「ファイト!」第7話。

 それから、二年と半年の時間が流れた。侑里と慎吾は無事に三年に進級できていた。

 「おじゃまします」
昼休み。慎吾がお弁当を持って音楽準備室に入った。いつからか、お昼のお弁当を侑里と慎吾と松下の三人で食べるのが日常になっていた。この部屋の雰囲気から、慎吾はいつも「おじゃまします」と言ってしまう。部屋の中では、もうすでに侑里と松下が談笑していた。
「でも、やっぱり先生に音楽習いたいです」
「そう?嬉しいね」
そんな会話が聞こえた。侑里が二年生に上がったときに松下は新一年生の担当になり、侑里の学年の授業は受け持っていなかった。
「でも、授業を担当してたら、こんな風に話せなかったかもよ」
慎吾が会話に混ざりながら椅子に腰を下ろした。松下が「いらっしゃい」と迎え、侑里は「前からお茶してたよ?」と答えた。
慎吾が「そうなの?」と侑里を見ると、松下も「ねえ?」と侑里を見た。侑里が「はい」と返事をする。慎吾は「流石ですね」と笑った。
「はぁー、あったかい」
慎吾が部屋にあるストーブに両手を当てた。
「外、寒い?」と松下が聞くと、「冷えてきましたね~」と慎吾が答えた。「そろそろ十一月だもんね」と侑里がつぶやいた。
「君は侑里ちゃんに感謝しなよ?侑里ちゃんの掃除が上手だから、君がこの暖かい部屋でお弁当食べれてるんだからね」
「いや、本当に感謝してます」
慎吾が二人に頭を下げ、二人が笑った。

 「慎吾、はい」と侑里が慎吾に手作りのお弁当を渡した。「おー、いつもありがとね」と受け取る。
「相変わらずよく食べるねぇ」
松下が言った。慎吾はいつも、母親の作った弁当と侑里の作った弁当の二つを平らげていた。
「二つ食べないと体もたないんですよ」
「本当?」と聞いたのは侑里だった。
「ほんと、ほんと。特に、今日みたいにバイトのある日は二つ食べないと無理」
「なら良かった」と侑里が笑った。そのやり取りを、松下は微笑ましく見守っていた。
「ていうか君たち、教室にも友達いるんじゃないの?いいの?いつもここに来て」
その言葉に、「いやぁ、なぁ?」と二人が目を合わせた。松下が「なに?」と聞く。
「なんか、教室居心地悪いんですもん」
「なんで?」
「なんか、みんな受験とかそういうので、ピリピリしてて」
「いや、君たちがのんびりしすぎなんだよ」
松下の一言に、三人が笑った。
「慎吾君は、いつ試験だったんだっけ?」
「今月の頭でした。今は、結果待ちです」」
「結果は、いつ出るの?」
「十二月の真ん中です」
「そっか。じゃあ、まだちょっとドキドキ続くね」
「はい。それで落ちてたら、年明けにまた受けなきゃいけないので、受かってて欲しいです」
「そうだね。でも、試験終わったからって、あんまり油断しないようにね」
「油断ってなんですか?」慎吾が聞くと、松下はファイティングポーズをとり、慎吾に向かってパンチを打った。その仕草に侑里が笑い、慎吾は「先生、前にも言いましたけど、」と前置きした。
「俺からケンカ売ったことはこれまで一回もないんですよ?」
「てことは、売られたらわかんないって事でしょ?」
「その時は、一瞬で終わらせますよ」
「こら」と松下が言うと、三人が笑った。
「でも、本当に気を付けてね」と侑里が言うと、慎吾は「大丈夫だよ、もし合格してて、ケンカなんかで取り消しになんかになったら悔やみきれないからな」と返した。

 「侑里ちゃんは、いいの?」
「え?」
「このまま卒業で」
「私は…」
侑里が、少し言葉を濁した。
「私はおとうさんの会社を手伝うので受験はいりません」
侑里が、そう答えた。その侑里の横顔を慎吾が見ていた。松下は「そっか」と返した。
「ま、私は侑里ちゃんに掃除してもらえるから助かるけどね」
「先生も大分のんびりしてますね」慎吾がそう言うと、また三人で笑った。

 「…ねぇ?」
「ん?」
「たまごやきちょうだい?」
侑里が慎吾の母親の弁当を指さした。たまごやきは侑里の作ったお弁当にも入っていた。慎吾が不思議に思いながらも「ん」と弁当箱を差し出す。侑里が「ありがとう」と箸を伸ばした。
「美味しいね。おかあさんのたまごやき」
「そう?」
「うん、おいしい」
「慎吾君、こういう時は彼女のたまごやきも褒めるんだよ」
松下に指摘された慎吾が「あっ!」と慌て、侑里は「いや、そうじゃなくて」と両手を胸の前でパタパタと振った。
「ちがうの。私ね、おかあさんのお弁当に憧れがあるんだ」
「…そっか、そうだよな」
松下は微笑んでいた。
「…どんなお弁当がいいの?」と慎吾が聞く。侑里が、「あのね」と笑顔で話し出した。
「赤くて小さい可愛らしいお弁当箱で、たまごやきと、赤いタコさんウインナと、唐揚げと、ちっちゃいハンバーグが入ってて。ご飯に桜でんぶが乗ってるの」
「いいね。可愛いお弁当だ」
「でしょ?」
「侑里」
「ん?」
「侑里のたまごやきもうまいよ」
松下が「遅いよ」と言い、三人で笑った。

 そのとき校内放送が鳴った。三人が会話を止めて耳を傾ける。放送で、担任の先生から慎吾が呼び出された。「え、俺?」とつぶやいて、慎吾が弁当箱を片付け始めた。「また何かやったの?」と松下がからかう。
「やってないですし、『また』ってなんですか」
侑里と松下が笑った。
「侑里ごめん、先行くわ」
「うん。放課後は一緒に帰れないから、また明日ね」
「あ、そっか、そうなるのか」
「慎吾」
「ん?」
「ファイト!」
侑里が手をグーにしてポーズをとると、慎吾も「ありがとう!」と手をグーにして受け取った。
「じゃあね」
慎吾が音楽準備室を出た。

 「…それ、いいね」
「なんですか?」
松下が手をグーにしてポーズをとった。
「あぁ」と侑里が照れたように笑った。
「あんなに疲れてるのに、『頑張れ』はひどいかなって」
「…疲れてる?彼が?」
「はい。最近、全然休んでないですし」
「へぇ…」
松下には、いつもと変わらない元気な慎吾に見えていた。
「でも『応援してるよ』って気持ちは伝えたくて」
「それで、『ファイト』?」
「はい」
「いいねぇ」
確かに、必死に頑張っている時に『頑張れ』という言葉を受け取るのは辛い時もある。しかし、『ファイト』なら受け取りやすい。優しい侑里らしい考え方だなと思い、松下が微笑んだ。

 「ゆりちゃん」
「はい」
「本当は、お父さんの会社を手伝うのとは別に何か夢でもあるんじゃないの?」
松下にそう言われ、侑里は「相変わらず、鋭いな」と思った。
「小さいころからの、夢はあります」
「教えてよ」
「…笑いませんか?」
「笑わないよ」
「誰にも言いませんか?」
「言わないよ」
侑里が、他に誰もいない部屋の中で松下の耳に顔を寄せた。
「およめさんです」
そう言ったあと、侑里は顔いっぱいに恥ずかしさを浮かべていた。その姿に松下は「なんだ、この可愛い生き物は」と思った。
「その夢は、慎吾君は知ってるの?」
「昔、付き合う前に言った事がある気がしますけど、多分、覚えてないと思います」
「そっか」と笑った松下に、侑里は「はい」と答えた。
「ゆりちゃん、放課後、お茶しようよ」
「いいんですか?」
「うん、待ってるね」
「はい、楽しみにしてます」

 「…あ、やべっ」
バイト終わり。慎吾が電車から慌てて降りた。閉まりかけたドアに挟まれ、「ドガガンッ!」という大きな音がし、周りの乗客が「びくっ!」とした。
「あっぶねー」
ほっと胸をなでおろすと、電車はドアを閉めて行ってしまった。電車からたくさんの人たちが降りてきて、改札へと大きな流れを作っている。慎吾はその流れには乗らず、近くのベンチまでフラフラと歩き、「どすん」と体を預けた。人の流れの速度が落ち着くまで、少し休もうと思った。
「はぁ…」
荷物を自分の隣に置いて、ため息を吐く。自分の息が白い色をまとっていた。慎吾には、それがまるで自分の魂のように見えて少しおかしかった。この魂を家に飛ばして、そのまま眠ってしまえたら楽なのになと思った。そんな事を考えながら、慎吾は自分でも気づかないうちに目を閉じていた。

 「うぐっ!!!」
慎吾のお腹に大きな衝撃が走り、目を覚ました。何が起きたのかわからず混乱していると、「こんなとこで寝てんじゃねぇ、クソガキがぁ」という声が聞こえた。顔を上げると、顔を真っ赤にし、服装の乱れたスーツ姿の中年男性がいた。
「酔っ払いか…」
慎吾がうんざりした。自分の腹を見ると泥がついている。それで、さっきの衝撃は足で蹴られたのだと理解した。
「起きろよ、クソガキ」
酔っ払いが慎吾の頭をはたいた。その一撃に腹が立った慎吾が舌打ちをひとつ打ってから立ち上がった。
「おぉ、なんだぁ?図体だけは一丁前だなぁ」
酔っ払いのそのセリフを聞いて、慎吾が拳を握る。しかし、そこに電車が入ってくる音が聞こえた。

