「さいしょはグー。」第1話。

(あらすじ)加賀宗悟は空手部に所属し、どれだけ結果が出なくても勉強も部活も頑張り続け、片思いの晴香に何度フラれても諦めない努力家。菜田仁は持ち前の才能で勉強もスポーツもそつなくこなし、友達や恋人の美緒から天才と呼ばれている。風口理は、事故に遭った父親に代って家を支え、松下という女性教師に憧れを抱く苦労人。三人は友達だが、宗悟は、勉強もスポーツも天才の仁に勝てず劣等感を抱き、仁は自分の知らない経験を積んでいる理を尊敬し、理は、努力できる環境にいる宗悟を羨んでいた。それぞれが持っている力も悩みも幸せの形も違うが、そこに優劣はなく、衝突する事があっても、その関係はまるで永遠にあいこの続くじゃんけんのようだった。


 とある高校の放課後。一年生の教室。三人の男子生徒が裏返した答案用紙を机に並べ、じゃんけんの体勢をとっていた。加賀宗悟(かがそうご)という男子生徒が「いいな?」と、背の低い風口理(かぜぐちおさむ)という同級生と目を合わす。理も「いいよ」と宗悟を見上げた。
「ジンもいいな?」
今度は、背が高く端正な顔立ちの菜田仁(さいたじん)という男を見上げる。ジンも「おう」と見ろして答える。
「さいしょはグー!」
宗悟が声をかけると三人がグーを出す。ジンのきれいな手、宗悟の指の付け根の骨がすり減り平らになった手、理の傷だらけでボロボロの手。三つの手がそれぞれグーを作っていた。
「じゃん、けん、ぽん!」
ジンはチョキを出し、宗悟と理はグーを出した。
「じゃあ、ジンからな」宗悟が言う。
「おう」ジンは軽く返事をして、自分の答案用紙を表に返した。答案用紙には、九十二点の点数がつけられていた。
「おぉ〜、さすが」理が感心する。
「くっそ」と悔しがる宗悟に、「え、何点よ?」と理が聞く。
「じゃんけんしねぇの?」とジンが笑った。
「俺は七十点だよ」宗悟が理に答案を見せると、理は「お前、ばかだねぇ〜」と笑った。その様子に宗悟が腹を立てる。
「じゃあ、理はどうなんだよ」
そう言われた理が「ふっふん」と誇らしげに答案を見せた。答案には、四十三点の点数が付いていた。
「めちゃくちゃ低いじゃねーか!」
宗悟がそう反応すると、理とジンが笑った。
「いいんだよ、俺は。赤点じゃなきゃ!あー、安心した」
理は答案用紙をクシャクシャに丸め、「ほっ」と放り投げた。答案用紙がゴミ箱に吸い込まれたのを見て「よしっ」とガッツポーズをとる。
「答案捨てんなよ」
「いいんだよ、誰も見ねぇし」
「そりゃ、ゴミ箱漁るやつはいねぇだろうけどさ」
そう言った宗悟に「そうじゃないだろ」とジンが笑う。
「それよりさ、ジン、答案見せて」
宗悟がジンと自分の答案を見比べ、「あ~、ここは、こうか…」などとつぶやきながらテストの復習を始めた。
「くっそ~、けっこう勉強したのにな」
「どんぐらいしたのよ?」
「結構したよ。毎日三時間はしたんじゃないかな」
「毎日三時間でこの点数かよ」と理が笑うと、「じゃあ、お前らはどんだけやったんだよ」と宗悟が反抗した。
「え?してないよ?」
示し合わせたように、二人同時にそう答えた。宗悟が「なんだ、お前ら」と呆れた反応を返す。
「だって、おれ勉強する必要ないもん」
「ま、ジンはな。その点数とってりゃな」
「何も言い返せない」と宗悟だけ悔しさを滲ませた。
「俺の友達でよ、毎日三時間勉強して七十点のやつがいるんだけど、どう思う?」
「まぁでも、よく頑張ったと思うよ。このテストで七十点だったら、悪い点数じゃないさ」
「だってさ」と理が笑う。宗悟は「うるせーよ」とむくれた。
「それに、理が言うんじゃねーよ。四十三点のくせに」
宗悟が理を指さした。
「いや、別に俺は百点なんかとんなくたっていいんだから。それに、俺に勉強するヒマなんかないし」
「やっぱ、毎日忙しいのか?」ジンが聞いた。
「まぁな。あー良かった。これで安心してバイト行ける」
「良かったな」と微笑んだジンに、「ま、ちょっとは安心かな」と返した。
「さてと、そろそろ行くかな」理は荷物を持った。宗悟が「どこに?」と聞く。
「美化委員の仕事だ」
「あぁ、掃除?」
「おう」
「今日どこよ?」
「科学室」
「広いな。何人で掃除すんの?」
「ひとりだよ?」
「あれ、一班三人じゃなかったっけ?」
「俺が一人でやるように変えたんだよ」
「なんでよ?大変じゃん」
宗悟のその質問に、理は答えなかった。「で、そのあとバイトか」とジンが聞く。
「バイト何やってんだっけ?」
「ビルの清掃」
「お前、掃除ばっかじゃん」と宗悟が言うと、三人が笑った。
「まぁ、掃除のプロからしたら、素人となんて組んでられないか」
ジンが言った一言に「おう、そういう事だ」と理が頷き、荷物を肩にかけ、教室の出口に向かった。その背中に、「バイト、がんばれよ」と宗悟が声をかける。
「うるせーよ」
そう言って、理は教室を出た。「なんだよ、あいつ。応援してやってんのに」と宗悟がむくれる。ジンは、「ま、いろいろあるさ」と笑った。
「で、お前は何してんの?」と宗悟が聞いた。
「ん?待ち合わせ」
「待ち合わせ?」
「おう」と教室の時計を見て、「そろそろ来るよ」と言った。

