見出し画像

私から、誰も傷つかない世界を望む優しいあなたへ

あなたは、人を差別したことがありますか?

こんなこと、突然聞かれたら驚きますよね。
じゃあ例えば、あなたは子供や親や動物や、友人や周りの人を、大切にしていますか?

少なくとも、故意に傷つけたりしていませんか?
そうですか。

完璧じゃなくて良いんです。
善良であろうとすることが大切です。
完璧な人なんていませんから。

ではそれを踏まえて、もう一度聞きます。
あなたは、人を差別したことがありますか?

加えて聞きます。
あなたは、人に暴力を振るったことがありますか?
あなたは、良い人ですか?

私は、この三つの質問全てに、あなたがイエスと迷いなく答えられるようになるために話します。少しでも、あなたの思考を手助け出来たら嬉しいです。

これから書くことはあなたを責めるためのものではありません。あなたが自己を肯定し、受容し、より心地よく生きていける様に、また他者を理解するヒントを掴める様にするためのものです。もし責められている様に感じたら、自分の心に「なぜそう思うのだろう」と問いかけてみてください。マインドマップを作るのも良いです。立ち止まって、自分の心の声を真摯に受け止めてみてください。

ここに書かれている質問を、他者を測るためのツールとして、誰かに投げたりしないでください。これは心理テストでも、マウントの取り合いでもありません。あなたが自分を探るためのツールです。
あなたのためだけに使ってください。

これは、あなたの「良心」と「想像力」の話です。



あなたは、人を差別したことがありますか?

想像してみてください。
あなたは道を歩いています。通学路でも通勤途中でも良いです。もしくは学校の教室や社内、電車やバスなど、とにかく人の目がたくさんある所に、あなたはいます。そこでいきなり「あなたは人を差別したことがありますか?」と聞かれたら、あなたはなんと答えますか。

差別とはなんでしょうか。日本人の私たちは差別という問題にずいぶん無頓着な人種だと思います。島国で、それなりに発展した国に住み、戦争や紛争はもう過去の事で平和に生きている。だから差別と聞くとまず思い浮かべるのは「黒人」「在日」「ナチス」とかそんな異国の人が関係してくるキーワードではないでしょうか。

質問の仕方を変えてみましょう。
あなたは、差別されたことがありますか?

どうでしょうか。
この二つの質問に、特に前者の質問に、一体何パーセントの人が大切な人の前でイエスときちんと言えるのか、私は興味があります。

私の話をします。
私は、差別をしたことがあります。
そして差別されたことがあります。
でも私は悪人ではありません。

例えばメガホンを持って「在日は出て行け」と言った事はないし、セクシュアルマイノリティの人に「シスヘテロが正しい」と言った事もありません。

むしろ私はどちらかといえば、子供の頃からボランティアや奉仕活動に多く参加し、レインボーパレードやジェンダー論にも興味を示すシスヘテロです。普段から年配の方がいれば席を譲るし、困っていそうな人には声をかけます。体調の悪そうな人のもとには駆け寄るし、迷子を見つけたらその後の予定はリスケします。

でも、私は差別をしたことがあります。
ゲイバーに行って、理解者として話をしていたら「ノンケは出て行け」と言われた時。
耳の聞こえない人に、何も聞かずにペンを渡した時。
盲導犬にえらいねと近づいたら「触るな」と怒鳴られた時。

差別とは、優しさだと勘違いしているその思い込みの中にも、きちんと潜んでいるんです。

差別とは、悪意があるかないかで判断できるものではありません。あなたの中に偏見や刷り込まれた固定観念、またそれに則って当事者と接しているかどうかです。

私はゲイバーで「ノンケは出て行け」と言われた時、ショックでした。飼い犬に手を噛まれたみたいだった。優しく手を差し伸べてあげているのに、理解しようと歩み寄っているのに、なんで?どうして?

ろう者のために優しさから渡した紙とペンを、「いりません」と横に置かれてしまった時も、立派に仕事をこなす盲導犬を労わろうと近づいて話しかけた時も。同じようにショックを受けました。
場合によっては傷つくこともありました。
あなた達を差別する多くの悪人から守ってあげたいと私は思っているのに、と。

しかし私は差別をされて初めて気が付きました。
私があの時していた事、思っていた事こそが差別というものを作っている一部なのだと。
構成する手助けをずっとしていたのだと。

私が初めて差別というものを身をもって経験したのは、ヘルスで働いていた時の事でした。
ホテルの部屋で客が本番(性行為)を強要しようとして、断ったら暴行を受けました。警察を呼び、店のスタッフも呼び大事になりました。私はそれが初めての経験ではなかったし、今までも何度か犯罪に巻き込まれ、警察には助けてもらったことがあったので、制服を着た彼らが来た時、ホッとしました。彼らは被害者の味方だと信じていました。

