「さいしょはグー。」第2話。

 「…ん?」
放課後の教室で宗悟が教科書を拾う。「何?」と理が気にする。
「教科書落ちてた」
「誰のだ?」
二人が教科書を眺める。名前が書かれておらず、誰のものかわからなかった。パラパラとめくり中身を見るが、書き込みもなく、筆跡から持ち主を割り出すことも出来なかった。
「…これ、新品じゃねぇ?」
理がそう言う。確かに、本を開いた形跡もあまりなく、新品と言われても疑わない程きれいだった。
「でも、なんで新品の教科書なんか落ちてんだ?」
宗悟が言い、「さぁ?」と二人で首をひねった。その二人の元に、ジン現れる。
「あ、それ俺の」
「なにぃ!」と宗悟が驚く。
「お前、せめて名前は書け」と理に言われ、二人で笑った。
宗悟は思わず、手に持っていた自分の教科書と見比べた。宗悟の教科書には、カラフルな書き込みがいくつもあり、たくさんの付箋が貼られている。
「お前、頑張ってんだなぁ」
ジンが宗悟の教科書を覗き込んでそう褒めた。
「うるせぇ」と宗悟が返す。
「ジン、なんであんな点とれるんだよ」
「…まぁ、授業聞いてりゃわかるだろ」
「ぎゃっはっは!」理が笑う。
「本物の天才なのかよ…」宗悟が言葉を失った。
「宗悟だって本物の努力家だろ。すごいよ」ジンが感心する様子を見せた。
「お前が言うとイヤミにしかならねーけどな」と理が笑う。
「でも、おもしれぇな。『天才』と『努力家』か」と理。
「何も面白くねぇよ」と宗悟。
「理はなんだろうな?」とジンが宗悟に振る。
「俺はいいよ」と理は嫌な顔をした。
「まぁ、『苦労人』じゃねぇ?」と宗悟が言う。
「ほらな、ロクなの出てこねぇ」理が言い返した。そのやり取りに、三人が笑う。
「わかった、『貧乏人』だ」
「ほらな、ロクなの出てこねぇ!」
ほぼ同じやり取りを繰り返し、また三人が笑う。理が笑いながら「何が『わかった』なんだよ!」と追撃すると、さらに大きく笑った。
「努力なんて無駄な事してるクセによ」
「無駄ではねぇよ」
「いや、無駄だね。『努力は必ず報われる』なんて言うけど、そんなわけねーじゃん?自分の思った結果が出なかったら無駄だろ」
「理、それはちがう。努力は必ず報われる」
「あー?」
「例えばお前が、テストで百点をとりたいとするよな?」
「いらねーよ」
「まぁ、聞こうぜ」とジンが口を挟んだ。宗悟が話を続ける。
「お前が頑張って勉強して、テストを受けて、結果、六十点だったとする」
「報われてねーじゃねーか!」
「ちがう。その場合、お前の努力は『六十点』という結果に報われるだけの努力だったってことだ。お前の努力が報われてないって事じゃないんだ」
「ほぉ、なるほど。でも、それでどうするんだよ?目指してるのは百点だろ?」
「そしたら、また努力する。すでに六十点とる力はついてるんだから、あとは四十点分だ、六十点とる力に比べたら、楽なもんだろう」
「ほぉ」と感心したのはジンだった。
「そうやって、努力を重ねていけば、いつかは自分が求めてた結果にたどり着くよ」
「なるほどなぁ。普通言われる『努力は報われる』とは逆説的な考え方だけど、面白いな」ジンは感心しっぱなしだった。
「だろ?」と宗悟が誇らし気に笑う。
「ま、お前はその結果が出てないんだけどな」理が嫌味を込めて言う。だが、宗悟は気にしていないようだった。
「まだ途中なだけだよ。諦めずに努力していけば、必ずたどりつけるさ」
「大丈夫。努力は裏切らない」と宗悟が力強く頷いた。
「『努力は裏切らない』ねぇ…」宗悟のセリフを繰り返した理に「なんか文句あんのかよ?」と返す。
「文句なんかねぇよ」
理が軽くあしらい、そして、荷物を抱えた。
「じゃ、俺は『苦労』と戦ってくるぜ」
そう言って、教室の出口に向かった。「またな」と二人が手を挙げる。それに手を挙げて答え、教室を出て行った。

 「宗悟、よく怒らなかったな」
「何に?」
「理のああいう態度にさ」
「ん?んー…」と宗悟が首をひねって答えた。
「まぁ、ムカつくはムカつくけど、でも、理の事は尊敬もしてるんだよ」
「尊敬?」
「うん。あいつもあいつでスゲー頑張ってるじゃん?それこそ、苦労人だから」
「まぁ、そうだな」
「うん。だから、頑張ってる同士の仲間意識みたいなものがあるのかな」
「…なるほどね」
「頑張る必要のないジンにはわからないかもしれないけど」
「そんなことないよ、俺はあいつもお前も尊敬してるさ」
「…そっか」
「…で、あれからどうなんだよ?」
「ん?」
「努力の方は」とジンが空手の構えをとる。宗悟は「あぁ」と頷いた後、少し黙ってから、「晴香をさ、」と話し出した。
「うん」
「試合に誘ったんだけど、『自分の力で勝ち取ってもいないのに誘うな』って言われちゃってさ」
宗悟が暗い顔をする。「そっか」とジンが小さく微笑んだ。
「…うん」
「だったら、勝とうぜ」と今度はニヤリと笑う。
「え?」
「試合で勝って、それを晴香ちゃんに報告しようぜ」
「そしたらきっと褒めてくれるさ」と、ジンが宗悟の肩に手を置いた。
「な?」
ジンが宗悟の目をまっすぐに見る。
「…そうだな」宗悟も頷いた。
「頑張るしかねぇか」
宗悟が覚悟を決めた顔で笑った。
「その意気だよ、努力家」
その言葉に「よしっ!」と、気合を入れる。そして、急に服を脱ぎだした。
「おいおい、なにやってんだ、お前」ジンが慌てる。
「いや、もう、帰り道走って帰ろうと思って。だから、ジャージに着替える」
「言ってから脱げよ!ビックリすんだろ!」
「わるいわるい」
「ったくよぉ」と笑いつつ、ポケットで震えたスマホを確認した。美緒からの「お待たせ」のメッセージが入っていた。
「…ま、がんばれよ」
そう言って、ジンは荷物を持ち教室を出た。「おう」と半裸の状態で宗悟が返事をする。

 ジンが廊下を独りで歩く。二人の頑張る男を思い「すごいなぁ」とつぶやいた。

 土曜日。ジンと美緒が地元の駅から四つ先の大きな駅に隣接した複合商業施設に来ていた。映画館やショッピングモールがあり、土曜日のその日はデートをする恋人たちや、近所の中高生、家族連れなどで混雑していた。
「あれ?ジン?」
誰かがジンを呼んだ。ジンと美緒がそっちを見る。そこには学校の制服を着た宗悟がいた。ジンが「おぉ、宗悟」と手を振る。
「デートか?いいなぁ、お前」と宗悟が笑う。
「…あぁ、今日、試合か」
その駅から少し歩くと市民体育館がある。そこで空手の試合だろうと理解した。
「がんばってこいよ」
ジンが応援すると、宗悟は「…おう」と少し遠慮した返事を返した。その様子が気になったジンが宗悟の隣の男が腕に包帯を巻いているのに気づいた。
「えっと…」とジンがその男の顔を指さす。「荒木だよ」と宗悟が言うと、「あぁ、そうだ。荒木だ」と笑った。
「それが原因のケガか」
ジンがあっけらかんとそう言った。宗悟が声には出さず「おい!」と口を動かした。ジンは「でも、負けたんだからしょうがねぇよ」と追撃した。荒木が「あんなの柔道じゃねぇだろ」と反抗する。
「格闘家が暴力に負けたらどうしようもないんだけどな」
「なんだと…!」と怒りをあらわにした荒木を宗悟が「やめとけ」と止めた。
「いいじゃないか、ケガしたら試合から逃げれるんだろ?」
「誰が逃げてるだと?」
「お前、仲間に理を襲わせたらしいじゃねぇか」
「あぁ?」と荒木がすごむ。宗悟が驚いて荒木を見た。
「理はお前らにケガを負わされても、今日も戦ってるぞ」
「お前の完敗だな」とジンが荒木を挑発するように言った。
「てめぇ…!」と荒木が拳を握ってジンに向かって一歩前に出た。ジンがすばやく美緒の前に出る。
「やめろ!」
宗悟が荒木を抑える。
「理を襲ったんなら、お前も悪い!」
「お前だって、俺がダメになったから繰り上がっただけだろうが」
荒木がそう言う。宗悟が言い返す前に、ジンが口を挟んだ。
「宗悟は宗悟でしっかり頑張ったんだよ。頑張ってなきゃ、チャンスだってつかめないんだから」
「なぁ?」と宗悟を見た。宗悟は、「あぁ」と力なく答えた。その二人のやりとりに荒木は「ちっ…」と舌打ちを打ち、大人しくした。
「デート中にごめんな、じゃあ、俺らは行くから」
「おう、宗悟は頑張れよ」とジンが手を振った。宗悟も「ありがとう」と手を振り返した。

