「さいしょはグー。」第3話。

 放課後の教室。ジン、宗悟、理の三人は裏返したテストの答案を机に並べ、じゃんけんの構えをとっていた。
「いいな?」
宗悟が声をかける。「いいよ」「おう」と二人もうなずいた。

「さいしょはグー!」

宗悟が声をかける。
綺麗な手、ゴツイ手、傷だらけの手が拳を作っている。

「じゃん、けん、ぽん!」

三つの手が、それぞれグーを出した。

「あいこでしょ!」

次は、三つのチョキが並ぶ。二度目のあいこに「お~」と盛り上がる。

「あいこでしょ!」

示し合わせたかのように、次は三つのパーが並んだ。三人が「ぎゃっはっは!」と笑う。
「決まんねーじゃねーか!」宗悟が言う。
「次で決めるぞ」ジンが気持ちを仕切りなおす。
「よっしゃ」理も覚悟を決めた。

「さいしょはグー!」

もう一度、三つのグーが並ぶ。

「じゃん、けん、ぽん!」

綺麗な手とゴツイ手はパーを出し、傷だらけの手はグーを出した。
「よし、理からな」
「おう、いいよ」
そう言い、理はまずは答案を自分だけで見た。
「よしっ」
そうつぶやいた理に「お?」と二人が期待の目を向ける。その目に応え、「見ろっ」と答案を見せた。答案には五十二点の点数がついていた。
「相変わらず低いじゃねーか!」
宗悟がそう言う。理は大声で笑った。
「だから、いいんだっつの!いい点なんか取らなくて!」
「良かったな、この調子なら問題なく卒業できるな」ジンが言う。そのテストは三年の二学期の期末テストだった。もし赤点など取ってしまえば卒業が危うくなる。その危険を回避した理が「とりあえずは安心だな」と頷く。
「じゃ、次決めろよ」
理に言われ、二人がじゃんけんの構えをとる。
「さいしょはグー!」
二つのグーが並ぶ。
「じゃん、けん、ぽん!」
綺麗なパーとゴツいチョキが並んだ。
「よし、宗悟な」
「おう」と、宗悟がまず自分で確認する。「お!」と明らかに喜んだ。
「そんなにいいの?」ジンが聞く。
「見てろよ?」と期待を持たせる。
「どーん!九十点!」
その結果に、ジンが「おぉ!」と感動する。
「いやー、頑張ってよかったわ!」
宗悟が自分で自分を褒める。
「宗悟、すげぇなぁ」ジンも感心した。
「じゃあ、ジンの番な」宗悟が促す。その顔には、ジンにも勝てることへの期待が見えた。
「おう」
ジンは自分で確認することなくそのまま表に返した。
「…え?」
ジンの答案を見た宗悟が絶句する。点数は九十五点だった。
「あらら」理は宗悟を憐れむような態度だった。
「くっそー、なんで勝てねぇんだ!」宗悟が頭を抱えた。
「ま、頭の出来がちげぇわな」そう笑って、理が教室の時計を見る。
「え、うそ!」
理が慌てて荷物を背負う。ジンが「どうした?」と気にする。
「今日、家賃の振込期限なんだよ!」
「え?」
「三時までに振り込まねーと家住めなくなる!じゃあな!」
そう言って慌てて駆け出す理に、ジンは「そっか、大変だな」と手を振り、宗悟は「頑張れよー」とジンの答案を見てテストの復習をしながら言う。
「うるせー!」
理は怒鳴るようにそう言って、教室を出て行った。
「なんだよ、こえぇな」そう言いながら復習を続けた。

ガラガラッ。

「ジン君、帰ろ」
美緒が入ってくる。「うん」とジンが微笑む。
「相変わらず、仲いいね」
「まぁな」とジンが笑う。
「理君、どうしたの?すごい慌ててたけど?」
「急がないと家がぶっ壊されるんだって」
「そうは言ってねーだろ」
そのやりとりに美緒が小さく笑った。
「宗悟は部活?」
「おう、今日は団体戦の選手を決めるトーナメントだからな。気合入れねぇと」
「でも、宗悟、すごいよな。今は副将だろ?」
「まぁな」
「昔は先鋒部長なんて言われてたのにな」
「ははは、そうだな」
「ほんとに、いつかたどり着くのかもな」
「…ん?」
「いつだったか言ってただろ。『努力を重ねていけば、いつか、理想の結果にたどり着く』って」
「…あぁ」
「それが本当になるかもな」
「…そうだな」宗悟の顔に気合が入った。

 学校を飛び出した理が駅前の銀行に駆け込む。ATMコーナーに急ぎ、素早く画面を操作して自分の口座から管理会社の口座へ家賃を振り込んだ。
「…あっぶねー」
理は、家の家賃を父親の失業したときの保険が入った日と、理のバイトの給料日の二日に分けて支払っている。一度に引き落とされると生活が立ちいかなくなるので、担当者に頼み込んでそういう約束にしてもらった。しかし、担当者からは「絶対に一日も遅れないでくれ」と念を押されていた。それは担当者の気遣いからの計らいだったため、上司にバレるとややこしくなり、最悪、家に住めなくなる可能性もある。
 ATMから吐き出されたレシートを引っこ抜く。記載されている振込日時が今日の日付なのを見て、理はホッと胸をなでおろした。
「よかった、よかった」
レシートに記載される預金残高が目に入る。寂しい数字が並んでいた。理は、レシートを財布に乱暴に突っ込んだ。
「よかった、よかった」
理が銀行を出る。
「…はぁ」
大きく息を吐いて、近くの壁によりかかり、しゃがみこんだ。疲れの溜まった体での全力疾走は理の体にダメージを残した。スマホを開き、時刻を確認する。
「…行くか」
休んでる場合じゃない、と理が重い腰を上げ、バイトに行くために駅に向かった。

 ジンと美緒はハンバーガーショップにいた。軽食をとったあと、二人でテストの復習をする予定だった。ジンが答案用紙を取り出す。
「え…?」
答案につけられた九十五点の数字を見て美緒が驚く。
「やっぱり、すごいね」
「まぁね」と美緒に褒められたジンが誇らし気に言う。
「どんどん成績上がってない?」
「まぁ、そうだね」
「点数、百点までしかないんだよ?」
美緒の冗談にジンが笑う。
「ほんとに、すごいね。なんでもわかっちゃうんだね」
「うん?」
「テストの問題だけじゃなくて、成長の仕方までわかっちゃうなんて、やっぱりすごいよ」
「ありがとう」とジンが笑顔になる。
「美緒はどうだった?」
「…私はダメダメだった」
「…低かったの?」
美緒が自分の答案を取り出した。点数は八十点だった。
「全然ダメじゃないじゃない」
「…でも、ジン君と同じ大学受けるのに」
「いやいや、今回のテスト結構難しかったからね。それでこの点数なら、十分合格圏だよ。落ち込むことないよ」
「…うん」
「大丈夫だよ、俺がついてるよ」
「…ありがとう」
「教えて」と美緒が答案を見せた。美緒が間違えた問題を、ジンが一つ一つ丁寧に教えていった。

 「いよいよ、雪辱を果たすかぁ?」
宗悟と同学年の部員が言う。次の試合に出る選手を決めるトーナメント。それの決勝戦の真っ最中だった。宗悟と相手の試合は凄まじく、肉と肉のぶつかる音が激しく体育館に響き渡っていた。