ガラガラッ。

その時、教室のドアが開いた。
「ジン君!かえろ!」
小柄で可愛らしい笑顔の女の子が入ってくる。ジンが「おう、美緒」と笑顔で手を挙げた。宗悟が「すげ~」と声を漏らす。「なにが?」と美緒が気にした。
「今こいつ、『そろそろ来る頃だ』って。それがあまりにもドンピシャだったから」
「そうなの?すごい!」と美緒が喜ぶ。
「俺はなんでもわかるんだよ」
「すごいね!」
「じゃ、帰ろうか」と、ジンが立ち上がる。
「宗悟も部活だろ?玄関まで一緒に行こうぜ」
「邪魔しちゃわりーだろ」
「いいよ、別に」とジンが笑い、美緒も頷いていたので三人で教室を出た。

 「…宗悟、なんか気合入ってんな」
廊下を歩きながらジンが言う。宗悟が「わかるか?」と見上げ、美緒が宗悟の顔を覗き込んだ。
「大事な日なのか?」
「まぁな。今日、次の試合の選手を決める試合があるんだ」
「お~、それは負けられないな」
「うん、一年は一人しか出れないから、絶対勝ちたいんだ」
宗悟が気合の入った顔でうなずく。
「空手って、殴られたら痛くないの?」
空手部に所属する宗悟に美緒が聞く。その質問のかわいらしさに、ジンは笑みを浮かべていた。
「痛くないように鍛えるんだよ」
宗悟が自分の腹を拳で「どんどん」と叩いた。美緒が「へぇ~、すごい」と感心する。
「ジン君は鍛えないの?」
「俺はよけるもん」
その一言に、三人が笑った。
 校舎の玄関の、下駄箱の前の少し開けた空間。そこで宗悟は「じゃ、俺はこっちだから」と手を挙げた。
「おう、試合頑張れよ」
ジンに続いて美緒も「がんばってね!」とエールを贈った。
「おう、ありがとう!」
宗悟は二人のエールをそう受け取って、体育館へ向かった。

 「外は寒いねぇ」
ジンと美緒が校舎の玄関を出て正門に向かう。白い息を吐いて、美緒が笑顔でジンを見上げた。
「だねぇ」
ジンも同じように白い息を吐きながら、美緒を見下ろした。
「今日はどこに行くの?」
学校の正門の隣。色とりどりの花が可愛く咲くレンガ造りの花壇の前で、美緒が聞いた。
「今日は、ここ」
自分の顔を見上げる美緒に、ジンは財布を取り出し、中から映画のチケットを二枚取り出した。
「え、すごい!チケット買ってあるの!?」
「見たかったんだもんね?」
「え、私言ったっけ?」
「ううん。でも、わかってたよ」
「すごいね、なんでもわかっちゃうんだね」
美緒が笑った。その笑顔を見て、ジンも微笑んだ。 

 「やめっ!」
試合の審判をしていた空手部の部長が宗悟の試合を止める。次の大会の団体戦。一年生の唯一の出場枠をかけたトーナメントの決勝戦だった。
「荒木!」
試合は宗悟の負けだった。二人が、お互いに礼をする。
「よっしゃぁぁああ!!」
試合の出場権を手に入れた荒木が雄叫びをあげた。
「ふぅ」
宗悟は深く息を吐いて、道着の袖で額から流れる汗を拭った。
「やるな、荒木」
宗悟が握手を求める。
「お前もな」
荒木もそれに応え、手を握る。勝者も敗者もお互いに称え合う、まるで漫画のような熱い場面に試合を見ていた一年生が拍手を贈った。

 「はぁ…疲れた」
理がバイトを終えて電車を降りた。ホームから階段を降り、改札に向かう。
「なげぇなぁ、今日は…」
駅の階段を降りて改札にたどり着くまでには長い直線がある。その道は、その日の体の疲れ具合によって距離が変わる。今日は、ひどく長く感じていた。
「出れたぁ~」
どうにか改札を抜け、理が天を仰いで吐き出した。
「…あ、満月だ」
夜空に浮かぶ満月を見て、ほんの少し疲れがとれた気がした。
「…甘いものが必要だ」
そう呟いて、近くで光っている自販機に向かう。お気に入りの甘味の強いカフェラテを買った。音を立てて降りてきた缶を両手で持つと、心地よい温かさが伝わってきた。
「いてて」
蓋をあけると、勢い余って中身が少し漏れてしまった。こぼれたカフェラテが手にかかり、傷口に染みて少し痛んだ。
「…ふぅ」
カフェラテを一口すする。深くてまったりとした甘味が、理の疲れた体に染みわたった。


 「じゃあ、まずは菜田と加賀」
隣のクラスと合同の、体育の授業。体育科の男性教師が二人を呼ぶ。柔道着を着たジンと宗悟が前に出た。柔道の組手が始まる。ジンが「負けないぞ?」と笑う。
「ジンよぉ、俺は空手部だぞ」
「空手関係ねーだろ」
そう言って、二人は身構えた。
「はじめっ!」
先生の合図で、二人が近づく。
「よっ」
試合開始直後、ジンが素早く宗悟を背負い投げで投げた。その試合の速さに周りから拍手が起る。宗悟が悔しそうな顔で立ち上がり、二人がお互いに向き合って礼をした。
「お前、経験者か?」先生がジンに聞く。
「いえ、さっき教えてもらったので」
「お前、すげーなぁ」
「先生の教え方が上手いんだと思います」
「そんなことねーよ」と先生は明らかに嬉しそうにした。
「あ、あいつ、授業態度かせぎやがった」
そうつぶやく理の隣に、宗悟が戻ってきて座った。
「お前、負けてんの?」
「うるせーよ」
「空手部のくせに」
「空手関係ねーだろ」
そんな会話をする二人の隣にジンが戻ってきた。
「いや、でも、さすが空手部だよ。間合いの取り方とかやっぱ上手いもんな」
そう言って褒めながら二人の隣に座った。
「だとさ、よかったな」理が笑う。宗悟は返事をしなかった。
「次、風口と荒木」先生が呼ぶ。「お」と理が立ち上がった。隣のクラスの荒木の登場に宗悟が身を乗り出し、「友達か?」とジンが聞く。
「友達っていうか、空手部で一緒なんだよ」
「へぇ~、強いの?」
「…一年の中じゃ、俺が二位であいつが一位」
その返事から、ジンは昨日の試合の結果を察した。
「でも、一年の中で二位なら、お前もすごいじゃん」
「全然すごくねぇよ」と宗悟が返した。その時、生徒たちが「おぉ~」と盛り上がった。「なんだ?」と二人も試合に目を向ける。
「おらぁ~!」
理が荒木の体を両手で持ち、自分の頭上にあげていた。荒木は、理の頭の上で暴れている。
「だらっしゃあ!」
理が荒木を放り投げた。荒木の体が床に叩きつけられる。「あらら」とジンの口からこぼれた。
「ちっ…」宗悟が舌打ちを打つ。周りの生徒は「すげぇ~」と理の試合に感動していた。
「お前、すげぇな」先生が唸る。
「いやいや」と理が照れる。
「でもな、それ柔道じゃねぇよ」
「えっ!?」
理の大きな反応に、周りの生徒から大きな笑いが起きた。
「うぅ…」
床に転がっていた荒木が腕を押さえて苦しがった。先生が「なんだ、痛めたか?」と近づく。「ちょっと…」と腕をかばいながら立ち上がった。
「保健室行くか?」
「はい…」
「一人で行けるか?」
「大丈夫です」
「気を付けていけよ」と先生に言われ、荒木は柔道場を出て行った。ジンが「ケガしたかな?」とつぶやく。宗悟は心配そうに見送っていた。その隣に理が戻る。
「弱いなぁ、あいつ」そう言いつつ、腰を下ろした。
「いや、お前が無茶しすぎなんだよ」とジンが叱る。理が「えっ?」ととぼけると、その頬をやさしくひっぱたき、「ぺちっ」と小さな音が響いた。

