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論文紹介 国内で支持を集めるために国外で軍事的な緊張を高める手法がある

歴史上、政治家は国内で起きた深刻な政治対立を回避し、自らの政治的リーダーシップを強化するために、国外で武力紛争を引き起こし、国際問題に注意を逸らそうとすることがありました。この事象を理論的に説明しようとしたのが国際政治学の戦争の陽動理論(diversionary theory of war)です。

近年、国際政治学の研究領域では心理学の方法や理論を取り入れる動きが見られますが、戦争の陽動理論も新たな視点からアップデートされつつあります。Tobias Theilerは心理学の社会的アイデンティティ理論に基づいて陽動戦争のメカニズムを説明できると述べています。

Tobias Theiler (2018) The Microfoundations of Diversionary Conflict, Security Studies, 27:2, 318-343, DOI: 10.1080/09636412.2017.1386941

社会的アイデンティティ理論は、人間が集団を形成し、自分をその集団と同じ存在であると考えたがることを説明するために構築された社会心理学の理論です。社会的アイデンティティ理論の基礎にあるのはカテゴリー化(categorization)と呼ばれる認知の単純化です。ある物をカテゴリーに応じて分けることができれば、複雑な物理的環境を認識する際に、私たちの頭の中で行う情報処理の負荷を軽減できます。

カテゴリーは社会的環境を認識するときにも参照されているため、私たちは自分と類似性がある個人を同じカテゴリーで処理します。このとき、自尊感情を高めたいという欲求も働くため、自分が属する内集団には好意的な評価を与える傾向が生じます。そして、外集団を好意的に認識しなくなり、利害が異なると競合しやすくなります。この心理的なメカニズムは感情的な反応とも深く結びついているため、私たちは内集団と外集団の相違を実際以上に強調しがちです。

社会的アイデンティティ理論は集団間の紛争が起こると、人々はそれぞれ自分が属する内集団に対する愛着が強くなり、外集団に対して集団的な行動をとることが促進されると説明しています。それだけでなく、集団を率いるリーダーの地位も強固なものとなり、集団の内部で別の人物がリーダーの地位に挑戦しても周囲の理解を得ることが難しくなります。この理論を踏まえれば、政治家が対外的に緊張を高める陽動戦争を遂行し、国内における自らの地位を強化することは政治的に合理的な戦略です。

例えば、武力紛争が発生すれば、政治家は国民に向けて演説を行い、団結を呼びかけることができます。戦没者を慰霊し、負傷兵と面会している様子をメディアに取材させることができます。何より国民の関心は国外の脅威に向けられ、現政権を批判することは反逆的なことだというイメージが広がります。いずれも政治家が権力を保持する上で有利な効果であるため、戦争は国内政治における権力者の困難を軽減することができると言えます。

著者は、以上の社会心理学の理論を踏まえ、2014年に起きたロシアのクリミア併合の事例を分析し、ロシア国民がこの事件で国民としてのアイデンティティをどれほど強く意識していたのかを調べました。この事件では、ロシアがウクライナの領土だったクリミア半島を併合し、国際社会から強い非難を受けています。

ピュー・リサーチ・センターの調査によれば、ロシア人の89%がクリミア併合を歓迎していました。クリミア併合の前後でロシアでは自国に対する「非常に好意的」な評価は急激に増加しており、2013年には29%だった割合が2014年に51%、経済制裁の影響が及んだ2015年でも63%に上昇しました。自分の生活が「幸福である」と回答する人の割合は2013年に41%でしたが、2014年に59%になり、ロシアは「正しい方向へ向かっている」と考える人の割合も2014年1月に43%だったのが2014年3月に60%に上昇しました。

社会的アイデンティティ理論によれば、内集団に対する評価の上昇、外集団に対する評価の低下につながります。クリミア併合に対するロシア社会の反応はこの理論の妥当性を裏付けるものでした。アメリカに対する肯定的な評価は2013年に51%でしたが、2015年には15%に減少しています。北大西洋条約機構、欧州連合に対するイメージも悪化しています。

著者が示しているデータで興味深いのは、経済に対する評価が悪化しているにもかかわらず、その責任は自国政府にはないという国民の反応が広く確認されたことです。2015年の初頭には73%の回答者が経済状態の悪化を訴えていますが、プーチンの政策に責任があると考えた人の割合は25%でした。経済の業績が明らかに悪化しているにもかかわらず、プーチンに対する支持は高まっており、このことは社会的アイデンティティ理論と整合的な事象です。

著者はこの陽動戦争の効果がどの程度持続可能なのかについて考察しています。外集団との武力紛争を意図的に引き起こすことによって、リーダーは内集団に属する人々から大きな支持を集めることができると考えられますが、その効果がいつまでも続くとは限りません。もし武力紛争の犠牲が拡大すれば、それによって戦争を継続することで得られる政治的な利益はなくなるかもしれません。著者は戦争の烈度が上昇するほど、リーダーに対する支持は低下しやすくなると予測していますが、このメカニズムにはさまざまな政治的、社会的な要因が関連している可能性が高いため、さらに調査研究を進めるべきであると結論付けています。

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