「やめっ!」

審判が試合を止めた。
「大山!」
審判をしていた荒木の手は宗悟に上がらなかった。試合は、一学年後輩で現在二年生の大山という選手の勝ちだった。大山と宗悟が互いに礼をし、退場していく。
「お前、相変わらず強いな」宗悟が大山に声をかける。
「ありがとうございます」大山が、縦にも横にも大きい体で、かしこまって頭を下げる。宗悟の頭の上にあった大山の頭が、宗悟の眼下に落ちる。
「頼んだぞ、大将」宗悟が大山の頭に手を置いた。
「はい!」頭を上げ、姿勢よくそう返事を返した。
「…宗悟さん」
「ん?」
「前は、宗悟さんが荒木さんに負けてたってマジですか?」
「マジですよ?」
「今じゃ信じられないですね」
宗悟は二年に上がって初めての試合で荒木に勝ち、雪辱を果たした。しかしその同日、新入生である大山に敗北した。それ以来、その順位は変わっていない。一年後輩の大山は宗悟が荒木に負ける姿を見ておらず、その事が信じられなかった。
「おめーが入ってこなきゃ、今頃は俺が大将だったのによ」
宗悟が「バシッ」と大山の背中をたたく。大山は「えへへ」と嬉しそうに笑った。
「でも、宗悟さん」大山が真面目な顔になる。
「ん?」
「宗悟さんが部長なんですから、大将の座に座っても誰も文句言わないと思いますが」
「前の部長から言われてるんだよ。『実力順だ』って」
「それは、宗悟さんが二年になるからでしょう。今は学年も一番上なんですから」
「その時、言ってくれたんだ。『そういうズルい事をしないから、お前を選んだ』って。俺は、その言葉に恥じない部長でいたい」
「…そうですか」
「あぁ」
大山が宗悟に尊敬の眼差しを向けた。
「頼むぞ、大将」
「はい」
力強くうなずき、頭を下げた。

 その日の理のバイトの現場は少し古いビルだった。理が任された部屋は暖房が故障していて寒く、その上、切れかけの蛍光灯がチカチカと気持ちの悪いリズムで点滅していた。
理がモップを持ち、力を込めて床を磨く。足、背中、腰に負担がかかり、体が歪んでいくような気になる。
「はぁ」
息を吐くと、白い色をまとっていた。「ん~」と背伸びをし、曲がった腰を縦に直した。
「ふぅ」
もう一つ息を吐いて、再び床を磨く。

モップを前に押す。そして、引き戻す。
前に押す。そして、引き戻す。
前に押す。引き戻す。

その繰り返し。自分の足元で、行ったり来たりを繰り返すモップを見て、まるで自分の毎日を見ているような気になる。前に進むこともなく、後ろに逃げる事もできない。毎日同じ事を繰り返し、漂うように生きている。高校に入学した春から三年弱、この生活が続いている。
「さっさと抜け出してぇな…」
そう思う。そう思ったとき、理の手が止まった。
「…それって、いつなんだ?」
今まで、その日の命を繋ぐためにがむしゃらに働き、生きてきた。この生活のゴールというものを考えたことがなかった。しかし、改めて考えるとそのゴールはどこにあるのかさえ分からなかった。
父親の体が回復したら?
母親がまた働きだしたら?
自分が就職したら?
色んな可能性を考えるが、そのどれもが希望のあるゴールだとは思えなかった。どこに進んでも、この苦しさから解放されるとは思えなかった。
 その時、チカチカと点滅していた蛍光灯が点灯しなくなった。部屋が真っ暗になる。理が、闇の中にポツンと独りで立たされる。終わりが見えない、どこまでも続く闇。足を踏み出しても、その方向が前なのかどうかすらわからない。ただその場に立ち尽くすしかない。
理の胸を恐怖が襲い、心細さが身を覆った。寒気がして、足が震える。

ぱんっ!

両手で顔をはたき、恐怖と弱気を吹っ飛ばす。考えても仕方ない。漂っていれば、沈まない。沈まなければ、いつか必ずこの生活から抜け出せる。そう信じて、毎日を生きていくしかない。
手探りで進み、壁にたどり着く。壁伝いに電気のスイッチを探しだし、パチパチとオンオフを繰り返す。しかし、電気はつかなかった。

どんっ!

壁を思いっきり殴る。その衝撃で、蛍光灯が部屋を明るく照らし、点滅も止まった。

「おい!」

隣の部屋から社員が駆け込んでくる。
「壁殴んなよ。クレーム来たらどうすんだ」
「…すいません」
理が頭を下げる。「ったく…」と舌打ちを打って、社員は戻っていった。

「…ファイト」

そう呟いて、またモップを漂わせた。

 「理!」
朝。理が正門をくぐると後ろから声をかけられ、振り返る。
「おぉ、ジン。おはよう」
ジンも手を挙げて挨拶を返した。
「美緒ちゃん一緒じゃねぇの?」
正門の隣のレンガ造りの花壇にも美緒の姿はなかった。
「朝は約束してるわけじゃないからな」
「そっか」
二人で校舎に向かう。だいぶ冷え込んだ朝だった。
「お前、無事に卒業できそうでよかったな」
唐突にジンが言う。「なんだよ、それ」と理が笑う。
「いや、よく一回も留年しなかったなーと思ってよ」
「当たり前だろ。俺はバカじゃねーんだからよ」
「…たしかに、そうだな」
「ん?」
「お前、何気に頭いいな?」
「だから、なんなんだよ、さっきっからよ」
「お前、卒業したらどうすんだっけ?」
「…まぁ、とりあえずは、今のバイト続けるかな」
「そっか…」
そこで学校の校舎にたどり着いた。玄関で靴を脱ぎ、自分の下駄箱から上履きを取り出して履き替える。ジンが、何気なく理の姿を見る。
 三人の通うこの高校は、昔は荒れていた時期もあったと聞くが、最近はそんな噂はない。むしろ、今は大学進学率も決して低くない数字を出し、入学を希望する中学生も多く、合格倍率も決して低くない。その学校で、勉強する時間もロクに取れないのに問題なく進級して卒業もできるこの男は、決して頭は悪くなく、むしろ賢い部類に入る。
もし、理が問題のない家庭環境で、大学進学という進路を選択するのに何の障害もない道を歩いていたならば、理の将来の可能性はもっと広がったのではないだろうか。
そんな思いがジンの中に生まれた。そう思うと、理の両親に対し、少し腹立たしい気持ちが芽生えた。何の事情があるか知らないが、自分の子供の未来を狭める親なんてバカ野郎以外の何者でもない。そして、理自身は親のせいで選択肢が狭まっていることに、きっと気づいていない。そう思うと、目の前の男に哀愁を感じずにはいれなかった。
「何見てんだよ、こら」
靴を履き替え終えた小柄な男が言う。その声は、その小さな体には不釣り合いなほど力強く、頼もしい声だった。その声を聞いて、「この男なら、自分で道を切り開いていけるか」と思い、ジンが笑った。
「うるせぇんだよ、ばかやろう」
ジンはそう返し、さっさと歩き出した。
「あぁ!?」理が睨み返し、笑いながら後を追う。

どん。

 その時、理が何かとぶつかった。壁か柱にでもぶつかったような気がしていたが、それは、大きな男だった。その大きな男が「あ、すいません」と頭を下げる。上履きの色から、その男は二年生であることがわかった。
「いや、こっちこそ悪かったな。よそ見しちゃっててよ」
「いえ、そんな」
「…でかいな」
理が改めて見上げる。少し前を歩くジンよりも身長が高く、体の横幅も規格外に大きい。壁か柱かと疑うほどの丈夫な体を持っていた。
「理さんとジンさん、ですよね?」
「…誰だ、お前?」
名前を呼ばれ、理の目が少し鋭くなる。知らないやつに自分を知られてるときは、よくないパターンが多い。
「あ、君!」
しかし、ジンは明るく話しかけた。
「君、大山君だろ?」
「大山?」
「この子だよ、空手部の大将」
「あぁ、お前が」と理も頷き、敵意を解いた。そして、「このデケェのに『この子』って」と笑った。
「初めまして」大山が頭を下げた。
「宗悟さんがお二人の事をよく話してます。『尊敬してる』って」
「へぇ」とジンがうなずく。理は何も言わなかった
「理さん」
大山が高いところから呼ぶ。
「…強そうですね」
「まぁな」
「でも、空手だったら宗悟さんに負けますよ」
「そら、そうだろ」
「認めるんですね、意外です」
「空手での勝ちに意味なんかねぇからな、俺には」
「なるほど」
「お前こそ、宗悟より強いんだろ?しかも空手で」
「一応、そうですけど」
「お前、むかつかねーの?」
「なんでですか?」
「自分より弱いやつに部長なんかやられてよ」
「むかつかないですよ。むしろ、宗悟さんのこと、尊敬してますから」
「さすが、体育会系だね。年功序列の上下関係は絶対か」
「そんなんじゃないですよ。本当に尊敬してるんです」
「…なんで?」
「あの人は努力家だからです」 
「空手関係ねーじゃねーか」
「そうですけど」と大山が高いところで笑う。
「でも、あの人ほどの努力家、他に知りません、俺は」
「勝てねぇ努力だろ」
「ですね」とまた笑う。「でも、」と真剣な顔になった。
「あの人の努力って、ハンパじゃないんですよ。その姿は、部全体の士気を高めてくれます」
「士気?」
「はい。なんというか、あの人がいると、部全体が仲間として団結するんですよね」
「…へぇ」
「あの人がいたら、団体戦、絶対優勝できますよ。あの人が部長で良かったって、後輩みんな言ってます。だから、俺はあの人を尊敬してるんです」
「…そうか」
「あの人の努力する姿は、みんなの希望です。俺も、頑張ろうって思えます」
「…あっそ」
理が興味なさそうに返事を返した。しかし、ジンが見たその横顔は、寂しそうな、羨ましそうな表情に見えた。