 その日の全ての授業が終わり、生徒たちが教室で帰り支度を始めていた。「あー、今日も終わったな」とジンが体を伸ばす。その隣で、宗悟は部活の準備を始めていた。
「宗悟はこれからが本番だな」
ジンが声をかけると、「まぁな」とうなずいた。
「理は今日もバイトか?」
ジンが理に振った。「いや、今日はやっと休めるんだぁ」とため息まじりの返事が返ってきた。
「じゃあ、もう帰れるのか?」
「いや、委員会の仕事がある」
「今日はどこよ?」
その質問に、「…音楽室」と理が小さく笑った。

ガラガラッ。

そこで、教室のドアが開いた。「ジン君、かえろ」と、美緒が元気に入ってきた。「うん」とジンが微笑む。
「デートか、いいね」理の言葉に美緒が「えへへ」と笑った。
「楽しいよ?好きな人とデート」
美緒がそう言うと、理は「うん、知ってるよ」と答えた。
「お前、彼女なんかいねーだろ」
宗悟の言葉に、理の返事はなかった。
「あ、宗悟君!」
「ん?」
「晴香にまたフラれたんだって?」
まっすぐにそう言う美緒に理は「ぶっ」と吹き出し、宗悟が「そんな、明るく言う?」と慌てた。
「お前、また告白したの?」ジンが呆れた様子で聞いた。
「悪いか」
「え、もう何回目よ?」
「え、何回目だ?」
「俺が聞いてんだよ」とジンが笑う。
「そんなに告白してるの?」
「うん…。晴香とは幼稚園の頃からの付き合いでさ、その頃からずっと言ってるから、もう正直わからん」
「こわいわ」と理が笑う。
「でも、嫌われてるわけじゃなさそうだもんね?」
宗悟は「うーん…」と渋い顔をした。理が「そうなの?」と聞くと、ジンは「友達としてみれば、普通に仲のいい二人に見えるよ」と頷いた。しかし宗悟は「いや、でも、最近冷たいんだよ」と渋い顔のまま答えた。
「そりゃ、そんだけしつこくしてりゃな」
そう笑う理にだけは、宗悟は「うっせぇ」と反抗した。
「お前も恋ぐらいしろよ」宗悟が理の肩に手を置く。
「余計なお世話だわ」と理がその手を払った。
「じゃあ、俺は先行くよ」宗悟が荷物を抱えた。
「今日は早いな」とジンが言う。
「おう、ちょっとな」と手を挙げた。
「がんばってね」
美緒のエールを、「ありがとう!」と受け取って、宗悟は教室を出て言った。
「俺もそろそろ行くか」
時計を見た理がリュックを肩に担いだ。
「じゃあな」とジンに言い、ジンは無言で手を挙げた。
「楽しんできてね」
そう、美緒に言って理は教室を出て行った。「ありがとう」と美緒が手を振る。

 「理君は、どこに行くのかな?」
二人で校舎の玄関に向かう。美緒がジンを見上げた。
「好きな人とデートだよ」
「デート?でも、彼女なんかいないって…」
「いや、彼女じゃないけどね」
「よくわかったね」と美緒がジンの顔を見上げる。
「なんでもわかるんだよ、俺は」とニヤリと笑う。
「それに、あんなに機嫌良さそうだからね」
「へぇ?」
美緒には理が特別機嫌が良さそうには見えていなかったが、それを見透かすジンを誇らしく思っていた。
「流石だね」
「そう?」
「じゃあ、クイズね」美緒が微笑む。
「今日、私はどこに行きたいでしょうか?」
ジンが高いところから笑顔を見せた。
「買い物でしょ?」
「え、すごい!本当に!」
美緒は何を言われても正解と言うつもりだったが、本当に正解を出されて驚き、同時に嬉しくなった。
「本当にすごいね!」
「だから、なんでもわかるんだよ、俺は」
ジンが笑った。

 理が音楽室に向かう。
「…あ」
近づくにつれ、中から漏れ聞こえてくるピアノの音が大きくなる。意識せず、理の顔に小さな笑顔が浮かぶ。
「ふー」
音楽室の扉の前。小さく息を吐き、気持ちを整えた。演奏の邪魔をしないように小さくノックをし、音を立てないようにそーっと扉を開けた。
 ピアノの音色が、ダイレクトに理の耳に入ってくる。中に入り、またそーっと扉を閉めた。音楽室では、部屋の中心にあるピアノを音楽科の先生が奏でていた。先生は理に気づく事なく、集中して演奏を続けている。その音色は、奏者の美しさをそのまま具現化したような、女性らしく繊細で、かつ深みと厚みも兼ね備えた不思議な魅力を持っていた。理は、その曲が終わるまで静かに聴いていた。
「…うん」
一曲弾き終わると、先生は頷いて、目の前の楽譜に鉛筆で何かを書き込み始めた。
「あれ?」先生が理に気づく。
「あ、松下先生」理が頭を下げる。
「どうしたの?」
「美化委員です。音楽室の掃除に来ました」
「あぁ、そっか。ごめんね、待たせちゃって」
「いえ、とんでもありません」
理がそう答える間に、松下は筆記具や楽譜の荷物をまとめ、立ち上がった。松下の背の高くスラッとしたスタイルがより際立つ。
「じゃ、よろしくね」と理を見下ろして言う。理の「はい」の返事を聞いて、松下は音楽室の奥の扉を開け、隣の音楽準備室に入った。
「さて、やるか」
理が掃除にとりかかる。そうつぶやく声は、明るかった。
   
