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論文紹介 国際法で戦争が違法化されたことで、国際政治にどのような影響があったか?

現代の国際法の枠組みは、第一次世界大戦が終結した時点で有効だった枠組みと比較すると、まったく違っています。かつて、戦争を遂行することは国家の権利であると考えられていました。しかし、今日の国際法の下では、戦争が違法化されており、国家が他国を侵略することは重大な犯罪であると考えられています。

もちろん、国際法で戦争が違法化されたからといって、すべての国家の指導者がそれを遵守するわけではありませんが、国際社会のルールに違反した際に、自国が制裁の対象になることを恐れることがあれば、それは抑止に寄与する場合があります。戦争違法化は現代の国際政治に幅広い影響を及ぼした規範であるだけでなく、国際政治の世界に新しい外交政策の手段をもたらしました。そのことを説明するため、今回は「国際法と戦争の違法化を通じた転換(International law and its transformation through the outlawry of war.)」という論文を紹介したみたいと思います。

Hathaway, O. A., & Shapiro, S. J. (2019). International law and its transformation through the outlawry of war. International Affairs, 95(1), 45-62.

近世ヨーロッパの国際関係で形成された国際法の体系の下では、戦争を合法的に遂行することが認められていました。17世紀に法学者のフーゴ―・グロティウスが「司法的な解決が失敗したとき、戦争が開始される。国家は法的に戦争を遂行することが認められる」と述べていたように、当時の法観念として主権者が戦争を遂行することができるという見方が主流になっていました。このようなルールに基づく秩序を著者らは旧世界秩序(old world order)と呼んでいます。

旧世界秩序では戦争が法的権利を獲得する手段となっており、例えば、すべての国家が征服の権利を持つとされていました。ある国家は他国に賠償の請求を無視されたことを理由として武力を行使し、他国の領土を軍事占領した上で、その領土を支配する権限を主張できました。今でも存在する国境の多くは、こうした戦争の結果として形成されています。戦争が合法だったために、旧世界秩序では中立国が特定の交戦国に対して制裁を実施することは禁止されていました。もしどちらか一方の交戦国を有利にする措置を講じた中立国は、中立の義務に違反したと見なされ、他方の交戦国から報復措置として攻撃を受ける可能性がありました。

1914年に第一次世界大戦が勃発したとき、アメリカはこの中立の問題に直面しました。当初、アメリカは参戦していなかったので、当時の国際法のルールに基づいて中立義務を守りました。このため、アメリカはイギリスとの貿易関係を維持しつつ、イギリスと敵対するドイツとの貿易関係も維持しなければなりませんでした。ドイツとの貿易を拒否すれば、ドイツはアメリカに対して報復措置として武力を発動できるため、アメリカにとってはやむを得ない措置でした。

1918年に第一次世界大戦が終結し、1919年にヴェルサイユ条約で講和が成立しました。この時点でも、基本的に国際社会は従来の国際法の考え方を維持していました。ドイツとその同盟国は、戦争を始めたことを厳しく非難されていましたが、ドイツの主権者である皇帝を罪に問うことはできませんでした。ただし、条約の第227条では、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世が「国際道徳(international morality)」を侵害したと述べられており、また、将来的に法廷は「国際的な政策の最も高い動機によって」指導されるべきであると述べられていました(Hathaway and Shapiro 2019)。この時点で戦争責任の観念が出現していたことは、国際法と国際政治の歴史を考える上で興味深い点ですが、これは旧世界秩序の国際法の枠組みが顕在であったことを示唆しています。

第一次世界大戦は各国で戦争の違法化を求める運動が起こるきっかけとなった戦争でした。著者らは、戦争違法化を推進する運動の指導者の一人であった弁護士のサーモン・レヴィンソン(Salmon O. Levinson)の政治活動を取り上げています。レヴィンソンは第一次世界大戦がまだ続いていた1917年から「戦争の非合法化(outlawry of war)」を主張し、「世界の真の災難は、戦争の合法性と実行性である」として国際法を変革させる必要性を訴えるようになりました(Ibid.: 51)。当初、レヴィンソンは国際連盟規約で戦争違法化の実現を期待していましたが、アメリカでは上院の承認が得られず、批准しませんでした。そこでレヴィンソンは1919年からは国務長官経験者だった上院議員フィランダー・ノックス(Philander C. Knox)の協力を取り付け、まったく別個の国際合意の成立に向けてロビイングを開始しました。

1920年代、アメリカだけでなく、フランスでも戦争違法化に向けた動きが起こり、両国はこの原則を条約にすることで合意しました。この米仏交渉が端緒となって多国間交渉が進められ、1928年の不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)が成立しました。この条約は旧世界秩序のルールを変えることになった条約であり、戦争違法化の規範が初めて盛り込まれました。その第1条において、締約国は国際紛争を解決する手段として戦争を遂行する権利を放棄することが宣言されています(Ibid.: 53)。ちなみに、この条約にはイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、アメリカ、日本などが署名しており、後にソビエト連邦、中華民国も参加しました。