 放課後の、部活終わり。空手部員たちは部室でへばっていた。週末に団体戦を控えたトレーニングはハードで、ほとんどの者が体力の限界だった。
その中で二人だけ、談笑しながら道着から制服に着替える二人の男がいた。宗悟と大山だった。
「今日、ジンさんと理さんにお会いしたんですよ」
「お、どうだった?」宗悟が楽しそうに聞く。この強い男から二人がどう見えたのか、興味が湧いた。
「二人とも、只者じゃないですね」
「だろ」と答える宗悟は嬉しそうだった。
「理さんは、色んな修羅場くぐってきたんだろうなってのが一発で分かります。ジンさんは、なんか、底知れない感じがありました」
「だろ。すごいんだよ、あいつら」
宗悟が、嬉しさと寂しさが混じったような顔をした。
「…俺からすれば、宗悟さんが一番強いですよ」
「嫌味かよ?」
「ちがいますよ!」大山が笑って否定する。宗悟も「はっはっは」と笑った。
「本当に、そう思ってるんですよ」
大山が真面目な顔をする。
「俺は、宗悟さんみたいに努力できません。自分にできないことができる人のことは、尊敬します」
「お前だって努力してるじゃねーか」
「俺のなんて。宗悟さんに比べたら屁みたいなもんですよ」
宗悟が、大山の顔を見上げる。
「…前の部長にも、そう言ってもらえたんだよな」
「え?」
「『俺の努力なんて、お前に比べれば大した事ない』ってさ」
「嬉しかったですか?」
「うん、嬉しかったね。尊敬してる人だったから、あの一言は嬉しかった」
宗悟の表情がやわらかくなる。
「自分の一番認めてもらいたい部分を、一番認めてもらいたい人から認めてもらえるのは、やっぱり嬉しかったよ」
「やっぱり、努力してる人にはわかるんですよ」
「…ん?」
「特に、空手っていう共通項がありますからね。同じことを努力してるからこそ、その努力を支える根性だったり、心の芯の強さみたいなものが分かりますからね」
「…なるほど」
「前の部長さんも、そうだったんじゃないでしょうか?」
「…だとしたら、嬉しいけど」
宗悟が、何かに納得したような顔をしていた。
「お前にも会わせたいな」
「ぜひ、お会いしたいです」
「まぁ、機会があったらな」
「週末は団体戦だ、頼むぞ」と、宗悟が大きな背中を叩いた。
「はい!」大山が頭を深く下げた。


 土曜日。ジンが美緒を買い物に誘った。美緒は、月の中旬にお小遣いをもらえると買い物に行きたがる。それが、ほとんど毎月恒例だった。
 二人でショッピングモールに行き、色んな店を見て回る。二人が雑貨屋に入った。アクセサリーやおしゃれな小物などが並んでいる。美緒がアクセサリーの売り場を物色し始めた。
「…イカツイな」
ジンは、サングラスのタワーをくるくると回し、一つを手に取った。コワモテな人達が好みそうな、いかにもなサングラスをかけて鏡を見る。
「やっぱ、似合わねぇな」
そう思うとおかしくなり、その顔を美緒にも見せようと彼女を探す。遠くにいる美緒と目が合うと、美緒が慌てて何かを隠した。少し気になったが、追及するのも無粋だと思い、何も聞かなかった。
「それ、欲しいの?」
近寄ってきた美緒が、サングラス姿のジンに言う。
「いや、ビックリするぐらい似合わねぇの」
そう言うと、二人で笑った。
「理なら似合うかもな」
「あ、たしかに」
また二人で笑う。
「何か良いのあった?」ジンがサングラスを戻しながら聞く。
「ううん。今日はあんまりかな」
「そっか」
二人が雑貨屋を出る。ジンが「俺、トイレ行っていいかな?」と聞くと、「あ、私もちょうど行きたかった」と二人で向かう。
 ジンが用を済ませて戻ってくると、雑貨屋に戻った。
「…これか」
目が合った時、美緒が隠したもの。アクセサリー売り場の月のモチーフのペンダントがそれだとすぐに気づいた。前にプレゼントした星のイヤリングとよく似合う。値札を見る。その値段が、美緒が隠した理由だとジンが気づいた。
「気つかわなくていいのにな」
美緒が「欲しい」と言えば、「買ってあげようか」となるのが当然だ。だから美緒は気づかれないように隠したのだろうと理解した。その思いやりがジンは有難く、美緒を愛しく思った。美緒に気づかれないように、ジンはすぐに雑貨屋を出た。さっきと同じ場所で美緒を迎える。
「なんか甘いものでも食べに行こうか」
「うん、休憩しよ」
二人がドーナツカフェへ向かった。

 「…ジン?」
カフェに向かう途中、背中に声をかけられ二人が振り返る。宗悟と大山がいた。
「おう、宗悟!」と手を挙げる。隣で美緒も手を振っていた。
「大山君も、こないたぶりだね」
「先日はどうも」と大きな体が頭を下げた。
「そっか、会ったんだよな」宗悟がジンと大山の顔を見る。
「お前らデートか。いいなぁ」
「そっちは、今日は試合か」
「おう」
「…なんか、前にもこんなことあったな」
宗悟がそう言うと、ジンと美緒と三人で笑う。
「前の時は、大山じゃなかったけどな」
「…誰だっけ?」
ジンが聞く。美緒が「覚えてないの?」と笑い、宗悟が「荒木だよ」と答えた。
「大山君は左腕はケガしてない?」
美緒が聞き、その一言でジンが荒木を思い出した。大山が「左腕ってなんすか?」と気にする。
「昔、理が荒木の左腕をもぎ取ったんだよ」
「もぎ取ってはねぇだろ」
三人が笑った。大山が「元気いっぱいですよ」と左腕で力こぶを作ってみせる。
「…おっきいねー」美緒が大山を見上げる。
「私の倍ぐらいあるんじゃない?」
美緒が大山に近づき背を比べた。大山の隣に並ぶと美緒の小ささが際立ち、その姿の可愛らしさにジンが微笑む。
「い、いえ…」
近距離で接してくる美緒に大山は戸惑い、恥ずかしがっているようだった。その珍しい様子に宗悟が笑う。
「じゃあ、俺らはそろそろ行くよ」
宗悟が話を切り上げた。ジンが「頑張れよー」と応援する。
「ありがとよ」
「大山君も、頑張ってね!」美緒がエールを贈る。
「はい!ありがとうございます!」大山が深く頭を下げた。
「行くぞ」と宗悟が促し、二人が市民体育館へと向かう。
「大山」
「はい?」
「美緒ちゃんはジンの彼女だからな」
「…わかってますよ」
その声の小ささに宗悟が笑った。