 「宗悟、俺と組もうぜ」
部活の稽古中。荒木が組手の相手に宗悟を選んだ。宗悟も「おう、いいよ」と快諾し、二人が構える。
「はじめっ」
宗悟が声をかけ、二人が近寄った。先に仕掛けたのは宗悟だった。相手の体に拳を何発も打ち込む。荒木は、体をかわしたり手で攻撃を払いながら反撃の機会をうかがっていた。

どんっ!

荒木の拳が宗悟の腹に入る。その時に聞こえた音が、宗悟の腹筋の固さを物語っていた。
「いっ…!」
声を上げ、その場にしゃがみこんだのは荒木だった。宗悟が「おい、大丈夫か?」と様子を伺う。
「なんだ、どうした?」
空手部の部長が二人に近寄った。荒木は「いえ、大丈夫です!」と腕を隠した。「まだ治ってないのか?」と気遣う宗悟を、「黙ってろ」と睨みつけた。
「見せろ」部長が言う。
「いや…」と渋る荒木の腕を、何も言わず部長が掴み、ゆっくりと動かす。
「いででで!!」
荒木が顔を苦痛に歪めた。その声が周りの部員の目を集めた。
「こりゃ、ダメだな」部長がため息を吐く。
「荒木、試合は降りろ」
「えっ」と驚いたのは宗悟だった。
「いえ、いけます」荒木は強く言った。
「その腕じゃ出れないよ。無理してケガがひどくなって、二度と使えなくなってもいいのか?」
「…いいです」
「いいわけねぇだろ」
部長が睨むような眼を向けて言った。その目に、荒木と宗悟がひるむ。
「荒木は一年だろ。まだこれからチャンスあるんだから」
笑顔を戻した部長にそう言われ、荒木は「…はい」と渋々うなずいた。
「お前、一応保健室行ってこい。念のため今日は見学しろ」
「…わかりました」と荒木は体育館を出て行った。その背中を宗悟が見送る。
「じゃあ、団体戦、一年は加賀だな」
部長が宗悟を見る。宗悟は驚いて目を見開いた。
「順番で言えばお前だろ」
「…はい」
宗悟が答える。宗悟の中には、嬉しい気持ちと悔しい気持ちが両方あり、複雑だった。

どんっ。

部長が宗悟の腹にパンチを入れた。
「気合入れろよ」
部長が笑顔を見せる。
「はい!」と宗悟が深く頭を下げる。その背中を部長が叩く。「ぱんっ」と心地いい音が響いた。
「期待してるぞ」
そう言って立ち去る部長の背中を再び頭を下げて見送った。

 とある日の昼休み。理が購買から昼食を買って教室に戻ってくると、ジンと宗悟が母親の作った弁当を広げていた。宗悟が「おかえり」と出迎える。
「理、そんなんで足りんの?」
理が勝ってきたのは、おにぎり一つと飲み物だった。理は、「今月、やべぇんだよ」とぼやいた。
「ただでさえ大食いのお前が、それは厳しいな」
「ま、耐えるしかねーな」理がおにぎりのビニールを破いた。
「…そんな飲み物あったっけ?」
ジンが理の持っていた飲み物を気にした。
「『まっしろ』だって」
「『まっしろ』?」
「ココアみたいよ?」
理が、カップにストローを差し、一口飲んだ。
「あまっ!」
「まっしろ」の甘さに理が驚く。「そんなに?」と二人が気にしたので、「飲んでみ?」と差し出した。
「あ、これはすごい!」
「あっまい!」
それぞれそう反応する。ジンは「俺、だめだわ」と笑った。
「そう?俺はけっこう好きだな」そう言いつつ理が「まっしろ」を吸い込む。
「どんだけ甘党なんだよ」ジンが、お茶を飲んで口直しした。
「ていうか、ジンが教室にいるの珍しいな」理が言う。
「美緒ちゃんとこ行かなくていいの?」
「うん。今日は友達と食うんだって」
「ついに破局か」
「昼飯一緒に食わなかっただけで!?」
ジンの大きなリアクションに宗悟と理が笑い、ジンも「笑ってんじゃねーよ!」と言いつつ、顔は笑顔だった。
「お前なんかフラれまくってるくせに」
ジンが宗悟に言う。理は「ぎゃはっは!」と大きく笑ったが、宗悟は「お前、それを言うなよ~」と力なく笑っていた。
「なんでフラれるんだろうな」理が言う。
「それ分かってたら苦労しねーんだよ」
「彼氏いるんじゃねぇの?」
理の一言に「いや、いない」と返事をしたのはジンだった。
「美緒の情報だから、それは確実」
「じゃあ、信頼できるな」理が頷く。
「ジンならわかるか?」宗悟が聞く。
「ん?」
「お前、なんでもわかるじゃん。だったら、俺がフラれる理由もわかるんじゃねぇかと思って」
「んー…?」とジンは腕を組んだ。
「まぁ、魅力がないのかなぁ」
「バッサリ切ったなー」と理が笑う。宗悟は「魅力ってなんだろう?」と聞いた。
「うーん、やっぱり、決め手に欠けるんだろうな」
「決め手?」
「それこそ、お前の状態だよ」
「ん?」
「努力はしてる。よく頑張ってる。けど、結果が出てないんだよ」
「…なるほど」
「空手で言えば、いい試合はしてる。だけど、今のところ判定負けなんだよ」
「…負けか」と宗悟がつぶやく。
「K.O取れないって事か」と理が頷いた。
「まぁ、空手だから一本だけどな」とジンが返した。
「俺からしたら一緒だよ」理はそう言ったが、少し恥ずかしそうだった。
「…じゃあ、何か結果を見せたら、光が見えるかな?」
「もしかしたらな」
「…そっか」と頷く宗悟は、何か希望があるようだった。