「油断しちゃだめだよ」

昼間、松下から言われた言葉が頭に浮かんだ。これから電車からたくさん人が降りてくる。その人たちに見られ、トラブルが大きくなるとまずい。慎吾は、握った拳をほどいた。
「なんだ、殴り返す根性もねぇのか」
殴られないと分かると、酔っ払いが調子に乗り出した。
「この、でくのぼうがぁ」
そう言うと、もういちど慎吾の腹に蹴りを入れた。
「ぐっ」
疲労の溜まった体に蹴りをくらい、よろめいた慎吾の体がベンチに「どかっ」と落ちた。
「ガキが、」「大人に、」「歯向かうんじゃねぇ」
そう言って、一発ずつ慎吾の頭に拳を落とした。電車から降りてきた人たちは、見て見ぬフリで通り過ぎていく。慎吾は、「はやく飽きてくれ…」と思いながら時が過ぎるのを待った。
 「なんだぁ!?」
酔っ払いのそんな声が聞こえ、慎吾への攻撃が止んだ。慎吾が顔を上げて見ると、酔っ払いの背後に背の高い大きな男が立ち、酔っ払いの右手を掴んで高く上げている。その隣に、背の低い気のよさそうなおじさんがいて、大きな男を「やめとけって!」と制止しようとしているが、手が届かずに苦戦していた。
「ずいぶん、凸凹だな…」
一瞬、慎吾の頭が能天気な事を考えた。その時、巨人が酔っ払いを遠くにぶん投げた。投げられた酔っ払いはゴロゴロと転がり、その場に寝転んだ。
「だから、やめろっつの!」
そう言いつつ、小さいおじさんが転がった酔っ払いを追いかけ、様子を見た。地面に転がり、寝転んだ酔っ払いが寝息を立てたのを確認して「あぁ、良かった」と胸をなでおろしていた。
「弱いものいじめしてんじゃねー」
巨人が遠くの酔っ払いにそう吐き捨てた。だが、そのセリフに腹を立てたのは慎吾だった。
「おい、おっさん」
慎吾が立ち上がった。体に溜まった疲労と、酔っ払いにやられたダメージで足元が少しふらついたが、胸を張って堂々と巨人の前に立った。立ち上がると、慎吾が巨人を見上げる形になる。百八十を越える身長の自分が誰かを見上げるのは久しぶりで、驚いた。巨人は、「なんだ、クソガキ」と慎吾を見下ろした。小さいおじさんが「次はそっちかよ!」と慌てて戻ってきた。
「おい、雄二郎!」
小さいおじさんが巨人の腕をつかんだが、巨人も慎吾も、小さいおじさんの事は眼の中に入っていなかった。
「誰が弱いって?」
慎吾のその台詞に「なんだ、やんのか?」と返してきた。「なんだと?」と返事をしつつ、慎吾は辺りを気にした。
「ふたりとも、やめろよ」
小さいおじさんのその声は、やはり二人には届かない。巨人は、「俺が降りてきた電車が最終だ。誰にも見られねーよ」と、周りを気にしている慎吾に対してそう言った。確かに、ホームに人も少ない。その事を確認した慎吾が、拳を握った。
「殴るんだな?」
慎吾の拳を見た巨人が言う。
「はぁ?」
「お前は、俺に殴り返される覚悟があるってことだな?」
「そういう事でいいんだな?」と、巨人が上から慎吾を睨んだ。その眼をまっすぐ睨み返した後、慎吾は握った拳を引いた。
「がっ!」
巨人が、慎吾よりも先に殴っていた。小さいおじさんの、「バカか、お前!」という声を聞きながら、慎吾は気を失った。

 「傷、痛そうだね」
次の日の放課後。その日は雨が降っていた。雨が降った事で慎吾のバイトがなくなり、侑里と慎吾は久しぶりに二人で下校していた。前日に巨人に殴られて出来たキズを見て、侑里が気遣ってくれた。
 あのあと慎吾は、駅員に見つかって目を覚ました。酔っ払いにやられたものか、巨人にやられたものかわからないが、頭から血が流れていた。その血を見て「警察よぶ?」と駅員に聞かれたが、慎吾は断った。
「いや、傷は大丈夫なんだけどさ…」と慎吾が言いよどむと、「おかあさんに怒られた?」と侑里が笑った。
「そうなんだよ。しかも、あれ以来ワイドハイター隠されててさぁ」
「あら、残念」と侑里が言うと、二人で笑った。
「でも、手を出さなかったんだから、偉いよ」
侑里のその言葉で、慎吾の昨日の我慢が報われた気がした。「えらい」というほめ方がくすぐったくて、「やっぱ、トラブルはまずいからさ」と笑顔で返した。侑里は「うちのおとうさんにも見習ってほしい」とつぶやいた。その侑里の一言に、「なに?」と笑って聞いた。
「うちのお父さんも昨日ケンカして帰ってきたの。いい大人なのに」
「ほんとに?」
「うん、しかも、『殴ったの?』って聞いたら、『おう、ちゃんとトドメ刺したよ』って、子供みたいに」
そう話す侑里は、呆れながらも笑顔だった。その笑顔を見た慎吾に、侑里は父親からたくさんの愛情を与えられて、そして、父親の事が大好きな事が伝わってきた。
「でも、強い父親っていうのは、いいなぁ」
そう、しみじみとつぶやく慎吾に、侑里は微笑みかけた。
「男手一つで私を育ててくれたからね。強いと思う」
「そっか」
「まだ、おとうさんが若い頃に私が生まれたからね。やっぱり、大変だったと思うし」
その言葉に慎吾は、人の苦労を想像できる侑里の優しさを感じ取っていた。
「おとうさん、うちの高校の卒業生なんだ」
「そうなの?」
「うん。それで、当時の友達と会社作って頑張ったんだって」
「どんな会社なの?」
「色々やってるみたい。車関係とか不動産とか、家具とか雑貨の輸入とか。若かったし、とにかく稼がなきゃって、なんでもやったんだって」
「すごいなぁ、強いなぁ」
「でも、強いのはいいけど、ケンカはやめてほしい」
「まぁ、心配だよな」
「心配なのもそうだけど」
「ん?」
「知ってるでしょ?血のシミって落ちないんだよ?」
侑里がそう言い、二人が笑った。慎吾は笑いつつ「うちの学校の卒業生なら血の気が多くても仕方ないな」と思っていた。

 「傘、大きいね」
侑里が、頭上の傘を見上げて言った。
「これぐらい大きくないと、体はみ出ちゃうんだよ」
「あはは」と侑里が笑う。その時、慎吾が急にピタッと足を止めた。侑里が「慎吾?」と慎吾を見上げた。
「侑里、ちょっと下がってて」
慎吾が、前に立って侑里を自分の背中に隠した。侑里は「え、何?」と気になりつつも、言う事に従った。
「なんだよ、またなんか文句あんのかよ」
慎吾の目の前には、昨日の二メートルの巨人がいた。
「おい、何してんだ?」
巨人が言った。慎吾が「学校からの帰りだよ」と返す。しかし巨人は「クソガキは黙ってろ」と言った。
「おい、侑里!」
巨人が慎吾の背中の向こうに叫んだ。慎吾が「はぁ!?」と背中を見た。侑里が、「ん?」と背中から顔を出した。
「あ、おとうさん」
「おとうさん!?」
驚く慎吾に、「そう。私のおとうさん」と平然と言った。
「え、二人は、知り合い?」
その質問は無視して、巨人が「てめー、弱いくせにうちの娘に手出してんじゃねぇよ」と慎吾に言った。
「弱い?」
慎吾も反抗的な目を向けた。
「弱いだろうが、一撃でトドメさされてんだろうが」
「あの時は…」
「疲れてたんだよ」と言おうとした時、侑里の手が慎吾の背中に触れた。それを感じて、慎吾が侑里の顔を見た。侑里は不安そうな顔をしている。その顔を父親も見た。二人の大きな男が、お互いに敵意を解いた。
「侑里」と、父親が娘に声をかけた。
「今から取引先に行かなきゃいけなくてな。帰るのが遅くなるかもしれないから、今日は先にメシ食ってくれ」
「うん、わかった。気を付けてね」
「侑里もな」
そう言ったあと、巨人が慎吾に目を向けた。慎吾は挑発された気がして苛立ったが、隣の小さな女の子の気持ちを汲み、ぐっと堪えた。
「ふっ」
侑里の父親は、鼻で笑うとその場を立ち去り、侑里と慎吾が、その背中を見送った。

