥモローランド」……と、ディズニーランドの各エリアには一見すると共通性がない。しかし、ここにはウォルトなりの意図があったのである。
彼は、ディズニーランド開園のスピーチで、次のように語っている。
この訳は有馬哲夫氏の著書『ディズニーランドの秘密』の中のもの。
有馬氏は、ウォルトがディズニーランドを作った目的を整理して、その一番地としてノスタルジーを挙げる。
ウォルトが直接手掛けた1955年のディズニーランドでは、入り口を抜けるとまず最初に巨大な駅舎が現れ、そこから白い煙を吐く蒸気機関車が発射してゆく。彼は「鉄道が文明の牽引車だったころの古きよきアメリカを再現し、その時代の精神を自分も振り返りたい、ゲストにも振り返ってもらいたい」と考えていたのである(同書籍26頁)(ちなみにこの蒸気機関車は「ディズニーランド鉄道」というが、日本では「ウエスタンリバー鉄道」として運営されているもの)。
駅舎のファザードをくぐるとそこには、「メインストリートUSA」という街路がある。ここには、ウォルトが幼少期を過ごしたマーセリンの街のメインストリートが再現されているのである(日本では「ワールドバザール」と呼ばれているよ)。
他にもディズニーランドには、アメリカ人にとっての冒険を象徴する「アドベンチャーランド」、開拓時代のスピリットを追体験できる「フロンティアランド」(東京では「ウエスタンランド」)などのエリアが作られた。アドベンチャーランドの「ジャングル・クルーズ」にしても、フロンティアランドの「蒸気船マークトウェイン号」にしても、これらのアトラクションはディズニーのアニメーションと一切関係がない。むしろ、アメリカ人が魅力を感じる熱帯のジャングルや、アメリカ合衆国の発展に尽力した外輪船の歴史がフィーチャーされるのである。
当時、ウォルトによるアニメーション映画の世界はせいぜい「ファンタジーランド」に留まっていたのだ。
また、若者たちはこうしたエリアでアメリカ史の勉強を済ませてから、「トゥモローランド」で未来=「アメリカの未来」を想像することになっていた。
ディズニーランドの開園と同年の1955年からウォルトの晩年にあたる1966年まで、トゥモローランドには“Rocket to the Moon”「月へのロケット」というアトラクションが存在した。このアトラクションは、ディズニーランド開園時にアメリカ合衆国が置かれていた冷戦状態、そして宇宙開発競争の時代においてこそ有効であった。
ディズニーランドは、遊園地の「テーマ化」を徹底することにより、人々がノスタルジーに浸ることのできる場所を提供した。もちろん、ここで言う「ノスタルジー」とは「アメリカ国民にとってのノスタルジー」だ。
このことが、アメリカ国内の大人(≒親)たちから支持を集めた直接的な原因だったのだ。
ゆるふわ監視社会
さて、アラン・ブライマンによれば、テーマパークの「テーマ化」を高レベルで実現するためには「管理・監視」が欠かせない要素となっている。
というのも、特定のテーマを構成するのは、食事や従業員「キャスト」の接客といったソフト面、建造物や自然といったハード面に加え、何よりこのテーマを逸脱せずに園内を周遊できる客「ゲスト」の存在であるからである。
「テーマ化」を実現するために、客から従業員、商品だけでなく、環境そのものまで全てをコントロールしてしまおうというこの思想は、ウォルトにとってごく自然なものであったと思わされる。彼の出自まで遡ると納得できるのだ。
ウォルトは1901年に、アメリカ合衆国ミズーリ州で生まれた。
北アメリカ大陸の中心部にあたるミズーリ州は、砂嵐や雨、吹雪など猛威を振るう荒れた厳しい土地だ。
「窓のない家」のエピソードなどを見ると、これこそ正にディズニーランドの成り立ちそのものではないかという気がしてくる。つまり、外の世界を断絶して見ないようにし、中を徹底的に整備して美しい景色を再び作り直すという発想が、ディズニーランドの遥か前に存在していたのである。
ウォルトはこうした経験から、自然のもつ脅威や不確実性を取り除き、自ら世界を操作するという考え方を獲得していた。ディズニーランドの外周に土手を作り、地面をアスファルトで固め、一度伐採した樹木を再び植え直す。ディズニーランドの中からは外の世界を見ることができないのも、そのためだろう。
ウォルトが環境の操作にかけた情熱とその多種多様な手法については、ここには書ききれない。
吉見俊哉氏は「メディア環境のなかの子ども文化」の中で東京ディズニーランドに触れている。これは、1955年のディズニーランドについても同様のことが言えただろう。