 放課後。理が音楽室に向かう。いつもどおり中からピアノの音色が漏れ聞こえてきて、思わず頬が緩む。演奏の邪魔をしないようにそーっと扉を開け、中に入った。
「…うん」
演奏を終えた松下が一つ頷いて、鉛筆で楽譜に何かを書き込んだ。そして、自分を見つめる理に気づいた。
「…あ、掃除かな?」
「はい」
「そっか。じゃ、よろしくね」と松下は音楽準備室に入った。
「よし、やるか」
理が、小さく微笑んで、掃除を始めた。

 理が音楽室の掃除を終え、校舎の正門に向かっていた。廊下を歩きながら、松下との会話を思い返す。

「あ、掃除かな?」
「はい」
「そっか。じゃ、よろしくね」

そう言ったあとの小さな笑顔を思い出し、思わず頬が緩んだ。

「おい」

その幸せ気分をぶち壊す声が前方から聞こえてきた。見ると、顔に見覚えのない男が三人、理の前に立ちはだかっている。
「なんだ、お前ら」
「空手部だよ」と真ん中の男が答えた。「で?」と返す。
「お前、荒木ケガさせたろ?」
「…ん?」
誰のことかわからず、「あらき?」と聞いた。
「柔道んときに無茶な投げ方したろ!」
三人のうちの一人が叫んだ。「…あぁ」と理が思い出す。
「あいつは試合に向けてずっと努力してきたんだぞ?それをお前が全部台無しにしたんだぞ、どうしてくれんだよ」
「どうしてくれるってなんだよ」
「落とし前つけろって言ってんだよ!」とその男が叫んだ。
「あいつが弱いからいけねーんだろ」
「あぁ?」
「じゃ」と理が無視して通り過ぎようとした。

ガキッ!

理の頭に衝撃が走った。額に手を当てると血が垂れている。「このやろう…」と三人を見ると、一人の男の手に角材が握られていた。
「空手関係ねーじゃねーか」
「謝るなら今のうちだぞ」
角材の男が言う。理が「ふん」と鼻で笑い、その男に近づく。
「おい、来るなよ!」
それでもなお、理は近づいてくる。焦ったその男が角材を理の脳天に振り下ろした。「バキッ」という音が響き、角材が二つに折れた。
「おい」
理が男の手に残った角材を奪い、その男の髪の毛を掴むと、角材の尖った折れ口を男の目の前に突きつけた。男の口から、「ひっ…」という声が漏れる。その怯えた顔を、角材の尖っていない方で殴打した。
「ぶっ」
殴られた男が鼻血を出してその場にうずくまる。そのとき、理の右側頭部に大きな衝撃を喰らった。理の視界が「ぐらっ」と揺れる。
 理が後ろを振り返る。後ろにいた背の高い男の構えから、頭を蹴られたであろうことが予想できた。
「えげつねぇな」
一言そう言うと、理がその男に近づく。その男はもう一度理の頭に蹴りを入れた。「ゴッ!」と音を立て、理の体がよろめく。しかし、よろめきながらも理はその男の懐に入り、両手で胸倉をつかんだ。
「なっ」
理が背の高い男の顎に頭突きを入れる。下あごと上あごが激しくぶつかり、その男の体がふらついた。ふらついた男を、理が力でその場に投げ倒す。その男は頭を地面に強打し、「ぐっ…」と苦しがった。
「おらぁ」
理が左足をその男の顔面に乗せ、体重をかけた。
「おらおらおらおらおらおら」
そして、その男の頭の上で体を上下に揺らす。下の男が「がっ…」とうめきながら、理の左足を両手で掴んだ。
「おら」
理が右足でその男の顔面をサッカーボールのように蹴り飛ばした。男の両手が理の左足から離れ、ゴロゴロと転がった。
「えげつないだろ?」
そう言ってニヤリと笑った理の背中を「どんっ」と重たいダメージが襲った。「うっ」と声を上げて後ろを振り返ると、空手部の残りの一人の拳が理の顔面に入った。
「ちっ」
理が一つ舌打を打ち、そいつの首を右手で掴んだ。「うっ…」とうめきながら、両手で理の右手を掴む。しかし、理の手は首から離れなかった。その男の顔が青ざめ始めたとき、理が首を掴んだ手を「ぐいっ」と引っ張り、体を引き寄せた。そして、その勢いのまま、廊下の壁にたたきつけた。
「…げほっげほっ」
うずくまり、えずきながら荒い呼吸を繰り返すそいつの右側頭部を、理が思いっきり蹴り飛ばした。
「がっ!」
その男がその場に倒れ、理の周りに三体の死体が転がった。
「はぁ」
ため息を吐いて、理が額から出た血を拭った。
「いいじゃねぇか。怪我したら逃げれるんだからよ」
そう吐き捨てて、その場を離れた。

 正門の隣のレンガ造りの大きな花壇。理がじょうろを持って水を撒く。これも、美化委員の仕事だった。花壇の中には、色とりどりの花がたくさん咲いている。花に詳しくない理に花の名前はわからなかった。
「…うん、かわいい」
水を撒いた花壇を見て、理が頷く。そして、じょうろを置き、「行くか」とその場を離れた。
理の背中で、水を浴びたラナンキュラスがキラキラと輝いていた。

 ジンと美緒がハンバーガーショップに入った。「おなかすいたねぇ」と美緒が笑い、ジンも「だねぇ」と微笑んだ。
「あ、あそこ空いてるよ」と美緒が空いている二人掛けのテーブルに小走りに駆け寄り、ジンが歩いて追いかける。
「じゃあ、買ってくるから待ってて」とジンが美緒の向かいの席に荷物を置いた。
「あ、じゃあ…」と美緒がメニューを伝えようとするが、「大丈夫、わかるよ」と微笑んで、ジンはカウンターへ向かった。
「はい」
戻ってくると、ジンはチーズバーガーのセットを買ってきていた。美緒がドリンクを飲む。メロンソーダだった。
「すごい!全部正解!」
美緒が笑った。「良かった」とジンも笑う。
「ほんとに、すごいね。なんでもわかっちゃうんだね」
美緒が顔をクシャクシャにして笑う。その笑顔に、ジンも幸せを感じていた。