 その後、ジンと美緒はドーナツカフェに入った。ジンが「買ってくるから、席で待ってて」と空いてる席を指差す。
「ジンくんは何たべるの?」
「ん?」
「私もおんなじのがいい」
「わかった」と言うジンの頬は緩んでいた。
ジンが頼んだのは、甘さ控えめなプレーンタイプの素朴なドーナツだった。それを美緒が一口食べる。
「おいしい」
口をもぐもぐさせる美緒をジンが見つめる。
「…さっきは、ごめんね」
ジンが美緒に謝った。突然の謝罪に、「ん?」と、美緒がドーナツを頬張った顔でジンを見る。
「怖い思いさせて」
ジンがそう続けた。美緒は「ふふん!」と首を横に振り、ドーナツを飲み込んでから、「大丈夫だよ」と笑った。
「…でも、珍しいね」
「ん?」
「なんか、ジン君があんな風に人が怒るような事を言うのが、意外だったから」
「…嫌いになった?」
「ううん!そういうことじゃなくて!」
そう言って、両手を胸の前でパタパタと振った。ジンが「よかった」と微笑む。
「なんかちょっと、あいつらの弱さに腹が立ってさ」
「…理君は、そんなに強いの?」
「うん、あいつは強いなぁ」
「空手部の人たちは、弱い?」
その質問に、「う~ん、なんて言ったらいいかなぁ?」と少し迷った。そして、ジンは美緒に「さいしょはグー」とグーを出した。美緒も、戸惑いながら小さな手でグーを出す。
「じゃん、けん、ぽん」
美緒がパーを出し、ジンはグーを出した。「負けちゃった」と笑い、おまけでもらったクッキーを美緒の皿に置いた。
「格闘技をやってる人っていうのは、いわば、グーもチョキもパーも出せて、相手が何を出すかによって、自分の手を変える技術があるんだよ」
ジンが自分の手でグー、チョキ、パーの順に作った。
「ふんふん」
「でも、理は、グーしか持ってない」
ジンが拳を握った。美緒も、「ぱんち?」とグーを前に出す。それが可愛くて、ジンは「そう、パンチだね」と微笑んだ。
「あいつらは、パーを出せて、しかも理がグーしか持ってない事も知ってる。なのに、あいつらのパーは、理のグーに負けたんだ」
ジンが両手で作ったパーとグーをぶつけ、パーをテーブルに落とした。美緒が、「それは…、ちょっと、弱っちいね」と倒れたパーを見ながら言った。
「そう、弱いの。だから、なんか、腹立っちゃって」
「そっか」
「それに、理の出てる試合っていうのは、ケガをしたって出なきゃいけない試合だからね」
「…そっか、そうだね」
「楽しい日になるはずだったのに、つまんなくしちゃって、ごめんね」
「ううん!全然そんな事ないよ!今の話も面白かったし!」
「そう?」
「それにね、嬉しかったんだ」
「え?」
「私を、守ろうとしてくれたでしょ?」
「そんなの、当たり前だよ」
「今日、すごく楽しいよ」
「俺も」とジンが微笑んだ。
二人で同じものを食べ、「おいしい」と言い合う時間はとても幸せだった。

 「先鋒、加賀」
顧問の先生が名前を呼ぶ。「はい!」と宗悟が気合の入った返事を返した。そのあと次鋒、中堅、大将の名前が呼ばれていく。その間、宗悟は観客席を見上げていた。「もしかしたら」と思い、晴香を探すが、その姿はなかった。
「ま、そりゃそうか」
少しの寂しさが浮かぶ。しかし、すぐに気持ちを切り替えた。
「やっぱり、勝つしかねぇな」
そう、決意を固めた。

 「やめっ!」

審判が試合を止める。団体戦。一年で先鋒の宗悟はチームに黒星を付けた。
「…すいません」
宗悟が先輩たちに謝る。
「大丈夫だ、お前はよく頑張った」
気落ちする宗悟に、先輩たちはそう声をかけてくれた。
「あとは、俺たち先輩に任せろ」
「…よろしくお願いします」
宗悟がまた頭を下げた。観客席を見上げる。何度見ても、晴香の姿はない。「ふぅ」と小さい息を吐いた。

バチンッ!

宗悟が自分の顔を強くはたいた。隣に座っていた先輩がその様子に驚く。
「…安心してんじゃねぇよ」
そう呟いて、宗悟が唇を噛んだ。

 バイトの終わった理が夜の帰り道を歩き、アパートにたどり着いた。体は疲れ、傷ついた手がヒリヒリと痛んでいる。一刻も早く休みたいと思いながら、アパートの階段を上る。
「はぁ」
家の扉の前で、リュックからカギを取り出した。「ようやく休める」そう思いながら、カギを鍵穴に向ける。

ガチャン!

家の中から、大きな物音がする。続いて、父親と母親が怒鳴り合う声も聞こえてきた。理の手が止まり、ため息が漏れた。
「またやってんのか…」
理はカギをリュックに乱暴に放り込むと、アパートの階段を降りた。建物から離れ、ふらふらと歩く。夜道に光る自販機を見つけた。小銭を突っ込み、飲み物を選ぶ。
「よかったぁ」
赤いパッケージのストレートティーを見つけて安心し、それを買って自販機によりかかった。紅茶を一口飲むと、苛立った気持ちが少し和らいだ。
「ふぅ」
額のキズをふさいでいた絆創膏をはがす。血は止まっていた。絆創膏を丸め、投げ捨てる。もうひと口、紅茶を飲んだ。
「明日は日曜日かぁ…」
月曜まであと一日あるのか、と思っていた。


 「宗悟、おはよう」
「おぉ、ジン」
月曜日の朝。ジンがすでに教室にいた宗悟の元に近寄る。
「…どうだった?」
「…団体戦は、勝った」
「おー、やったじゃん!」
ジンはそう喜んだのだが、宗悟は浮かない顔だった。
「…どうした?」
「…俺は負けちゃったんだ。うちで負けたの、俺だけでさ」
力なくそう答えた宗悟に、ジンが「そっか」と笑いかけた。
「おはよう」
そこで、理が教室に入ってきた。宗悟とジンが、それぞれ「おう」「おはよう」と手を挙げてあいさつする。理は、自分の席に荷物を置き、支度を整えた。
「…で、晴香ちゃんは?」ジンがそう聞く。
「…そっちも、負け」
「…そっか」
「うん」
寂しそうな顔で頷いた宗悟が、自分の席にいる理を「理」と呼んだ。
「ん?」
「すまなかった」
そう言って、頭を下げる。ジンがその様子を見ていた。
「何が?」
「荒木の仲間がお前のこと襲ったらしいな。知らなかったんだ。本当にすまなかった」
「別にお前が謝ることじゃねぇだろう」
「けど、一応、同じ空手部だからな」
「気にすんなよ、大したことじゃねぇ」
「そうか」と宗悟は少し安心した顔を浮かべる。
「空手家ごときが俺に勝てるわけねぇだろ」
理のその言葉に、宗悟の顔が変わる。
「たしかに、襲ったのは悪かったけどよ」
その声の空気から、宗悟の苛立ちが伝わってくる。
「空手家ごときって言うなよ」
そう反抗する宗悟に、理も少し苛立った様子を見せる。
「実際、負けてんじゃねーか。しかも、三人でよ」
「うちの空手部はそんなに弱くねーんだよ。こないだの団体戦だって勝ってんだからよ」
そう言い返した宗悟に、理が「…お前は?」と聞く。
「なに?」
「お前は勝ったのかよ?」
「…俺は、負けたけどよ」
宗悟が悔しさをにじませる。理は、その様子に手応えを感じたように笑う。
「じゃあ、あいつらと一緒だな。結局勝てねーんだよ。試合に出れたのだって、荒木がケガしたからだろ。言っただろ?勝てない努力に意味なんてねーんだよ」
更に悔しさが募るが、勝ててない以上、言い返せなかった。
「お前、晴香さんが来てなくて、どう思った?」
その質問に、「…は?」と返す。
「どういう意味だ?」
「自分の試合を好きな人が見に来なくて、どう思ったよ?」
宗悟が答えに詰まった。宗悟の気持ちを、理が見透かしたように言う。
「お前、ガッカリしたろ?」
「ちがっ…」
「いや、ガッカリしたんだよ、お前は。勝とうが負けようが、自分が頑張ってる所を見てほしかったんだもんな?」
反論の隙を与えずに、理が畳みかける。
「それで、負けて悔しがる姿でも見せて、『よく頑張ったね』なんて言ってもらえるとでも期待してたんだろ、どうせ」
「ちがう!」
宗悟が強めに言う。ジンが少し驚くが、理は冷静に冷たい視線を返した。
「そんな風に甘えてるから勝てねぇんだよ」
そう言い教室を出ようとした。
「どこ行くんだよ?」とジンが聞く。
「便所」
そう言って出て行く理を二人が見送った。
「宗悟、あんま気にすんな。あいつは、ほら、色々あるからさ。虫の居所が悪い時もあるんだよ」
「俺は、お前はよく頑張ったと思うぞ」と、宗悟の肩に手を置いた。
「…なぁ」宗悟がジンを見上げる。
「俺は、甘えてるのか?」
「ん?」
「晴香にも言われたんだよ。『いつまでも甘えてんじゃないよ』って」
「そっか…」
「多分だけどな、」と前置きした。
「お前は、『努力は、失敗しても上手くいかなくても、いずれ成功にたどり着く。いずれ、求めた結果に報われる』って、そう思ってるよな?」
「…うん」
「それは、確かにその通りだ。それに間違いはないよ。けど、その考えを持ってるお前の姿は、『努力した自分を認めてもらえるだろう』っていう気持ちが透けて見えるのかもな」
「俺は、そんなつもりは…」
「うん、そうだと思う。でも、晴香ちゃんや理からは、そういう風に見えるのかもしれないな」
「…そっか」
「俺は、お前はよく頑張ったと思うし、それに、勝てないからって努力が無駄だとも思わないよ」
その言葉に、宗悟は返事をしなかった。よほど悔しいのだろうなとジンは思った。
「だったらよ」
ジンが、宗悟の肩に手を置く。
「だったら、頑張って努力して、誰もが認める結果にたどり着けばいいだけの話だろ?」
「…うん」
「お前に期待してる人もいるんじゃないのか?」
その一言で、部長の姿を思い出す。
「…そうだな」
宗悟が、力強く頷く。
「やっぱり、努力するしかないな」
「だろ?頑張れよ、努力家」
ジンが高いところから笑顔を見せた。
「おう」
宗悟も、笑顔を返した。

 「風口、ちょっと来い」
理のアルバイト。オフィスビルの清掃中。廊下にいる社員の男から手招きをされた。「はい」と返事をして近寄る。
「お前、よく見ろよ」
社員の男が理の掃除した床を指さし、理がそこを見下ろす。
「お前、これでいいと思う?」
そう聞かれ、改めて床を見る。自分が掃除した床は綺麗になっていると見えた。
「はい」
そう返すと頭をはたかれた。イラッとするが、グッと堪える。
「ここ踏んでみろよ」
そう示された箇所の上で足踏みをする。足の裏にペタペタという感触が伝わってきた。ガムテープか何かの剥がし跡が残っていた事がわかる。「…すいません」と頭を下げる。その頭を、もう一度はたかれた。
「こんなんなら、やらねー方がマシなんだよ」
「…すいません。やりなおします」
「バイトだからって、適当にやってんじゃねぇよ」
そう吐き捨てて、社員の男はその場を離れた。
「ちっ」
思わず舌打ちを打つ。
「やりたくてやってんじゃねーんだよ」

