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なぜ国家は他国からの脅威を適切に認識できなくなるのか?:Perception and Misperception in International Politics (1976)の紹介

世界では日々、さまざまな出来事が起きており、そのすべてを知り尽くすことはできません。国際政治で対外政策を選択する指導者は、目の前の問題を解決するためにさまざまな情報を利用しようとしますが、情報が十分に利用できることは少なく、また情報が十分に利用できるとしても、指導者が何らかの理由でひどく誤解することもあり得ます。

これは対外政策の選択に重大な影響を及ぼす恐れがある重要な要因であり、アメリカの政治学者ロバート・ジャーヴィスの著作『国際政治における認知と誤認(Perception and Misperception in International Politics)』(1976)で詳しく分析されています。この先駆的な業績でジャーヴィスは認知に関する心理が政治的な意思決定にどのような影響を及ぼしているのかを考察しました。

Jervis, R. (1976). Perception and Misperception in International Politics. Princeton University Press.

ジャーヴィスがこの著作を発表したとき、国際政治学では国家を単一の行為主体と見なし、自らの利得を最大化するように行動することを想定することが一般的でした。特に安全保障、核戦略の問題を議論する研究者の間では、この想定が分析の基礎として受け入れられており、例えば国家が軍拡を実施すると、隣国は脅威に対抗するための軍拡を実施し、あるいは第三国との同盟を強化するようになると予想されていました。しかし、国家の指導者が他国を脅威として認識するという状態がどのような認知過程で発生するのか明確に説明されることはありませんでした。心理学の知見を踏まえて、このような課題に取り組んだことが、この研究の意義であるといえます。

この著作で国際政治学の研究を発展させるには、国家を単一の合理的な行為主体として見なすのではなく、私的な利害や動機を持った個人の集合として見なすことが重要であることが明らかにされています。そもそも、国家の指導者は普通の人々と同じように、それぞれの国家や地域に固有の歴史的、文化的、経済的、社会的な環境の中で生まれ育ちます。そのため、彼らにまったく同じ情報を与えたとしても、常に同じような反応が返ってくるわけではありません。それぞれに異なった個性があり、何らかの偏見を持っており、処理できる情報の複雑さもさまざまです。この指導者の心理的要因を取り入れることが国際政治学の研究に必須です。

指導者の心理的要因に注意を払った研究者はジャーヴィスだけではありません。アメリカの政治学者ハロルド・ラスウェルは『精神病理学と政治(Psychopathology and Politics)』(1930)で政治学の研究に心理的要因を取り入れるアプローチを提案し、その後の政治心理学の発展に寄与しました。この著作は1930年当時の心理学の研究に依拠しており、また方法も限られた事例の定性的な分析に限定されていますが、政治家がどのような家庭環境で育ったのかによって、パーソナリティ、野心、政治家としての考え方に大きな違いが生じると結論付けています。これは政治家が公共の利益に背き、自らの野心を追求する場合があることを説明しようとした研究として重要ですが、ラスウェルの研究は国際政治学の研究に資するものではなく、また、その後の心理学の研究成果を踏まえた分析を展開することも必要でした。

著作では指導者の認知が対外政策に及ぼす影響を説明するために、イメージという概念が導入されています。イメージは、ある国家の属性に関して肯定的な評価を与えることもあれば、否定的な評価を与えることもあります。その内容はひどく漠然としていますが、それにもかかわらず、人間の認知に強い影響を及ぼすとして、著者は次のように指摘しています。

「後から振り返れば、明らかに反対だと思われるような証拠に触れたとしても、人間は自分が持つイメージを維持する場合が多い。これは驚くべきことである。我々は自分の信念と合致しない情報を無視するか、自分の信念を裏付けるように、もしくは最低でも矛盾が生じないように情報を捻じ曲げ、あるいはその妥当性を否認する」

(Jervis, 1976: 143)

自分のイメージと矛盾した情報を受容できる程度は個人によって違いがありますが、このような傾向は誰にでも備わっています。人々は情報を処理するたびに、その情報を自分が持っているイメージと一体化させようとします。著者は、研究者であったとしても、こうした認知の硬直性とは無縁ではなく、理論の欠陥が隠蔽されることや、新しい証拠があるのに理論の更新か滞ることがあると指摘しています(Ibid.: 187)。知的能力とは関係なく、誰でもこのような典型的な閉鎖的思考に陥る可能性はあるのです。

国家の指導者はある国家に対して好意的なイメージを持っているかもしれません。このようなイメージにとらわれた指導者は、その国家と経済連携を強化し、文化交流を推進することを支持するでしょう。このイメージがあるために、その国家が野心を持ち、戦争の準備を整えているという情報が寄せられたとしても、その価値を過小評価し、抑止に必要な政策の決定を遅らせることが考えられます。あらゆるイメージが対外政策の不利益に繋がると主張しているわけではありませんが、それが最初から間違っていた場合や、あるいは相手が欺騙を仕掛けていた場合、この誤認は国家の安全保障に甚大な打撃をもたらす恐れがあります。この点について著者は「イメージの安定は、友好的な関係を蝕む同盟において摩擦の影響を軽減するだろう。しかし、他の国家が変化し、あるいは初期のイメージが間違っていたとき、既存のイメージを維持するためのコストは極めて大きなものになるだろう」と述べています(Ibid.: 191)。

このような視点から、著者は歴史的経験が人々の他国に対するイメージを形成し、それが対外政策に影響を及ぼすことを考察しています。興味深いのは、人々が持つ他国へのイメージは、直接的に体験した出来事に由来する傾向があり、しかも、その出来事は個人が成人期、あるいは職歴の初めに発生したものであることが多いと論じていることです(Ibid.: 239)。この議論は、ラスウェルの分析とも重なります。ラスウェルの見解によれば、政治家の思想信条は幼年期から成人期にかけて形成され、それ以降は大きく変化することがありません。著者の議論でも人々のイメージは成人期までに確立されます。通常、国家で責任ある地位に就くまでには、20年ほどの時間を要しますが、その間はその新しく形成されたイメージが政策に影響を及ぼすことはあまりありません。

しかし、20年が経過しすると、かつての若者だった人々はそれぞれ権力を握るようになるため、まったく新しいイメージで政策を選択するようになります(Ibid.: 260)。このことから、著者は新しい出来事が直ちに学習され、イメージの変更に至ることはなく、政策の大幅な修正には20年の時間を要することになると見積もっています。この組織学習のサイクルを可能な限り短縮していくことは国家の対外政策を適切なものにする上で重要な課題だと思います。

日本語には翻訳されていない著作ですが、優れた研究業績であり、今でも国際政治学の研究者に高く評価されています。

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