 部活も終わり、陽も落ちかけ、生徒もほとんどいなくなった学校のレンガ造りの花壇に、宗悟の姿があった。色とりどりの花たちは、浴びた水のしずくが夕日にキラキラと輝いていた。宗悟が花壇の縁に足を置き、地面に手をついて胸を落とす。
「…九十八」
そして、腕を伸ばし、体を持ち上げる。腕と肩と胸を重たい痛みが襲う。
「はぁ」
息を吐く。そして、再び腕を曲げて胸を落とす。
「…ちくしょう」
そう声が漏れる。「なんで勝てないんだ」と頭の中で続ける。
「…ぐっ」
乳酸のたまった腕で、何とか上体を持ち上げる。
「九十九!」
やっとの事で持ち上げ、そう声を出す。あと一回でゴールの百回だが、胸を落とすのは相当勇気が必要だった。
「お前、こんなところで何やってんの?」
そのとき、頭の上から言葉を落とされた。「え?」と声だけ返すと、「いいよ、あと一回やっちゃいな」と言われた。慌てて胸を落とす。そして百回目の腕立て伏せを終え、体を起こす。目の前にいたのは空手部の部長だった。
「あ、部長」
すぐに立ち上がり、姿勢を正した。「お疲れ様です!」と頭を下げる。
「こんなとこで筋トレしてんの?」部長が笑う。
「はい、もう部室も体育館も使えないので」と息を切らして答えた。
「そっか。よくやるな、お前」
「ありがとうございます」宗悟が頭を下げる。
「ま、体壊さない程度にしろよ」
そう言って、部長はその場をあとにした。
「はい」
部長の背中に返事をして、その背中を見送り、次はその場に寝転んだ。そして、花壇の縁に足をかけ、腹筋運動を始めた。
「…1」

 「…はぁ」
理が、ビルの窓を拭く手を止め、壁に寄りかかった。日々の蓄積した疲労と、放課後に襲われた時のダメージが小さな体に重たくのしかかっていた。
「お前、さぼってんじゃねぇよ」
社員の男に見つかり、腰を蹴られた。イラッとするが、さっきのように殴り返すわけにもいかない。
「…すいません」
頭を下げる。その下げた頭をはたかれた。
「ちゃんとやれよ、金もらってんだろ」
「…はい」
理が作業を再開する。
「…いでで」
窓を拭こうと腕を伸ばすと、脇腹に痛みが走った。片手でそこを抑えながら窓を拭く。

ガラガラッ。

ガラスの外側を拭くために、窓を開けた。

「…さむっ」

夜の風が理の体に吹き付ける。昼間に比べ、夜の空気は急に冷え込んでいた。


 「さっむ」
朝。学校へ向かう理の手にはあったかいカフェラテの缶が握られていた。昨日の夜から流れこんだ寒気が居座り、寒い朝となっていた。
「ん?」
横断歩道の信号待ち。向かいの道を、白い息を吐きながら走って横切るジャージ姿の宗悟を見つけた。
「この、クソ寒いのに」
そう呟いて、横断歩道を渡った。

 「…あれ、美緒さん?」
学校の正門をくぐると、レンガ造りの花壇に腰かける美緒を見つけた。「あぁ、理君」と美緒が手を振る。
「なにしてんの?」
「ジン君がそろそろ来るみたいだから、待ってようかなって」
「この、クソ寒いのに?」
「うん」
「教室で待ってればいいじゃない」
「そうなんだけど…」
「ん?」
「教室だと、みんなもいるから。ここで会えば、ほんの少しだけど二人でしゃべれるから」
美緒が少し恥ずかしそうにした。
「…いいよね、そういう時間は」
「えっ?」美緒が驚いた。少し、意外な一言だった。
「美緒さん」
理が改めて名前を呼ぶ。「投げるよ」と声をかけ、カフェラテの缶を下から優しく投げた。美緒が「おっと」と両手でキャッチする。
「いいの?」
「手に持っとくとあったかいよ」
「ありがとう」
理は手を振ってその場を離れた。「あいつも幸せ者だなぁ」と笑った。
 校舎の玄関で上履きに履き替え、教室に向かう。なんとなく、スマホを開く。時刻は八時半を回ったところだった。
「放課後まで遠いな」
そんな風に思っていた。

 昼休み。さっさと昼飯を食べ、夜のバイトに備えて昼寝をしていた理の肩をジンが叩いた。目を覚ました理が「なんだよ?」と寝ぼけ眼でよだれをぬぐう。
「これ、美緒から」
「ん?」と受け取る。
「お、『まっしろ』だ」
「朝のお礼だって」
「そんな、気にしなくていいのに」
そう言いつつ、ストローを差して一口吸い込む。「まっしろ」の甘味が口の中に満ちる。「うまい」とつぶやいた。
「ありがとうって伝えておいて」
「うん」
理が時計を見る。昼休みは五分程のこっていた。「便所行っとくか」と立ち上がり、「あ、俺も」とジンも教室を出た。二人で並んでトイレに向かう。ジンよりも二十センチ程身長の低い理が遅れをとる。
「…ジン」
「ん?」
「お前、もうちょいゆっくり歩け」
「…なんで?」
「狭い日本でそんなに急ぐことねぇだろ」
「なんだよ、それ」とジンが笑った。

 放課後。理が音楽室に向かうために階段を上っていた。今日は、朝からずっと放課後が待ち遠しかった。
 音楽室の扉の前に立つ。中から松下のピアノの音色が漏れ聞こえてくる。はやる気持ちをおさえ、理が音楽室の扉を音が出ないようにやさしく開けた。松下がピアノを奏でている、いつもどおりの景色が広がっていた。
『ほんの少しだけど、二人でしゃべれるから』
理には、美緒の気持ちがよくわかる。ほんの少しの、たった数分のこの時間が貴重だった。
 松下の演奏が終わる。
「ふふ」
満足のいく出来だったのか、松下が小さく微笑んだ。その笑顔に、理の頬が緩む。
「…ん?」
松下が理に気づいた。
「…あ、美化委員だね?」
理に気づいた松下が、いつもどおりに声をかける。理は緩んだ頬を慌てて直して、いつもどおり「はい、掃除に来ました」と落ち着いて答えた。
 松下が、いつもどおり「そう、よろしくね」と立ち上がって荷物をまとめた。そして、いつもどおり理が「はい」と答えて掃除にとりかかろうとした。

