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マキアヴェリの『君主論』で語られた、政治家が守るべき3つのルールとは

時代を超えて読み継がれてきた政治学の文献の中でも、ニッコロ・マキアヴェリの『君主論』は特に高い評価を得てきた古典です。研究を行う学者だけでなく、政務を執り行う政治家にも広く読まれ、今でも世界中で翻訳書、解説書が出ています。

なぜこれほどマキアヴェリの『君主論』は高い評価を受けているのでしょうか。この記事では『君主論』の議論を3つのポイントにまとめて紹介したいと思います。

1「真の善人が良い政治を行う」は誤解である

私たちは、家庭や学校で道徳的な考え方を教えられて育ちます。他人の物を盗んではいけない、誰かを傷つけてはいけない、人を殺してはいけない、などは常識的な道徳でしょう。さらに一歩進んで、誰にでも深い愛情を持ち、周囲を思いやることができる人であれば、「いい人」として世間で高く評価されることもあると思います。

しかし、政治の世界に足を踏み入れると、善良であることが不利になることがしばしば起こります。政治の世界で誰にでも好かれることは不可能であり、誰を敵に回し、誰を味方に繋ぎとめることが有利なのかを絶えず判断しなければなりません。そのためには、実力を行使して敵を制圧することや、かつての味方を裏切らなければならない場面も出てきます。ひどく腐敗した勢力を自分の味方に引き込まなければならないならば、彼らの犯罪的行為を容認したり、あるいは協力しなければなりません。

道徳に反する行為であっても、政治においては必要な場合があります。マキアヴェリはこのことに気が付き、道徳と政治を厳密に分けて研究することの重要性を主張した思想家でした。この視点から数多くの洞察が得られます。例えば、マキアヴェリは『君主論』で人間は「恩知らずで、むら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険をふりはらおうとし、欲得には目がないもの」だから、愛されることよりも、恐れられることの方が権力者にとって重要だと述べています(邦訳、141頁)。

もちろん、両方の性質を併せ持つことができれば、それは人として結構なことですが、政治の実情として実際にそのような評価を維持することは困難です。君主として立派に政務を執り行いたいならば、人々に恐怖を与える人物である方が望ましいのです。人間は時として愛情をかけてくれる人を容赦なく傷つけることがあります。恩義を感じている人を利害のもつれで裏切ることも珍しくありません。しかし、自分が恐れている人を傷つけたり、裏切ることはめったにないのです。このような現実主義的な視点を持つことによって、はじめて私たちは政治をありのまま見つめることができるようになるのです。

2 騙すことは政治にとって必要な技術である

『君主論』でマキアヴェリは、人と争うには二つの方法があると論じています。一つは法律による戦いであり、もう一つは力による戦いです(第18章)。法律による戦いは、人間本来の戦い方であり、力による戦いは獣の戦い方であるとも述べられています。マキアヴェリは両者に優劣があると考えていたわけではありません。多くの場合、法律による戦いだけでは不十分であり、力による戦いを組み合わせなければならないと指摘しています(同上、147頁)。

よく誤解されることですが、これはマキアヴェリ自身の言葉ではなく、ローマの政治家だったキケロの言葉の引用です。もともとキケロは「争いごとを解決するには、議論による場合と、力による場合がある」と述べていました。マキアヴェリの議論を理解するためには、「法律」という言葉よりも、キケロが使った「議論」という言葉の方がより適切でしょう。というのも、マキアヴェリがこの時に考えていたのは、交渉を通じた駆け引きであって、法律に依拠して公正に問題を解決する方法ではなかったためです

例えば、マキアヴェリは誰かと契約を結んだとしても、政治的な必要があればそれを破棄することをためらってはならないと考えていました。「人間は邪悪なもので、あなたへの約束を忠実に守るものでもないから、あなたのほうも他人に信義を守る必要はない。それに約束の不履行については、もっともらしく言いつくろう口実など、その気になれば君主はいつでも探せる」とマキアヴェリは述べています(同上、148頁)。マキアヴェリにとって裏切りは政治の基本的なテクニックでした。

誰かを騙すことに罪悪感を感じる人は少なくないでしょう。しかし、政治において嘘をつくことは必要なことであり、マキアヴェリは「必要に迫られれば、悪に踏みこんでいくことも心得ておかなければいけない」と忠告するだけでなく、「運命の風向きと事態の変化の命じるがままに、変幻自在の心がまえをもつ必要がある」と読者に説明しています(同上、150頁)。そのような能力を駆使する君主は、そうでない君主をしばしば圧倒することができると述べています(同上、148頁)。

3 政治家は軍隊のことを第一に考えるべきである

マキアヴェリも、武力をもって争うことが望ましいと考えていたわけではありません。しかし、武力の使い方を知らないことは、国を失うことに繋がる第一の原因であり、軍隊を管理し、指揮することこそが為政者にとっての本来の職責であると考えていました(同上、125頁)。現代の平和主義の価値観では理解に苦しむ思想かもしれませんが、マキアヴェリはその理由を次のように説明しています。

「じっさい、武力のある者とない者とでは雲泥の差があり、たとえば、武力のある者が武力をもたない者に進んで服従したり、武力をもたない者が武力をもつ従者たちに囲まれて、安閑としていられるなどの考えは、筋がとおらない。なぜなら、あちらに侮る気持ちが働き、こちらは疑心暗鬼といった両者が、いっしょにうまくやっていけるなど、とうてい考えられない」(同上、126頁)

つまり、平和な時代が到来したとしても、国防を軽視してはならないということです。軍隊をどのように組織すればよいのか、どのように運用すればよいのか、普段からしっかり研究しておかなければ、逆境に立たされた際に正しく行動することはできません。このような煩わしさから逃れるため、金で雇った傭兵を使うようになったり、あるいは同盟を結んだ外国からの援軍に依存するようになれば、それは国家の存立を脅かす事態に繋がるとマキアヴェリは警告しています。

特に外国軍に依存することは、傭兵軍に依存すること以上に危ういことです。外国軍に対する依存を深めるほどに、外国に対する自国の独立を維持することが困難になるだけでなく、同盟を解消した後で自国の軍備が整っていないので、外国軍に対抗できないためです(詳細については国家の防衛を外国軍に委ねるべきではないと警告したマキァヴェリを参照)。マキアヴェリは、緊急事態で最後に頼りになるのは自国の軍隊であり、それは自国民で組織された軍事力であることを何度も強調していました(同上、121頁)。

まとめ

マキアヴェリが『君主論』で述べた議論は基本的に残酷であるため、彼には非道徳的な偏見があったのではないかと感じる読者も少なくないでしょう。しかし、実際にマキアヴェリの『君主論』を読んでみると、彼が机上の理論や抽象的な思想ではなく、歴史に基づいて研究していたことがすぐに分かるはずです。マキアヴェリの議論では自分の判断の根拠となった事例が頻繁に示されています。この世界が平和で、公正で、安全だと思い込むことによって、私たちは安心感を得ることができます。しかし、それでは政治を理解することができないことをマキアヴェリは説いています。


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