 ジンと美緒はショッピングモールに来ていた。前を歩く美緒の後ろをジンがついていく。まるでウサギが飛び跳ねるように小さな体でぴょんぴょんと動き回る美緒の姿を、ジンが見守っていた。
「なに笑ってるの?」
振り返った美緒が言う。「別に」と取り繕った。自分では笑っている事に気づいていなかった。
「ここ、見てもいい?」
「うん、行こう」
二人が雑貨屋に入る。
「こういうの、ジン君好きそうじゃない?」
美緒が一枚のハンカチを手に取った。濃い青の生地に、黄色のラインが入ったお洒落なデザインだった。
「あ、いいね。かっこいい」
ジンが手に取って眺める。美緒が「似合ってるよ」と笑う。
ジンがハンカチを広げて眺める。この子から見た自分のイメージはこんな感じなのかと思い、嬉しくなる。
「これ、買おうかな」と、隣の美緒を見下ろしたつもりが、もうそこに彼女はいなかった。「あれ」と周りを見回す。美緒は少し離れたところで、真剣にアクセサリーを見ていた。ジンは「今のうちに」とハンカチを持って会計に向かった。
 ジンが会計を終え、美緒の元に近寄る。美緒はずっと同じアクセサリーを見ていた。星のモチーフがぶら下がって可愛くゆれるイヤリングだった。
「それ、かわいいね」
ジンが声をかける。「うん、すっごくかわいい」と鏡越しに返事を返した。
 ジンが、チラリと値札を盗み見る。アルバイトもしない高校生に手が出せる値段ではなかった。
「いつか買おう」
そう、決意するように呟いて、イヤリングを売り場に戻した。
「行こっか」
「うん」
二人が店を出た。
 「わぁ。すごい」
ショッピングモールの中心にある大きな広場。その真ん中に大きなクリスマスツリーが登場していた。
「キレイだねー」
美緒がツリーを見上げる。ジンが「美緒」と声をかけ、美緒が振り返る。
「撮ってあげる」
ジンがスマホを構える。美緒がツリーの前に立ち、両手をあげて可愛いポーズをとった。

カシャッ。

ジンのスマホに、笑顔の美緒が保存された。「ほら、かわいい」と美緒に見せる。美緒が「えへへ」と照れた。
「あとでちょうだい」
「うん、送るね」
「あったかい物でも飲もうか」と二人でカフェに向かった。
 次の日の朝。宗悟が教室に行くと、ジンがいるのを見つけた。「おはよう」と声をかけるが、ジンはスマホを見ながらニヤニヤしていて宗悟の存在に気づかなかった。
「ジン、おはよう」
宗悟が目の前に立って言う。突然目の前に現れた宗悟に少し驚きながら「おぉ、宗悟。おはよう」と返した。
「何ニヤニヤしてんだよ?」
「ほれ」
ジンがスマホを見せる。大きなクリスマスツリーの前で笑顔を見せる美緒がいた。
「かわいいだろ?」
「おめー、よくそういう事言えるよな」
呆れる宗悟を気にもとめず、ジンはまただらしない顔でスマホを見つめた。
「おはよう」
理が教室に入ってきた。宗悟が「おう」と手を挙げる。
「んふふ」
理もジンの様子に気づいた。「何?」と宗悟に聞く。
「昨日デートしたんだってよ」
「だらしねぇ顔だなぁ」と理が笑った。

 数学の授業中。説明の途中で中年の男性教師が手を止めた。
「んふふ」
教師の目はジンに向いていた。宗悟が「あーぁ」と心で笑う。
「おい、菜田!」
男性教師が呼ぶ。「ん?はい」とジンが返事をした。
「これ答えてみろ」
教師が黒板の問題を示す。
「『8』です」
ジンが即座に答えた。
「…正解」
男性教師が悔しそうにする。
「すげぇな、あいつ」
宗悟がそうつぶやく。ジンはそのあと、ニヤニヤするのに遠慮がなくなっていた。

 「おめー、授業中ニヤニヤすんなよ!」
休み時間。理が笑いながらジンにクレームをつけた。
「え?」
「お前、ちょいちょい『んふふ』とか漏れてんだよ!」
「誰が?」
「お前だよ!」
「まじ?」と宗悟を見た。
「だだ漏れだったよ」
「まじか」
「無意識だったのか」と宗悟が笑った。
「いや、だってよぉ。見てくれよ」
ジンがスマホを出す。理が覗き込み、宗悟は「始まった」と呆れ、「便所」と教室を出て行った。
「あぁ、かわいいな」
理にそう言われ、ジンの顔のだらしなさが増した顔で「だろぉ?」と理を見た。
「あぁ、かわいいよ」と理は微笑みながら、「そろそろクリスマスなんだな」と思っていた。
「あ、そうだ、理」
「んー?」
「お前、日雇いのバイトとかしたことある?
「夏に土木のやってたけど…。なに、稼ぎたいの?」
「うん。ちょっと、買いたいものがあってさ」
「…あっそう」
そのあと、理は少し考える顔をした。
「お前さえよければ、うちで少し働いてみるか?」
「え?」
「うん、年末前の大掃除で忙しい時期だからさ、今の時期は短期のバイト雇ったりするんだよ。お前がその気なら、上に話してみようか?」
「いいのか?」
「おう、ちょっと聞いてみるよ」
「まじかー、ありがとう!」
ジンが大きな笑顔を見せた。ジンの珍しい様子を、理は面白く見ていた。
 用を終えた宗悟が教室に戻ってきた。ジンが写真を理に見せつけ、理は「もういいよ」と呆れていた。
「まだやってんのか」
そう思い、小さく笑った。
「そっか。そろそろクリスマスか…」
宗悟がつぶやいた。

 「晴香」
校舎の玄関の下駄箱の前。部活前の宗悟が晴香をつかまえた。「なに?」と宗悟は見ずに晴香が答える。
「…クリスマスは、どう過ごすの?」
宗悟にとっては意を決した一言だったが、晴香の目は向かなかった。
「…あんたに関係あんの?」
その一言に心が折れそうになるが、一つ、息を吐いて気持ちを立て直し、もう一度勇気を出して攻撃の手を出す。
「もし、良かったら…」
「あのさぁ」
言葉を遮られてしまった。攻撃の瞬間に生まれた隙をついて喰らうカウンターはダメージが大きい。もう一度気持ちを立て直そうとするが、その時、晴香の眼が宗悟に向いた。呆れたようなその眼に、もう一度心が折れかかる。
「あんた、遊んでる暇なんかあんの?私と同じ大学受けるんでしょ?あんたの場合、今からでも気抜いてちゃ絶対無理でしょ。ジン君ほどの成績があれば話は別だけど」
宗悟は、反撃も防御の体勢もとれなかった。
「試合だって負けたんでしょ?しかもあんただけ。なんでそれで遊ぼうって気になれるの?だからあんたは甘えてるっていうのよ」
宗悟の心は、完全に折れてしまった。
「努力もしないあんたなんて、生きてる価値あんの?」
トドメのその一言で、宗悟は心の中で白旗を上げた。もう立ち上がる力も残っていない。
「…ごめん」
俯いて、そう言うのが精いっぱいだった。
「あのさぁ」
晴香の声が聞こえるが、顔をあげられなかった。
「あんたは努力の他には何もないんだから、せめて努力ぐらいは百パーセント完璧にこなしなさいよ」
「え?」
宗悟の顔が上に向く。しかし晴香はもうすでに背中を見せていた。
「まったく…」
そう呟いて。晴香は校舎を出て行った。

 理は音楽室の掃除をしていた。放課後、すぐに音楽室に来たが松下はいなかった。しかし、その日はバイトが控えていたため松下を待つ時間がなく、松下のピアノを聴かぬまま掃除にとりかかっていた。

ガラガラッ。

扉が開き、松下が入ってきた。理が背筋をピンと伸ばす。
「お、今日は理君か」
理を見つけた松下が言う。松下に名前を呼ばれると胸がドキッとする。
「そっか。よかったぁ」
そう言い、ピアノの上に置きっぱなしになっていた荷物をまとめ始めた。
「…え?」と声が漏れる。「よかった」と言ってくれたのが気になった。
「いや、理君が掃除の時は気持ちよく過ごせるんだよ、いやぁ、良かったー」
「…本当ですか?」
「うん、すっごく掃除上手だね」
「嬉しいです」
「いや、隅々まで手が届いててさ。すごく気持ちいいんだよ。君の掃除はお金取れるよ」
「あぁ、まぁ、金はとってるんですけど」
「ん?」
「バイトで、ビルの清掃やってて」
「そうなんだ、それでこんなに上手なんだね」
「ありがとうございます」
「出来れば、ここの専属になって欲しいぐらいだよ」
「俺もなりたいです」
「え?」と、松下の荷物をまとめる手が止まる。
「あぁ、いえ、何でもないです」と慌ててつくろった。
「…あ」
松下が何か思いついたような顔をした。今度は、理が「え?」と返す。

「こほん」

松下がわざとらしく咳払いをする。その様子がとても可愛かった。
「私は掃除が苦手でさぁ、ちょっと見てよ」
そう言うと、手招きをした。理を音楽室の奥の準備室に繋がる扉まで連れていく。
「ほら」
そう言って、扉を開けた。
「…わぁ」
理が思わず声を漏らす。その部屋には、中心に音楽室のものよりは小さめのピアノがあり、その隣のテーブルには鉢植えの花が美しく咲いていた。その横に衣紋掛けがあって、真っ白な冬物のコートがかけられている。それ以外は、机やイスや書類など学校に普通にあるアイテムばかりなのに、その三つの存在感が部屋の中を学校とは思わせない雰囲気を醸し出していた。
「…素敵な部屋ですね」
理は思わずそう言っていた。松下は「そう?ありがとう」と答えた。
「去年まではねー、ここを掃除してくれる女の子がいたんだけど、卒業しちゃってさ」
「そうなんですか」
「うん。その子が卒業した途端、こんなんなっちゃって」
松下が恥ずかしそうに笑った。確かに、少し散らかっている印象はうけた。しかし、なんでも完璧にこなしそうな松下の弱点に、理は可愛らしさを感じていた。
「…それは、男でもいいんでしょうか?」
「ん?」
「俺でよければ、掃除させてください」
「えー、嬉しいな。じゃあ、よろしく頼むよ」
「はい」と理が時計を見た。バイトまでは時間に余裕がある。
「じゃあ、とりかかりますね」と理が腕まくりをする。
「お願いね。今日で終わらなくてもいいから」
「はい」と理が片付けに取り掛かった。
「ごめんね、職員室で仕事が残ってるから」
松下が扉を開け、部屋を出ようとする。しかし立ち止まり、掃除にとりかかる理に声をかけた。
「…理君」
「はい?」
「君は、優しいね」
突然言われたその一言に理は「そんな事、ないです」と照れ臭そうにした。「じゃ、お願いね」と松下は部屋を出て行った。
「さて、やるかー」
理が腕まくりをして、片づけを始めた。

