社会の承認を求めた自衛隊の歴史に迫った『日本人と自衛隊』(2022)の紹介
1954年に創設されてから、今日に至るまで自衛隊は日本国民から社会的な承認を得るために多くの努力を払ってきました。創設当初、自衛隊は非合法的な武装集団や、まともに機能しない税金泥棒などの非難に晒されることがあったためです。
自衛隊にとって戦前の旧日本軍とは質的に異なったアイデンティティを確立し、日本社会との関係を再構築することは重要な課題でした。こうした課題に陸上自衛隊がいかに地域住民と関わってきたのかを明らかにしているのがアーロン・スキャブランド『日本人と自衛隊(Inglorious, Illegal Bastards: Japan's Self-Defense Force during the Cold War)』(2022)です。
アーロン・スキャブランド著、花田知恵訳『日本人と自衛隊:「戦わない軍隊」の歴史と戦後日本のかたち』原書房、2022年
自衛隊が国民からの理解を得るために、地域社会の振興に取り組んできたことは、これまでにも議論されたことがありますが、この著作はいくつかの地域に焦点を合わせて具体的に議論しました。第3章では北海道における自衛隊の取り組みを記述しています。
近代以降の日本の歴史で北海道は常に国防上の焦点の一つでした。明治政府は1869年に開拓使という組織を設置して北海道の開発に着手し(175頁)、各地で全国から元武士階級の人々を雇い入れ、屯田兵として定住を支援し、対ロシア防衛の基盤を構築しようとしました(同上)。
このような歴史的背景があったため、北海道は他の地方自治体と異なる地位に置かれており、中央の行政統制を受けてきました。他の地方自治体と同じ地位に位置づけられたのは1947年の地方自治法が成立してからのことですが、1950年に日本政府は北海道開発庁を設置し、中央の行政統制を再び強化しています。北海道開発庁は戦前の開発政策を踏襲しました。
1950年に北海道に対する中央の統制が強化されたのは、同年に北朝鮮軍が韓国に侵攻して朝鮮戦争が勃発したことが関係しています。韓国の防衛を支援するため、アメリカは在日米軍の部隊を出動させたので、残された日本の治安維持を強化するために警察予備隊が組織されました。北海道でも警察予備隊の配備が検討されると、各地で地元住民が地域経済への波及効果を求めて誘致する運動と、それに反対する運動を組織して対立する事態が起きました。
戦前に陸軍と強い結びつきがあった旭川でさえ、1953年に警察予備隊を前身とする保安隊の部隊が配備されることが決まったときにも、市民の反応は賛成一色ではありませんでした(178頁)。
1954年に保安隊が自衛隊に再編されてからは、地元に溶け込むための活動が本格的に展開されることになりました。その活動の一つが隊員と地元の住民との結婚の奨励であり、北海道では自衛隊員の結婚仲介が1959年から組織的に実施されています。これが政策的に可能になったのは社会党の知事から自由民主党の知事に変わってからのことであり、町村金五は北海道庁知事として地域の結婚仲介所を巻き込み、自衛官と地元の女性を引き合わせるイベントを開催しました(180-1頁)。
自衛隊にとって隊員が地元の女性と結婚することは、地域社会との関係を強化する手段として自衛隊でも重視されていました(同上)。退職者を地元企業に紹介することで定住を促進する事業にも取り組んでおり、1963年に町村知事は400名を超える雇用者と提携し、自衛隊の退職者の再就職先を確保しました(182頁)。
日本が高度経済成長により豊かになると、地域経済が自衛隊に依存する度合いを低下させると、自衛隊はより直接的な仕方で地域経済を援助するプログラムを開始しています。1974年に防衛庁は駐屯地や基地が立地する自治体に対して騒音やその他の環境上の被害に対する補償を開始しており、北海道では実弾射撃の訓練が実施されていた別海に補償金が分配されました(185頁)。こうした分配は財源が乏しい地方自治体にとって重要な収入であっただけでなく、地元と安定的な関係を維持する上で重要な役割を果たしました。
自衛隊が提供する災害派遣も行政サービスが限定された地方自治体にとっては心強い支援であり、北海道では1951年から1960年までの間に208回の災害派遣が実施されており、これは全国的にも突出して高い頻度でした(189頁)。農村部で医療にアクセスできない地域に医官を派遣する取り組みも自治体に歓迎されました(同上)。
インフラの整備では自衛隊の施設科部隊の能力が発揮され、防衛庁の概算では1953年から1959年にかけて1200件のプロジェクトに800万名人日分の労働を提供し、さっぽろ雪まつりへの協力でも物品と燃料の実費しか請求していません。北海道では農業支援も活発に実施されており、1965年の調査によると5万名の隊員が農業支援に駆り出され、翌年には道内の全ての部隊が農業支援に関わりました(193頁)。
しかし、こうした取り組みだけでは自衛隊の本来の任務に対する国民の理解をえることができないという限界もよく認識されていました。1962年に第11師団は一般公開で演習を実施していますが、これは自衛隊の武装組織としての実力を示す場として使われました。豊平川の土手に集まった観客に向けて部隊は航空機の飛行、火砲や戦車、そして歩兵の射撃を展示しています(204頁)。自衛隊はその後も映画館やテレビなどのメディアを通じてイメージを向上させることに努めていますが、その表象は軍隊のイメージから乖離しており、すべてがうまくいったわけではないことも指摘されています(229頁)。
この著作は、自衛隊が本質的に武装組織であるにもかかわらず、日本国民から幅広く理解を得るために、その特徴を前面に押し出すことが難しかったことをよく示しています。この問題は現在でも完全に解決されたわけではないため、その研究成果は今の状況を理解することに役立つものになっています。
現代の安全保障環境では武力紛争の性質が複雑化しており、国民の理解や認知が戦力の発揮に重要な影響を及ぼすことが明らかになっています。したがって、この著作で取り上げられているのは自衛隊の広報という技術的なトピックとして理解すべきではなく、日本の安全保障の社会的基盤の脆弱さとして理解するべきだと思います。