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アオハル

その昔バンドブームなるものがあった。これはその1983年当時の話。

◇◇◇

僕が高校生だったおよそ30年前……エレキギターを弾くなんざ不良のやることで、周りの大人たちから白い目で見られ、特に親からは

「あんたそんな蓮っ葉なこと止めなさい」

などと言われたり。

それでも、当時世の中はヘヴィーメタル全盛期であり、ヴァンヘイレンに憧れ、またある人はマイケルシェンカーに憧れ、そんなバンドブームの渦中にあった僕と友人は迷わず軽音楽部の門を叩いていた。
何故なら軽音楽部だけがエレキギターを弾いてもよい部活だったからだ。
(超美人な先輩に一目惚れしたからという理由もあ…)

とはいえ、エレキギターを使っていいのは夏休みだけ(文化祭の練習という名目)で、それまでは教師たちに目をつけられぬようフォークギターを真面目に弾くという"仮の姿"でおとなしく身を隠していなければならなかった。

何故そんな厳しい掟があったかと云えば、その前身であるフォークソング同好会を遡ること数年、先輩方が

「僕たちは清く正しい高校生です」

と、散々繰り返しアピールしてようやく軽音楽部に昇格できたという重い歴史があるからに他ならない。

部としての活動はまだ二年しか経っておらず、肩身の狭い状況下で先生から

「お前ら何か問題起こすなよ!」

的な冷たい視線を浴びながら、僕ら部員たちは日々ご機嫌を伺うしかなかったのだ。

僕と友人は仕方なくヤマハとモーリスの安いフォークギターを買って、日々フォークギターの練習に勤しんだ。
そう、''みんなで歌おう歌謡曲''みたいなコード譜が載ってる本で、チャゲ&飛鳥、さだまさし、長渕剛とかを練習したりなんかして。


◇◇◇


だいたい僕らを目の敵にしていたのは、日体大出身の体育教師「細田先生」と「折茂先生」であった。

生活指導を兼ねているとあって、細田先生はホームルームの時間ですら竹刀を手放さず、その竹刀で床を

「バシッバシッ」

と叩き鳴らしながら生徒を威圧していた。今なら大問題だろうが当時はそれがまかり通る世の中だった。

折茂先生は教師になってまだ2~3年目の若い先生で、初めてサッカー部の顧問という大任を背負たばかり……張り切り過ぎて僕ら男子には無駄に厳しかった。

ある日、先生の下着が女性モノのパンティー(ぴったりフィットして動きやすいという実用面を考慮)ということを、僕らはサッカー部の友人から情報を得てしまった。先生の姿を遠目に発見してはコソコソと話をして日々の溜飲を下げていた。
当たり前だが、面と向かっては言いにくい事案ゆえ、何故か別の面でビクビクしていたけれど……馬鹿丸出しの高校生である。


◇◇◇


夏が来て、僕ら部員たちはエレキギターを手に取りゾンビの如く生きかえった。

ビートルズを演るもの、ACDCやオジーオズボーンを演るもの、山下達郎やユーミン、浜田省吾、佐野元春、白井貴子、松原みき、など多種多様な音楽に僕らは身を委ね、次々と消費していった。
カシオペアやスクエアなど高校生らしからぬテクニックに溺れたのもこの頃だ。

ギラギラと照りつける太陽がまぶしい灼熱の日々。

まだ一年生だった僕らは、先輩が作るバンドのお手伝いをしなければならず、自分のやりたいことは後回しである。

音が漏れぬよう締め切った教室で、部員たちはみんな不健康な汗を流し続けた。
音が校庭に零れれば、件の体育教師がすっ飛んできて抗議されてしまうからだ。

それでも、

それでも僕らの汗だくの青春は揺るぎなく、間違いなくここに存在していた。

僕らはめくるめく夏休みの真っ只中を、とにかく無我夢中で突っ走っていたのだ。

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◇◇◇


時は流れ、僕らは三年生になった。

先輩のご意向を伺うことなく自由にできる日がついにやってきた。

僕と友人の5人は文化祭で「サザンオールスターズ」を演奏することにした。友人たちから是非やってくれとのリクエストがあり、それにお応えしようと決めたのだ。バンド名は「喜楽」とした。ドラムの田中くんの親が営むラーメン店の屋号である。

