「さいしょはグー。」第4話。

 「ふぅ」
理が一息ついた。掃除中のオフィスビルの階段に腰をおろし、赤いパッケージのストレートティーを一口飲む。
「あいつら、頑張ってっかな」
その日は大学受験の当日だった。なんとなく、スマホを開く。
「いってくるわ!」
ジンからだけ、そうメッセージが入っていた。
「あいつは余裕だな」
そう思い、小さく笑って「気ぃ抜くなよ」とだけ返信した。もう一口紅茶を飲む。
「ん?」
スマホが鳴る。ジンからの返信だった。確認すると、緊張した面持ちで両手でグーを作り、ファイティングポーズをとる美緒の写真が送られてきていた。
「支えてやれよ」
そう返信して、スマホを仕舞った。ペットボトルの中の紅茶を飲み干し、近くのゴミ箱に投げ捨てると、仕事を再開した。

 「美緒」
ジンがスマホの画面を見せる。理からの「支えてやれよ」のメッセージが美緒の目に入る。
「優しいね」
そう言う美緒の顔は、やはり緊張していた。
「大丈夫だよ、いっぱい勉強したから」
「…うん、そうだね」
「安心して」
ジンが微笑む。その笑顔は、美緒をリラックスさせてくれた。
「ありがとう」
美緒も、力強くうなずいた。
「もう大丈夫。そろそろ始まるかもしれないから、ジン君、自分の席に戻って大丈夫だよ」
そう話す美緒を見ても、ジンの胸に心配は浮かばなかった。
「わかった」
ジンが、自分の席についた。

 同じ教室の中。晴香は、ノートを見返していた。過去問からの要点、頻出問題の解き方、自分の弱点をまとめた一冊を丁寧に読み込む。
「…よし」
読み終えた所で覚悟を決め、ノートを閉じた。そして、カバンにしまう。あとは、落ち着いてテストに向き合うだけだ。
カバンのファスナーを閉める。そして、カバンの外側にある小さなポケットに優しく振れた。そこには、宗悟からもらった三つのお守りが入っている。そこに手を置き、深呼吸すると、気分が落ち着いた。

 宗悟は、参考書を食い入るように見ていた。ギリギリまで、一つでも多く知識を身に着けようと必死だった。

ガラガラッ。

そこに、試験監督が入ってきた。騒がしかった教室が静かになり、受験生たちはテキストをしまい、テストを受ける準備を始めた。
宗悟が、カバンから三つのお守りを取り出す。両手で持ち、強く祈った。
「よし」
小さくつぶやき、お守りをカバンにしまった。そして、筆記用具を机に出す。鉛筆、消しゴム、ピンク色の多機能ペンを目の前に並べた。

試験監督が教室を歩いて問題と解答用紙が配る。教室内に、緊張感が漂う。教室を一周した試験監督が教壇に立つ。そして、腕時計を見た。

「始めてください」

受験生たちが一斉に問題にとりかかる。宗悟は、ピンク色の多機能ペンを手に取った。

 試験が終わり、四人が並んで歩いていた。
「どうだった?」
理が余裕の顔で美緒を見下ろした。
「解けない問題は、なかったよ」
美緒が緊張の残った顔で言う。そして、晴香を見た。
「私も、出来なくはなかったかな」
晴香が目を合わせて言う。すると、二人の顔から緊張が少し消えた。
「宗悟は?」
ジンが宗悟を見る。宗悟は、まっすぐに前を向いていた。少し間をおいて、答えた。
「割と…手ごたえは、良かった」
そう言い、小さく息を吐く。
「どうしようもない問題は、なかったと思う」
ジンが、「そっか」と笑った。
「…うん」
宗悟が頷いた。そこで緊張がほぐれたのか、宗悟の顔に笑顔が浮かんだ。女の子二人も安心した表情をしていた。
「…うん」
宗悟が、もう一度笑顔で頷いた。