「慎吾」

声をかけられ、隣の小さな女の子を見下ろした。
「帰ろうか」
侑里が、一言そう言った。慎吾は、その侑里の声に安心し、「そうだな」と言って、二人で歩き出した。
 

 夜。侑里がキッチンに立ち、クリームシチューを煮込んでいた。部屋中が美味しそうな匂いに満ちている。その時、侑里のスマホが鳴った。見ると、慎吾からのメッセージが入っていた。
「ちょっと、下まで出てこれる?」
慎吾からのこういう申し出は珍しかった。「おとうさんのことかな?」と気にしながら、「ちょっと待ってて」と返した。コンロの火を止め、エプロンを外し、上着を羽織って家を出た。

 「慎吾」
自販機の横のベンチに座る、慎吾の大きな背中に声をかけた。慎吾が振り返り、「お」と手を上げる。「ありがとね、出てきてくれて」そう言って、ココアを差し出した。「ありがとう」と受け取ると、心地よい温かさが手に伝わった。
「…どうしたの?」
侑里が慎吾の隣に座った。慎吾から漂う雰囲気が、少し緊張を帯びているような、そんな気がした。慎吾が「ん、ちょっとね」と笑ったが、明らかに作った笑顔だった。
「ごめん、侑里。これからちょっと、一緒に帰れなくなる」
「…どうかしたの?」
「実はさ、」
「うん」
「うちのかーちゃんが、ずっと病院通ってたんだけど」
「うん」
「今日の検査で、ガンが見つかったんだって」
侑里が「え…?」と言葉を失い驚いた。慎吾は、「だからちょっと、バイト増やすからさ」と笑顔を作った。
「うん、それは、大丈夫だけど」
「…大丈夫なの?」と侑里が聞く。慎吾は「うん。手術すれば治るってさ」と答えた。
「幸い、ずっと病院通ってたお陰で早期発見できたんだって。ステージで言うと『2』らしくて。だから、腹腔鏡手術っていうので、ほぼ完璧に治せるんだってさ」
「そう…」
侑里が心配したのは慎吾の体だった。しかし、慎吾は母親の事として返事をした。侑里は、改めて「慎吾は、大丈夫?」とは聞けなかった。
「だから、入院もあんまり長くはならないんだって。だから、ささっと治して、すぐ帰ってくると思うよ」
「…胃ガン?」
「いや、大腸だってさ」
どこのガンだろうと自分に出来る事はないのに、なぜそんな事を聞いてしまったのかと侑里は後悔した。
「…大変だね」
ようやく、侑里が絞り出せた言葉だった。しかし、その言葉はまるで他人事のようなニュアンスを持ってしまった気がして、侑里は再び後悔し、慎吾の不安を解消する言葉を見つけられない自分を悔やんだ。
「でもな、」
そんな侑里の後悔など全く気にしていない様子で、慎吾がニヤリと笑った。
「普段から、かーちゃんが病院通ってるから知ってるんだけど、月に支払った医療費が高額になった場合は、後から申請すれば返ってくるんだよ」
「そうなの?」
「おう、だから、その金が戻ってきたら、どっか遊び行こうな」
そう言って笑った。その笑顔は、侑里に心配をかけないためのものだと理解し、侑里も「楽しみにしてる」と笑顔でその気持ちを受け取った。
「その時は、侑里のお弁当が食べたいな」
「もちろん、いいよ」
「とびっきりの作ってあげる」と笑顔を向けた。慎吾も「楽しみだな」と笑った。

 「先生」
次の日の昼休み。侑里がお弁当を持って音楽準備室を訪れた。「いらっしゃい」と侑里を迎える松下は、ハンドクリームを両手になじませていた。その仕草も、侑里には美しく見えた。
「彼は遅れるの?」
その質問に侑里が「今日、休みです」と答えると、松下は「え!?」と驚いた。
「彼が、体調崩すなんて事あるの!?」
「いや、具合悪くしてるのは、慎吾じゃなくて…」
その先を侑里は言いづらそうにした。松下が「どうかしたの?」と尋ねる。それでも話しづらそうにする侑里の目を、松下が「侑里ちゃん」と真っすぐに見た。
「この部屋は、私の国だよ」
そう言われ、侑里が部屋の中を見回す。侑里の目に入るのは、松下の好きな温かい紅茶、季節ごとに変わる美しい花、そして、いつの間にか冬物に変わった真っ白なコートだ。この空間は、学校ではない。つまり、ここでは教師でも生徒でもない。侑里は安心して、「実は…」と話し出した。

 「そんな…」
いつも冷静な松下も、慎吾の母親がガンになったと聞くと驚いていた。「でも、幸い、手術で治るみたいです」と侑里が言うと、「まぁ、今は、ガンも治らない病気ではないもんね」と頷いた。
「はい、ただ、慎吾の場合は他に問題があって…」
侑里がそう言うだけで、松下は「そうだよね、彼が家を支えてるんだもんね」と全てを察した。
「はい、だから、単位ギリギリまで学校休んで、バイトに行くって」
「…なんか、助けてくれる制度とかないのかな?」
「高額な医療費の場合、後で申請すれば返ってくるみたいなんですけど、一度は払わなきゃいけないって言ってて」
「そうなんだ…」
「はい」と心配そうな顔をした侑里に、松下は「大丈夫だよ」と微笑んだ。
「彼は強いから。大丈夫だよ」
「はい、そうですね」
侑里も小さく微笑んだ。松下が「あったかいの飲もうか」とカフェラテを淹れてくれた。
 「侑里」
朝。慎吾が侑里のいる教室を訪れた。「慎吾!」と侑里が笑顔で駆け寄る。お互いに「おはよう」と挨拶を交わした。慎吾は笑顔だ。だが、侑里の目には相当に疲れて見えた。
「だ…」
喉まで出かかった「大丈夫?」という言葉を飲み込んだ。今の慎吾には残酷な気がした。それに気づいた慎吾が「ありがとな」とやわらかい笑顔を見せた。
「侑里、放課後なんか用事ある?」
「ないよ。なに?」
「今日、バイトの前にかーちゃんのお見舞い行こうと思ってるんだけど、一緒に来てくれないか?」
「それはいいけど…。迷惑じゃない?」
「いや、来てほしいんだ。かーちゃんが俺を心配してる。だから、今の俺には支えがあって、大丈夫だという事を伝えたい」
「うん、わかった」
侑里が笑った。侑里は、慎吾が自分をハッキリと「支え」と言ってくれたのが嬉しかった。
「ありがとう、助かるよ」
そう言った慎吾に、「安心してね」と微笑んだ。

 放課後。侑里が慎吾に連れられて病院を訪れた。病院の入り口でランドセルを背負った男の子と遭遇する。
「お、兄貴」
「おー、朝雄」
男の子と慎吾が挨拶をし、二人の関係性がわかった。慎吾が侑里と朝雄を紹介した。「はじめまして、侑里です」と頭を下げると、「初めまして、弟の朝雄です。兄がお世話になってます」と、朝雄も深々と頭を下げた。その様子を見て、「しっかりした子だな」と思っていた。三人は、一緒に病室に向かった。

 「あぁ、慎吾」
慎吾の母親が病室のベッドに座り、かすかな笑顔を見せた。息子のお見舞いを喜んでいるようだった。母親の事を病弱だと聞いていた侑里は、もっと年老いた女性を想像していたのだが、思っていたよりも若く、自分の父親と同じぐらいだろうと想像した。侑里と目が合い、お互いに小さく頭を下げた。
「体、大丈夫か?」
慎吾が母親を心配すると、「あんたこそ大丈夫?」と返した。その一言に、思わず侑里が慎吾の顔を見上げた。
「大丈夫だ、今の俺には支えがある」
そう言って、慎吾が侑里の肩に手を置いた。侑里は恵美に向き直り、「初めまして、侑里と申します」と頭を下げた。「慎吾の母の恵美です。侑里さん、うちのバカ息子がお世話になってます」と恵美も頭を下げた。慎吾が「バカはいらねーだろ」と言い、恵美の小さな冗談に四人が笑った。
「慎吾、可愛い子じゃない。良かったわね」
「おう、支えてもらってるよ」
「うちのバカ息子、ご迷惑かけてませんか?」
恵美が侑里にそう言うと、「そんな、私の方こそ支えてもらってます」と答えた。
「いつも、お弁当作ってくれてるのよね?」
「はい」
「バカみたいに食うでしょ?」
「いっぱい食べてくれるので嬉しいです」
逐一、百点満点の答えを返す侑里を見て、「すごくいい子じゃない。あんたにはもったいないわ」と慎吾に言うと、慎吾は「うん、ほんとに」と照れくさそうに笑い、侑里も「いやいや、そんな」と照れた。
「侑里ちゃん、世の中、もっといい男いるよ?」
「おい、なんてこと言うんだ」
その親子の掛け合いに、四人が笑った。

 「じゃあ、そろそろ行くかな」
少しの会話をした後、慎吾が時計を見て言った。「朝雄、あと頼むぞ」と言い、「うん」の返事を聞いて立ち上がった。侑里も「じゃあ、私も」と荷物を手に立ち上がった。
「失礼します」
「じゃあな」
二人がそれぞれ言って病室を出ようとすると、恵美が「慎吾」と声をかけた。慎吾が「んー?」と振り返る。
「迷惑かけて、ごめんね」
恵美がベッドに座り、小さく体を丸めて頭を下げた。さっきまでの明るい様子と違って暗く、少し、痛々しく見えた。
「気にすんじゃねぇよ」
慎吾は一言そう言うと、「じゃあ、行くわな」と病室を出た。侑里も、恵美に一度頭を下げて慎吾の後に続いた。 