当時は「ふぞろいの林檎たち」というドラマでサザンの曲が次々ヒットしていて、当然ながらセットリストは新曲の「ミス・ブランニュー・ディ」を始めに「ボディスペシャルⅡ」「虹色THEナイトクラブ」などドラマから選曲、ファンなら垂涎モノのナンバーを多めにした。もちろん「いとしのエリー」「勝手にシンドバット」は欠かせない。

僕らのグループは、その当時超高校生級のテクニックを持っていたはずだ。なんなら今プロとして音楽活動を続けているメンバーもいたりするくらい。当時の音源をお聴かせできないのが誠に残念である(※言うのはただである)

もちろん文化祭は大成功に終わった。

有終の美を飾った僕らは三年生なのでそのまま部活を引退し、惜しまれつつバンドは解散したのだった。


◇◇◇


僕らは受験に飲み込まれる──

ギタリストの寒河江くん(現在YU SAMMY / 舞台の音楽監督などで活躍中)とキーボード担当の女子は大学へ、僕は調理師学校へ、ドラムの田中くんは理容学校へ進学が決まっていた。ボーカルだった川島くん(僕らはケンちゃんと呼んでいた)だけが医療系の専門学校を受験するということで試験日(2月中旬)まで勉学を励むことに。

年が明けると僕らはほとんど学校に行くことがなく、車の免許を取得するため自動車学校で時間をつぶしていた。

学校の行事も卒業式と予餞会……いわゆる「三年生を送る会」という催しものを残すだけ。

その予餞会で

「夏にやったバンドをもう一度観たい!」

という声が同級生から多数湧いてきたから驚きだ。先に進学が決まった同級生はホントいい気なものである。

まあ僕らも何だかんだ言いながら嬉しさは隠せない……夏にキーボードを弾いていたくれた子は歌がからきしダメだったので、新たに2年生の歌の上手い後輩を引き入れ、バンド名を「喜楽スペシャル」として僕らは復活することになった。
受験が終わらぬケンちゃんをなだめすかしてやっとの再結成である。ケンちゃんも

「当日までには必ず合格するからさ!」

と言ってくれたのだ。''言わせた''という説もある。

''三年生が三年生を送るバンド演奏''に若干の無理があるものの、僕らは最高のセットリストで挑むことにした。与えられた時間はわずか20分。これは他の出し物があるため絶対に守らなければいけない時間配分である。

僕らが予定した曲目を順に並べると

気分次第で責めないで→C超言葉にご用心→栞のテーマ→いなせなロコモーション→いとしのエリー→YaYa(あの時を忘れない)→勝手にシンドバット(全員ソロあり)

という40分くらいのセットリストだ。無理は承知である。

もちろん管理委員には上記のうち4曲ほどしか伝えていない。
ベースを担当する僕と、ギターを担当する寒河江くんはシールドを使わず無線で音を飛ばす装置(ワイヤレス)を準備した。
万が一の緊急事態も視野に入れていたのだ。そう、強行突破しかない。

そうして僕らは練習を積み重ねた。同級生を喜ばせたい一心で。


◇◇◇


──予餞会1週間前に事態は急変する。

ケンちゃんが次々と受験に失敗したのだ。ケンちゃんに残された専門学校の試験日は、予餞会当日ただ1日だけになってしまった。

僕らは悩んだ挙句、あろうことかケンちゃんを説得し始めた。人の一生が、ケンちゃんの人生が掛かっているのを承知でケンちゃんに受験を諦めろと……

こたつに入り、ケンちゃんを囲み、今までの僕らの歴史を滔々と語り

「二度とないこの瞬間を僕らは台無しにしていいのか!」

と、ケンちゃんを追い詰めた。今思えば無責任極まりない行為である。

最終的にケンちゃんは

「俺、やるよ」

と声を絞り出し、みんな泣いた。

本当人間として最低であった。
(ちなみにケンちゃんは親に内緒で学校に登校して歌い、親には試験に落ちたと嘘をつき、同じ専門学校の2次募集で無事合格したのだった)

そして当日の朝を迎えるのである。(続く




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