 「俺、美緒がいてくれてよかったな」
ドーナツカフェ。コーヒーをすするジンが言う。
「美緒がいてくれるおかげで、寂しくない」
「…どうしたの、急に」
「さっきの、大山君」
「うん、おっきかったね」
「大山君と学校で会ったとき、理もいたんだ」
ジンが、理と大山の会話のことを話した。
「でも、理君も頑張ってるんだから、誰かの希望になってるんじゃない?」
「理は…孤独だから。仲間と一緒に頑張ってるわけじゃないからな。誰かの希望になるなんて事はないと思うんだよな」
「そっか…」
「ジン君は、なんでも、わかっちゃうんだね」美緒が小さくうつむいた。
「だから、俺には美緒がいてくれるから、寂しくない」
「ほんとに、ありがとう」と微笑んだ。
「…うん」
美緒が、小さく微笑んでドーナツを食べた。「おなじのがいい」と頼んだドーナツは、甘さが控えめで素朴な味だった。

 空手部の団体戦。中堅の荒木の試合の真っ最中だった。宗悟のチームは先鋒戦では黒星、次鋒戦は白星を飾った。
「やめっ!」
審判が試合を止める。中堅戦は、黒星をつけてしまった。
「…すまん」
荒木が悔しそうに頭を下げる。副将の宗悟、大将の大山は負けを許されない。
「気にすんな、あとは任せろ」
宗悟が立ち上がる。荒木の顔から悔しさは消えなかった。
「よろしくお願いします」
大山が、大きな体で頭を下げた。
「体あっためて待っとけ」
宗悟が堂々とした足取りで試合へと向かった。

 宗悟が相手の副将と対峙する。身長や体格は宗悟と遜色なかった。学年も三年で、副部長を務める男だと聞いている。まるで、自分自身と戦うような、そんな気がしていた。

「はじめっ!」

試合が始まる。すぐに宗悟が前に出る。努力とは前に進む力だ。自分に合った戦い方をこれまでの試合の中で学んできた。
 急に距離を詰められた対戦相手が、左足を一歩後ろに下げる。前に残った右足に宗悟が左足を打ち込む。相手の体がグラつく。揺れている相手に、宗悟が拳を何発も打ち込んだ。相手の体が大きくよろめき、体勢を立て直すために両腕が遊ぶ。その隙をついて、上段回し蹴りを繰り出した。

ゴッ!

相手の左側頭部に宗悟の蹴りが的確に入った。対戦相手の体が、落ちるように床に倒れる。
「やめっ!」
審判が試合を止める。誰の目から見ても宗悟の勝ちだった。試合展開の速さに、観客席から「おぉ…」という声が漏れた。
「ふぅ」
宗悟が一息つく。対戦相手は、まだ立ち上がれそうになかった。宗悟が手を差し伸べる。対戦相手がそれを掴み、立ち上がった。そして、二人が礼をし、お互いの健闘を称え合って退場した。その場面に、観客から少しの拍手が起こった。
宗悟がチームメイトの元に戻る。白星をもたらした宗悟を、仲間たちが笑顔で迎えた。
「ありがとよ」荒木が言う。宗悟も「おう」と笑顔で答えた。
同点になったことで、勝敗は大将戦にかかる。その拮抗した試合に観客席は大きく盛り上がっていた。
「宗悟さん」
大山が頭を下げた。
「あと頼んだぞ」
宗悟が大山の背中を叩いた。
「任せてください」
大山が大きな背中で答えた。
宗悟が、観客席を見回す。晴香の姿はない。
「…当たり前か」
「ふぅ」と小さく溜息が出る。
「…ガッカリしたのか?俺は」
しかし、後ろ向きな気持ちではなかった。今の自分を、見ていて欲しかった。それは、今の自分に自信を持てていたからだった。もし見ていてくれてたら、晴香は何て言うのか、楽しみな気持ちがあった。
「…甘えてんじゃねーって言われるかな」
宗悟が、小さく笑った。

 「ただいま」
理が家に帰る。真っ暗な玄関で靴を脱ぎ、狭い廊下を進む。静かな様子から、両親はもう寝ていると予想した。
「…理?」
「うぉっ」
声をかけられ、小さく驚く。声をかけたのは母親だった。リビングのテーブルについていたが、力なくへたりこんでいた。その姿を部屋に入り込む外の明かりがまだらに照らしている。
「なにしてんだ、電気もつけないで」
理が電気をつける。明るくなると、部屋の中が荒れているのが見えた。その様子に溜息が出る。
「…またケンカしてたのか?」
そう言いながら母親の横を通り過ぎ、カーテンに手をかけた。
「…理」
「ん?」
「お母さん、もう頑張れない…」
母親がポツリと言う。
「もう限界なの。もう頑張れないの」
「…そっか」
理がカーテンを勢いよく閉めた。
「もう卒業できるだけの成績はとれたから。またもう少しバイト増やすよ」
「…うん」
理が荒れた部屋を片付け始めた。


 次の日の日曜日。美緒は再びショッピングモールにいた。その日は晴香と一緒で、美緒の買い物に付き合ってもらっていたのだった。買い物を終えた二人は、ドーナツカフェで一休みすることにした。
「ごめんね、付き合わせちゃって」
「ううん、いいよ。私も楽しかったし」
「ドーナツもご馳走してもらうしね」と、小さな丸いドーナツを一口で頬張った。
「しっかしあんた、悩んでたねぇ~」
「うん。まぁね」と美緒が照れくさそうにした。
「これは喜んでくれるね」晴香が笑う。
「…うん、多分ね」と美緒が答える。美緒が買ったものは、ジンへのクリスマスプレゼントだった。
「すごいね、わかるんだね」と晴香が微笑む。
「晴香は良かったの?宗悟君にプレゼント買わなくて」
美緒が話題を変えた。晴香は「いらないでしょ」とそっぽを向いた。
「別に付き合ってるわけじゃないんだし」
「…ねぇ?」
「ん?」
「宗悟君は、そんなにだめ?」
晴香の、コーヒーを口に運ぼうとする手が止まった。
「まっすぐだし、努力家だし、悪い人じゃないと思うよ?」
「そんなこと、わかってるよ」
その言い方には、「当然のことだ」というニュアンスが含まれていた。
「それこそ、小学校とか中学の頃は、すごいなぁって思ってたよ。よくそんなに頑張れるなぁって。誰よりも頑張る。無限に頑張る。その姿を見て、本当にすごいなぁって」
「でもねぇ…」と、表情に落胆が浮かぶ。
「あいつは、そこで満足しちゃう。頑張った自分に納得しちゃう。そういう、甘えてる所が好きになれない」
「…甘えてる?」
「まぁ、自分に納得するのはいいよ?自分の中で満足するのはいいと思う。でも、それを他人に求めるのは甘えでしょ」
「そう、なのかな」
「…昔、空手の試合で、いつものように負けてね」
「うん」
「その時あいつ、『また頑張るよ』って笑って言ってたの。その顔見てたらね、『負けたけど、俺、頑張ったよ』って言われてる気がしたの。その時、なんか、すごくガッカリしちゃって」
「…そっか」
「こないだのテスト、ジン君は何点だった?」
「…九十五点」
「…うそ」
「ほんと」
天才と言われるジンといえど、その点数には晴香も驚いた。
「いつか、百点超えるんじゃないの?」
「私も言った。『百点までしかないんだよ?』って」
美緒が小さく笑った。
「ほら。ジン君はちゃんと結果で出す。でも、あいつは…」
「宗悟君は、何点だったの?」
「聞いてないけど、どうせ低いでしょ」
晴香が投げやりに言った。美緒は「聞いてあげればいいのに」と思ったが、なぜかそれを言えなかった。
「二年で部長なんかになっちゃったからなぁ…」
「すごいことだと思うけど」
「その事自体は確かにすごいよ。でも、あいつの『努力』が、結果を出さないまま評価されちゃったのよ。そのことが、あいつの『甘え』に拍車をかけてる」
「なのかなぁ?」
「だって、『先鋒部長』だよ?それで喜んでんのよ?それで喜んでちゃだめでしょ」
「もしかしたら、悔しがってるかもよ?」
「…いや、あいつにそんな気持ちはない」
そう、きっぱりと言い切った。
「そんな気持ちを少しは持って欲しいわ」晴香が腕を組んで、背もたれに「どんっ」と背中を預けた。
「ふふふ」
小さく笑った美緒を、晴香が「なに?」と気にした。
「でも、お守りは受け取ったんでしょ?」
晴香が、少し恥ずかしそうに頷く。
「それは、どう思ったの?」
「…まぁ、嬉しかったよ。三つ揃えるのも簡単じゃないし」
「…じゃあ、宗悟君に期待しないわけじゃないってこと?」
晴香が小さなため息を吐いた。
「期待しても、裏切られて、ガッカリさせられるのもしんどいのよ」
その言葉は独り言のようだった。晴香が美緒の目を見る。
「あんたの、ジン君はいいよね。どんな期待も応えてくれるんでしょ?」
「ん?」
「なんでもわかってくれるんでしょ?」
「…そうだね」
美緒は、思わず目をそらした。ドーナツを一口食べる。チョコレート生地にチョコレートクリームのかかったドーナツは、とても甘かった。