 病院から、駅に向かう。その間の慎吾の様子は、気が立っているような、苛立っているような、しかし、それを無理矢理押し殺しているような、そんな様子だった。
 
 「朝雄くん、いい子だね」
侑里が気持ちを和ませるために話題をふった。「ん?」と慎吾が侑里を見下ろす。侑里の気持ちを受け取り、「おう、俺なんかよりずっとしっかりしてるしな」と慎吾が笑った。
「ケンカとかしない?」と侑里が笑うと、「しないしない」とまた笑った。
「トラブルが起きても、暴力なんて手段はあいつは選ばないな。賢いから」
「強いお兄ちゃんと賢い弟で、バランスいいね」
「そうかな」と慎吾が嬉しそうに笑った。
「まだ小五なのにな。あいつがしっかりしてくれてるから、俺も安心して外で働けるよ」
「そっか」
「あぁ。頭もいいし、あいつは将来大物になるんじゃねぇかな」
「将来有望だね」
「おう、あいつが弟でほんと良かったよ」
二人が、駅に着いた。慎吾が「ふぅー」と息を吐く。「疲れてるんだろうな」と侑里は思った。
「侑里」
慎吾が、高いところから呼んだ。
「あれ、言ってくれ」
そう言って、笑顔を見せた。侑里は「あぁ、うん」と答えると、全力の笑顔で拳を握った。
「ファイト!」
侑里がそう言うと、慎吾は両手をグーにして大股を開き、「ぐぐぐっ」と全身に力を入れた。そして、「よしっ!」と叫び、両手で自分の頬を「ぱんっ!」と叩いた。
「行ってくるわ!」
「行ってらっしゃい!」
二人が大きく手を振りあった。侑里は、駅の改札に消えていく慎吾の背中を見送った。

 家に帰った侑里が、おかあさんの前に座った。
「おかあさん。慎吾のこと、見守っててね」

 「どうした?元気ねぇな」
夜の食事中、父親から言われた。隠す気はなかったが、気づかれるほど露骨に暗いわけでもないと思っていた侑里は、少し驚いた。
「うん、ちょっとね」
「…あのクソガキがどうかしたのか?」
そこまで見抜かれると、いくら親でもこわいくらいだった。侑里は隠しても無駄だと思い、慎吾の状況を話した。

「いくら慎吾が強くても、このままだと潰れちゃう…」

娘が、泣きそうな顔をした。表情に「心配」が溢れている。
「ほんとに、弱ぇなぁ…」
侑里には聞こえないように、小さく舌打ちを打った。

 「なっげぇなぁ…」
慎吾は、侑里と出会ってから長いと感じる事のなかった改札までのあの直線を、再び長く感じるようになっていた。狭く、暗い闇。夜のため、出口に光も見えない。闇の中から闇へと、ただ、足を進める。しかし、何度も足を止めたくなる。足を止めて座り込み、そのまま眠ってしまいたい。そんな気持ちになる。
「はぁ…」
ため息を吐き、壁に手をついて、立ち止まる。

「ごめんね」

足を止めると、母親の謝罪が蘇る。胸が「ズキン」と痛み、同時に「イラッ」としてしまう。この日は、恵美の手術の日だった。手術室に入る時も、車いすに座り、「ごめんね」と頭を下げていた。その姿を思い出し、また「ズキン」と「イラッ」が慎吾の胸を襲う。
 体は限界まで疲れている。なのに、動きを止めれば、胸の中に負の感情が流れ込んでくる。八方塞がりで逃げ場がなく、慎吾の心は破裂寸前だった。

「ふぅー」

大きく息を吐いて、頭の中に幸せな記憶を呼び起こす。まだ一年生だったころ、仕事帰りに偶然、侑里を見かけたことがあった。ケーキ屋の前にポツンと立つ侑里を見つけ、嬉しくてすぐに声をかけた。そのとき侑里は「お疲れ様です」と労ってくれた。その一言で、一瞬で疲れが吹っ飛んだのを覚えている。だから、もしかしたら、出口で侑里が待っていてくれるかもしれない。「お疲れ様」と出迎えてくれるかもしれない。その希望を持って、慎吾は歩みを進めた。
そして、やっとの思いで改札を抜けた。

 「おつかれさん」

目の前にいたのは、雄二郎だった。慎吾の体が更にズシンと重たくなる。ため息を漏らしそうになるが、この男に弱みを見られるのも癪だと思い、飲み込んだ。しかし、悪態をつく元気はなく、そのまま無視して遠りすぎようとした。
「おい」
雄二郎が声をかけた。慎吾は「今あんたに構ってる暇はない」と言いながら脇を通り抜けようとした。その姿は、足はふらつき、目はうつろだった。その慎吾の腕を「ちょっと待て」と雄二郎が掴んだ。
「今は勘弁しろ…。終わったら相手してやるから…」
その時、雄二郎の拳が慎吾の腹に入った。
「うっ…」
腹を押さえた慎吾の肩を、雄二郎が軽く「とんっ」と押した。慎吾はそのまま仰向けに倒れた。すぐに立ち上がる力はなかった。寝転がって「もういっそ、このまま眠ってしまおうか」と考えた。その慎吾の顔の上に、雄二郎が数枚の紙を乱暴に降らせた。一枚の紙が顔にかかり、目の前が真っ暗になった。
「何すんだよ…」
慎吾が目の上の紙をどかさないまま言った。
「医療費には、限度額認定証ってのがある」
「は?」
「事前に医療費が高額になるのが分かってる場合は、それを申請すれば最初から最低限の支払いで済むんだよ」
慎吾が、すばやく体を起こした。
「まじか…?」
「詳しい事は全部その紙に書いてある。よく読め。それで、明日は休め」
慎吾が、散らばった紙を拾ってまとめた。そして、「…なんで?」と雄二郎」を見上げた。
「俺は父親だ。侑里が生まれてから、ずっと戦ってきてるんだよ。これぐらいの事は知ってて当たり前だ」
「娘の心配事を、どうにかしてやりたいと思うのも当たり前だしな」と言って、雄二郎は立ち去った。雄二郎が放り投げた紙を見て、侑里の優しさによって救われた事を実感し、幸せな気分になった。立ち上がり、自販機でカフェラテを買った。一口飲んで、自分に魔法をかける。甘いカフェラテに、あのココアの味を思い出していた。

 慎吾が恵美に認定証の話をすると、安心した様子を見せた。
「じゃあ、あんたは休めるのね」
「うん。もう無理して働く必要はないよ」
「そう、よかった」
息子に負担を掛けずに済むとわかると、母親は心からの笑顔を見せた。

 その後、医療費も限度額認定証を発行してもらえたお陰で、最低限の支払いで済んだ。恵美の入院も長引かずに済み、母親が退院すると、慎吾の日常は徐々に元通りに戻りつつあった。

 「侑里、本当に有難う」
「今のこの生活があるのは、侑里のお陰だ」と慎吾が頭を下げた。侑里は「良かったね」と笑顔を見せた。
「でさ、お願いがあるんだけど」
「なに?」
「オヤジさんにもお礼を言いたいんだ。だから、ちょっと、話してみてもらってもいいかな?」
「そんな、気にしなくてもいいよ」
「いや、ここはちゃんと礼儀を通しておくべきだと思う」
慎吾のその言葉が侑里には嬉しかった。二人の間にある、わだかまりのようなものが解けるんじゃないかと期待が持てた。
「わかった、話しておくね」と答えると、慎吾はまた「ありがとう」とお礼を言った。
 父と娘の夕食。その日の献立はカツ丼だった。自分の好物に、雄二郎は「お、いいな」と喜んだ。
「いただきます」と一口食べる。カツ丼はいつもどおり美味しかった。しかし、何かが違う。「ん?」とカツを見る。
「あ、チキンカツか」
「変?」
「いや、うまいよ」
その返事に、娘は安心したように「よかった」と笑った。
「おとうさん」
「ん?」
「慎吾がね、おとうさんにお礼言いたいんだって。だから、今度会ってもらえる時間とかあるかな?」
そう言われ、このちぐはぐなカツ丼の理由がわかった。鶏肉なら親子丼が作れるし、手間もかからない。時間も材料もない中で、少しでも言い出しやすくする方法を考えたのだろう。父親は「なんて優しい子なんだろう」と思い、そして、その優しさを少し、いじらしく思った。
「じゃあ、金曜に会社に連れてこい」
「いいの?」
「おう。その頃なら仕事も落ち着いてるだろうから」
「…ありがとう」
娘の中で胸にあった期待が大きくなり、父親は、昔に誓った気持ちを強くした。