また、個々のアトラクションにおいて偶然性を排除し、エンターテイメントの提供に安定性を担保する試みも行われている。
1963年にオープンした「魅惑のチキルーム」。このアトラクションは、たくさんの鳥たちがハワイ諸島の神様・チキたちといっしょに歌うミュージカルが上演される。これらの鳥たちや壁面に彫られたチキの神様たちは、コンピュータ制御で音に合わせて動く「オーディオ・アニマトロニクス」というロボットなのである。翌年に「イッツ・ア・スモールワールド」と共に同時公開された"Great Moments with Mr. Lincoln"「リンカーン大統領との偉大なひと時」というアトラクションでは、アメリカ大統領エイブラハム・リンカーンのロボットがゲストに対して語りかけ演説を行う。リンカーン大統領は演者が演じるのではなく、毎回同じ動きを問題なく行うことができるロボットなのである。
こうした方法でウォルトはテーマ化を遂行し、維持してきた。そして、そのことにより大人たちにノスタルジーを提供して、ディズニーランドを成功に導いたのである。
聖戦
さて、シリーズ第1話で既に述べたように、ディズニーランドを開園に導いたウォルトはその後、「テーマパーク」だけでなくテーマパークの周辺地域までも自らデザインしたいと考えるようになった。
こうした経緯から誕生したのが、山手線円内の1.5倍の土地を誇る「ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート」であることも前述のとおりだ。
しかし、この話には続きがある。この話は、単にホテルに関する恨み節だけでは終わらない。
ウォルトはここに“山手線円内”──つまり「人が住んで生活できる都市」──を作ろうとしていたのである。これを彼は“Experimental Prototype Community of Tomorrow”「実験的未来型都市」と呼び、略してEPCOTと名付けた。この都市は最終的には実現しなかったが、代わりにフロリダ州にあるウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート内のテーマパークとしてオープンした。
その名残かどうか、このリゾートは実際にフロリダ州政府から「電力、ガス、上下水道、消防、建築基準、道路建設など、本来であれば公共の事業であるものを独自に運営するという異例の特権を手に入れ」ている(同書籍220頁)。ディズニーは正に現在進行形で“都市”を運営しているのだ。
ウォルトとショッピングモール
そして、これこそ他ならぬウォルトとショッピングモールの出会いであった。
『都市と消費とディズニーの夢──ショッピングモーライゼーションの時代』によれば、ウォルトはこのEPCOT計画を構想するにあたり、ショッピングモールの生みの親ことビクター・グルーエンという人物を熱心に研究していたというのである。
1950年代から60年代、車の普及と移民の増大を受けて、アメリカ国内では都市部から郊外への移住ブームが巻き起こった。このことにより、都市部に存在したダウンタウンのコミュニティが破壊されてしまった。
グルーエンという人物はこの「ダウンタウンの破壊」という問題に対して、建築の分野から対抗した人物であった。ちなみに彼はショッピングモールだけでなく、歩行者天国の生みの親でもあるらしい。車を社会から追放することによって、かつてのアメリカの都市が持っていた「人々が自然に集ってコミュニケーションを取る」文化を再興しようとしていた人物であると言えるだろう。
速水氏の書籍をもとにグルーエンが「ダウンタウンの再現」として計画したショッピングモールの定義をまとめると、それは、1)施設周囲の駐車場で人々は車を捨て、2)中心部分には公園やベンチを設置し、3)通路沿いには専門店が立ち並んでいる施設であるということに集約される。
彼のショッピングモールの定義において重要なことは三点ある。
ショッピングモールの構造はディズニーランドの延長線上にあったということ。かつての古きよきアメリカ社会にノスタルジーを抱いていたウォルトとショッピングモールは同じ夢を持っていたということ。そしてそれは、ショッピングモールとは元来「街の再現」であり「コミュニティの再現」であったということだ。
ディズニーランドとショッピングモールは、「車を棄てたゲストが巧みな人流制御によって閉じた世界を回遊する」点で共通していた。また、「古きよきアメリカ社会の再現」という点で、共通する目的意識を持っている。それはこれまで見てきた通りである。