 「…ふぅ」
掃除が一段落し、一息つく。部屋の時計に目を向けた。
「…えっ、うそ!」
思ったよりも時間が経過していて、いつもバイトに向かうために学校を出る時刻はとっくに過ぎていた。「やばい!」と理が慌ててリュックを手に持つ。
「…あ、どうしよう」
本来ならば職員室にいる松下に報告に行かなければならないが、そうしていると確実に遅刻してしまう。
「しょうがない」
苦肉の策として、理は置手紙を残すことにした。リュックからノートを取り出し、1ページ千切る。そして、バイトがあるため帰る事、掃除の続きはまた次回やることを記した。部屋の中央のピアノの上に置き、リュックを担ぐ。
「ん…」
自分が残した置手紙を見る。なんだか寂しい気がした。理はもう一度ペンをとり、「おつかれさまでした」と書き足した。
「よし」
理が音楽準備室を飛び出した。

 理が学校から駅まで全速力で走り、電車に飛び乗った。スマホで時刻を確認する。順調にいけば遅刻はまぬがれる。
「あっぶねー」
胸をホッとなでおろした。

 「ふぅ」
宗悟が神社の鳥居をくぐる。手を洗って、拝殿に向かう。夕暮れの神社は、神々しく見えた。

「よっ」

宗悟が賽銭箱に五円玉を投げる。五円玉は音を立てて木製の箱の中に吸い込まれていった。

がらん、がらん、がらん。

鈴緒(すずお)を揺らして、鈴を鳴らす。そして、二度、浅めに頭を下げた。

ぱん、ぱん。

二度、手を打つ。自分の両手が鳴らした音の心地よさに、不思議と願い事が叶いそうな気がしてくる。
そして、さっき買ったばかりの二つのお守りを両手で包み込むように手を合わせ、一度、頭を下げる。今度は目を閉じ、深く、ゆっくりと下げる。
その体勢のまま、頭の中で神様に話しかけた。名前と住所、日ごろの感謝。そして、大事な願い事を頭の中で唱えた。

「…どうぞ、お見守り下さい」

最後にそう唱えて、目を開け、頭を上げた。そして、両手を脇に置き、また小さく頭を下げる。

「ふぅ」

お詣りを済ませ、二つのお守りをリュックにしまい、神社の境内を出た。

「よし、あとふたつ」

宗悟が次の神社に向かった。

 次の日の朝。理が学校に着くなり職員室にダッシュした。職員室の扉をノックし、声をかける。
「失礼します!松下先生はおられますか!?」
「なんか用かよ?」
小柄な男性教師が理に近づく。小柄だが、理よりは背が高い。理はその男性教師の肩越しに職員室を見回した。
「いない…」
理がすぐに音楽室に走った。背中から男性教師の「おい!」という声が聞こえたが、足は止めなかった。

 理が音楽室にたどり着く。中からピアノの音は聞こえてこない。走ったせいで荒れている呼吸を落ち着かせ、ドアを「こんこん」とノックする。
「はーい」
松下の声に幸せを感じる。にやけた頬を引き締めて、「失礼します」と言ってからドアを開けた。
「あぁ、理君」
松下が微笑む。その笑顔にドキドキする。ドキドキしたまま、「あの、昨日はすいませんでした!」と頭を下げた。松下が「え?」と首をかしげる。
「お声かけせず帰ってしまい、申し訳ありませんでした!」
もう一度頭を下げた理に「あぁ」と笑いかける。
「そんなの、いいよ。私の方こそ、忙しいのに掃除なんて頼んじゃってごめんね」
「いえ、そんな!また今度、続きさせてください!」
「うん、お願いね」
「…そうだ」と松下が一度音楽準備室に引っ込んだ、そして戻ってくると、「手紙も、ありがとね」と置手紙を理に返した。
「え?」
手紙を見た理に笑顔が浮かぶ。理の書いた「おつかれさまでした」の文字の隣に、赤い桜に囲まれた「たいへんよくできました」のスタンプが押してあった。小学校の時以来のそのスタンプを見て嬉しくなる。
「押してくれたんですか?」
「理君の掃除は、たいへんよくできてるからね」
「ちょっと子供っぽいかな?」と松下が微笑む。理は「いえ、嬉しいです!ありがとうございます!」と頭を下げた。
「良かった。じゃあ、そろそろ教室行きな。授業始まるよ」
「はい、失礼します!」
「あ、ちなみに今日、掃除は?」
「すいません、俺じゃないです」
「そっか、残念。じゃあ次の時を楽しみにしてるよ」
「はい!」
「失礼します!」と出口でもう一度頭を下げ、ドアを開けて外にでた。ドアを閉めるとき、松下は手を振ってくれていた。
理が、自分の手にある手紙を見た。まさか、返事をもらえるなんて。理は松下からもらった返事を丁寧に折りたたんで財布に大事にしまうと、飛び跳ねるように歩き出した。

 「ねぇ!」
理を呼ぶ声が聞こえ、振り返った。少しキツ目だが、キレイな顔立ちの女の子がいた。
「あんた、先生のこと好きなんでしょ?」
「俺、にやついてた?」と恥ずかしそうに頬をつねった。
「ていうか、スキップしてたよ」
更に恥ずかしくなり、意味もなく太ももをつねった。
「無謀な勝負だと思うよ?」
「勝負?」
「先生と付き合えるなんてこと、絶対ないよ」
「そんなこと、わかってるよ」
「…じゃあ、あんたのその気持ちって、なんなの?」
「ん~と…」と理が言葉を選ぶ。
「先生のことを好きでいると、生きていける」
女の子は言葉の意味がわかっていなそうな顔をしていた。
「だから、さっき君は『勝負』って言ってたけど、勝負に出るつもりなんかないよ」
「なんで?」
「そんな勇気ないもの」
「そんなに強いのに?」と女の子が驚く。それに理が驚いた。
「だって、空手部三人倒したんでしょ?」
「なんで知ってるの?」
「荒木君と同じクラスだから」
「…あらき?」
「空手部の」
「…あぁ」と理が思い出す。
「…って事は、あいつよりも強いってことでしょ?」
「…あいつ?」と理が女の子の顔をよく見る。
「…あぁ、君が晴香さんか」
「なんで?」
「ん?」
「なんでちゃんと告白しないの?」
「さっき言ったでしょ。この気持ちがあるから、俺は生きていけるんだよ」
理が小さく微笑む。
「逆に、この気持ちを持てなくなったら、生きていけなくなっちゃうんだよ」
「…そっか」と晴香は言ったが、やはり完全には理解していないようだった。
「好きな人に好きだって言える奴は、それだけですごいよ」
「え?」
その時、チャイムが鳴った。理が「授業遅れちゃうよ」と歩き出す。
「あぁ、うん。ごめん、呼び止めちゃって」と謝って、晴香も歩き出した。

 「しんど…」 
ジンが理のバイトに参加した。一週間の短期の契約で給料は三万円。ジンにとっては十分な額だった。
「君、手際いいな」
社員からそう褒められた。しかしジンは「ありがとうございます…」と力なく答えるのが精いっぱいだった。
ビルの清掃は、重い道具をたくさん運び、モップをかけるときは腰に大きな負担がかかる。高いところの窓拭きは上に伸ばしっぱなしの腕が疲れ、力が入らなくなっていた。

 バイトを終え、理とジンの二人で電車に乗る。席は空いておらず、二人は並んで立っていた。
「お前、なんでもそつなくこなすな」
吊革につかまり、理がジンを見上げる。
「そんなことねぇよ。っていうか、お前すごいな」
ジンも吊革を掴んでいたが、今すぐにでも腕を降ろしたかった。しかし、自分の疲れた足腰が電車の揺れに耐えられるはずもなく、それができなかった。
 隣の男を見下ろす。理はジンよりも大分背が低い。吊革を掴む腕は完全に伸びきっている。しかし、まだ元気の残った顔をしていた。
「理、しんどくない?」
「んー。まだ連勤三日目だからね。それに今日の現場はエレベーターあったし」
「そっか…」
その日、掃除に入ったのは小さな三階建てのビルだった。あの重たい道具を階段で運ぶと考えると、ゾッとした。そして、隣の小さな男を「強いな」と思っていた。ジンは初日にしてすでに心が折れかかっている。一週間というゴールがすごく遠く思えた。この過酷な日々を毎日生きてる人間に、多少の努力を積んだぐらいで勝てるはずもないなと理解していた。
「お前、あれか?クリスマスプレゼント買うのか?」
小さな男が自分を見上げる。
「…うん、実はそうなんだ」
疲労が溜まった脳みそに幸せな言葉が入ってきて、思わず顔がにやけてしまう。
「そっか。喜んでくれるだろうな」
「うん」
また笑って答える。美緒のためなら、一週間ぐらいどうって事はない。折れかけていた心に元気が戻った。
「いいなぁ」
理も笑っていた。その笑顔を見つつ、ジンは考えていた。自分は、頑張った先に美緒の笑顔がある。幸せがある。つまり、自分がしているのは「努力」だ。しかし、理は…。
それに、努力をこなしている宗悟のことも、改めて尊敬する気持ちになっていた。
「お前ら、すごいな」
ジンが言う。理は「なんだよ、急に」とまた笑った。
 電車を降り、二人が改札に向かう。
「…この直線ってこんな長かったっけ?」
ジンが言う。理が「ははは」と笑った。
「なげぇよな。疲れてると」
そしてまた「ははは」と笑った。
 二人で改札を抜ける。「喉かわかねぇ?」と理が自販機を指さすが、「いや、いい。今すぐ布団にぶっ倒れたい」と断った。
「そっか。じゃあ、またな」
「おう」とジンは家へと歩き出し、理は自販機の前に立った。