 「ここだよ」
金曜日。侑里に案内され、雄二郎の会社を訪れた。「このビル全部オヤジさんの会社?」と慎吾が三階建てのビルを見上げた。
「そう。三階ともワンフロアなんだけどね。一階は倉庫になってて、二階が広い会議室になってるの」
「へぇ~」
「で、三階でみんなが仕事してるんだよ」
「そうなんだ」
楽しそうに父親の職場を案内する侑里に、慎吾も楽しくなった。
「どうぞ」
三階のフロアに入った。受付の気の強そうな女性が「あら、侑里ちゃん」と声をかける。
「こんにちは」
「…彼氏?」と微笑んだ。侑里は「はい」と少し恥ずかしそうにし、慎吾は頭を下げた。
「へぇ、いい男じゃない」
慎吾が、「ありがとうございます」とまた頭を下げた。
「どうぞ、入って」と言われ、二人は「失礼します」と中に入った。
「やくざの事務所みてぇだな…」
口には出さなかったが、スーツ姿のコワモテの男がたくさんいる事務所を見て、慎吾はそう思った。
「…あ」
その中に、駅でやられた時に雄二郎の隣にいた小さいおじさんもいた。小さいおじさんも慎吾に気づき、「あー!」と指をさし、近寄ってきてくれた。
「そーか、君が慎吾君か!」
「その説は、失礼いたしました…」
そう言って頭を下げる慎吾を、侑里が「桂木さんとも知り合いなの?」と見上げた。慎吾が「あの、駅でやられた時」と言うと、「あぁ」と納得した。桂木は笑って「いや、こっちこそ。大丈夫だった?」と慎吾を気遣った。
「はい、問題ないです」
そう答えると、「そっか、強いね」と慎吾の肩を軽く叩いた。肩に触れた桂木の手は、分厚く温かかった。「この人も、相当強いんじゃないかな」と慎吾は思っていた。
「おい!侑里ちゃんの彼氏だってよー!」
桂木がそう叫ぶと、コワモテの男達がわらわらと集まってきた。
「おー!こいつがうわさの命知らずか!」
「どんなやつかと思ったらでかいな!」
「俺らの後輩なんだろ!?後輩のクセに雄二郎の娘に手だしてんじゃねー!」
「殺されないようにな!」
全員が口々に色んな言葉をかけてくれた。言葉は乱暴だが、みんな笑顔で、歓迎してくれてるのが伝わってきて慎吾も嬉しくなる。侑里は、こんな人たちに囲まれて育ってきたのだなと思っていた。慎吾はひとりひとりに、丁寧に返事を返した。
「で、今日はどうしたのさ?」
桂木さんに聞かれ、慎吾が「あ、ご挨拶したくて」と返した。
「雄二郎に?」
「はい」
「そうなんだ。社長室にいるよ」
「ありがとうございます」
桂木に見送られ、二人はフロアを奥に進んだ。

 「おとうさん、連れてきたよ」
侑里がドアを開けて中に入った。雄二郎が「おう」と出迎え、慎吾が「失礼します」と頭を下げつつ、侑里の後ろに続いて中に入った。雄二郎が侑里の向こうに立つ慎吾を睨むように見ると、慎吾が姿勢を正して言った。

「認定証の事、教えて頂いてありがとうございました。おかげで、俺も母も助かりました。手術も無事に終り、今は、普段の生活に戻ることができています。それは全部、オヤジさんが情報をくれたおかげです」
「本当に、ありがとうございました」と、慎吾が深く頭を下げた。侑里が一度慎吾を振り返ると、雄二郎に笑顔を向けた。雄二郎が少し笑った。その様子に、侑里の期待が確信に変わる気がした。雄二郎が慎吾に「おい」と声をかける。慎吾が、頭を上げた。
「かっこつけてんじゃねぇよ」
その言い方は、『吐き捨てる』という言い方がピッタリだった。慎吾は心に大きな衝撃を受け、侑里は、自分が期待したものと真逆な反応に驚いて、「おとうさん?」と声が漏れた。
「お前、ちゃんと調べたのか?ネット開きゃ簡単に出てくる事だぞ。よく調べもしないで無駄に頑張ろうとしてたんだろ。これだから、お前は弱いっつーんだよ」
いつもなら、すぐに反抗的な返事を返す慎吾が何も言葉を返せなかった。言葉を失っている慎吾に、雄二郎はたたみかけるように言った。
「知らなかったからしょうがないとでも思ってんのか?じゃあなんだ、入院して大変な思いしてるおふくろさんに調べろっつーのか?まだ小さい弟が調べたらいいのか?親切に教えなかった病院が悪いのか?」
雄二郎の言葉に、侑里も慎吾も、何かを言う事も動くことも出来なかった。
「こういう事も含めて『強い』って言うんだよ。体や精神の強さだけじゃどうにもならねぇ事もある。頭が悪い、モノを知らないってのも、結果、弱さに繋がるんだよ」
「俺は…」と慎吾がやっと言葉を絞り出したが、それを雄二郎が遮った。
「『俺は強い』ってか?あのな、『強い』っていうのは、人から『強い』って信じてもらえて初めて成立するんだよ。いくら自分で自分を『強い』って思ってても、それじゃ意味がない。人を守れないからな」
慎吾は、また何も言えなくなった。雄二郎が続ける。
「今のこの状況見てみろ。侑里はお前の前に立ってるな?侑里がお前を『強い』と思ってないからだ。お前の強さを信じてないからだ。お前の背中を信じられないからだ」
侑里が慎吾を振り返ったが、慎吾は侑里を見れなかった。
「人を守るには強さを信頼してもらわなきゃいけない。戦う側にも、『自分の背中を信じてくれている』という信頼がないと動けないからだ」
その事は、慎吾も理解していたことだった。「自分の背中に隠れてくれている」という信頼があるからこそ、後ろを気にせずに前だけを見て思いっきり戦える。
「おふくろさんもそうだったんじゃねぇのか?お前を、ずっと心配してたんじゃないのか?」
そう言われ、慎吾の目に恵美の悲しそうな顔が浮かぶ。
「お前の事を心配なんてしないでいれたら、もっと安心して手術受けられたのにな」
その一言は、まるで慎吾を挑発するように放たれた一言だった。しかし、慎吾はその挑発に乗って歯向かう気持ちは起こらなかった。代わりに、慎吾の耳に恵美の言った「ごめんね」という言葉が聞こえ、その姿が頭に蘇った。そして、慎吾の胸を「ズキン」という痛みが襲った。

「不安だったろうな」と、雄二郎が、慎吾を見る。

「お前が、弱いから」

雄二郎がそう言い放った。その言葉がトドメになり、それまでかすかに残っていた雄二郎への戦意が全くなくなってしまった。慎吾はその場に立っていることができなくなり、「侑里、ごめん…」と一言言うと、雄二郎の仕事場から逃げるように飛び出した。「慎吾」と侑里が自分を呼ぶ声が背中から聞こえたが、振り向く余裕はなかった。これ以上、自分の情けない姿を見られたくなかった。

 雄二郎の会社を出て、独りで歩く。
 
慎吾は、母親から「ごめん」と言われる度に「ズキン」と胸が痛み、「イラッ」と感じていた。この苛立ちは、病気になったのは誰のせいでもないのに謝られると、こっちが「お前のせいだ、謝れ」と言っているように思えた苦しさからくるものだった。
 しかし、本当に自分が謝らせていた。自分のせいで「ごめん」と言わければいけなくなっていた。自分がもっと早く、ちゃんと調べていたら、あんな母親の姿を見ずに済んだ。安心できていたら、恵美のことだ、手術室に入る時も「行ってくるわ!」と元気に言っていただろう。お見舞いに来る朝雄に、「こんな所来てないで勉強しろ」ぐらいの事を言っただろう。
 戦って、守っているつもりだった。守れていると思っていた。しかし、何一つ守れていなかった。無駄に戦い、無駄に疲れていた。全部、無駄だった。無駄なのに、周りには心配をかけていたのだ。

 ふと、右手を見る。まるで、ぼうっきれで出来たがらくたのように見えた。ぎゅーっと力いっぱい握る。慎吾の頭の中で枯れ枝のような右手がボロボロに崩れるイメージが広がった。
「いっ…」
手の真ん中に痛みが走り、思わず手を開いた。中指の爪が手の平に食い込んで血が出ている。近くに止まっていた車の窓ガラスに自分が映っていた。なんだ、この図体は。無駄にデカい体は。その中身はカラッポじゃないか。

「お前が、弱いから」

胸に突き刺さった言葉が、毒のようにじわじわと広がり、慎吾の心と体を蝕んだ。

 
 「ただいま」
慎吾が家に帰った。リビングで紅茶を飲んでいた恵美が「おかえり」と出迎えた。
「…どうかした?」
息子の様子がおかしいと気づいた母親が気遣った。
「…ごめんな」
「なにが?」
「心配かけて」
「どうしたのよ、あんたらしくもない」
そう言う恵美は、心配そうだった。慎吾はその顔が見れず、目をそらして「…うん」と力なく答えた。
「今からご飯作るから、お風呂入ってきな」
「…うん」