 バイトを終えた理が独りで帰り道を歩いていた。
「今日は疲れたな…」
思わずつぶやく。体はクタクタだった。
「…疲れない日なんかねぇか」
そう思い、小さく笑った。

 アパートの階段を上る。一段一段がものすごく重たい。鍵を差し込み、ドアを開ける。
「ただいま」
家に入る。「おかえり」と母親が出迎える。正直、先に寝ていて欲しかった。
「ごめんね、理に頼りっきりで」
母親が謝る。理は何も答えられなかった。返事を考えるのも面倒くさいほど頭も体も心も疲れていた。リビングを横切り、自分の部屋の扉に手をかける。
「おかあさんにできることがあったら協力するからね」
母親が理の背中に言葉を投げた。
「…まずは、自分のことをちゃんとやってくれ」
理が自分の部屋に逃げるように入り、扉を閉めた。
「はぁ」
ため息がこぼれる。少しでも早く、一秒でも早く、今日という日から逃げ出したかった。
「…もう寝よう」
眠ってしまえば、今日を終わらせることができる。風呂に入るのも、ご飯を食べるのも面倒だった。理は服を脱ぐとタオルで体を拭き、部屋着に着替えた。そして、そのまま布団にもぐり込み、体を小さくしてそのまま眠った。


 大学受験の合格発表の日。受験を受けた四人は、駅前のケーキ屋のカフェスペースにいた。クリスマスシーズンの終わったケーキ屋は空いていて、カフェには四人しかいなかった。
「ドキドキするな」
宗悟がスマホを握りしめて言う。さっきから何度も、合否の載る大学のホームページの更新を繰り返していた。
「まだ発表されないぞ」
ジンが笑う。宗悟は「そうなんだけどさ…」ともう一度ページを更新した。
「あと五分ぐらい、大人しく待ちなさいよ」
晴香が言う。しかし、晴香も美緒も少しそわそわしていた。
ジンがカップを口に運ぶ。中のコーヒーを飲み干してしまった。
「おかわり買ってくるわ」そう言って立ち上がり、カウンターに向かった。
「なんであんな余裕なんだよ」
宗悟が言う。宗悟は、目の前のコーヒーにも三枚のクッキーにも、一口も口をつけていなかった。
「あんたが余裕なさすぎなのよ」
晴香が言うが、晴香の紅茶も全く減っていなかった。
「…どうだった?」
戻ってきたジンが言う。三人は「ん?」という顔をした。
「いや、一時回ったからさ」
三人が慌ててスマホを取り出す。それを見て、ジンが笑ってコーヒーをすすった。
「ジン、先見てよ」
宗悟が言う。「なんでだよ、みんなで見ようよ」とジンが言うが、美緒も、「ジン君」と言い、晴香も黙って頷いた。
「わかったよ」
そう笑って、ジンがスマホを開いた。
「…うん」
ジンが頷いて、右手でグーを作り、ガッツポーズをとった。晴香と宗悟が安心したように「はぁ」と息を吐き、美緒が「おめでとう」と笑った。
「ありがとう」
ジンもそう返事をして、「美緒も見てみな」と促した。
「うん」
ジンの笑顔に少し安心して美緒もスマホでネットを開く。それに続いて、晴香と宗悟もスマホを操作した。
「…あ」
女の子二人が同時に声を上げ、二人が目を合わす。お互いに笑顔だった。
「やった、やった」
そう言いながら、二人が手の平を合わせハイタッチした。
安堵を浮かべた三つの笑顔が宗悟を見る。

「…ごめん」

宗悟が謝る。美緒と晴香の顔から笑顔が消えた。
「そっか」
ジンがつぶやき、コーヒーをすすった。
「…ごめん」
もう一度宗悟が謝った。その姿が痛々しく見え、晴香はいたたまれなくなった。そして、ここは自分が声をかけるべきなのだろうなと思う。しかし、何と言ってあげればいいか、わからなかった。