 理がジンの背中を見送る。「天才」と呼ばれるほど何でもスマートにこなす男の背中が疲れてふらついていた。その珍しい光景が面白く、小さく笑った。
「さてと、」
紅茶を飲もう、と自販機に向き直り財布を開く。思わず、財布の中身を数えた。千円札が二枚と、小銭が数枚。給料日が来たところで、大幅に増えるなんてことはない。
財布の中に大事にしまった、松下からの返事が目に入る。こんな幸せをくれた人に、クリスマスにプレゼントも渡せない自分が情けなくなった。
「…いいなぁ」
理の口から、ぽろりとこぼれた。


 十二月二十四日。二学期の終業式の日であり、クリスマスイブだった。冬休みに入る喜びか、クリスマスイブのその雰囲気からか、生徒たちの間には楽しそうでウキウキとした空気が流れている。
「…お、それがプレゼントか」
ジンが持っている可愛い紙袋に理が気づく。
「ぜったい喜んでくれるよ」
「うん」とジンが笑う。そこに「何?」と宗悟が話に混ざった。
「…あぁ、プレゼントか」
「うん」ともう一度笑うジンは幸せそうだった。
「美緒ちゃんも用意してくれてんだろうな」
「だといいな」
「いいなぁ」と宗悟が羨ましそうに言う。ジンが「お前だってプレゼントすればいいじゃん」と返す。
「いや、プレゼントは用意したけど」
「ん?」
「喜んでもらえるかどうかも分かんないし、向こうが用意してくれるなんて事は絶対ないしな」
宗悟が、少し寂しそうな顔をした。
「渡せるだけいいじゃねぇか」
そうつぶやいた理を、ジンが見ていた。

ガラガラッ。

教室のドアが開き、三人がそっちを見る。そこに美緒がいた。六つの目に見られた美緒が「なに?」と笑う。
「なんかもう、開ける音で『美緒さんだ』ってわかるようになったわ」
理が言うと、宗悟も「俺も」と頷き、二人で笑う。
 ジンが、カバンと可愛い紙袋を持って立ち上がる。
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」
そうして二人が教室を出ようとする。理が「俺も行くわ」と荷物を持った。
「宗悟も部活だろ?」
ジンが聞く。「うん。ただ、もうちょいしてから行く」と答えた。
「そっか」
「うん。佳いお年を」
宗悟がそう言うと、美緒が「あ、そっか」と向き直った。
「今年もお世話になりました。佳いお年を」
そして、可愛く頭を下げた。それに続いて男三人も頭を下げ、四人の挨拶が交差した。
「じゃあな」
三人が教室を出る。

 「理君もデート?」
美緒が聞いた。「ははは」と理が笑う。
「うん」
そう頷く理は嬉しそうだった。
「楽しんできてね」
「美緒さんもね」
階段の前でそう挨拶をする。理とジンは手を挙げるだけの挨拶をして理は上へ、二人は下へと下った。

 「…そろそろかな」
時計を見てそうつぶやくと、宗悟も教室を出た。

 「晴香」
校舎の玄関の下駄箱の前。宗悟が晴香をつかまえる。
「…あんた、声かける時いつもここだね」
晴香が宗悟を見ずに言う。
「ここぐらいしか、二人で話せるタイミングなくて」
晴香は、その言葉には返事をしなかった。
「クリスマスは、家族で過ごすの」
「うん、わかってる。ただ、これだけ渡したくて」
そこで、晴香が宗悟に目を向ける。その眼に冷たさは感じなかった。
「クリスマスプレゼントです。もらってください」
宗悟が少し大き目の封筒を両手で差し出した。晴香が片手で受け取り、中身を取り出す。
「…お守り?」
「うん」
中には、三つのお守りが入っていた。晴香が一つ一つを手に取って見る。それぞれに「湯島天満宮」「亀戸天神社」「谷保天満宮」と書いてあった。
「…あんた、これ集めたの?」
「…うん」
その三つの神社は、全て藤原道真を祀っている学業の神社だった。その三つで、「関東三天神」とも呼ばれる。しかし、その三つの神社の距離は決して近くはなく、揃えるには相当な努力がいる。
「これ、あんたこそ必要なんじゃないの?」
「もちろん、自分のは持ってる」
「ふーん…」
晴香が三つのお守りを見つめた。
「…じゃあ、ありがたくもらっとく」
晴香は、そう言ってカバンにしまった。
「良かったぁ」
宗悟が安心を顔に浮かべる。
「『遊んでんな』って言われたらどうしようと思った」
そう言って笑った。
「言わないよ、そんな事」
そう言う晴香の顔にはうっすらと笑顔が浮かんでる気がした。
「…ありがとう」
その一言で、宗悟は飛び跳ねたくなるほど嬉しくなった。
「こちらこそ、受け取ってくれてありがとう!」
宗悟が頭を下げた。
「…ちょっと待って」
晴香が自分のカバンを開けた。
「何も返さないのも、気が引けるから」
そう言って、一本のペンを差し出した。シャープペンと黒、赤、青の三色のボールペンが一体になった多機能ペンだった。
「…いいの?」
宗悟が震える手で受け取る。
「うん、ピンクで悪いけど」
晴香はそう頷いて、下駄箱から靴を取り出し、上履きから履き替えた。多機能ペンの本体の色は可愛いピンク色だった。
「…がんばんなよ」
そう言って、晴香は校舎を出た。その背中を、宗悟が見送る。

「ぃよっしゃああああああ!!!」

宗悟が我慢しきれず飛び跳ねた。その声が遠くの晴香の耳にも届き、小さく笑った。

 理が音楽室へ歩いていた。連日のバイトで疲れ果てた体だが、音楽室への足取りは軽かった。

とんとん。

その時、肩を叩かれた。「ん?」と振り返る。松下がいた。
「わぁ!」
理が驚く。松下は「ふふふ」と笑った。
「理君はいつも面白い反応をするねぇ」
「いえ、すいません。ビックリしちゃって」
理が恥ずかしくなる。二人で並んで歩く。松下の方が背が高く、小柄な理は追いつくために少し早歩きで歩いていた。
「これから掃除かな?」
「はい」
いつもと違う角度から松下の横顔を見る。距離の近さにドキドキした。
「…あ、今日は準備室の掃除の続きさせて下さい」
「いいの?」
「はい、今日はバイトもないので」
「そう?嬉しいな。じゃあよろしく頼むよ」
「はい」
そこで音楽室にたどり着いた。理が扉を開け、道を譲る。松下が「ありがとね」と先に入った。
「…あ、」理が大事な報告を思い出す。
「ん?」
「先生、俺、音楽室の専属になりました」
「え?」と松下が笑って首を傾げた。
「あ、だめでしたか?」
「いやいや、そうじゃなくて。どうやってさ?」
「どうやって…?いや、こないだ、委員会で話し合いがあって。そこで、言いました」
「反対意見出なかった?」
「出ましたけど、力ずくでというか、押し通しました」
「…押し通した?」と松下が目を見開く。
「はい」と理が頷くと、松下は「…あはは!」と笑った。
「そうかそうか。押し通したか」と言う松下はまだ笑っていた。理も、つられて笑顔になる。
「いや、嬉しいよ、そっか、良かった」
その言葉に理は安心し、同時に嬉しくなった。
「君は、なんというか、パワフルだね」
「パワフル?」
「いや、前に、この部屋の掃除をしてくれてた女の子がいたって言ったよね?その子は優しくて優しくて、とてもそんな、自分の希望を押し通すような子じゃなかったからさ」
「そうか、押し通したか」と頷くと、松下がもう一度「あはは!」と笑った。
「委員会の先生、文句言わなかった?」
「まぁなんか、ごちゃごちゃ言ってましたけど、」
「けど?」
「押し通しました」
松下がまた「あはは!」と大きく笑う。そして、「パワフルだなぁ」と頷いた。
「じゃあ、君は私の専属だね?」
「私の専属」という言葉にドキドキしつつ、「はい、そうです」と頷く。
「じゃあ、私はずーっと快適な部屋で過ごせるんだね」
「精一杯やらせて頂きます」
「うん、頼んだよ」と言い残し、松下が準備室に入った。その背中に「はい」と答えて、理は掃除にとりかかった。

 「ほんとに、綺麗にしてくれるねぇ」
音楽室の掃除を終え、準備室の掃除も終えたところに松下が帰ってきた。
「ありがとうございます」
「今日は、アルバイトはないって言ってたよね?」
「はい」
「じゃあ、もう帰るの?」
「いや、図書室で本でも読もうかと」
「…本好きなの?」
「いや…」と理が言いづらそうにした。「家に帰りたくない」という話をする勇気がなかった。
「でも、時間はあるってことだね?」
「はい」
「あのさ、ちょっと、お茶しない?」
「えっ!」
「だめ?」
「いや、むしろ、いいんでしょうか?」
「うん。プレゼントのお礼させてよ」
「…プレゼント?」
「ここの専属になってくれたでしょう」
「…俺、先生にプレゼント渡せたんでしょうか?」
「すごく嬉しいクリスマスプレゼントだよ」
理の心に、幸せが満ちる。自分は好きな人にクリスマスプレゼントを渡せたんだ。
 「どうぞ」と松下が空いている椅子を示す。理が緊張しつつそこに座る。
「あったかいの、何がいい?」と部屋の棚にある電気ケトルにミネラルウォーターを注いだ。
「じゃあ、紅茶を…」と理が言うと、「あれ?」と驚いた。
「理君は、カフェラテが好きなんじゃなかったの?」
「え?」
「前に言ってたでしょう」
理は、松下が、あんな小さな会話を覚えていたのが信じられなかった。
「カフェラテもあるけど、どうする?」
「あ、えっと、じゃあ…」と理が迷っていると、松下が「あぁ、そうか」と手を打った。
「私が紅茶が好きって言ったから、合わせてくれてるのか」
「やっぱり、優しいねぇ」と松下が笑う。理は嬉しさと恥ずかしさで「いや、あの、えっと…」と目を伏せた。
「よし、わかった」
松下が言い、理が顔を上げる。
「さいしょはグー」
松下がグーを出した。理も、戸惑いつつグーを出す。
「じゃん、けん、ぽん」
理がグーを出し、松下はパーを出した。「私の勝ちね」と松下が笑う。
「私の勝ちだから、今日は私に合わせてもらうね」
松下が二杯の紅茶を淹れ、一つを「どうぞ」と差し出した。おしゃれなティーカップの中で、琥珀色の波がキラキラと輝いている。
「…なんだ?この状況は」
それを見て理がそう思う。松下と二人っきりでお茶をしている今の状態が信じられず、体がふわふわし、地に足がつかなかった。
「綺麗な部屋で飲む紅茶はおいしいな」
松下は、理のそんな気持ちはお構いなしに紅茶をすすり、そう言った。そして、窓の外の景色を眺める。その横顔の美しさに、理がドキドキする。
「…そう言ってもらえて、嬉しいです」
何とかそう返事をする。声が震えた気がして恥ずかしかった。
「どうしたの?」
「はい?」
「冷めちゃうよ?」
松下が理の紅茶を示す。「あ、いただきます!」と両手でカップを持ち上げ、口に運んだ。松下が小さく微笑む。
「…うわぁ」
理の顔がほころぶ。松下が淹れてくれた紅茶は、信じられないぐらいおいしかった。
「おいしいです」
「そう、良かった」と松下が微笑んだ。

