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論文紹介 どのような政治家が国際法の義務に反した行動をとりやすいのか?

世界には国際法を遵守する政治家もいれば、それを遵守しない政治家もおり、それぞれに異なった行動パターンを示します。どのような要因がこのような違いをもたらすのかに関しては、研究者の間でも議論がありますが、A. Burcu Bayram(2017)は人間の意思決定が社会的アイデンティティによって規定されるという心理学の知見を踏まえ、国際法を遵守することに強い選好を持つ政治家の社会的アイデンティティを特定しようとしています。この記事では、その研究成果の一部を紹介してみたいと思います。

Bayram, A. B. (2017). Due deference: cosmopolitan social identity and the psychology of legal obligation in international politics. International Organization, 71(S1), S137-S163. DOI: https://doi.org/10.1017/S0020818316000485

国際政治学の研究課題の一つは、国際法が国家によって遵守されるメカニズムを説明することです。国内法の領域では国家機関に立法、執行、司法の権力が集約されており、国民は法令を遵守しなければ処罰されます。しかし、国家と国家の関係を規定する国際法の領域では、これと同じようなメカニズムが存在していません。仮に国際的な合意を成文化した条約が存在したとしても、それだけで他国の行動を制限できるとは限りません。それにもかかわらず、国際法は多くの国家に尊重されており、国際社会に秩序と安定をもたらしています。ただ、あらゆる国家が常に国際法を遵守するとも限りません。そのため、どのような要因が国際法の遵守に関する政策決定に影響を及ぼしているのかを検討することには意義があるといえます。

この論文が著者が注目したのは、政治家の主観的に持っている規範です。かつて社会学者のマックス・ウェーバーは法社会学の分野において法規範が社会的な機能を発揮するためには、その法規範を各人が内面化すておくことが必要だと論じましたが、これは国際法の分野においても当てはまる議論であると著者は考えました。つまり、政治家は一国の指導者の地位に就くと、国際法において課された国家の義務に従うことが期待されますが、国家の指導者が事前に受け入れている社会的アイデンティティによっては、国際法の規範を正当なものだと見なさず、それを遵守しないかもしれません。

社会的アイデンティティの理論によれば、個人は自分が帰属していると思う集団に同一化しようとします。つまり、その集団の規範や利害を自分自身の規範や利害と認識するようになるのです。この社会的アイデンティティの心理を踏まえると、一部の政治家が国家の指導者として遵守すべき国際法上の規範から逸脱したとしても、彼らが一概に規範全般を蔑ろしているとは言い切れません。なぜなら、彼らは自分が主観的に帰属意識を抱いている集団の規範に従っていると考えられるためです。国際法からの逸脱は社会的アイデンティティに基づく規範選択の結果として理解することができます。

著者は、国際法の遵守を自らに義務付けるような社会的アイデンティティを考察し、コスモポリタン・アイデンティティという概念を導入しています。これは「行為者の自己意識のうちで国際社会の全体と結びついた部分」と定義されています。ある個人の社会的アイデンティティの中でコスモポリタン・アイデンティティが占める割合を測定することは簡単ではありませんが、著者は自分自身を国際社会の一員と見なす帰属意識が強くなるほど、その割合が大きなものになると考えています。反対に自分の帰属意識が国家に向かうほど、コスモポリタン・アイデンティティは弱化します。著者は、コスモポリタン・アイデンティティとしての自己意識が強い個人は、国際法で確立された原則、規範に強い正当性を感じるようになるため、それを自分自身の倫理としても内面化するようになるという仮説を立てて、それを検証しています。

この仮説を検証するために著者が使用しているのはドイツで議会に議席を持つ政治家68人を対象とした郵送アンケート調査です(アンケート票の回答率11%)。政界のエリートを対象とした社会調査は非常に難しく、この調査でも十分な数の標本が得られたわけではありません。著者は、標本の小ささを補うために、学生を対象としたアンケート調査の結果を組み合わせて分析しています。このような標本から得られた分析結果を一般化することに関しては慎重でなければならないと著者自身が注意を促していますが、それでも一貫性のある結果を導き出すことができたと報告しています。分析の詳細に関しては省略しますが、ドイツの議員の中で国際法に対して強い義務を感じる割合は19%であり、中程度の義務を感じる割合は28%、弱い義務を感じる割合が53%でした(p. S150)。また、著者が予想したように、アンケート調査でコスモポリタン・アイデンティティの保有率が高いと認められた議員であるほど、国際法上の義務を遵守しようとする意識が強くなるという傾向があることが確認できる内容です。

実証で課題が残されている研究ではありますが、政治家がどのような社会的アイデンティティを持っているかによって、国際法上の規範に対する認識が変化するという視点は、ある国家の対外政策がどのような心理的基盤から形成されているのかを考察する上で興味深いものです。

最近では、経済学の分野でも社会的アイデンティティが経済行動に及ぼす影響に関して分析が進んでいますが、政治学でも社会的アイデンティティが政治行動に及ぼす影響を分析する研究は増加する傾向にあります。このような知見を積み上げることによって、政治家やエリートの個人的属性と政策の関係をより詳細に理解することができるようになることが期待されます。

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