 慎吾が風呂から上がると、食卓には夕食が並んでいた。山盛りの白いご飯。味噌汁。そして、大量の鶏の唐揚げ。「あんたのために唐揚げたくさん作ったから」と恵美が笑った。
「ありがとう」
「たくさん食べて、早く元気になりな」
「うん、いただきます」
慎吾が唐揚げを口に放り込んだ。一瞬、慎吾の咀嚼が止まる。
「味、変だった?」
恵美が心配そうに息子の顔を覗き込む。
「ううん、美味いよ。ありがとう」
そう言って、白米もかきこんだ。
「良かった」
恵美が安心したように笑う。その日、慎吾はおかわりをせずに食事を終えた。

 夜。
慎吾は、ベッドに寝転んで天井を眺めていた。気持ちも体も疲れ果てているのに、なかなか眠りにつけなかった。喉が渇き、水を求めてキッチンに向かった。冷蔵庫の扉を開ける。冷蔵庫の扉の内側のタマゴポケットに小さなチョコレートが一粒、ポツンと放置されていた。慎吾がそれを手に取る。チョコレートには、アルファベットの「Z」の文字が刻印されていた。ビニールの包みを開き、祈るような気持ちでチョコレートを口の中に放り込んだ。口の中で、チョコレートが溶ける。
「…だめか」
水を取り出し、口の中のチョコレートを胃の中に流し込んだ。
「…あぁ」
思わず、嘆いた。
慎吾の舌が、味を感じなくなっていた。母親の作った鶏のから揚げも、白いご飯も味噌汁も、味がしなかった。チョコレートの甘味も感じない。

魔法が、効かない。

慎吾の胸を、どうしようもない絶望感が襲った。

 
 月曜日になった。金曜日に雄二郎の会社に行ったあと、週末は侑里と慎吾は顔を合わさず、連絡もとらなかった。
 
 昼休み。慎吾は、朝に買ったコンビニ弁当を教室で食べていた。まだ体調が本調子でない母親に、弁当を作るために早起きはさせられなかった。しかし、購買に行くと侑里に会ってしまう気がして行けなかった。音楽準備室にも、顔を出さなかった。
 受験勉強を控え、同じ目標に向かって突き進んでいる同級生たちの中でひとり、味のしない食べ物を黙々と口に運んだ。
鶏の唐揚げは、劣化したプラスチックを歯で砕いているようだった。白いご飯は生乾きの紙粘土みたいだった。たまごやきは、湿ったまま台所に放置されたスポンジを思わせた。ココアがなく、代わりに買ったコーヒー牛乳は泥水でしかなかった。しかし、味がしなくても腹は減る。食べないと体は動かない。慎吾は無理矢理に食べ物を口に運んだ。
 授業が終わると、慎吾は荷物をまとめ、校舎を出た。学校にいる時間、そのほとんどを教室で過ごし、侑里のことが頭に浮かぶ場所は極力避けていた。
 しかし、正門の隣のレンガ造りの花壇だけは、どうしても避ける事が出来なかった。

 「ただいま」
慎吾が家に帰った。恵美が「おかえり」と出迎える。
「体、大丈夫か?」
「うん。割と平気よ」
「そっか、なら良かった」
「ありがとね」
「うん」

 慎吾はそのまま自分の部屋に入った。朝雄はまだ学校のようだ。荷物を置いてベッドに座る。バイトは休みをもらった。今の状態で肉体労働に耐える自信がなかった。しかし、いざ時間ができると何をしていいかわからなかった。
「はぁ」
暇になった頭は、どうしても侑里を思い出してしまう。やっぱり会いたいと思う。しかし、今の自分では会えない。
どうなったら会いに行けるか。やっぱり、「強くなったら」だ。
「強くなりたい」
そう思った。今まで慎吾は、「自分は強い」という自信を心の柱に戦ってきた。だから、今まで「強くなりたい」と思った事はなく、初めて抱く気持ちだった。
 本棚から、漫画を一冊取り出す。「ドラゴンボール」の十六巻。孫悟空は、昔から、慎吾の「強さ」の見本だった。十六巻は、ボロボロになって倒れている悟空に、ピッコロ大魔王が上空から攻撃を放っているところで終わっている。読み終わると、十六巻を本棚にしまった。十七巻は取り出さなかった。結末は何度も読んでいる。十七巻の冒頭、悟空は、それまで使えなかった空を飛ぶ術をその場で身に着け、ピッコロ大魔王の背後から逆転の一撃を放ち、戦いに勝利する。
孫悟空は、強くなるために修行も積むが、一番強くなるのは戦いの中でだ。どんな強い敵が相手でも、戦う時は「ワクワクすっぞ」と笑い、その中で成長して強くなり、勝利する。

「まさに、今の俺だ」と思った。今の自分も、今まで戦ったことのないほど強い敵との戦いの最中だ。

そして、「今の俺の、勝つべき敵は?」と考える。

「お前が、弱いから」

雄二郎の言葉が浮かぶ。あの男には必ず勝たなければならない。

「でも、その前に」

そう、頭の中で否定する。あの男と戦う前に、倒さなければいけない相手がいる。
「こいつだ」
慎吾が、鏡を見た。いま自分が勝たなきゃいけないのは、自分自身だ。この、落ち込んでる弱い自分だ。そして、この、落ち込んだ気持ちを克服し、元気になる事ができたら、弱い自分に勝ち、強くなったと言える気がした。
相手は決まった。「よし」と小さくつぶやいた。
「ワクワクすっぞ」
そう言って笑ってみた。それがウソだったとしても、言葉に出して顔を作ると、本当にワクワクする気がした。
その時、部屋の扉がノックされた。恵美の「ご飯、できたけど」の声が聞こえる。「今行く」と返事をし、部屋を出た。

 「おかわり」
慎吾が三回目のおかわりを求めた。恵美がどんぶりを受け取る。
「いっぱい食べて、早く元気になってね」
いつも通りにご飯をたくさん食べる息子に、母親は安心した。
「おう」とどんぶりを受け取り、肉と野菜の炒め物と一緒に、ご飯を頬張った。味は感じないが、いつもどおりの行動をとることで元気だった自分に戻り、弱い自分に攻撃できているような、そんな気がしていた。

 それから、一週間が経った。慎吾は味のしないご飯を大量に食べ続けた。その度に恵美は、「いっぱい食べて、早く元気になってね」と声をかけてくれた。

 「お前、最近は昼休みも教室にいるな」
ある日の、昼休み。コンビニ弁当を食べる慎吾にクラスメイトが声をかけた。味のしないご飯を口に運びつつ、「まぁな」とはぐらかす。
「あの可愛い子と会ってないの?」
その質問に慎吾の手が止まる。その一週間、侑里とは会わず連絡もとらなかった。
「寂しくねぇ?」
そう聞かれたが、答えなかった。寂しさもあるし、会いたい気持ちもある。しかし、今の自分では、まだ会えない。なので、向こうから連絡がこない事に、少しの安心も感じていた。
「まぁ、機会を見てな」
慎吾が、そう返した。クラスメイトは、「ふーん」と言っただけだった。

 その日、慎吾はバイトに復帰した。一週間、ご飯を大量に食べ、「いつもどおり」の行動をとる事ができた。弱い自分に攻撃ができた。このまま自分の毎日を「いつもどおり」に戻していけば、弱い自分を倒し、元気だった自分に戻れる気がした。

 久しぶりで、体調も万全でない状態での肉体労働は少しの不安と緊張があった。しかし、「負けるわけにはいかない」と自分を奮い立たせ、出勤した。
 「…おい、慎吾!」
親方から大声で呼ばれ、「はい」と返事をする。
「何回も呼んでんだろ。ぼーっとすんなよ、危ねぇだろ」
「すいません」と慎吾が頭を下げた。
「あのコンパネ、三階に運んだのお前?」
「はい」と答えると、親方は「ちっ」と舌打ちを打ち、「あれ二階なんだよ」とうんざりした様子で吐き出した。
「すぐ、やり直します!」
走って三階に上がろうとした慎吾の肩を親方が掴んだ。
「お前、もう帰れ」
「いや、でも…」
「そんなんじゃ邪魔なんだよ、帰れ」
親方が立ち去ろうとした。親方の前に、慎吾が立つ。
「お願いします。最後までやらせてください」
そう言って、頭を下げた。親方が、鼻から息を吐く。
「つぎ危なかったら、帰らせるからな」
「はい」
そう頷いて、仕事に戻った。
「負けてたまるか」
そう、つぶやいた。

 「ふぅー」
慎吾が電車を降りた。ホームのベンチに、「どかっ」と体を降ろす。降りてきた乗客が改札へと大きな流れを作っている。その流れが落ち着くまで、少し休もうと思った。
「はぁ…」
もう一度、息を吐く。自分の息が白い色をまとっていて、それが自分の魂のように見え、少しおかしくなった。
ホームに人が少なくなった。それを見計らって、慎吾が重い腰を上げた。ホームから階段を降り、改札までの長い直線を歩く。体が疲れていて、ものすごく長く感じる。しかし、この直線を長く感じている事に懐かしさを感じ、「これが俺の日常だったな」と、思い出していた。
「…俺って、もう元気なんじゃないか?」
慎吾は、そう思った。味は感じないが、ご飯はたくさん食べられた。今日は、ミスはしたもののバイトを最後までやり遂げる事が出来た。元気だった頃と変わらない「日常」を生きる事ができている。
「…うん、もう元気だな」
元気な自分は取り戻した。その実感があった。そう思うと、自分の心の中に熱い火が灯った。これはきっと「闘志だ」と思った。闘志さえ燃えてくれれば、戦える。戦えるなら、あとは、前よりも更に強くなるだけだ。
 慎吾が、改札を抜けた。閉店し、明かりの消えたケーキ屋を見て、「おつかれさま」と迎えてくれた侑里を思い出す。会いに行ける日も近いかもしれないと思った。
「ワクワクすっぞ」
そう呟いて、自分の胸に手を当てた。胸の中で、闘志の火が燃えていた。