 「理君は、何でバイトしてるの?」
「オヤジが、事故って働けなくなって。かーちゃんも体弱いですし。だから、俺が働かないと」
「そっかぁ」と紅茶をすすった。
「君も、選ばれた戦士か」
「え?」
「君みたいに、苦労と戦ってるがんばりやさんの事をね、私はそう呼んでるんだ」
「ちょっと、子供っぽいかな?」と松下が笑う。理は「いや、すごく好きです」と頷いた。
「『選ばれた戦士』は、男の子には好評だな」
「そっちも、好きですけど」
「うん?」
「『がんばりやさん』っていいですね」
「そっち?」
「友達とこないだそんな話になったんです」
松下が両手でカップを持ち、紅茶をすすった。
「友達に、何でも楽々とこなしちゃうやつと、勉強も部活も、どんなに結果が出なくても頑張り続けるやつがいるんです。その二人が『天才』と『努力家』だなって話してて」
「なるほどねぇ」
「じゃあ、俺はなんだってなったら、『苦労人』だって言われちゃって」
「あらら」
「ロクでもねぇなって言ったら、じゃあ『貧乏人』だって」
「ひどいな」と小さく笑う。
「でも、『がんばりやさん』は、嬉しいです」
「うん。じゃあ、理君は『がんばりやさん』ね」
「はい」
「がんばります」と理が力強く言った。松下は、「うん」と微笑んだ。
理が紅茶を一口飲む。松下が淹れてくれた紅茶は、世界で一番おいしかった。

 「ごちそうさまでした」
紅茶を飲み終えた理が荷物を持つ。
「私も楽しかったよ。それに、片付けもありがとね」
「いえ、また掃除させてください」
「うん。よろしくね」
理がドア開けて、外に出た。
「佳いお年を」
「理君もね」
松下が手を振る。頭を下げて、扉を閉じた。

 「…ふぅ」
小さく息を吐く。扉を閉じた瞬間から、理は日常に帰る。しかも、年末年始の大掃除シーズンは普段よりも厳しい戦いが待っている。
「…よし、戦うか」
理が力強く歩き出した。

 駅前のケーキ屋。そこのカフェスペースにジンと美緒はいた。そのスペースはとても小さい。クリスマスに二人で過ごせるように、ジンが早くから予約をとっていた。
「人混みに行くのも疲れちゃうからさ」と、ジンは話したが、どちらかと言えば人混みが苦手なのは美緒の方だ。
「ありがとう」
美緒が小さく微笑む。ジンも、「良かった」と笑った。そこには、二人の他には三組のカップルがいるだけで、静かで幸せな時間が流れていた。
「ちょっと待ってて」
ジンがカウンターにケーキを取りに行く。待つ間、美緒はテーブルの上の小さなクリスマスツリーを眺めていた。
「お待たせしました」
ジンがおぼんをテーブルに置く。その上には、コーヒーが二杯と、丸太の形のブッシュ・ド・ノエルが乗っている。
「かわいい」
ケーキに乗っている砂糖菓子のサンタとトナカイを見て美緒が笑う。そして、スマホのカメラで写真を撮った。
「美緒」
ジンがスマホを構える。美緒は笑顔をケーキに近づけた。

カシャッ。

ジンのスマホに、美緒の笑顔が保存された。
「じゃあ、切るね」
ジンがナイフをとり、ケーキを半分に分けた。片方にサンタとトナカイを両方のせ、そっちを美緒に渡した。それを見て、美緒が「ふふ」と笑う。
「はい」
美緒が、自分のケーキからトナカイをジンのケーキに乗せた。「いいの?」とジンが笑うと、美緒が笑顔でうなずいた。
「メリークリスマス」
二人でコーヒーで乾杯をする。二つのカップが可愛い音を立てた。そして、二人がケーキを同時に食べる。「おいしい」と美緒がつぶやき、ジンも「ね、美味しいね」と笑う。
「ジン君」
美緒が、満面の笑顔でプレゼントの包みを渡した。
「うわー、ありがとう!」とジンが受け取る。
「開けていい?」
「もちろん」
ジンが、包みを丁寧に開ける。美緒からのプレゼントは、マフラーだった。濃い青色が大人っぽくてかっこいい。ジンは一目で気に入った。
「いいなぁ、これ」
ジンが嬉しそうに笑う。
「この色、すごくいいな」
その一言が美緒はすごく嬉しかった。
「ジン君のイメージに合うなと思って」
「うん。すごく好き、この色」
そう言うと、マフラーを自分の首に巻き付けた。
「どう?」
そう聞くと、美緒が少し身を乗り出し、手を伸ばして小さなズレを直してあげた。
「うん、かっこいい」
「ありがとう」ジンが、マフラーをぎゅっと握った。

 「じゃ、俺からもね」
次はジンがプレゼントを渡す。紙袋を見て、「わ、可愛い」と美緒が喜ぶ。
「開けてみて」
「うん」と美緒が丁寧に袋を開け、中身を取り出す。
「…え!うそ!」
思わず大きな声を出してしまった美緒が周りを気にした。周りの人達と目が合い、ジンと二人で頭を下げる。しかし、そこにいる人みんな、幸せそうな小さな女の子を笑顔で見ていた。
ジンからのプレゼントは、星のモチーフが可愛く揺れるイヤリングだった。
「これ、え?なんで?」
「欲しかったんじゃない?」
「うん、そう!この間雑貨屋さんで見て、すごく可愛くて」
美緒が、改めてイヤリングを見る。何度見ても心がときめく。
「えー、ほんとに嬉しい」
「よかった」ジンが安心して笑う。
「でも、高かったよね…?」と申し訳なさそうな顔をする美緒に、ジンは「そんな、気にしないでよ」と笑った。美緒も、微笑み返す。
「つけていい?」
「もちろん」
美緒が、イヤリングを両耳に着ける。キラキラと輝く星が、美緒の笑顔の隣で揺れる。
「どう?」
「かわいい」
「撮ってあげる」ジンが再びスマホを構える。美緒がイヤリングに手を添えてポーズを取った。

カシャッ。

ジンのスマホに、二つ目の美緒の笑顔が保存された。
「ほら」
撮った写真を美緒に見せる。「わぁ」と美緒が微笑んだ。
「ありがとう」
「美緒も、ありがとね」と、ジンの首を温めてくれるマフラーに、両手で優しく触れた。
「すごいね、なんでもわかっちゃうんだね」美緒が両手でイヤリングに触れる。その姿に、ジンは幸せを感じていた。
「ケーキ食べよっか」
「だね」
二人がケーキを食べ、「美味しいね」と微笑みあう。
「ここのケーキ、美味しいよね」
「ここね、ショートケーキもすごく美味しいんだよ」
「あ、うん。知ってる。他と違うよね。おれんちじゃ、お祝い事はいつもここのショートケーキだったな」
「わたしも」
「来年も、一緒に過ごしたいな」
「わたしも」
そんな幸せな会話をして、二人はクリスマスを過ごしていた。

 宗悟の家では、ケーキやたくさんの料理を家族で囲み、クリスマスパーティを開いていた。宗悟の下には小学生の弟と妹がいる。にぎやかで楽しい時間だった。
「ふふふ」
宗悟の隣に座る母親が突然笑う。「なに?」と宗悟が聞く。
「いや、楽しいなと思って」
そう答えた母親に、「そう」と宗悟も笑みを返した。
「でも、いつまで続くかわかんねぇぞ」
酒を飲んで上機嫌に酔っ払った父親が言う。「何でそんな悲しい事言うの」と母親が叱った。
「宗悟に彼女でもできりゃ、全員揃わなくなっちまうだろ」
「なに、あんたそんな人いるの?」
「いねぇよ」と母親の質問に笑いながら返した。
「かーちゃんよぉ、それは寂しい事だけど、それも成長なんだよ。だから、俺たちはそれを邪魔しちゃいけねぇ」
くだをまいてビールを飲む父親を「飲み過ぎなんだよ」と宗悟が叱った。母親も「別に邪魔なんかしないよ」と言い返す。
「宗悟、そういう時は、遠慮しないでちゃんと言うのよ?」
宗悟は「ははは」とはぐらかした。
「さて、俺、そろそろいいかな?」
宗悟がそう言って立ち上がった。父親が「なんだ、まだいいだろうがぁ。パーティだぞ~」と絡んだ。宗悟が「だから、飲みすぎなんだよ」と冷たくあしらう。
「忙しいの?」母親が聞いた。
「うん、勉強したいんだ。ごめんね」
母親に謝る。母親は「うん、いいよ」と優しく頷いた。「ありがとう、ごめんね」とまた謝った。
「だめだぁ~」とさらに絡む父親を、母親が「絡まないの」と叱った。
「宗悟、行っていいよ」
母親にそう言われ、宗悟が立ち上がった。
「これ、二人で食べな」と残したお菓子を弟と妹に渡した。二人が「ありがとう」と笑う。
「がんばってね」
母親がそう言うと、弟と妹も「がんばってねー!」と応援してくれた。みんなのエールに見送られ、宗悟は自室に戻った。