 十二月二十四日。クリスマスイブで、二学期の終業式の日だった。

 音楽室と準備室の両方の掃除を終えた理に、松下が紅茶を淹れてくれた。
「…おいしいです」
理がしみじみとつぶやく。どんなに体が疲れても、どんなに心がすさんでも、これを飲むとすぐに回復する。
「そう、よかった」
松下が微笑んだ。
「年末年始は、理君は忙しいんだもんね」
「はい。特に、明日からは地獄です」
「はっはっは」と理が笑う。それは、「もう笑うしかない」というような笑い方だった。
「そっか。ファイト」
松下が、手をグーにして小さく上げる。
「…それ、好きなんです」
「ん?」
「『ファイト』」と理がグーを作る。松下が「あぁ」と笑った。
「君の前任の女の子が言ってたんだ、『ファイト』って」
「あの、優しくて優しくてって言ってた…」
「そうそう。その子がね、頑張ってる人に『がんばれ』はひどいからって。でも、『応援してるよ』って気持ちは伝えたいからって」
「それで、『ファイト』ですか」
「うん。だと、言われた方も受け取りやすいよね」
「…まさしくです」
「うん?」
「今まで『がんばれ』とか言われると、『これ以上がんばれないよ』って思ってて。でも、そう答えるのも何か嫌だし」
「だよね」
「でも『ファイト』は、すんなり受け取れるなぁって思ってたんです」
理は今まで、その理由を松下からの言葉だからだと思っていたが、今の話を聞いて合点がいった。もちろん、それも理由の一つではあるだろうが、この「ファイト!」という言葉を見つけられる女の子の優しさに感動していた。
「…優しい人ですね」
「うん。とっても優しくてかわいい子だったよ」
「へぇ」
「その子の彼氏が君みたいな選ばれた戦士だったんだけど、彼女は自分の持てる限りの優しさを使って彼を支えてたな」
「いい子ですね」と理が紅茶をすする。松下が「…あれ?」と理の目を覗き込んだ。
「今ちょっとガッカリした?」
松下がからかう。理は「してませんよ!」と慌てて否定した。
「だめだよ、人の彼女に手を出したら。もう結婚も約束してるんだから」
松下がティーカップを持ち上げ、口に運ぶ。一口飲むと、受け皿に戻した。その一連の仕草はとても美しく、理が見とれてしまう。
「先生は…」
理の口から思わずこぼれた言葉を、松下が「ん?」と拾う。
「あ、いや、えっと…」
頭の中で慌てて話題を探す。
「年末年始は、休めるんですか?」
「年始に、少しね」
「そうですか」
「うん。久しぶりに実家に帰ってゆっくりするよ」
「いいですね」と理がカップを持ち上げた。中の紅茶は、あと一口で飲み干せる程しか残っていない。理は、口をつけずに受け皿に戻した。
「じゃあ、学校には来ないんですよね」
「そうだね」と松下がうなずく。
「理君」
「はい」
「もう一杯飲む?」
「いいんですか?」
「うん。もうちょっとゆっくりしようよ。あったかいの淹れてあげるから、それ飲んじゃいな」
「はい」と理がカップの中の紅茶を飲み干した。冷めていても、松下が淹れてくれた紅茶は世界で一番おいしかった。

 「晴香」
校舎の玄関の少し開けた空間で、宗悟が晴香を捕まえた。「なに?」と返す晴香は、やはり少し冷たい。
「ちょっと、聞いてもらってもいい?」
しかし、宗悟は堂々とそう言えた。試合に勝ったことと自分に合った戦い方を見つけたことで、自分に自信を持てていたからだった。
「…うん、いいよ」
「ありがとう」と言ってから、続ける。
「晴香から、『甘えてる』って言われたとき、正直、言ってる意味がわからなかったんだ。こんなに努力してるのに、それのどこに『甘え』があるんだろうって」
「…うん」
「空手部に、大山ってのがいるんだ」
「…知ってる。あの大きい子でしょ」
「うん。大山は、俺より強いんだ。今まで、一回も勝ててない。でも、そんな俺を尊敬してるって言ってくれるんだよ」
「…そう」
「その理由は、『努力してるからだ』って。俺に比べたら、自分の努力なんて屁みたいなもんだって」
「…うん」
「それは前の部長も言ってくれた事だった。『俺のなんか比べ物にならない』って言ってくれた。それが嬉しかったんだ」
「…そっか」
「でも、大山がこうも言ってた。『空手っていう共通項がありますからね』って。それで気づいた。やっと気づいた。努力は、比べるものがあって初めて認めてもらえるものなんだって。逆に言えば、比べるものがない人には、努力する姿は見てもらえても俺の気持ちや想いが伝わる訳じゃないんだって」
晴香が宗悟の目を見る。後ろ向きな言葉が並ぶが、その目はまっすぐに前を向いていた。
「そして、自分の気持ちをその姿だけで理解してもらおうっていう俺の態度が、晴香の言う『甘え』なんだって、わかったんだ」
「…そっか」と頷く。
「だから、晴香には結果で見せなきゃいけないと思ってね」
「うん」
「こないだの試合、勝ったんだ。チームも、俺も」
「…そうなの?」と言う晴香の声は、少し明るかった。
「うん。でも、大将戦じゃない。副将戦だ。だから、この結果が晴香から認めてもらえるものじゃないってのも分かる」
「…うん」
「でも、『次の結果を見てください』って申し出をする資格ぐらいは、あるかなって」
「次の結果?」
「うん」
宗悟が背筋を伸ばす。
「晴香と同じ大学に受かったら、もう一度、俺に告白させてください」
宗悟は、誠実な目をしていた。
「もちろん、返事も受験が終わってからでいい。受かってても、落ちてても、晴香の返事はその結果に左右されなくていい。でも、俺はやっぱり君が好きだ。だから、受かってたら、もう一度、俺の気持ちを聞いてほしい」
「お願いします」と宗悟が深く頭を下げた。
「…宗悟」
名前を呼ばれ、頭を上げる。
「こないだのテスト、何点だったの?」
「…九十点」
その数字に、晴香は小さく驚く。ジンよりは低いが、自分よりは遥かに高い。晴香が体を宗悟に向ける。
「…うん」
晴香が頷く。
「…ま、受かってからだね」
その返事に、宗悟の顔に喜びが浮かぶ。
「がんばりな」
晴香が微笑んだ。
「がんばるよ」
宗悟が、力強くうなずいた。晴香が上履きから靴に履き替え、かかとを「とんとん」と鳴らした。
「…試合、勝って良かったね」
「じゃあね」と微笑んで晴香が校舎を出た。

「ありがとー!」

後ろから、宗悟の大きな声が聞こえ、小さく笑う。

「俺、がんばるよー!」

「…恥ずかしくないのかな」

そう言って、また小さく笑った。

 ジンと美緒は、ジンの部屋にいた。受験を控えた二人は今年は外には行かず、勉強会をして過ごしていた。しかしやはり、ジンが美緒の先生になる。
「…できたー」
今まで解けなかった問題をジンの説明により理解し、解くことが出来た。美緒が、ホッとした顔をする。
「だいたい分かった?」
「うん、ありがとう」
「ごめんね、付き合わせちゃって」
「ううん。人に教えることで、こっちも理解を深める事ができるからね」
「私がわかんない問題、全部わかっちゃうんだもんね。やっぱり、ジン君はすごいね」
「そう?」ジンが嬉しそうな顔をする。
「うん、すごい」
一方で、美緒は元気がなかった。ジンが「ちょっと、休憩しようか」と提案した。
「ちょっと待ってて」と、ジンが部屋を出た。