加害者から話を聞き終えた警察官が私に歩み寄り言いました。
「お姉さん大丈夫? 怪我とかない? こんな仕事してるんだから気を付けないと」
私は思わず、はいと答えました。

また別の日、別の人にはこう言われました。
「あなたもこういうことが好きで働いてるんだと思うけど」「かわいいから俺でも襲っちゃうよ」「こういう目に遭いたくなかったらやめたほうがいいよ」
思わず、はいと答えました。

家に帰ってから悔しくて悲しくて、大声で叫びたいけどなにも言えない自分を殺してやりたくなりました。彼らに悪意はありませんでした。
むしろ心配してくれたり寄り添って考えようとしてくれました。
そう、あの時の私みたいに。



あなたは人に暴力をふるったことがありますか?

今度はもう少し身近な問題として考えて見ましょう。差別というと大きすぎて分からないかもしれません。
あなたは人に暴力をふるったことがありますか?
暴力とはなんでしょうか。
パッと思いつくのは殴る、蹴る、怒鳴る、貶す、イジメるとかでしょうか。人にこう聞かれた時に、あなたはイエスと答えますか?ノーと答えますか?

これも聞き方を変えましょう。
あなたは、暴力を振るわれたことがありますか?

私は、あなたが一体何を暴力にカウントし、また何をしないのかに興味があります。

母親に叱られて叩かれた事、宿題を忘れて教師に怒鳴られた事はどうでしょうか。逆に子供が道に飛び出して、思わず感情的に怒ってしまった時は?不機嫌な時に刺々しい返事を返したり、冗談でも死ねと人に言ったことは?
でも、これは少し分かりやすすぎますね。

私の話をします。
私は暴力をふるったことがあります。
そして、暴力をふるわれたことがあります。
でも私は悪人ではありません。

例えばナイフで人を刺したことはないし、イジメをしたことさえありません。故意に人を傷つけようとしたことはないし、逮捕されたこともありません。

むしろ私はクラスでイジメがあれば必ずかばってきました。暴言を吐かれる親子を電車内で守ったこともあります。相手が強そうでも怖くても、良くない事は良くないと被害者の盾になろうとしました。

でも、私は暴力をふるったことがあります。
自分に加害してきた人と同じ属性の人を一括りにして話をした時。
差別主義者の事をSNSで酷い言葉と共に書いた時。
自分の方が辛いのだからと相手の生きづらさを軽視した時。

暴力とは、実際に血が流れたか正義がどちらにあったかで判断できるものではありません。あなたが何を信じようとそれが身を守る行動だろうと、相手が傷つければそれは暴力です。これを、悪意なき暴力としましょう。もしくは、防衛のための暴力と呼びましょう。
昨今トーンポリシングという言葉が国内でも浸透し始めました。発言の内容ではなく表面的な言い方や口調を咎める事は、被害者の口を塞ぎ、発言の妥当性を損なう行いであると。つまり足を踏まれた人が「痛い!」と言おうと「踏むのをやめてくれませんか?」と言おうと、踏んだ人を思わず突き飛ばしてしまっても、踏んだ人と踏まれた人がいる事にはかわりはないのだから、踏まれた人の言動を責めるのはやめようということです。

しかし被害者はそこに一滴の悪意も、自分がすっきりするための攻撃性も本当に含んでいませんか?
本当にそれは正当な、致し方ない身の守り方で、相手はそれを被って当然の相手でしょうか?
今までのストレスや傷を、関係のない人にぶつけていませんか?
足を踏まれたからと言って、相手を突き飛ばす必要性は、なくはありませんか?
過剰な被害者性は、時として武器になる事を自覚していますか?

私は悪意なき暴力をうけて初めて気が付きました。

私があの時していた事は、誰かを深く傷つけて、トラウマを与え、身を守るものだったとしても私は相手が持たざるナイフを振り回して良い訳ではなかったと。

私が悪意なき暴力にさらされそれを自覚したのは、Twitterを始めてからです。

匿名でTwitterを初め、人の興味関心を惹いた私のアカウントはぐんぐん成長しました。これを書いている現在、二万六千人のフォロワーがいます。(TwitterがXに変わりアカウントはそのままですが、私はXを辞めました。その時使っていたペンネームと、今のペンネームは違います。)

ある日私が何気なく、女性の権利について呟きました。私は女性で、当事者の一人ですから、それは当たり前の意見を発信したまででした。しばらくしてフェミニストを自称する人からメッセージが届きました。
「風俗嬢のあなたが語るべき事では無い、少なくとも男に媚びたあなたは女の敵で、反省するべきだ」
私は思わず、すみませんと言いました。

また別の日、別の人からメッセージが来ました。
「男性が怖い私にとって、あなたは化け物だ」
「今笑って楽しく生きられているなら、被害者を名乗らないで欲しい、傷つきます」
「あなたに加害した人も何か葛藤があったのかも、許してあげたら?」
思わず、すみませんと言いました。

同じ当事者性を持っているのに、なぜ批判されるのかのかわかりませんでした。怒りたくても口を塞がれて、誰かが傷付くと言われました。被害者は泣いていなくては真に傷ついているのではないと言われました。
彼らに悪意はありませんでした。むしろ誰かを、自分を守ろうとしているだけなんです。
そう、あの時の私みたいに。




あなたは良い人ですか?