 学習机について参考書とノートを開き、晴香にもらった多機能ペンを手に取った。ふと、目の前にぶら下がる三つのお守りが目に入る。
『努力もしないあんたなんて、生きてる価値あんの?』
確かに、そう言われた時は大きなショックを受けた。しかし、目の前のお守りは晴香も受け取ってくれた。そして、努力する道具もプレゼントしてくれた。その事が、晴香の言葉に前向きな意味を見出させてくれる。
『他に何もないんだから』
しかし、『他に何もない』という事は、自分の『努力』には期待してくれているという事だ。そう思うと、力がみなぎる。
「よし」
そうつぶやいて気合を入れ、目の前の課題に挑んだ。


 「ジンくん!」
美緒が手を振った。ジンが美緒の元に駆け寄る。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
ジンが深く頭を下げる。その首には、濃い青のマフラーが巻かれていた。
「これはこれはご丁寧に。こちらこそ、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
美緒がキレイなお辞儀をする。耳元では星形のイヤリングが可愛く揺れていた。
「えへへ」
わざとらしい他人行儀な挨拶に二人で笑った。

 「やっぱり、混んでるねぇ…」
二人は少し遠出して、大きな神社へ初詣に来ていた。パワースポットとして有名なその神社にはたくさんの人が集まっている。二人は神社への参拝の列に並んでいたが、まだまだ時間がかかりそうだった。
「離れちゃだめだよ」
「うん」
二人が繋ぐ手の力を強くした。

 長い順番待ちの末、やっとふたりの番が来た。二人同時に五円玉を投げると、木製のさい銭箱が軽快な音を鳴らした。そして、二人で鈴緒を持って鈴を鳴らす。

がらん、がらん、がらん。

そして、二人で頭を二度下げ、両手を二度、叩いた。

ぱん、ぱん。

二人の音が、きれいに重なる。そして、手を合わせて目を閉じ、神様に語りかけた。

ジンが手を下ろして目を開く。隣の小さな女の子はまだ手を合わせていた。ぎゅっと目を閉じた顔が可愛く、頬が緩む。

「ありがとうございました」

美緒が目を開けた。「行こうか」とジンから手をつなぎ、場所を譲った。次の人もカップルで来ていて、四人は笑顔で会釈をしあった。

「せーの」

二人で同時におみくじを開く。
「あ、大吉!」
二人の声がそろう。そのことに二人がまた笑う。「『願い事、思いのまま』だって」と喜ぶ美緒に「やったね」とジンが笑う。
「もしかして、書いてあること一緒じゃない?」
「ん?」
二人がお互いのおみくじを並べて見比べる。印刷された内容はまったく同じだった。
「すごいね、お揃いだ」
「『学問、人に教わるが吉』だって」
「あ、じゃあジンくんに教えてもらおう」
「ぴったりだね」
二人のおみくじを並べ、スマホで写真を撮った。そして、境内の木に結びつけた。
「なんか食べに行こうか」
「そうだね」
そして、二人で手をつないだ。


 冬休みが終わり、新学期が始まった。始業式のその日は授業もなく、生徒たちは早々に帰り支度を始めていた。その中で、宗悟だけは空手の道着を用意していた。
「お前、こんな日まで部活あるの?」理が聞く。
「そろそろ引退式だもんな」と答えたのはジンだった。
「おう、みんな気合入ってるよ」
「引退式?」と理も興味を持った。
「まぁ、つまりは卒業していく三年生の最後の晴れ舞台さ」
「あぁ、なるほど」
「学校の体育館じゃなくてさ、市民体育館借りてやるんだよ。親とか家族とか友達とか、他校の生徒も見にきてさ、結構盛大にやるから、みんなの気合がすげぇんだよ」
「体育館ってあそこか、ショッピングモールの近くの…」
「そうそう」
「そこで、次の部長が指名されるんだろ?」
「うん」
そのやりとりを理が「ん?」と気にする。
「引退式では、三年生が後輩を一人ずつ指名して試合をするんだ。その時、今の部長が指名した相手が、次の部長になるっていうのが恒例なの」
「じゃあ、次の部長のお披露目会でもあるのか」
「まぁ、そういう事だな」
「結構熱いイベントなんだな」と理もワクワクしていた。
「ま、お前じゃねぇだろうけど」
理の余計な一言に、「当たり前だろ、二年の誰かだよ」と宗悟が言い返した。

ガラガラッ。

教室のドアが開き、美緒が入って来た。ジンが「おう、美緒」と手を挙げる。
「たまにはお前が迎えに行ってやれよ」
理がジンに言う。ジンは「ん?」と美緒を見たが、美緒は何も言わずに微笑んでいた。
「あ、あけましておめでとうございます」
宗悟が美緒に頭を下げる。「あ、そっか」と理も挨拶した。
「あけましておめでとうございます」
美緒が可愛らしくお辞儀をする。ジンは笑顔で見つめていた。
 
 「俺らは帰るけど、お前らは?」
荷物を担いだジンが言う。
「あ、俺も出る」理が荷物を担いだ。
「俺は、もう少しかな」宗悟は時計を見た。
「そっか、じゃあな」
宗悟だけ教室に残り、三人は外に出た。

 「理君は、今日はデート?」
美緒が聞く。「うん、そう」と少し恥ずかしそうに答えた。
「緊張するわ」
「まだ慣れないの?」とジンが笑う。
「冬休み中全く会えなかったからなー。久しぶりすぎてな」
その一言に三人が笑う。そのとき、階段にたどり着いた。
「楽しんできてね」美緒が言う。
「美緒さんもね」と理が返す。
「うん」
美緒がそう言い、三人は手を振って別れた。ジンと美緒は校舎の玄関へ。理は音楽室へと向かった。

 音楽室。理が特等席で松下のピアノを聴いている。好きな歌手やアイドルのコンサートで最前列の席が取れた人はこんな気持ちなのだろうかと想像していた。
 演奏の途中でお互いに目が合い、理は小さく会釈し、松下は小さく微笑んだ。
演奏が終わった。松下が「ちょっと待ってね」と笑顔で楽譜に何か書き込んでいる。その顔に、「上手くいったのかな」と理も嬉しくなる。

 「お待たせ」松下が楽譜を閉じる。「いえ」と首を横に振る。できるなら、ずっと待っていたいくらいだ。
「あけましておめでとうございます」
理が深く頭を下げる。松下も「あ、そっか」と思い出す。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
わざとかしこまって頭を下げる。理も「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」とまた深く頭を下げた。
「ふふふ」
そのやりとりに、松下が小さく笑う。理には、嬉しさと少しの恥ずかしさがあった。
「じゃあ、掃除よろしくね」
「はい」
松下が準備室に入り、理が掃除にとりかかった。

 こんこん。

音楽室の掃除が終わり、理が準備室の扉をノックする。
「はーい」
松下の声が聞こえ、扉を開けた。
「おじゃまします」
部屋の雰囲気から、そう言ってしまう。「どうぞ」と迎えてくれる松下は部屋の中心のピアノに座り、楽譜を眺めていた。
「…ん?」
理が部屋の中を見回す。
「…先生」
「なぁに?」
「ここ、誰か掃除しました?」
「お、わかる?」
「はい。すごく丁寧で、手が行き届いてますね」
「君の前任の女の子が冬休み中に遊びに来てね。掃除してもらったんだ」
「そうだったんですか」
理が部屋を見回す。
「どう?その子の掃除は?」
「え?」
「プロの目から見て」
「プロって程じゃないですけど、」と理が笑って続ける。
「なんだろ、変な言い方ですけど、家庭的っていうか…」
「ふふふ」と松下が笑う。
「前から、この部屋は先生のプライベートな部屋って思ってたんですけど、その雰囲気がより強くなった気がします」
「その子はおとうさんと二人で暮らしててね、『家の掃除を毎日してるから得意だ』って言ってたんだ。だから、家庭的っていうのは合ってるよ」
「あぁ、だから、雰囲気が優しいんですね」
理が松下を見る。リラックスした表情の松下には、この優しい掃除を施した部屋がとてもよく似合っていた。
「…先生の部屋には、こういう掃除の方が合ってるかもしれませんね」理が、少し寂しそうな顔をする。それに気づいた松下が小さく笑う。
「私は、理君の掃除も好きだよ」
「ほんとですか!」
つい、大きな声で喜んでしまい、少しの恥ずかしさを顔に浮かべる。そのことに、松下が「ふふ」と笑う。
「うん。ピシッとして、完璧な職人の仕事みたいで」
「よかった」理が小さく笑った。
「じゃあ、今日もピシッとやらせていただきます」
「うん、頼んだよ」

 準備室の掃除を終えると、松下が紅茶を淹れてくれた。
「さすが、ピシッとやってくれたね」
「ありがとうございます」
二人が、同時に紅茶をすする。
「やっぱり、きれいな部屋で飲む紅茶は美味しいな」
松下が微笑む。
「俺も、ここで飲む紅茶が一番おいしいです」
「そう?」
「すごく居心地がいいです」
「そっか」と松下が頷く。

「はーーーーーーーー!」

急に、松下がすらっと長い手足を伸ばした。突然のことに「どうしたんですか?」と理が笑う。
「ほら、理君もやりな」
「え?」
「リラックスできるから」
そう促され、少し恥ずかしかったが理も同じように両手足を伸ばした。理の太い四肢がピンと張る。
「はーーーーー!」
「うん、いいね」松下が笑った。理の体が程よくゆるみ、ほぐれていた。
「リラックスするでしょう?」
「はい」
「その子と言ってたんだ。『ここは私の国だよ』って」
「くに?」
「うん。『学校じゃないみたいです』って言うから。『なら、リラックスしな』って」
「わかります」理がうなずいた。
「俺にとっては、学校どころか、日常の中ですらないです」
「ん?」
「非日常というか。もはや、別世界です」
理の話を聞きながら、松下が紅茶をすする。
「空気がやわらくて雰囲気が優しくて、紅茶がおいしくて」
「そっか。じゃあ、ここにいる間はゆっくり休むといいよ」
松下が優しく微笑んだ。
「ありがとうございます」
理が紅茶をすする。松下が淹れてくれた紅茶は世界で一番おいしかった。