 その間に、美緒は自分のカバンから可愛くラッピングされたプレゼントの包みを取り出した。ジンの事を考えれば、勉強会と言ってもプレゼントを用意している事は予想できる。美緒も晴香に付き合ってもらい、長い時間をかけてプレゼントを選んだ。
「お待たせしました」
戻ってきたジンは、お盆を持っていた。今まで二人が勉強していたテーブルの上にそれを置く。その上には、丸太の形のブッシュ・ド・ノエルと、二杯のコーヒーが乗っていた。
「…ケーキ?」
「うん、一緒に食べようと思ってさ」
ジンが微笑む。美緒は、ケーキの登場は予想していなかった。手作りのクッキーでも焼いてくれば良かったと後悔した。
「はい、メリークリスマス」
二人でコーヒーカップで乾杯した。そして、一口飲む。
「…おいしい」
美緒がつぶやく。
「よかった」
ジンも、幸せそうに笑う。
「ケーキ切ろうか」
ジンがナイフを取ろうとすると、美緒が「私がやる!」と慌ててナイフを手にとった。その様子にジンも少し驚いたが、「そう?じゃ、お願いね」と任せた。
「うん」
美緒が、ケーキを半分に切り分ける。それぞれをお皿に乗せ、二人で食べる。
「おいしい」
美緒が言う。ジンも、「よかった」と笑った。
「…ジン君」
美緒がプレゼントを差し出す。「え、本当?」とジンが喜んだ。
「うわー、嬉しいな、ありがとう!」
そう言って、両手で大事に受け取った。
「開けていい?」
笑顔でそう聞くジンに「もちろん」と美緒も頷いた。
ジンがプレゼントを丁寧に開ける。中から、濃い青の毛糸の手袋が出てきた。
「あぁ、手袋だ」
手袋を取り出したジンが喜ぶ。そして両手を手袋におさめた。
「どう?」
両手を開いて美緒に見せる。「似合ってるよ」と美緒が微笑み、「えへへ」とジンも笑った。
「ん、ちょっと待てよ?」とジンが立ち上がり、二年前のプレゼントのマフラーを首に巻いた。
「やっぱり。ほら、ピッタリ」
手袋をつけた両手を広げ、美緒に微笑む。
「よかった」
美緒も、笑顔でジンを見上げた。
「嬉しいなぁ~。あったかい」
ジンが手袋をつけた両手を頬に当て、喜んだ。その様子を見て、美緒は少し安心していた。
「じゃあ、俺もあげる」
ジンが、可愛くラッピングされた小さな箱を渡した。「…ありがとう」と美緒が受け取る。
「開けていい?」
「もちろん」
美緒がリボンをほどき、箱を開けた。
「…あ」
美緒の目に、月のモチーフのペンダントが映る。あの時、イヤリングと合いそうだと思い、一目見て心がときめいた、あのペンダントだ。
「これ…?」
ジンを見る。
「こないだ買い物に行った時、欲しそうにしてたと思ったから。ちがう?」
ジンが微笑む。
「…ううん、合ってる」
美緒がそう答える。しかし、あまり嬉しそうに見えない。その反応にジンは戸惑い、「…どうかした?」と聞いた。
「…すぐにわかったの?」
美緒は顔は伏せたまま目だけをジンに向けた。
「ん?」
「私がこれが欲しいって、すぐわかったの?」
「もちろん、すぐにわかったよ」
「そう…」
美緒が目を伏せた。
「私はね、すっごく悩んだの。ジン君が何が欲しいかわからなくて。何をあげたら喜んでもらえるかわからなくて、いっぱい考えたの」
「嬉しいよ、ありがとう」
「ちがうの!」
「え?」
「私だって、ジン君に喜んで欲しい!」
「喜んでるよ」
「ちがう!ジン君が喜んでるのは、『自分が喜べば、わたしが喜ぶ』ってわかるからでしょ!そんな、私に気を遣った喜びなんかじゃなくて、ジン君の本心が見たいの!」
「気を遣ってるつもりは…」
「ジン君は、私がグーを出せばチョキを出すし、チョキを出せばパーを出す!私に合わせた手を出しちゃう!」
美緒の瞳に涙が浮かぶ。
「ジン君が勝ったっていいし、私が負けたっていい!同じ手を出して何回もあいこになって、結局あいこのまま、どっちに勝ちも負けもつかないで終わったりしたっていいのに!」

「私、もう、わかんないの…」

気持ちを吐き出した美緒は、泣き崩れてしまった。両手で顔を覆い涙を流す小さな女の子を、ジンはただ見ていた。頭の中で彼女への返事を探したが、その答えは見つからなかった。

 宗悟の家。家族全員が集まってのクリスマスパーティ。酒を呑み、上機嫌に酔っぱらった父親が宗悟の肩に腕を乗せ、体重をかけた。「なにすんだよ?」と笑う。
「お前、そろそろ部屋に戻ろうとか思ってんだろ?」
そう言って顔を近づける。「酒くせぇんだよ!」とまた笑う。
「だめだぞ!今年こそは終わりまでいさせてやる!」
「今年こそって、今年こそ大事なんだよ!」
そのやりとりに家族全員が笑う。
「毎年毎年、勉強勉強って、そんなに勉強が大事か!」
「父親のセリフじゃねぇんだよ、さっきから!」
「一年ぐらい浪人したっていいだろうがぁ~」
「なんて事言うんだ、お前は!」
また家族が大きく笑う。
「宗悟、もういいよ、行きな」
母親が助け舟を出してくれる。「ごめんね」と立ち上がり、部屋へ行こうとした。
「だめだ!許さん!」
父親が床に寝そべって宗悟の片足をつかむ。母親が「お兄ちゃん助けてあげて!」と弟と妹に言うと、二人が父親の上に乗り動きを止めた。
「なにっ!はなせっ!」
父親が子供の下で暴れるが、二人は元気にはしゃぎながら父親の体を床に押さえつける。
「がんばってねー!」
小さな二つのエールを「ありがとう!」と受け取り、宗悟はリビングを後にした。

 宗悟が自分の部屋に入る。机につくと、目の前にぶら下がる三つのお守りが見える。晴香が受け取ってくれて、お揃いだと思うだけで胸が幸せになる。
「よし、やるか」
机に置きっぱなしにしていた参考書を開く。リビングからは楽し気な声や音が漏れ聞こえてくる。そんな雑音も、宗悟の勉強のいいBGMに思えた。
 晴香からもらったピンク色の多機能ペンを手に取る。あれから二年間使い込み、宗悟の手にすっかりなじんでいた。
「がんばりな」
晴香の言葉を思い出して気合を入れ、目の前の問題に向き合った。

 美緒が帰った後の部屋。ジンは机に向かい、一人で勉強していた。問題集の問題は、スラスラ解ける。わからない問題など一つもない。
問題を解き終わり、赤ペンを持って答え合わせをする。それは、赤い丸を並べていくだけの単純作業だった。

「私、もうわかんないの」

 ジンの赤ペンを回す手が止まる。今向き合っている問題がくだらなく思え、ペンを投げた。

 後ろを振り返る。小さな丸いちゃぶ台。食べかけのケーキと飲みかけのコーヒー。少し潰れたクッション。そして、月のモチーフのペンダント。今まで美緒がそこにいた形跡がそのまま残されていた。

「私、もうわかんないの」

そう言った美緒の気持ちも、自分が返すべき言葉も、何もわからなかった。正解ばかりが並んだノートを見る。こんなくだらない事はわかるくせに、自分の大事な人の気持ちはわからない。自分がとんでもなく大馬鹿者に思えた。


 「おい、風口」
バイト中、社員の男から声をかけられた。クリスマスも終わり、大晦日の迫ったその時期は、嵐のような毎日だった。「お疲れさまです」と頭を下げる。
「お前、高校出たらフルタイムになるんだよな?」
「はい、そうお願いしてます」
「そっか…」
社員の男が少し考える様子を見せた。理は問題があったのだろうかと不安になった。
「あの、なにか…」
「いや、お前さ、社員になる気ないか?」
「え?」
「もちろん、お前さえよければだけど」
「あぁ…」
「余計な事言うかもしれないが、お前の場合、将来を考えたら、まず足場をしっかり固めるのも必要じゃないか?」
「…ですね」
そう言ったが、理は首を縦に振れなかった。
「ま、考えとけよ。バイトのままフルタイムでももちろんいいし」
「…はい」
「じゃあな」と社員の男は去って行った。理は、その背中を頭を下げて見送った。