私は、ここまで書いてきたように、差別をしたことがあり暴力をふるったことのある人間です。
それを自覚しています。
そして今後も誰かにしてしまうと分かっています。
でも、わたしは悪人ではありません。

あなたはどうですか?
私は、あなたも悪人ではないと思います。おそらく善良な人でしょう。少なくとも何かのために誰かのために戦ったり、学んだり、守ったりしているあなたは、悪い人ではありませんよね。

特に差別や偏見と、当事者であったりその人たちの支えであろうとするあなたは、より意識高く、日々アップデートを重ねていると思います。立派なことです。だからあなたは良い人です。でもそれと同時に、差別と暴力をふるってきた私も、これからもきっと振るう私も、良い人です。善良な優しい人間です。だって私は書いてきたように、悪人ではありませんから。

違和感を覚えるでしょうか。

それはあなたが、差別や暴力は悪人がするものだと思っているからではないですか?自分や、善良な人には偏見はないと思っていませんか?

善良な人はそういうものとは縁遠く、むしろそういったものと戦ったり被害に遭ってきたのだから、加害者側に回る事はあり得ないと思っているからじゃないですか?

あなたがもしそう思っているのなら、あなたが今死ぬほど憎んでいる差別主義者も、活動家も、オタクも、フェミニストも、加害者も、被害者も、また同じ様に、あなたをそう思っているという事です。

間違わないでください。

あなたも、また彼らも良い人なのです。
例えどんなに酷い犯罪を犯した犯人にも、無垢な子供時代があったのです。あなたを傷付けたあいつにも、あの子にも。でもだからと言って彼らを愛せとは言いません。言えません。それは例えば、私が一生かけても父親や自分に加害してきた犯人を恨み、彼らの不幸をどうしたって願ってしまう様に、あなたにも心があって感情があって、それ自体は大切にすべき事だからです。

でも、つまりこのままでは、何も解決なんてしないですよね。諦めたくなりますね。全部諦めて、それこそ自分が消えてしまえばこの感情も何もかも消えるのだから、解決するのにとさえ思ってしまうことが、私にはあります。

嫌ですよね。
こんな思い抱えて生きていかなきゃなんて。
私もです。
では、どうしたら良いのでしょうか?



あなたへ

あなたが今怒っている事はなんですか。
傷付いている事はなんですか。
あなたを加害した人は誰ですか。
あなたが守っている人は誰ですか。
可哀想に思っている人は誰ですか。
その人はあなたにそう思って欲しがっていますか。
誰に対して、何に対して嫌悪感を持っていますか。
ケアされたくて誰かを利用していませんか。
仲間が欲しいだけではありませんか。
本当は一緒に泣いて叫んで、互いに絆創膏を貼りたいだけではありませんか。
矛先や、照準は本当に定まっていますか。
あなたの敵は誰ですか。

あなたを責めてはいません。
でも間違ってほしくはないのです。

誰かのためにと言いながら、何かのためにと言いながら、本当の自分の気持ちをないがしろにしていませんか。守るためにナイフを振り回していませんか。あなたはあなたのために、あなたの気持ちを大切に生きていくことが理想です。自分の叶えたい事を自分で叶えられるようになることが、素晴らしい事なのです。

完璧じゃなくて良いんです。善良であろうとすることが大切です。完璧な人なんていませんから。一番初めにも書きました。
これは綺麗事抜きの本心です。

でも、だからといってあなたは、差別をしていない訳じゃない。暴力をふるっていない訳でもない。そこをはき違えちゃいけない。私たちはずっとこの事を忘れずに、全ての人と、物事に向っていかなくてはなりません。

あなたが自分にかけすぎた麻酔で、
死なない様に祈っています。

あなたが自分の傷をえぐりすぎて、
死なない様に祈っています。

あなたが自分を露悪的に見せる事で、
癒されない事を願っています。

あなたが自分を諦める事で、
癒されない事を願っています。

あなたは良い人です。
みんな良い人なんです。

誰かの目線で、誰かの世界では。
これは、あなたの「良心」と「想像力」の話です。



私の話

私は、ふつうの顔をしてふつうのふりをして生きてきたシスヘテロの女です。カトリックで、父も母も立派な学歴を持っています。幼稚園から私立の学校に通い、たくさんのお金をかけて育てられました。大学まで行き、好きなことを学んだりしました。恋愛もセックスも大好きです。友達もいます。趣味もあります。飲み会も職場の人も動物も植物も大好きです。