 「そろそろ失礼します」
「今日は、アルバイト?」
「はい。年末年始は大掃除のシーズンなので、もうちょっと忙しいの続くんですよ」
「そっか、大変だね」
「いえ」
理が、リュックを持って立ち上がる。
「理君」
「はい」

「ファイト」

松下が、手をグーにしてポーズをとった。
「ありがとうございます!」
理も手をグーにしてポーズをとり、松下からのエールを受け取った。
「失礼します」
そして、ドアを開け、外に出た。
「またね」
その声を受けながら、ドアを閉じる。松下は、手を振ってくれていた。
「…ふぅ」
小さく息を吐く。この瞬間から、理のいつもの日常が始まる。
「…さて、戦うか」
松下からのエールを受け取った拳で、左胸を「どんどん」とたたいた。

 ジンと美緒は、恒例のハンバーガーショップでの勉強会の真っ最中だった。学校の宿題に二人で向き合うが、やはり、ジンが美緒に教える形になる。
「…ねぇ、ジン君」
一通り宿題を終えたところで美緒が切り出した。
「うん?」
「あのね、」という顔には少しの緊張が浮かんでいた。
「私もね、ジン君と同じ大学を受けようと思うんだ」
「…無謀じゃ、ないかな?」美緒がジンの顔を覗き込む。
「ほんとに?」ジンは、笑顔になった。
「うん、一緒の大学行きたいなって…」
「やったー!」ジンがグーにした両手を高く上げて喜んだ。
「ぜんっぜん無謀じゃない!行こう!一緒に頑張ろう!」
「よかった」と美緒の表情に安堵が浮かぶ。
「『無謀だ』って笑われたらどうしようかと思った」
「そんなこと言わないよ。そっかぁ、大学も一緒に過ごせるんだ」
「受かったらの話だよ?」と言う美緒も嬉しそうだった。
「絶対、大丈夫だよ。俺がついてるんだから」
「うん。よろしくね。勉強教えてね」
「もちろん。任せといてよ」
「うん、頼りにしてる」と美緒が微笑んだ。
「おう」とジンが自分の胸を「どん」とたたいた。その仕草に美緒が微笑む。
「そっかぁ。嬉しいなぁ」
ジンがストローでコーラを吸い込んだ。ジンの端正な顔が、ゆるゆるに緩んでいた。

 「おぉ…」
体育館。宗悟は荒木と対戦していた。お互いの拳を体に打ち込みあう、肉と肉がぶつかる音が響いていた。
「すげぇ試合だな」
二人の勝負は拮抗していて、どちらに軍配が上がるか、部員全員が固唾を飲んで見守っていた。
「これ、もしかするんじゃね?」
宗悟が荒木に勝てば、宗悟は雪辱を果たすことになる。その熱い展開に部員たちはワクワクしていた。

「やめっ!」

審判をしていた部長が試合を止める。

「荒木!」

審判の手は宗悟には上がらなかった。周りから「あぁ…」という声が漏れる。その声には、落胆よりも見ごたえのある試合を見たことへの感動が含まれていた。
「くっそ」宗悟が汗を拭い、荒木は「よしっ」と拳を握った。
「惜しかったな、勝てそうだったのに」
試合を終えた宗悟に二年生の先輩が声をかけた。
「でも、負けは負けです」
宗悟が悔しそうに言う。試合中は手応えを感じていたし、このままいけば勝てるという期待が持てた。しかし、勝てなかった。その結果は、本当に悔しかった。
「きっと、あいつ焦ってるぞ」
他の先輩も、そう声をかけてくれる。荒木の背中を見る。昔より、その背中は近く見えた。
「精進します」と先輩に頭を下げた。

 「ただいま」
理がバイトを終え、家に帰った。年始の掃除はハードで体はクタクタだった。
「おかえり」
母親が玄関まで出迎える。「ただいま」と返事を返しつつ、立ったまま靴を脱いで家に上がった。
「どう?仕事は」
「『どう?』って?」
「卒業しても続けられそう?」
「うん、まぁね」
「そっか、良かった」
「ん?」
「卒業したら、働く時間増やせるよね?」
「…そうだね」
「…じゃあ、あと二年だね」
「え?」
「よかった」
そう言う母親は、安心したような顔をしている。
「…うん」
理はすぐに部屋に入り、扉を閉めた。「ふぅ」とため息をつく。
「…ファイト」
松下からのエールを受け取った拳で、胸を「どん」と叩いた。

 「…すごいな」
宗悟がつぶやく。隣にいる荒木も「あぁ」と息を飲んだ。
空手部の引退式が行われる市民体育館には、たくさんの人が集まっていた。引退する三年生の友達や家族。先輩OB。これまでに試合をしてきたであろう他校のライバル。様々な人たちが集まり、すごい熱気に包まれていた。その雰囲気を初めて味わう宗悟たち一年生は緊張を隠せなかった。
「緊張するか?」と二年生の一人が二人に声をかける。「はい」「すごい空気ですね」とそれぞれ答えた。
「しっかりしろよ!」
二年生が宗悟の背中を「バシッ」とたたいた。背中に痛みを感じると同時に、熱いものを感じる。
「はい!」
そう答えて頷く。先輩は笑顔を残し、その場を去っていった。その先輩をはじめ、この空気を去年味わっている二年生たちの表情は落ち着いて見えた。
「自分が部長になるかもしれないのに…」
そのプレッシャーすら感じていないような二年生たちの表情に、宗悟は憧れを抱いた。

 「本日、お集まりのみなさま…」
空手部の顧問がマイクを使い、観客席に向かって話し出した。
「いよいよだな」
荒木が緊張でしだした。隣に座る宗悟も落ち着かなかった。

 三年生が後輩を指名し、試合をする。指名された後輩は、先輩からの最後の教えを少しも取りこぼさぬよう、先輩の気持ちを全て受け止めるよう、全力で立ち向かった。三年生も、その気持ちに応えるべく、一切手を抜かずに相手をする。全ての試合が、三年生の勝ちだった。
「すごいな…」
荒木と宗悟が息を飲む。他の一年生も試合に見入っていた。
残すは、部長の試合だけとなった。顧問から呼ばれた部長が、試合場の中心に立ってマイクを持つ。指名された者が、次の部長となる。その場にいる全員が、注目した。

「加賀」

まさかの言葉に、宗悟の体が固まる。客席と、一年生たちがざわついている。その中で先輩たちは落ち着いていた。
「おい、返事どうした?」
部長からそう言われ、慌てて「はい!」と立ち上がる。
「よろしくお願いします!」
宗悟が部長の前へと歩みを進め、部長は笑顔で迎えた。
「よろしくな」
部長は笑顔を消し、構えをとった。それに応え、宗悟は一度頭を下げると体を構えた。

「はじめっ!」
顧問の合図で試合が始まる。宗悟は全力で拳を打ち込んだ。部長は、それを全て優しく受け止めるように戦った。
「いいぞ」
部長が言う。「その調子だ」と笑った。
「はい!」
宗悟が続けて拳を打ち込む。
「お前はここで隙が生まれる」
部長の正拳が宗悟の腹にモロに入った。

どんっ。

その音は、会場の全員が聞いていた。「ぐっ」と声を上げ、宗悟が倒れる。
「終わりか?」
部長が見下ろす。「いえ!」と立ち上がる。
「まだまだ、よろしくお願いします!」
頭を下げ、再び立ち向かう。
「よし、来い」
部長も、受けて立つ姿勢を見せた。

「やめっ!」
顧問が試合を止める。顧問の手は、部長に上がった。その後の試合は、同じような展開が続いた。宗悟が立ち向かい、それを部長が受け止めつつかわし、反撃され倒される。しかし、何度倒されても立ち上がり立ち向かう宗悟の姿には、会場の全ての人たちが感動していた。
「はぁ、はぁ」
宗悟だけ、息を切らしていた。
「大丈夫か?」と部長が微笑む。
「…まだやれます」
その返事に、「さすがだな」と笑う。そして、顧問からマイクを受け取り、話し出す。
「来年から、こいつが空手部の部長になります。みなさま、どうぞ、見守ってやってください。よろしくお願いします」部長が、頭を下げた。観客、部員から拍手が起こる。
「でも…」宗悟が言う。
「でも、何だよ?」マイクを下ろし、宗悟にだけ返事を返す。
「俺で、いいんでしょうか?」
「俺が決めた事に文句あんのか?」
「だって、俺、そんなに…」
「そうだな、強くないな。でもお前の努力する姿には、先輩の俺も感動する。正直、俺の努力なんか比べ物にならん」
「見てみろ」と宗悟の目を部員たちに向けさせた。
「だから、二年を集めて、俺は相談した。先輩全員、お前に部長を任せたいってさ」
宗悟が先輩たちの顔を見る。先輩たちは、笑顔で頷いていた。
「一年」
部長が宗悟と同学年の男たちを呼ぶ。一年生が全員すばやく立ち上がった。
「お前らも、文句言わずについて行けよ」
「はい!」と一年生たちが返事をした。その大きな返事に、宗悟は胸が熱くなった。
「でも、分かってると思うけど、団体戦は実力順だからな」
「もちろん、わかってます」
「まぁ、そういうずるいことをしないって信じたから、お前を部長に決めたんだけどな」
「よし、お前も挨拶しろ」部長が宗悟にマイクを渡す。緊張しながらも、宗悟が話し出す。
「一年の、加賀宗悟です」
全員が宗悟の言葉に耳を傾ける。
「正直、驚いて、まだ実感が湧いていません。ですが、俺は部長のことを心から尊敬しています。なので、部長の気持ちに恥じぬように後任を務められるよう努力していきます」
「みなさま、どうぞ、お見守りよろしくお願いいたします!」宗悟が、四方に頭を下げた。それに続き、部長も頭を下げる。その二人の姿に、会場から温かい拍手が起こった。その拍手を背に受け、二人は退場し、部員の元に戻った。
「頼むぞ、先鋒部長」
部員の前で部長がそう言うと、笑い声が起こった。
「はい!」
宗悟が、深く頭を下げた。

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