そして、晩年のウォルトは実際にショッピングモールを視察してまわり、「EPCOTの中央に置く核施設として、グルーエンが設計した商業施設のようなものをつくりたいと考えていた」ようである(同書籍101頁)。
ウォルトはディズニーランドで五感を操ることができるようになり、テーマパークだけではなく都市すらもデザインしようとした。グルーエンが登場したショッピングモールの黎明期は1960年代だったが、これは1966年に逝去するウォルトの晩年期にあたる。
世紀の大ヴィジョナリーであったウォルトの晩年は、グルーエンに捧げられたのだ。ディズニーランドから進化を遂げたEPCOTも、ショッピングモールも、古きよきコミュニティの蘇生のために共闘を目指した戦友であるからである。
ディズニーランドでは、キャストの連絡通路やアトラクションの機械部分、食材やグッズの搬入口といったいわゆる「機能面」をバックヤードに追いやっている。そのため、徹底的に現実世界が排除された世界に見えるのだ。
EPCOTにおいてウォルトは、駐車場の代わりに「バックヤード」を作った。かつてのディズニーランドやショッピングモールとは異なるやり方だが、こうしてコミュニティから自動車を追放しようとしたのだ。
ウォルト・ディズニーの亡霊
「ディズニーランド化」するショッピングモールたち
しかし、結局EPCOTは現れなかった。ここまで長々とお付き合いいただいた内容はあくまで「もしも」の話。現実はこうはならなかったのだ。
現実には……そうそう……EPCOTが最終的にテーマパークとなっ(てしまっ)たことにも現れている通り、この主従関係は反対になっている。
つまり、テーマパークの作り手がショッピングモールを参照することこそ珍しいが、ショッピングモールの作り手はディズニーランドから学んでいるのである。
言い換えれば、現代、林立するショッピングモールたちは、ディズニーランドの発想を取り入れてどんどん「ディズニーランド化」しているのだ。
ここでいう「ディズニーランド化」とは何だろうか?
ショッピングモールは、ディズニーパークを構成する四つの重要な要素であり……特に、冒頭に触れた「テーマ化」のプロセスを学び取った。
アラン・ブライマン氏は「ディズニーゼーション」=「ディズニー化」という用語を提唱した。これは、「ディズニー・テーマパークの諸原理がアメリカ社会および世界の様々な分野に波及するようになってきているプロセス」のことである(同書籍14頁)。彼によれば「ディズニー化」とは、一見無関係なサービスとナラティブ(物語)を結びつける「テーマ化」、これにより業種間の差異を有耶無耶にして消費を誘う「ハイブリッド消費」、各店舗で自身が著作権を持つ商品を販促する「マーチャンダイジング」、これらの運営“そのもの”を商品として提供する「パフォーマティブ労働」の四次元から成り立っている(同書籍15頁)。
そして、この記事の冒頭で触れたディズニーランド成功の鍵であり、「ディズニー化」第一の条件として挙げられる「テーマ化」は、「おそらくディズニーゼーションの中で最も際立った次元」であると彼は考える(同書籍40頁)。
新井克也氏は『ディズニーランドの社会学─脱ディズニー化するTDR』という書籍の中で「ディズニー化」を次のように説明している。
実際、この表現は「ディズニーゼーション」の提唱者であるアラン・ブライマン氏も書籍内で用いたものである。
要約すると「ディズニー化」とは、大量生産や大規模チェーン店が支配する今の世の中において、様々な商品やサービスが自身に「テーマ化」治療を施すことで競合他社との差別化を図る戦略のことであると言える。
さて、速水健朗氏はこの概念を用いて、2010年にオープンした羽田空港の新国際線ターミナルを分析した。彼は新国際線ターミナルに併設されたショッピングゾーンを見て、「特筆すべきはここが持つテーマパーク性」であると述べた(同書籍39頁)。
他にも速水氏は、東京スカイツリーに併設されたショッピングモール「ソラマチ」の一階にある「ソラマチ商店街」が「浅草の仲見世通りを模した一角」であることにも触れている(同書籍87頁)。また新井克也氏は『ディズニーランドの社会学─脱ディズニー化するTDR』の中で、イオンモールを「商店街を雛形にしたテーマパーク」と表現した(159頁)。何より、アラン・ブライマン氏の『ディズニー化する社会─文化・消費・労働とグローバリゼーション』には、あまりに大量のディズニー化された施設の具体例が網羅されている。