 帰りの電車の中。理は社員の男から言われた提案の事を考えていた。確かに、有難い話ではある。しかし、素直に喜べなかった。父親は事故にあってからずっと働いていない。母親は、「もう頑張れない」と言った。そして、きっと「社員になる」という話をしたら、安心するのだろう。
「…はぁ」
理の決して大きくない体に、重圧がのしかかる。
『将来を考えたら、まず足場をしっかり固めるのも必要じゃないか?』
言われた言葉を思い出す。支える命は三人分だ。しかし、それを支える脚は二本しかない。
「『将来』かぁ…」
その将来、ずっと、この重圧を感じて生きていくのだろうか。そう思うと、ため息が出た。
 電車が駅にたどり着く。
「降りたら、紅茶を飲もう」
そう決めて、理が電車を降りた。

 理が電車を降りた。ホームの階段を下り、改札までの長い直線を歩く。「紅茶を飲もう」と心に決めると、この直線もなんとか歩けた。
「ふぅ」
改札に辿り着き、ICカードをタッチする。表示されたカードの残額を見て「チャージしなきゃな」と思いながら駅を出た。

「おつかれさん」
「うわぁ、ビックリしたぁ!」

「あぁ、ごめんごめん」
急に声をかけられ、理が驚いた。そこにいたのはジンだった。「なんだよ、ジンかよ。驚かすなよ」と笑った。
「…ごめんな」と謝るジンは元気がなかった。ジンのそんな様子は珍しく、理が「どうかしたのか?」と聞いた。
「うん…」
しかし、ジンは口を開かない。
「…ごめん、チャージだけしていい?」
理が券売機を指さす。ジンが「あぁ、うん」と頷いた。
「ちゃっちゃと済ますから」
理がICカードを券売機につっこむ。ジンは「ゆっくりでいいよ」と答えた。
理の作業が終わってもジンは話し出さなかった。理は「まぁ、ゆっくり話せよ」と言いつつ、近くの壁によりかかった。ジンも黙って理の隣に寄りかかる。少しして、ジンが口を開く。
「なぁ、理」
「あー?」
「お前、わかんない事ってあるか?」
「そら山ほどあるさ。お前みたいに天才じゃないからね」
「…たとえば?」
「ん?松下先生って、なんであんなに魅力的なのか…」
そう、理は少しふざけて言ったのだが、ジンは「…そうか」と言っただけだった。小さな冗談だが、少しの微笑みすらも見せないジンを理が気にした。
「なんだよ、どうしたんだよ?」
「ん?うん…」
ジンが、ショートケーキの美味しいケーキ屋に目を移す。美緒と過ごした幸せな時間を思い出した。
「美緒にさ、言われちゃったんだよ、『なんでもわかっちゃう』って」
「ん?」
「『私、もうわかんないの』って。泣き出しちゃって」
「うん…」と理がうなずく。寒い日の朝に花壇に腰かけてジンを待つ美緒の姿を思い出した。
「その言葉の意味をさ、わかろうとしても、わかんなくてさ。どう理解しようてしても、できなくて」
「…それがだめなんじゃあねーの」
「え?」と、ジンが理の目を見た。理は、どこか違う方向を見ていた。
「のどかわかねぇ?」
理が自販機を指さした。「なんか飲もうぜ、寒いしよ」と、ジンの返事を聞かぬまま、自販機へと歩き出した。ジンも、「話の途中なのにな」と思いつつ、その後に続く。
「さいしょはグー」
突然、理がグーを出した。ジンも戸惑いつつグーを出す。
「負けた方の奢りな」
そう言って笑ってから、理が「じゃん、けん、ぽん」と声をかける。理がグーを出し、ジンはチョキを出した。理が「やりぃ」と喜ぶ。ジンも、「しょうがねぇな」と小さく笑った。
ジンが自販機に小銭を入れ、ブラックのコーヒーを買う。そして、「お前は、カフェラテ?」と理に聞く。
「いや、紅茶がいい」と、赤いパッケージのストレートティーを示した。
「おい、どうした甘党?」そう言いつつ、紅茶のボタンを押した。落ちてきた紅茶のペットボトルを理に手渡す。
「紅茶を飲むと安心するんだ」
「ふーん」
「ありがとよ」
理がお礼を言うと、ジンと理が、それぞれの飲み物を一口飲む。二人の体に、温かさが染み渡る。そして、二人同時に「はぁ」と白い息を吐いた。
「うまいの、紅茶?」
「うまいよ」
ジンの質問にそう答えたが、松下の淹れてくれた紅茶の方が何倍も美味しかった。
「お前、わざと負けたろ?」
理が言う。ジンは「え?」と驚いた。
「金がない俺を気遣って、わざとじゃんけん負けたろ?」
「そんな…」と言ったが、その通りだった。理は最初にグーを出した後、そのままグーを出すのがほとんどだった。それを知っていたジンは、わざとチョキを出した。
「いや、いいよ、俺は。タダで紅茶飲めるし」
そこでもうひと口、理が紅茶を飲んだ。
「でも美緒ちゃんは、それじゃあ寂しいんじゃない?」
「さみしい?」
「だって、お前が出した手は美緒ちゃんのための手だろ?」
「…それじゃ、だめなのかな?」
「だめっていうか、やっぱり、寂しいだろ」
ジンは黙ったままだった。
「美緒ちゃんがお前に出して欲しい手は、お前が『出したい』と思う手なんだよ」
「俺、別に出したくない手を出してるわけじゃ…」
「うん。そうなんだと思う。それに、別に美緒ちゃんに気を遣ってるわけでもないんだろ?」
「うん」
「でも、美緒ちゃんは寂しいんだよ」
「…なんで?」
「一回もあいこがないからだ」
「…あいこ?」
「つまり、一回も二人で同じ手を出してないんだろ」
ジンが、右手でパーを作って手の平を見る。
「手が揃わないのは寂しいし、同じ手を出して何回もあいこを繰り返すから分かり合えるって事もあるんじゃないの?」
理がジンの手の隣に「パー」を並べた。理の手はジンのきれいな手と違い、傷だらけでボロボロだった。
「お前が一方的に理解してあげるだけじゃなくて、お前の事を理解してもらったり、一緒に理解しあったり、分からない事を『わからない』って共感しあったりする事も必要なんじゃないの?」
その言葉に、ジンが思わずスマホを開く。待ち受け画面には両手を上げてポーズをとる笑顔の美緒がいる。
「二年前のだろ?その写真」
理が横から画面をのぞき込んだ。
「この笑顔が一番好きなんだ」
「その笑顔を撮ってる時、お前はどんな顔なんだろうな?」
「…笑顔だと思うけど」
「それ、美緒ちゃんから見えてないんじゃない?」
「え?」
「ほら」と理がスマホを構えてジンに向けた。理の顔は、スマホに隠れてジンからは見えなかった。