子供の頃からよく言われました。
「いいな。羨ましい。」
私ははにかんで、そんなことないよと言いながら、両親の手を握りました。ずいぶん、恵まれているように他人からは見えたと思います。

でも、実のところ私は虐待のサバイバーです。
でも実の所、私は、貧困に陥り、セックスワークを十年してきました。
でも実の所、私は性犯罪や暴力の被害者です。
人なんてそんなものです。
幸せそうな人が幸せとは限りませんよね。

私は殺されそうになったことが何回もあります。犯罪に遭った事も何回もあります。怖くて震えて動けなくて吐いて。でも翌日にはまた笑顔で学校に行ったし、笑顔で出勤しました。
ずいぶん、被害者でいることに慣れていました。
心と体を切り離すのは、子供の頃から得意でした。

通信簿には「人と人とのパイプになれる子です」と書かれました。悪く言えば八方美人だった。人の悪口を言うのが苦手で、派閥やグループに別れる事に疑問を持ち、カーストというものと無縁でいたかった。だから全員と仲良くなろうと決めました。先生には褒められました。中学生の時「あなたのいるクラスはイジメが起こらない。先生たちはあなたをどのクラスにいれるか取り合いをしている。」と言われました。

私はクラス全員に一人一冊ノートを作りました。誕生日、好きなもの、両親の趣味、得意な科目、秘密のこと、好きな子、嫌いな子、部活、志望校、アレルギー、なんでも書き込みました。ほとんど暗記していました。異常だったと今は思います。でもそれが生きがいでした。いつも笑顔でいました。部活も委員会も生徒会もやりました。文化祭や体育祭では、みんなで感動して泣きました。でも、自分のためや恐怖で人前で泣いたのは小二が最後でした。いつも心はスッとどこかに離れていました。自分をいつも俯瞰している、操作している感じでした。

それが解離性障害というものだと、大人になってから知りました。
思い当たる症状がいくつもありました。ワープしたように記憶が抜け落ちたり、父親の怒鳴り声を合図に体がフワッと浮いたり。何をしていても実感が伴いませんでした。伴わせたら、死んでしまうと、私の中の私が判断したのでしょう。

大人になってから初めて、本当の意味で友人が出来ました。
箱庭遊びの様な空想の人間関係をやめて、悪い所も言い合える様な人達と出会えました。これが書けているのも、その人たちのおかげです。でも、私はまだ回復しきった訳でも、健全な心が取り戻せた訳でもありません。それは私の一生の課題です。

私はたくさん誤った自己のケアの仕方をしてきました。
たった数年前まで、フェミニズムとミサンドリー(男性嫌悪)を混同していたし、風俗は差別されてこそ高給なのだと思っていました。周りがみんな敵でした。心を許して全てを話せる所も人もなく、自分が傷付いた分だけ人を傷つけて良いと思っていた。自分が持つナイフを自覚したのも最近のことです。それまでは血塗れで、目も耳も塞いだ状態で、四方八方に腕を振り回していました。

そのことに疲れた時、突然虚無感に襲われました。防衛のための暴力こそ自傷だったと気が付いた時、突然ナイフはぽとりと手から滑り落ちていきました。

あなたには、こうなって欲しくない。
私は気が付くのにずいぶん時間を無駄にしました。まだまだ若いけれど。それでも、三十になってようやく、友人の前で初めて泣きじゃくりながらものを話し、自分がいかに強烈な自己否定をしていたかに気が付きました。あなたには、もっと早く、あなたを認めて欲しい。もしくは今からでも、認めてあげて欲しい。

そのためにはまず、あなたの負ってきた傷に立ち向かう前に、自分がつけた傷を見つめて欲しい。
でも、自分を責めないで欲しい。
諦めるための「仕方なかった」ではなく、開き直るための「仕方なかった」でもなく、前を向くために「仕方なかった」とそれを認めてあげて欲しい。

人の傷を見る方が、自分の傷を見るよりははるかにやりやすく、簡単なのです。まずは人につけた、自分がつけてしまった傷を見つめてください。
相手のためにと思えなくてもかまいません。それはかえってあなたのためになります。

あなたの気持ちをないがしろにはしないで。
無理をする必要はありません。

悪意のある人に寄り添い続ける必要はないし、シーライオニングに応える必要もありません。でも、どんな相手でも、必要以上にけなさないことが大切です。毒づいても良いけれど、毒を吐きすぎないこと。それはかえってあなたのためになります。

間違えても戻ってきてください。大丈夫です。
あなたほど良い人はきっといません。

忘れないでください。
これは、あなたの「良心」と「想像力」の話です。

この記事が参加している募集

多様性を考える

この経験に学べ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?