「今日は、寒いね」
「ふぁい!?」

いつもどおりじゃない言葉が返ってきて、理は変な声を出してしまった。
「寒くない?昨日に比べて急に冷え込んだ気がするよ」
「あぁ、はい!そうですね!」
想定していない会話に理の頭がパニックになり、声のボリュームの調節がバカになる。
「でも君は体が頑丈そうだもんね。そんなに寒くないかな」
松下が微笑んだ。その笑顔に、ドキッとする。
「いや、でも!さむさむです!」
松下は、「だよねぇ」とまた微笑んだ。
「こんな日はあったかいカフェラテが飲みたいです!」
ようやく、少し気の利いた返事ができた気がした。
「いいねぇ。私は紅茶が飲みたいな」
全然気が利いていなかった。そのことに、また理の頭がパニックになる。
「いいですね!紅茶!」
理がバカのボリュームで返すと、松下も微笑みを返した。
「じゃ、掃除よろしくね」と、松下が音楽準備室に入った。理が「はい!」とその背中を見送る。「ばたん」と音を立てて扉が閉まった。
「はーーーーーーー!」
叫びながらその場にしゃがみこんだ。左胸に手を当てる。心臓が「ドキドキ」を超えて「バクバク」と波打っていた。今まで理は、松下とは一言だけのあいさつや、教師と生徒なら誰でもするような簡単なやりとりしかしたことがなかった。その日の気温や、何が飲みたいかというような、知人同士がするような普通の会話は初めてだった。
「…『さむさむです』ってなんだよ」
自分がした返事の意味の分からなさに急激に恥ずかしさがこみ上げ、その場にのたうち回りたくなる。

…ぱんっ!

自分の顔を両手ではたき、恥ずかしさを吹き飛ばした。
「…よし、掃除しよう」
冷静さをなんとか取り戻すと、理は掃除にとりかかった。

 ジンと美緒はハンバーガーショップで軽食をとったあと、二人で勉強会を開いていた。勉強会と言いつつ、ほとんどジンが美緒のわからない問題を教える時間になっていた。
「すごいね」
美緒が言う。
「ん?」
「ほんとに、なんでもわかるんだね」
「まぁね」
ジンが嬉しそうに笑った。

 勉強会のあと、二人で帰り道を歩いていた。ジンが手を繋ぐ美緒を見る。美緒は自分より後ろにいて、腕が伸びてしまっている。ジンが歩くスピードを落とし、並んで歩いた。
「…ありがとう」
ジンが歩くスピードの差をわかってくれたことが嬉しかった。
「狭い日本でそんなに急ぐことないからね」ジンが高いところで笑う。
「なに、それ」美緒も笑った。
 部活終わり。他の部員たちが帰った部室。宗悟は一人で道着からジャージに着替えていた。
「宗悟」
そこに、道着を着た空手部の部長が現れた。
「あ、部長」宗悟が頭を下げる。
「お前、今日も自主トレすんの?」
「はい。そのつもりです」
「…じゃあ、着替えなくていい」
「え?」
「俺が稽古つけてやる」
部長が、室内に散らばる椅子や机を端にどかし始めた。
「え、いいんですか?」
「ほら、お前も手伝え」
「…はい!」と宗悟も慌てて机を運ぶ。
「でも、いいんですか?」
「先生には許可とっといたから。部室なら下校時刻までは使っていいってさ」
「それもそうなんですけど、部長、受験とか…」
「バカヤロー」と部長が宗悟の頭をはたく。
「お前に心配されるほどバカじゃねーんだよ」
そう言って笑った。
「…はい!」と大きく返事をする。
「よろしくお願いします!」
そして、深く頭を下げた。

 部長と宗悟が居残り稽古を終え、汗だくで椅子にへたりこんでいた。
「ここまでとは思わなかった…」
「はい?」
「お前、根性あるなぁ」
部長がこぼす。組み手の稽古。宗悟は、何度倒されてもすぐに立ち上がり、「お願いします!」と続けることを希望した。稽古が終わる頃には、その宗悟の根性に部長の方が圧倒されていた。
「そんな」
部長に褒められ、宗悟が照れる。
「部長だって、必死に努力されたから部長になられたんでしょう」
「俺の努力なんか、お前に比べたら大したことないよ」
「…ありがとうございます」
理が頭を下げた。
「お前の努力する姿には、刺激されるな」
「え?」
「俺も、もっと頑張るか…」
尊敬する部長からそんな言葉が聞けた事が宗悟は嬉しかった。
「よし、帰るぞ。机もどそう」
「はい」
二人がようやく重い腰を上げた。

 「疲れた…」
バイト終わり。理が電車を降りて改札までの長い直線を歩く。その日、理の体は限界だった。
 エレベーターのない五階建てのビルの清掃。階段を何度も往復し、足は棒のようになっていた。何度も水に濡れた手はあかぎれがいくつもあり、ヒリヒリと痛んだ。重い道具を運んだ腕は疲れ果て、肩より上に上がらなかった。疲れに比例して、この直線の長さが変わる。その日の直線は、永遠とも感じられるぐらい長かった。
「出れた…」
やっとのことで改札を抜ける。「はぁ」と息を吐くと、理の口から白い魂が抜け出た。
「…さむっ」
夜の空気の冷たさに、思わずそうつぶいた。
「…あったかいの飲もう」
気を取り直して、自販機に近寄る。小銭を突っ込み、甘いカフェラテを探す。
「…あ」
理の目に、赤いパッケージのストレートティーが映った。

「私は紅茶が飲みたいな」

松下の言葉を思い出し、紅茶のボタンを押した。降りてきた紅茶を取り出し、ペットボトルの蓋を捻って開ける。一口飲むと、そのあたたかさが体に染みわたった。
「…あまくねぇや」
そう言って笑う。理は、あのとき自分は何故カフェラテと言ってしまったのかと後悔した。確かに、松下は紅茶の方が似合う。そこに気づけなかった自分を悔やんだ。せめて、「なにかあったかいもの」と言えば良かった。なぜカフェラテと限定してしまったのだろう。
もう一口飲む。甘くはないが、とても美味しく感じた。