オリエンタルランドを訪れよう
イクスピアリはそういった点から、「ディズニー化されたショッピングモール」の中でも特に顕著にその特徴を湛えていると言えるだろう。
繰り返し確認するが、イクスピアリとは架空の歴史を伴った「街」に見立てた商業施設なのであるから。
ディズニーランドでは、自然を管理することで世界を漂白し、「五感のすべてをコントロール」することが求められた。一方でショッピングモールは、自動車を締め出して施設内を放射状に整備することで、アメリカの古き良きコミュニティを蘇生しようと試みた。
そしてウォルトは、ディズニーランドのようにバックヤードを設ける方法を用い、ショッピングモールのように自動車を地上から締め出すことを発想し、また、中心部には商業施設を設けようとした。これがEPCOT計画である。「バックヤードを見せない都市。つまりは、テーマパークの手法で都市をつくるというのが、ウォルトのアイディアだったのでしょう」(同書籍94-95頁)。
しかし同時に、イクスピアリを「株式会社オリエンタルランドが初めて本格的に手がける独自の事業」とする視点も、大きく転倒せざるを得ない。
ウォルトは、ディズニーランドを下地にショッピングモールのアイディアを取り込むことでEPCOTを想像した。一方でオリエンタルランドは、ショッピングモールを下地にディズニーランド的な「テーマ化」を行うことでイクスピアリを完成させた。そして、EPCOTが都市であったのと同様に、株式会社イクスピアリは「ショッピングモール経営」を頑なに「街の運営」と呼んでいるのである!
ここには、非常に綺麗な対比がある。イクスピアリは結局のところ、ウォルト・ディズニーと同じゴールを目指していたのだろうか? 手順は逆さまであるが、完成したものは正にEPCOTそのものなのではあるまいか?
前回も触れた通り、イクスピアリとは「株式会社オリエンタルランドが初めて本格的に手がける独自の事業」であり、ディズニー社に対する形で発展してきた。しかし、そんな施設が実はディズニーの影響を色濃く受けていたとしたら……オリエンタルランドの想像した「舞浜リゾート」とは、結局はじめからディズニーランドのコンセプトに先を越されていたのだろうか?
もちろん、その側面もある。加賀見氏は最終的にオリエンタルランド社の使命を全うするために、ディズニー社の力を借りるという選択をしたからである。形ではなく、顧客第一主義を貫くのが、彼の流儀であった(敢えて“彼”と書くのは、“同社”がどうかはわからないからだが……)。
しかし……そんな彼が最後まで守りきった、イクスピアリ独自の魅力がそこにはある。
「これは結局、オリエンタルランドの仕事なのか?」この点に関して、オリエンタルランドは自分なりの答えを用意していたのである。
先ず、誤解を恐れずに書き進めれば、オリエンタルランドの目指すリゾートの姿は、ディズニーが本来目指すそれと本質的に異なっている。
舞浜全体のコンセプトは、ディズニーのテーマパークを象徴する「知恵」だけではない。その「知恵」を生み出すのはなんと「自然」だと考えているのである。
これは、ウォルトがディズニーランドを生み出した当時とは真逆の発想である。それどころか、彼がEPCOTに求めた操作可能性とも反対の立場である。
東京ディズニーリゾートで生み出される「香り」、それも「懐かしい香り」は、ウォルトが自由自在に操作する匂いではない。寧ろそれは、「自然からの贈り物」なのだと加賀見氏は語る。
東京ディズニーリゾートは、アメリカ合衆国内を飛び出した初めての「海外ディズニー」であり、それに倣って実はとても「日本的」であると言えないだろうか?
そして、思い出してほしい。イクスピアリのいう「街」とは別に、ウォルトやグルーエンの夢見た「古きよきアメリカ都市部のコミュニティ」ではない。この「街」はオリエンタルランドにとって、全く別の意味を持っているのである。
イクスピアリが定義した「街」はアメリカの都市のダウンタウンではなく、郊外に存在するカーメルの街並みであり、南仏の田舎町であり、むしろ京都の「路地」なのだ。舞台が「ダウンタウン」から「路地」に代わるのと同時に、テーマも「コミュニティ」から「発見する楽しみ」という個人的なものに変更されている。イクスピアリのテーマはあくまで「路地の楽しみを舞浜に」なのだ。
そうした点でイクスピアリは、株式会社オリエンタルランド独自のコンセプトを持った施設であると言えるだろう。
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