 慎吾の自宅。アパートの部屋の、扉の前。

「俺はもう元気。俺はもう元気。俺はもう元気…」

そう、何度もつぶやいた。そして、「よしっ」と気合を入れ、ドアを開けた。

「ただいま!」
大きな声をでそう言い、笑顔で家に入った。恵美が「お、お帰り」と出迎えてくれる。
「大丈夫だった?」
「うん。久々で疲れたけどね」
「そっか。お風呂入っておいで」
「おう、ありがとう」と母親に笑顔で返し、風呂場に向かった。

 「いただきます」
慎吾が風呂から上がり、晩ご飯を食べる。その日のおかずはとんかつだった。慎吾がご飯をかきこむ。相変わらず味は感じない。だが、たくさん食べれている事で、「やっぱり、もう元気だな」と思っていた。ご飯を頬張る息子に母親は「あんたは、いっぱい食べないとね」と笑った。息子も「おう」と力強く笑顔で返事をする。
 
「ほはわり」
慎吾が、口いっぱいに詰め込んだごはんを咀嚼しながら笑顔でどんぶりを母親に渡した。母親が「いいわね」と笑顔で受け取り、ごはんを山盛りにもりつけた。
「はい」とご飯を盛り付けたどんぶりを渡した。「ありがとう」と慎吾が受け取る。どんぶりを受け取った息子に「慎吾」と母親が声をかけた。「ん?」と母親を見る。

「早く元気になってね」

母親が笑顔でそう言ったとき、慎吾の咀嚼が止まった。

「…ありがとう」

慎吾が、白米をかきこんだ。慎吾の顔から、笑顔は消えていた。

 「…うっ」
夜。布団に入っていた慎吾が猛烈な吐き気に襲われ、トイレに駆け込んだ。胃に詰め込んだご飯を吐き出す。「はぁ…はぁ…」と荒い呼吸を繰り返した。

「早く元気になってね」

母親のその一言が、「お前が弱いから」という言葉がつけた傷口にえぐりこんでいた。

「俺はまだ、落ち込んでるのか?」

「…まだ、元気じゃないのか?」

まだ勝てないのか。強くなれてないのか。弱いのか。元気じゃないのか。そんな言葉が頭の中をぐるぐると回った。
「あ、待って、待って」
弱い気持ちが流れ込み、胸の中で燃えていた火がしぼんでいく気がした。胸に手を当てて、ぎゅっと握る。爪が食い込み、胸に痕を残した。

「消えるな、消えないで」

そう言い聞かせながら、自分の胸を「ドン、ドン」と叩く。やっと灯った小さな火だ。どうか、消えないでくれと願う。

「…うっ」

胸を叩いた衝撃で胃が刺激され、また消化物がせりあがってきた。耐えられなくなり、「がはっ」と一気に吐き出す。吐き出す時の不快な味ですら、慎吾の舌は感じていなかった。
「はぁ…はぁ…」
胃の中の物を吐き出すのと同時に、胸の火は完全に消えてしまった。

「うぅ…」

無理して詰め込んだ分、吐き出す量も多い。落ち着くまで、長い時間がかかった。


  「あんた、大丈夫?」
朝。恵美が慎吾に声をかけた。自分の息子は、目がうつろで足取りもフラフラしているように見える。「兄貴?」と朝雄も心配の目を向けた。
 慎吾は、二人の言葉に返事を返せなかった。返事を返したあと。その後の会話で、更に心配されるような言葉を言われたら、二度と立ち上がれなくなる気がした。慎吾は「行ってきます」と一言だけ言って、学校へ向かった。

 学校の正門の脇。レンガ造りの花壇の前で、慎吾の足が止まった。花壇の中では、冬咲きのラナンキュラスがキレイに咲いている。花についた水のしずくが、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。水を撒く侑里の姿を思い出す。侑里には、「強くなったら、会いに行こう」と決めていた。

「強くなったら?」

それは、いつだと思った。いつまでも元気になれない、母親の思いやりの言葉にすら追い詰められるような弱い人間が、いつ強くなれるんだ?

その時、学校のチャイムが鳴った。その音は慎吾の耳にも届いていたが、しばらくその場から動けなかった。

 「慎吾君」
昼休み。慎吾が泥水を飲んでいると、教室の入り口から声をかけられた。振り返ると、松下がいた。正直、松下の顔を見るのもつらかった。松下は、「ちょいちょい」と手招きをしている。
「…はい」
食事を中断し、松下の元に近づいた。松下は「久しぶりだね」と笑った。
「慎吾君」
「はい」
「放課後、音楽準備室に来なさい」
その一言に、慎吾は「いや…」と松下から目をそらした。侑里に会ってしまうかもしれない。その慎吾に「慎吾君」と声をかけた。慎吾が松下を見る。
「これは、教師が生徒を呼び出してるんだよ」
松下が、そう言った。慎吾が「…はい」と答える。
「大丈夫、彼女は来ないから」
松下がそう言って微笑んだ。慎吾から「え?」と声が漏れる。
「じゃ、待ってるね」と松下はその場を立ち去った。

 「…はぁ」
放課後、慎吾が音楽準備室に向かう。足取りは重たかった。侑里はいないと言っていた。松下は、どんな話をするのだろう。何を聞かされるのだろう。松下は、強いだとか弱いだとか、そういう領域にいない。しかし、言う事はいつも正しい。そういう所を慎吾は尊敬していた。それだけに、怖かった。松下の純度の高い正しさを持った言葉を受け止める強さが、今の自分にあるとは思えなかった。
松下の部屋の、扉の前に立つ。慎吾は、松下の言葉を受け止める心構えを固めて、扉を開けた。

