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影を逃れて。

【影を逃れて】
ミュージカル「モーツァルト!」より
(YouTubeより歌ってみた動画を引用)

誰にも頼らない
白い鬘は もう被らない
見つけよう 本当の人生 それは
ワインの香りと 赤い唇で 夜毎慰め
笑いと涙 溢れる 僕の生き方 どうすれば

自分の影から 逃れられるのか?
自分の定めを 拒めるのだろうか?
殻を破り 生まれ変われるのか?
自分の影から 自由になりたい

死ぬのは怖くない
自由に生きられたら
生命のある限り 求め続ける

たおやかなシンフォニー
女の肌のように 響きのヒダに触れて
僕は 震える どうすれば

自分の影から 逃れられるのか?
自分の過去から 解き放されたい
心捨てれば 忘れられるのか
自分の影から 自由になりたい

不安で一杯 のしかかる重り
何を聞いても 答えてはくれないのに
どこかで見てる 息がつまりそう
いつかアイツに殺されてしまうだろう

自分の影から 逃れられるのか?
自分の定めを 拒められるのだろうか?
殻を破り 生まれ変われるのか?
自分の影から自由になりたい

運命に 従う他ないのか
絶対に 無理なのか
影から 自由になりたい

ミュージカル「モーツァルト!」の中の一曲だ。
動画は短いVerのためか、歌詞が多少違うことはお許し願いたい。
もし気になる方は、他の方が歌われた動画も探して聴いていただきたい。
本当に、歌う人が違うとまた違った感情が生まれてくる。

自分の心に響く部分を太字にしてみた。
お芝居に関するところ以外ほとんど全てだ。

どこに行っても自分は自分。
学校が変わっても、進学して一人暮らしを始めても、地元に戻っても、仕事を10以上転々としても、自力で一人暮らしを始めても、現実でも、ネット上でも、ゲームの中でも。

精神科医・藤野智哉さんのツイート。

本当は上の画像の一番上のツイートについて書くつもりだった。
こちらのツイートを見てから何日か経つにつれ、色んな考えが浮かび上がってきた。

最初は自分への注意喚起のような感じでつぶやくつもりだった。
ただ、それだけでは足りないくらいの感情が湧き出てきてしまったので吐き出しておく。

自分は今年の初め、何とかつぶやきサイトを辞めることができた。
途中からは、「自分のような人間でもできることの証明」をしたくて意地で続けていたと思う。
実際、そんなことを誰かに伝えたこともあった気がする。

だが、もう手一杯になってしまったのだ。
何度もアカウントを消しては復活させ、最後は少し落ち着いてきたかと思ったところ、自分の中で、大ダメージをくらってしまったのだ。

何も大したことではなかったが、その時の自分にはもう耐えられなかった。

アカウントを消して一ヶ月以上して、やっと楽になれた気がする。
消してから一ヶ月間はいつでも復活できるからだ。

ただ、そのタイミングでSUZURIとnoteを始めた。
そして、今までアカウントだけ持っていたnoteだったが、つぶやきサイト以上に沢山のことができることを知って驚いた。

つぶやきサイトほど手軽ではないが、やはりこちらも注意が必要だ。

SNSを始めて約一年、ネット上でゲームやチャットに参加し始めてからは約一年半。
まだまだ新参者だ。
赤ちゃんのようなものだ。
だからといって許されることは何もない。

自分は自分。
これまでリアルな社会でも他の人に迷惑をかけ続け、自分自身も苦労をしてきた。

藤野先生のツイートがグサグサ胸に刺さるようだ。

もう何もしない方が良いのかもしれない。
それでも何もしないわけにはいかない。

2番目と3番目の優しいツイートの言葉を信じてみても良いものだろうか…

「影を逃れて」。
時々頭から離れなくなる。
どこへ行っても自分自身からは逃れられない。
こんな風に思うときはどうしようもない。
ただただその曲を頭の中で反芻している。