「今日は、寒いね」

松下の言葉を思い出す。
「…さむさむです」
そう呟いて、また紅茶をすすった。


 「…お、宗悟」 
朝。ジンが学校に向かうと、正門の前でランニングをする宗悟とすれちがった。「おう」と手を上げ、二人が立ち止まる。宗悟は深く呼吸をして息を整えた。
「なんだ宗悟、気合入ってるな」
「おう」と返事をして、宗悟が言った。
「次、試合出れることになったんだ」
「そうなのか!すごいじゃん!」
ジンがそう言って褒める。しかし宗悟は「うん…」と元気のない返事を返した。その様子を、「どうかしたのか?」とジンが気にした。
「前に、柔道で理が荒木の腕ケガさせたろ?」
「…あらき?」
「空手部の」
「…あぁ、あいつか。思い出した」
「それで、あいつが試合出れなくなって…」
「ん?」とジンが聞いたが、すぐに「あぁ」と納得した。
「それで、お前が繰り上がったってことか」
「…そういうことなんだ」
悔しそうな顔をした宗悟に、「そっか」とジンが笑いかける。
「まぁ、自分の力で勝ち取れなかったのは悔しいかもしれないけど、でも、それはお前の普段の努力があってこそだろ。そこは誇っていいと思うぞ」
「…いいのかな」
「当たり前だろ。お前がよく頑張ってる証拠じゃねぇか」
それでも顔に明るさの戻らない宗悟の肩にジンが手を置いた。
「自信持てよ」
そう言われ、宗悟はやっと「…だな」小さく笑って頷いた。
「おう、頑張れよ」
「ありがとよ」と、宗悟もジンの肩に手を置いた。
「もう一周したら、教室行くわ」と宗悟が走り出した。
「じゃあ、あとでな」
ジンが宗悟の背中を見送り、正門を抜けた。

 「ジン君!」
声のした方を見ると、レンガ造りの花壇に美緒が腰かけていた。「おぉ、美緒」とジンの顔が笑顔になる。
「待っててくれたの?」
「うん、一緒にいこ」
二人で校舎までの道を歩き出した。
「今の、宗悟君?」
「うん。試合出れるんだって」
「へぇ~。すごいね」
「な。頑張ってるな」
二人が花壇の花に見送られて、校舎に向かった。

 放課後。理が音楽室の前で足を止めた。中からは何の音も聞こえてこない。壁に寄りかかり、耳を澄ます。少しの間待っていると、松下の奏でるピアノの音が漏れ聞こえてきた。少しの間をおいてから音楽室の扉を開けて中に入る。松下が部屋の中心のピアノに座り、曲を奏でていた。理はいつものように、その曲が終わるまで聴いていた。
「…ん~?」
曲を弾き終えた松下は、その出来に納得がいかなかったのか、首をひねって楽譜を睨んだ。その顔が可愛らしく見えていた。
「…ん?」
松下が理に気づいた。理が小さく頭を下げると「あ、掃除だね?」と小さく微笑んだ。
「ちょっと待ってね」と松下が荷物をまとめ始める。その間に、理は掃除の準備にとりかかる。

「あ、理君」
「うわぁ!」

突然、名前を呼ばれて、バカのボリュームで驚いた理に「そんなに驚く?」と笑う。
「いや、俺の、名前…!」
「そりゃあ知ってるよ。先生だから」
「でも、授業とか、教わってないですし…」
「授業なんて教えてなくても、名前ぐらいわかるよ」
「そう、ですか…」
松下が「ふふふ」と笑う。その声に理の顔が熱くなる。
「君は、いつも来るのが早いね」
「あ、ごめんなさい!ご迷惑ですか?」
「いや、ちがくて。他の子はもっと遅くに来るからさ。いつもピアノ弾いてる間待たせちゃってごめんね」
「いえ、いつも、見とれちゃうんです」
理は、「待つことは全然苦じゃない」という事を伝えようとして、つい、そう言ってしまった。松下は「せっかくなら、聞き惚れて欲しいんだけど」と微笑んだ。
「いや!もちろん、いつも、素敵な演奏だなと思って…」
「そう?ありがとう」
「いえ…」と、理は目をキョロキョロと動かした。恥ずかしくて、松下の目が見れなかった。顔がカーッと熱くなり、真っ赤になっているだろう事が自分でも分かった。
「ふふふ」
松下の笑い声が聞こえ、理がそっちを見た。
「私は早めに来てくれる方がありがたいからいつでも来てね。待ってもらっちゃうかもしれないけど」
「ありがとうございます!」と、つい、声のボリュームがバカになる。それに松下がまた「ふふふ」と笑った。
「じゃ、掃除よろしくね」
松下が音楽準備室に入った。ばたん、と扉が閉まる。
「はーーーーーー!!」
理がまたその場にしゃがみこむ。冷静さを取り戻そうと自分の顔を叩いたが、何度叩いても、気持ちが落ち着かなかった。

 「晴香」
校舎の玄関の下駄箱の前。部活に行く前の宗悟が、女の子に声をかけた。
「なに?」
晴香が返事をして宗悟を見る。元々、キツめな美人という顔立ちのせいか、その視線は冷たく感じる。
「今度さ、試合見に来てくれないかな?」
晴香は言葉を返さないまま、靴を取り出し、履き替えた。
「今度の試合、出るんだ。だから、見に来て欲しいんだ」
晴香が足の爪先を「とんとん」と鳴らした。
「…あのさぁ」
晴香が宗悟の目を見る。やはり、その視線は冷たく感じる。
「それは荒木君がケガしたから、繰り上がったんでしょ?」
「え?」
「荒木君と同じクラスだから。知らないわけないでしょ?」
宗悟は何も言えなくなってしまった。
「自分の力で勝ち取ってもないのに誘わないでよね」
「あんた、いつまで甘えてんの?」と晴香は立ち去った。
宗悟は、その場に立ち尽くした。自分の力で勝ち取れなかったことと、繰り上がりになった事を隠して誘った事が恥に感じられ、自分が情けなくなった。しかし。
「甘えてる…?」
晴香の言ったその言葉の意味は、わからなかった。



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