 「おじゃまします」
松下が「いらっしゃい」と迎える。ピアノの前の椅子に座り、まだ湯気の立っている紅茶の入ったカップを手に持っていた。
「まぁまぁ、座りなよ」
緊張の表情を浮かべている慎吾に、そう笑いかけた。
「…失礼します」
慎吾が椅子に腰を下ろす。松下は「どうぞ」とカップを置いた。
「最近、侑里ちゃんに会ってないんだって?」
「…そうですね」と答えた。松下が、「そっか」と頷く。
「…何か、あったのかな?」
その質問に慎吾は答えられず、黙ってしまった。「しん」とした部屋の中に、ドアの向こうの廊下から楽し気に話す女の子たちの笑い声が入ってくる。窓の外からは、校庭で部活を頑張る生徒たちのハツラツとした元気のいい声が聞こえてきた。
「具体的に何があったかじゃなくて、君の気持ちでもいいよ」
松下が、そう言って促した。その言葉に、慎吾が口を開いた。
「…俺は、自分を強いと思ってたんです」
「うん」
「…でも、全く強くなんてなくて」
「そう?」
「それを、俺よりも強い人に思い知らされたんです。ムカつくヤツです。絶対負けたくない相手でした。でも、全部そいつの言う通りで、反論の余地もなく、俺は負けました」
「コテンパンです」と言い、息を吐いた。
「自分は強いっていう自信が、俺の心の柱でした。強いから頑張れたし、戦えたんです。でも、その柱を折られてしまって」
「いや…」と目をそらして、少し黙った。
「そんな柱なんか無かったんだって、そんなもんは、最初から持ってなかったんだって、思い知らされて」
「…そう」
「だから、ないんだったら作ればいい。柱を建てればいいって思ったんです」
「でも、できなくて…」と、慎吾が顔に悔しさをにじませた。
松下は、「そっか」と頷き、紅茶を一口飲んだ。
「…ちょっと、聞いてくれる?」
「はい」
「私は、ここに来る前は小学校にいてね」
「はい、知ってます」
「だから時々、君たちからは子供っぽいと感じられるような事をしたり、言ってしまったりする事もあるんだけど」
慎吾の頭に、『よくできました』のスタンプが思い浮かんだ。
「君みたいな子をね、『選ばれた戦士』って言うんだよ」
「選ばれた戦士?」
そう言われ、慎吾は「たしかに、子供っぽいな」と思った。しかし「戦士」という言葉は、なんだか嬉しかった。
「君の周りの子たちは、勉強とか部活とか、特に今は受験勉強なんかを必死に頑張ってるよね」
「ですね」
「つまり、彼らがしてるのは、『努力』だよ」
「…はい」
「君は、自分が生きていくために働いたり、お母さんの治療費のためにお金を稼ぐのを頑張ったよね」
「…そうですね」
「それは、『苦労』だと思うんだ」
「…なるほど」
「『努力』という相手は、彼らが戦いたくて戦ってる相手なんだよ。戦わなくたって、勝たなくたって生きていけるんだから」
「…はい」
「でも、君が戦ってる『苦労』という相手は、君が戦いたくて戦ってる相手じゃないでしょう?戦わなきゃ生きていけないから、仕方なく戦ってるんだよね」
「…そうですね」
「そしてね、その『苦労』という相手は、誰かが『戦いたい』と思って戦いを挑める相手でもないんだよ」
慎吾は、「戦いたいやつなんかいないでしょう」と答えた。しかし、そう返事をしながらも、松下の言葉に興味深さを感じていた。自分が戦っている相手をそんな風に考えた事はなかった。松下は「まぁ、そうだけど」と小さく笑った。そして、人差し指でピアノの鍵盤をひとつ叩いた。「ド」の音が部屋に響く。
「これが、真ん中ね」
そして、「ちょっと、聴いててね」と言うと、松下は右手だけを使い、真ん中の「ド」の音よりも高い音で曲を奏でた。高くて明るい音が、軽快な曲を響かせた。
「…どうだった?」
「…楽しそうです」
「だよね」と松下が頷いた。
「部活や勉強を頑張って、毎日を楽しく生きている君の周りの子たちの毎日は、こんな感じだと思うんだ」
廊下や窓の外から聞こえてくる声は、いま松下が奏でた曲とピッタリだった。
「でも、君は、」
と、また鍵盤を一つたたいた。今度は、低い「ド」の音が響く。
「こんなに、暗くて低い音まで知っている。すると、」
松下が、またピアノを弾き始めた。今度は両手を使い、低い音と高い音で曲を奏でた。両手を使って奏でるその曲の素晴らしさに、慎吾は聴き惚れていた。
「…あ」
思わず出た慎吾の声に、松下が「気づいた?」と反応した。
「そう。今弾いてるのはさっきと同じ曲だよ」
同じ曲なのに、さっきとは深みも厚みもまるで違っていた。楽し気に聴こえていた曲に、少しの暗さや重さが加わり、その曲の魅力を何倍にも膨らましていた。松下の演奏が終わると、慎吾は小さな拍手を贈っていた。それに松下は「ありがとね」と笑った。
「今度は、どうだった?」
「…さっきより、深みも厚みがあって、同じ曲とは思えないぐらい、しっかりと聴きごたえがありました」
慎吾がそう言うと、松下は「でしょう」と微笑んだ。
「こっちの高くて明るい音っていうのは、誰でも知ろうと思えば知れるんだよ。君だって、おまわりさんになるために努力もしただろうし、生きる中で幸せを感じる瞬間もあるでしょ?」
「そうですね」と答える慎吾の頭の中には、侑里がいた。
「でも、低くて暗い音っていうのは、やりたくもない戦いに放り込まれた人間じゃないと知ることは絶対に出来ないんだよ。選ばれた戦士じゃないと、奏でられないんだよ」と、松下が微笑んだ。
「だから、たくさんの音を知ってる選ばれた戦士の君は、より多くの曲を奏でられるし、同じ曲でも深みや厚みが出せると思うんだ」
「…それで、」と松下が息を一つ置いた。
「それで、それは、君の『強み』と言える」
慎吾が、松下の目を見た。
「強みなんてものは、そうそう手に入れられるものじゃないよ。人間、一個でも持ってれば立派なものさ。そして、君の持ってる強みは、誰でも手に入れられるものじゃない。選ばれた戦士じゃなきゃ、手に出来ないものなんだ」
「だから、君は、強いよ」と松下が慎吾の目を見て言った。尊敬する松下からの「強いよ」の言葉に、慎吾の表情に少し光がさした。しかし、すぐに光を失った。

「お前が、弱いから」

慎吾は、雄二郎に言われた言葉を思い出し、あの男に勝てなかった事を考えると、自分は強いとは言えない気がした。
そこで、松下がまた低い「ド」の音を鳴らした。
「その人は、君の年の時に、こんな暗い音を知ってたかな?」
その一言で、また、雄二郎の言葉を思い出す。

「俺は、侑里が生まれてからずっと戦ってきてんだよ」
そう、「侑里が生まれてから」だ。松下が慎吾の目が変わったのに気付き、話を続けた。
「年齢という条件を揃えたら、君の方が強いかもしれない。将来的には、君の方が強くなるかもしれない」
「少なくとも、」と呼吸を置いた。
「少なくとも、その人に負けたって事が、君の強さを否定する事にはならないよ」
「君は、強いよ」と言い、慎吾に微笑みかけた。
慎吾が、自分の右手を見た。分厚い掌に傷跡がいくつもある。今まで戦ってきた証拠がそこにあった。それを、松下も見た。
「そんなに傷だらけなのに、壊れてないんだから」
そう言われて、慎吾が改めて掌を見た。そして、右手をぎゅーっと力一杯握った。痛みは感じない。逆に、自分の力の強さが右手から伝わってくる。右手を開き、自分の胸に当ててみた。胸に、あの時とは比べ物にならないほど大きな熱い火が燃えているのを感じた。
松下が「なんとかなったかな?」と微笑んだ。
「はい」
慎吾が力強く頷き、「ありがとうございます」とお礼を言った。
「…なんで、俺にそんな事を伝えてくれたんですか?」
慎吾がそう聞くと、先生は「ふふっ」と笑った。
「『今は私の番じゃない』ってさ」
そう言って、何かを差し出した。それを、慎吾が受け取る。
「…手紙?」
裏に「侑里より」と書いてあった。
「あの子に頼まれたんだよ。君に何か言葉ををかけてあげてくれないかって」
「…侑里が?」
「『慎吾は、先生の事は尊敬してるから、先生の言葉なら響くかもしれません』ってさ」
「そうなんですか…」
「読んでごらんよ」
「…はい」
慎吾が手紙を開いた。手紙には、こう書かれていた。

「慎吾へ。

無理しないでね。

無理して、元気になろうとしないでね。

おとうさんと初めて会った、あの雨の日。

私は、慎吾の背中にかくれていたよ。

慎吾の背中は、とても大きくて強いから。

慎吾を信じて、隠れていたよ。

だから、無理して元気になろうとしないで。

強い人が、弱ってしまうこともあると思います。

だから、落ち込みたい時は落ち込んでていいよ。

一年生の時、料理をサボった私に、慎吾は「サボってもいい」って言ってくれたね。

慎吾も、サボっていいよ。

『強くいる』事を、サボっていいよ。

サボりながらじゃないと、体も心ももたないよ。

ちょっとサボったからって、私は、慎吾の強さを疑ったりしないから。

だから、心から元気になったとき、顔を見せてね。

待ってます。

                             侑里より」

 慎吾が手紙を閉じた。慎吾の顔は、涙と鼻水でぐじゃぐじゃになっている。松下が笑って「ほら」とティッシュの箱を差し出すと、「ずいまぜん」と三枚引き出して涙をふき、「びっ!」と豪快に鼻をかんだ。「はぁ」と息を吐いて、丸めたティッシュをゴミ箱に捨てる。それでも涙は流れ続けていた。松下が「泣きっぱなしじゃないか」と笑った。
「心配してくれてたんだよ。心配してるのに、その気持ちを押し付けずに、譲って、待っていてくれたんだよ」
「…そうですね」
「この手紙だって、私がほとんど無理矢理『書け』って言ってやっと書かせたんだから」
「そうだったんですか…」
「あの子は、優しいね」と、松下が優しくつぶやいた。
「普通、自分の好きな人が落ち込んでたら、自分が力になりたいと思うものだよ。だけど、あの子はそれが自分じゃないと思ったら、一歩引いて、そのバトンをそれが出来る人に譲れるんだ。本当に優しい子だよ。あの子は」
「…はい」
「慎吾君」
「はい?」
「こんなところで泣いてる場合じゃないでしょ?」
慎吾が部屋の時計を見た。侑里はもう帰ってしまったかもしれない。そう思った慎吾に、松下が言う。
「あの子は美化委員でしょ」
「え?」
「今頃は、お花に水でもあげてるんじゃない?」
それを聞いた慎吾が立ち上がり、涙を拭って、「行ってきます!」と、走り出そうとした。だが、一度足を止め、「あの、本当にありがとうございました!」と松下に深く頭を下げた。
「いいから、早く行っておいで」
松下が呆れたように笑って、右手を「しっ、しっ」と動かした。
「はい!」
慎吾が、音楽準備室を勢いよく飛び出した。
「元気だなぁ」
松下が、紅茶をすすった。
 
 慎吾が、ラナンキュラスの花壇まで走った。小さな女の子が、じょうろで花に水を撒いている。

「ゆり」

慎吾に気づいた侑里が、小さく微笑んだ。慎吾は、色んな気持ちが胸につかえて言葉が続かなかった。

「のど乾きませんか?」

侑里が、カバンから「まっしろ」を取り出した。
「…乾きましたね」
慎吾がそう答えると、侑里がストローを差して渡してくれた。慎吾が両手で丁寧に受け取り、一口飲む。

「…あまい」

口の中に甘味が広がり、魔法がかかる。

「あまいね」

侑里が笑った。

「ありがとう」

「おつかれさま」

侑里が優しく笑った。

冬咲きのラナンキュラスは、侑里の撒いた水を浴びてキラキラと輝いていた。

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