メモ 戦後の日本における災害派遣の歴史
警察や消防で対応が困難なほどの広域的に被害が発生した場合、外部のインフラに依存することなく組織的な活動が可能な軍隊は重要な役割を果たしてきました。日本で関東大震災(1923年9月1日)が発災した際にも戒厳令が発せられ、日本軍の部隊が派遣された事例があります。
第二次世界大戦の結果、日本は米軍の占領統治に置かれ、陸海軍は解体されました。そのため、戦後間もない時期に災害が発生すると、米軍の部隊が出動するようになります。例えば、1947年のカスリーン台風災害、1948年の福井地震ではダグラス・マッカーサーの指揮で救援活動が実施されています(村上「自衛隊の災害派遣の史的展開」17頁)。このような活動は国民の支持を集めることになったため、1950年に自衛隊の前身となる警察予備隊が創設された当初から、吉田茂首相も災害対応を通じて警察予備隊に対する国民の支持を高める構想を持っていたとされています(同上、16-7頁)。
しかし、その実行は簡単なことではありませんでした。まず、警察予備隊を組織するための根拠法となる警察予備隊令には、災害派遣の規定が盛り込まれていませんでした(16頁)。警察予備隊が被災地に出動するためには、総理大臣の命令に基づく治安出動の規定による必要があったので、部隊の指揮官は被災地の知事から要請を受けたとしても、勝手に部隊を動かすことはできませんでした。そのため、災害対応に必要な即応性に問題がありました。
1951年7月14日、京都府桑田郡で発生した水害に対処するため、被災地の要請を受けた福知山の部隊が部隊の指揮官の独断で部隊を出動させるという出来事がありました。これは事実上、戦後に警察予備隊が実施した最初の災害派遣であり、地元の住民からは評価されましたが、指揮官は越権行為を行ったとして処分されています(同上、17-8頁)。即応性と適法性の両立は、災害派遣の歴史で繰り返し課題として浮上していますが、この時期でもすでに表面化していたといえます。
公式の記録に残る最初の派遣としては、1951年10月に西日本を襲ったルース台風への対処があります。この台風は10月14日に九州に上陸すると、各地で大きな被害をもたらしました。最終的に572名が命を落とし、負傷者は2644名、行方不明者は371名となりました(ルース台風(1951年10月10日~15日))。10月19日、山口県知事は台風の被害が甚大であると判断し、小月駐屯地の第11連隊に救援を要請しました。
連隊長は第4管区総監部に直ちに出動することを提案しますが、総監部は数か月前に京都で例を踏まえて、慎重に適法性を判断する必要があるとして、これをいったん却下しました(同上、18頁)。しかし、被災地の状況は深刻であったことから、岩国基地の米軍部隊が先んじて救援活動を開始していました。連隊長は副連隊長を総監部が置かれた福岡に派遣し、現地の状況がいかに切迫しているかを伝え、吉田首相に許可を求めるように上申させています(同上)。
福岡の総監部は東京の総隊総監に上申した日は土曜日だったので、総隊総監は警察予備隊本部を通さずに官房長官と連絡し、吉田首相に出動の許可を求め、認められました(同上)。連隊が出動するために必要な命令が下達されたことによって、連隊は10月21日から被災地の住民を救援することが可能になり、道路復旧と救援物資の輸送を実施しました(同上)。この功績から山口県議会では感謝決議が成立し、警察予備隊に対する評価を高めることができました。
この経験を踏まえ、政府でも災害対応の研究が進められることになり、1952年3月3日には災害に対応する上で部隊が出動する上で遵守すべき「出行に関する準拠」が達せられました。警察予備隊が1952年7月に保安隊に改編されると保安庁法の66条に「災害派遣」が規定され、1954年に自衛隊に改編されると、この規定が自衛隊法83条の災害派遣の規定に受け継がれました。
公式な記録として史上初の災害派遣に出動した部隊となった第11連隊は、1954年の陸上自衛隊の発足で第11普通科連隊に改称され、北海道の防衛を固める目的で北海道の千歳に移されています。
参考文献
村上友章「自衛隊の災害派遣の史的展開」『国際安全保障』41巻2号、2013年9月、15-30頁(https://doi.org/10.57292/kokusaianzenhosho.41.2_15)