この規範は現実政治の世界ですぐに試練に晒されました。1931年に日本は満州事変を起こし、イタリアはその4年後の1935年にエチオピア戦争を引き起こしました。さらにその4年後の1939年にドイツがポーランドを攻撃し、1945年まで続く第二次世界大戦を開始しています。この時期を対象とした国際政治史の研究では、国際連盟が平和の維持に失敗したことが議論されています。しかし、著者らは不戦条約の影響については十分に議論されていないことを問題視しています(Ibid.: 54)。不戦条約は、以降の国際政治の方向に持続的な影響を及ぼしました。

1931年の満州事変が勃発したとき、国際社会の主要国は戦争を放棄したばかりであり、不戦条約の規範を維持する方法については手探りの状況でした。著者らは、この時期にアメリカのヘンリー・スティムソン国務長官が新しい中立政策のパターンを編み出したと指摘しています。その政策とは、中立の立場を保ちながらも、不戦条約に違反した国家の行動を法的に正当なものとして承認しないという外交政策でした。実はスティムソンはレヴィンソンとイェール大学で同期の間柄にあり、戦争の違法化の意義について理解がありました(Ibid.: 54)。満州事変の結果として、日本は満州国を樹立し、中国大陸に進出するための足場を築きましたが、アメリカはその合法性を否定し、国家として承認しないという立場をとりました。著者らは、このような戦争違法化のルールに基づく秩序を、旧世界秩序と対比して新世界秩序(new world order)と呼んでいます。

すでに述べた通り、旧世界秩序では中立国はすべての交戦国に無条件に公平中立であることが義務付けられており、一方の交戦国にのみ制裁を課すことがあれば、交戦国はそれに対して武力で報復することが認められてきました。しかし、これは戦争が合法的であることを前提にしていた中立のルールでした。不戦条約が成立し、戦争が違法化されたことで、中立国を取り巻くルールは再編されました。つまり、違法な戦争を始めた国家に対して、中立国が公平中立な対応をとるべき理由が消滅したのです。戦争によって被害を受けた国家を支援するため、特定の交戦国に対して制裁措置をとることは合法であると考えられるようになりました(Ibid.: 55)。

新世界秩序では、戦争を開始した国家に対して選択可能な外交政策の可能性が大きく広がりました。イタリアがエチオピアに侵攻したとき、アメリカはイタリア産の製品のボイコットに呼びかけていますが、これは事実上の経済制裁に相当するものでした。ただ、当時のアメリカはまだ慣習的な中立の義務を尊重しており、武器の禁輸に関しては両方の交戦国に適用していました(Ibid.: 56)。

1939年にドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が勃発すると、アメリカは再び中立国として、どのような外交政策をとるべきかについて難しい判断を迫られています。アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領はドイツに対抗するイギリスを援助することを強く主張していました。しかし、そのような措置は中立のルールに違反するものであり、ドイツとの戦争に発展する恐れがあるとして、ハリー・ウッドリング陸軍長官が反対しました。ルーズベルトは、1940年にウッドリングを解任し、後任として満州事変の際に日本を強く非難したスティムソンを陸軍長官に任命しました(Ibid.: 56)。スティムソンは、アメリカの外交政策を大幅に見直し、1940年にイギリスに対して駆逐艦50隻を提供する代わりに、イギリスから軍事基地の貸与を受ける合意をまとめました(Ibid.: Ibid.)。アメリカは参戦していませんが、これ以降はイギリスに対して大規模な軍事援助を実施し、その戦争遂行を支援するようになりました。

1945年に署名された国際連合憲章では、自衛の場合と、国連の安全保障理事会の強制行動の場合を例外として、武力による威嚇又は武力の行使も禁止されました。この禁止によって武力行使に包括的な制限が課されることになり、国家が単独で武力を行使することは認められなくなりました。これは国際政治における国家の対外政策の組み立て方に大きな再検討を要求するものであったため、代替的な手段として追放(outcasting)が使われるようになりました。

新世界秩序のルールでは、他国に対する強制手段として軍事的手段を使用することは制限されています。そこで、追放は非軍事的手段を通じて実行されます。著者らは「『追放』は非暴力的である。つまり、追放者はルールを破った者に対して何かを行うのではなく、ルールを破った者と一緒に何かを行うことを拒むのである」と述べています(Ibid.: 60)。満州事変の際にアメリカが満州事変の結果として生じた現状変更を認めなかったことも追放の一種ですが、現代の国際政治では、貿易や投資など、国際協力を通じてその国家が得ることができたはずの利益を取り上げるような措置を講ずることが想定されます(Ibid.)。旧世界秩序では、特定の交戦国を追放することは違法でしたが、新世界秩序ではそうではありません。

経済制裁は、現代の国際政治の中でますます頻繁に使用されるようになっていますが、これは不戦条約をはじめとする国際法の変化、特に戦争違法化の規範がもたらした重要な影響でした。この論文の内容についてさらに知りたい場合は、著者らが出している著作が日本語に翻訳されているので、そちらを確認してみるとよいでしょう。過去の記事でも紹介したことがあります。

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