同じミュージカルの楽曲、「ダンスはやめられない」もそうだ。

【ダンスはやめられない】
ミュージカル「モーツァルト!」より

毎朝 日が昇る頃 ベッドにつくのよ
太陽は体に悪い そう思ってるみたいに
いったい誰が片付けるの?
主婦なんてできない
夫は芸術家なの 私が支えてる
閃くインスピレーション 与えてあげるの
でも夜が来たなら ダンスパーティーに行く

毎晩どこかへ踊りに行く やめられないの
生きて愛し夢に溶ける
流れる血にシャンパン 髪に薔薇を差して

引っ込み思案 目立つのが嫌いな少女
それが私だった
勉強嫌いで努力ができない
そう、今も変わらない
ママは言ったわ お前は乞食になる
構わない 私は
お前の未来は暗いと言われた
未来なんていらない

姉さんは私だって歌手になれると言う
でも時間が惜しいのよ 夜はダンスに行くから

ダンスはやめられない その時だけ幸せになる
燃えて乗って夢に溶ける
流れる血にシャンパン 髪に薔薇

もし彼が神に召され 天国へ行っても
泣いたりなんかしないわ 私流に弔うの

毎晩どこかへ踊りに行く やめられないの
生きて愛し夢に溶ける 流れる血にシャンパン
髪に薔薇を差して

インスピレーション 与えなくては・・・ 


こちらは少し現実逃避に近いかもしれない。

「ダンスはやめられない その時だけ幸せになる」
自分にとっては、
「踊っている時だけは全てを忘れられる」
に置き換えられる。

もちろん踊りに限らず、何かに熱中したことがある人なら、その時に嫌なことなど何もかも忘れていた…というような経験はあるだろう。

「影を逃れて」と同じくらいの苦しみを歌った曲だとは思う。
それでもこちらには少し希望が見える。

自分と向き合いすぎなくてもいいのだ。

この曲を歌う "モーツァルトの妻" という立場とは、あまりにかけ離れている自分だから言えることだとは思うが。


本当に難しい。
「ほどほど」とは一体何なのか…
「適度な距離感」とは?
「深く考えすぎない」の深さとはどのくらい?
今の自分に「楽しい時間」なんて本当にある?
「幸せな時間」もある?
いつも嘘ばかりついていない?
「常識」とはなに?

疑問が次々と浮かんでくる。
それでも、「自分にとって本当に必要なことだけ」していれば良いはず。

それなのに、先程のつぶやきサイトの例のように、何かを辞められてもまた別の何かを始めてしまう。

「メンタル患者さんはリラックスが下手」。
こちらは精神科医の樺沢先生の言葉だが、本当にそうだ。

これだけゆっくりできる時間があるのにいつも頭はパンクしそう。
なんてことない些細なことに翻弄されて。

今日はいつもより2時間近く早い時間に起きれた。
それ自体は良いことなのだが、今のこの時間がもったいない。

おそらくそういう考え方が良くないのだろう。

「ただ生き延びる時間があってもいい。」
「自分(素人)の読心術は当たらない。大丈夫。」

もうこれ以上、色んなことに手を出すのはやめておこう。
そもそもメンタル疾患をかかえている人に関しては、何か新しいことを始めることはあまり良くないことらしい。

noteも一日一回まで。
むしろもっと少なくても良いかもしれない。

お絵描きサイトのピクシブも投稿が止まってしまっているが、気にしない。
また描きたい時に描けばいい。

問題はゲームだ。
元気な時は本当にありがたいのだが、そうでもない時は大きな重荷になる。
上手くなりたいのは山々なのだが、そのために必要なのは「時間」、「毎日少しでも触ること」。
これが、できない時に焦りが生まれる。
もし次にPCが壊れたりなどしたら辞めようとは思っているのだが、果たしてその決断はどれくらいのものであろうか…
また無理して新しく買い換える可能性もある。

どの道、まだ先のこと。
「今、できることをできる範囲でやっていく。」

「今」は、noteを書くことができている。
このままダラダラ書き続けても仕方ない。

一旦お昼寝でもしてリセットしよう!

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