カシャッ。

理のスマホに、落ち込んだジンが保存される。
「それにな、」と、理が紅茶を飲んだ。やはり、松下が淹れてくれた紅茶の方が断然おいしい。
「わかんないってさぁ、こわいんだよ」
「ん?」
「恋愛の話ではないんだけどよ」
「うん」
「俺は、まぁ、毎日毎日バイトして、稼いで、その日の命をつないでる」
「うん」
「この苦しいのが、いつまで続くのか、いつまでも終わらないのか、何にもわからん。でも、とにかく戦わなきゃいけない。じゃないと、生きていけないからな」
ジンが、黙って深く頷いた。
「だから、美緒ちゃんはこわかったんじゃないの?」
「え?」
「お前が何を考えてるか、何をしたら喜ぶか。わからないから『いつか嫌われるかも』って怖かったんじゃないの?」
「…そっか」と、納得したような顔をしたジンに、理が「いや、これも正解かどうかわかんねぇんだぞ?」と釘を刺す。
「…そっか」
ジンの顔に再び不安が浮かんだ。
「ただな、もし美緒ちゃんが本当にそういう事に怯えてたんだとしたら、結構、つらいと思うよ?」
「つらい」という言葉を出した隣の小さな男を見下ろした。
「理も、つらいのか?」
理がジンを見上げた。そして、肩に手を置き、力をこめて思いっきり握った。ジンが、「いででででで!」と声を上げた。
「何すんだよ!」
「俺は、こんな風に強いから平気だけど。あんなに細くてか弱い彼女だったら、耐えられないと思うよ」
そう言われ、ジンの頭に美緒の小さくて繊細な姿が浮かぶ。
「…もっと、笑顔を見せてあげればいいのかな?」
「笑顔だけじゃなくて、全部見せろっつってんの」
「こういう姿も、全部」理がスマホをジンに向けた。落ち込み、不安そうな顔の自分がいる。
「お前も同じだけ、こわがってあげたら?」
「こわいなぁ…」
ジンが、そうつぶやいた。理は「おう、こわがれこわがれ」と笑い、残りの紅茶を飲み干した。やはり、松下が淹れてくれた紅茶の方が断然おいしい。
「一緒にこわがってあげたら、美緒ちゃんはこわがらずに済むかも」
「…矛盾してない?」
「そ。矛盾すんの。わかんない事だらけなの、人間は。テストの問題みたいに明確な答えが必ずあるわけじゃないの」
理がペットボトルをゴミ箱に捨てた。
「じゃ、行くわ」
「おう、ありがとな」
「こちらこそ、紅茶ごちそうさま」そう言って理が歩き出す。
「あぁ」理の背中を見送りながら、ジンがコーヒーをすする。すっかりぬるくなっていた。
「ジン!」
理が、少し離れたところから声をかけてきた。「なんだ?」と少し大きな声を出す。
「仲直りできたら、メシおごれよ!」
その言葉にジンは笑って、「わかったよ!」と返した。理は、いい笑顔を残してその場を去って行った。
「…こわいな」
そう呟いて、空き缶をゴミ箱に捨てた。

 
 クリスマスイブから四日が経った冬の日。ジンが学校のレンガ造りの花壇のフチに腰かけていた。首に、美緒からもらった濃い青のマフラーを巻いている。冬休みに入り、いつもより静かな学校は不思議な雰囲気だった。グラウンドで練習をする野球部の元気のいい声を遠くに聞きながら、ジンは花壇に咲く色とりどりの花を眺めていた。花の名前はジンにはわからなかったが、改めて見ると可愛い花だなと思っていた。
 そのとき、ジンの見ていた花を小さな人影が覆った。そっちを見る。美緒がいた。ジンは、すぐに立ち上がった。
「…ごめんね、こんな時期に呼び出して」
「ううん」と美緒が首を横に振る。耳に、星のイヤリングはつけていなかった。
「…来てくれて、ありがとう」
「うん」と今度は美緒の首が縦に動く。
 しかし、そのあとジンは言葉が続かなかった。何を話せばいいか。何を言えばいいか。何もわからなかった。美緒も何も話さない、静かな時間がしばらく続いた。
「…だめだ、わかんない」
ジンが言う。それはまるで「降参だ」というような言い方だった。ジンから初めて聞く「わかんない」の言葉に、美緒が小さく驚いた。ジンが、「あのね、」と話し出す。「うん」と小さくうなずいた。
「美緒から『もうわからない』って言われたとき、なんて言ってあげたらいいか、わからなかったんだ」
「うん」
「そのあと、独りでたくさん考えたんだけど、全然わからなくて。だから、理にも相談してみたんだよ。でも、それでもわからなくて」
「…うん」
「今でも、美緒のために、何て言ってあげればいいか、全くわからないんだ」
「…そう」
「だからね、俺の気持ちを、聞いて欲しいんだ」
「…いいよ」
美緒がうなずく。ジンは、少し緊張した顔をした。美緒が初めて見るジンの表情だった。
「あのね、」
「うん」
「こわかったんだ」
「え?」
「ずっと、美緒が何を求めてるのか、何をしたら喜ぶのか、それを先回りして理解して、何でもわかってあげないと、好きでいてもらえないんじゃないかって、こわかったんだ」
「…そうなの?」
「うん。だから、美緒から『なんでもわかるんだね』って言われると、すごく嬉しくてさ」
ジンが小さく微笑む。しかし、その笑みはすぐに消えた。
「でも俺は、美緒の一番大事な気持ちは、わかってなかったんだね」
美緒は、黙って話を聞いていた。
「もしかしたら、今の今でも、俺は、美緒の気持ちの芯の部分は、わかってあげてないのかもしれない。そうかもしれないんだけどね」
「うん」
「でも、わかんないんだけど、美緒と一緒にいたいんだ。ずっと一緒に居て欲しいんだ」
「お願いします」とジンが頭を下げた。頭を下げると、美緒の顔は見えない。顔の見えぬまま、美緒の返事を待った。待つ間、ジンはこわがっていた。ガッカリされたか。嫌われたか。「結局、何もわかってない」と思われたか。その時間はほんの数秒だったはずだが、永遠に感じられる程長かった。

「よかったぁ」

美緒の声がして、ジンが顔をあげる。美緒は、笑顔だった。
「わたしもね、ずっとこわかったの。いつか、ジン君にがっかりされるんじゃないかって」
「…そうなの?」
「うん。でもね、今の話聞いて、一緒なんだって安心した」
美緒が笑った。美緒の笑顔を、随分久しぶりに見た気がした。
「ジン君」
思わず、「はい」と答えた。
「わたしも、ジン君と、これからも一緒にいたいな」
「…いいの?」
「うん。私の方こそ、よろしくね」
「ありがとう」とジンが再び頭を下げた。
「どういたしまして」と美緒が笑う。
「そんな、なんにも分かってない俺なんだけど」頭を上げたジンが言う。
「そんなことないよ」
「それでもね、一個だけ、分かった事があるんだ」
「なに?」
「俺は、絶対に美緒を嫌いにならない」
「本当?」
「うん」
「あくびが大きくても?」
「うん」
「はなくそつけたまま歩いてても?」
「うん」
「寝顔が汚くても?」
「うん。絶対に嫌いにならない」
「じゃあ、ずーっと一緒だね」
「ありがとう」
二人で、レンガ造りの花壇の縁に並んで腰かけた。
「じゃあ、改めて、受け取ってください」
ジンが、プレゼントの小箱を差し出す。
「…ありがとう」
美緒が受け取って、中から月のペンダントを取り出す。
「やっぱり、可愛い」
ペンダントを眺めて美緒が微笑む。そして、自分の首につけた。「似合う?」とジンに見せる。
「うん、とっても」
「…あ、そうだ」
美緒が、上着のポケットから小さな巾着袋を取り出した。中から星のイヤリングを取り出し、自分の両耳につけた。
「どう?」
その姿を、ジンに見せる。両耳で可愛く揺れる星の真ん中で、月がキレイに輝いていた。
「撮ってあげる」
ジンがスマホを構える。美緒がイヤリングに両手を添えた。
「…いや」
ジンが、シャッターを押す手を止めた。そして、美緒に体を近づけて顔を寄せ、二人の顔を画角に収めた。

カシャッ。

二人の笑顔が一枚の写真に収められる。
「いい写真だね」
「だね」
二人で見て、微笑み合う。美緒が手の平を出した。その上に、ジンが同じ形の手の平を乗せ、手を繋いだ。
「ずーっと、あいこだったんだね」
「ううん」とジンが首を横に振った。
「ずーっと、俺が負けてたんだよ」
「そんなことないよ」と美緒が笑う。
「理君に感謝だね」
美緒が言った。ジンが「あぁ、そうだ」と思い出す。
「ん?」
「理に、『仲直り出来たらメシおごれよ』って言われたんだ」
「そうだね、ご馳走しなくちゃね」
「何がいいかな?」
「お肉とか好きそうじゃない?」
「よくわかるね」
「なんでもわかるんだよ、私は」
美緒がそう言って、二人で笑った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?