「…でも、あんたはよくがんばったよ」

晴香の、ようやく絞り出せた言葉だった。宗悟が晴香を見る。その目から、心に大きなショックを受けている事が伝わってきた。
「…ごめん」
そう一言言うと、宗悟はその場から逃げ出してしまった。晴香と美緒がその背中を見送る。
ジンが、宗悟が残した三枚のクッキーを口に全部放り込み、ボリボリと音を鳴らした。
「ひょっほまっへへ」
そう言うと立ち上がり、席を離れた。晴香が「え?」と聞き返す。美緒が「『ちょっと待ってて』だって」と笑った。
「よくわかるね」
「なんでもわかるんだよ、私は」
二人でそう言うと、二人の顔に小さな笑顔が浮かんだ。その時、ジンが戻ってきた。
「さ、お祝いしよう」と、テーブルにワンホールのショートケーキを登場させた。
「ふたりとも」と、二人の女の子の目をジンが見る。
「宗悟は確かに残念だったけど、だからって、あいつに引っ張られて俺たちまで暗い気持ちになることはない。だから俺たちは、今は全力で喜ぼう」
ジンが言う。美緒が「うん」と頷き、笑顔で頷き返した。
「晴香ちゃんも」
ジンが晴香の目を見る。
「宗悟のことを気にするよりも、君が全力で喜ぶ方が、あいつも嬉しいと思うよ」
ジンが優しく微笑む。晴香が隣を見ると、美緒が頷いた。
「そうだね」と晴香も笑った。その笑顔に、美緒とジンも優しく笑う。
「合格おめでとう!」
ジンが声をかけ、三人で乾杯した。
「つかれたーーー!」
「よかったーーーー!」
「春から大学生だーー!」
三人がそれぞれ、緊張から解放された喜びを叫んだ。
「よし、じゃあケーキ食おうか」
ジンがナイフを手に取った。
「ていうか、ケーキ大きすぎでしょ」
晴香が笑う。
「いやいや、理だったら一人で食うよ?」
「理君といっしょにしないで」
晴香がそう言い、三人で笑った。
「美味しいんだよ?ここのショートケーキ」
美緒が言うが、「美味しいにしたって大きいでしょ」と晴香もまた笑った。
そして、ショートケーキを切り分け、三人で食べる。
「…ほんとだ、美味しい」晴香が小さく感動する。
「でしょ?」
「お祝い事といえば、ここのショートケーキだからね」
ジンがそう言って笑う。
晴香がショートケーキにフォークを入れた。一口食べる。ショートケーキの甘味が口の中に広がり、幸せな気分になる。
ふと、カバンのポケットを見る。中には三つのお守りが入っている。これをくれた宗悟がこの場にいてくれたら良かったのにと、ほんの少し思った。

 ジンと美緒の帰り道。「ジン君」と美緒が見上げる。
「ん?」
「今日、ジン君がいてくれて良かった」
「そう?」
「うん」と美緒が笑う。
「きっと、晴香もそう思ってると思う」
「…だといいけど」
「きっとそうだよ」
「なんでもわかるんだね」
「なんでもわかるんだよ、私は」
二人が笑った。

 「ただいま」
バイトを終えた理が家に帰った。
「理」
玄関で靴を脱ごうとする理の元に母親が来た。「ん?」と返事をし、母親に背を向けてしゃがみこみ、靴紐を解こうとした。
「ちょっと、困ってて…」
理の靴紐を解く手が止まる。「…何?」と振り向かずに聞いた。
「家、住めなくなるかもしれない」
「…なんで?」
母親の話によると、今まで二回に分けて払っていた家賃を来月からは一括で払ってくれと、管理会社から言われたらしい。
「今までは、待ってくれてたのに」
「実は、お父さんの保険の分を振り込むのが遅れちゃったの。それで、管理会社の方で問題があったみたいで…」
理が、心の中で舌打ちを打つ。
「どうしよう…」
理が、もう一度靴の紐を結んだ。「今度、管理会社に電話してみるよ」と言って、立ち上がる。
「用事思い出した。ちょっと出てくる」
そう言い残すと、家を出た。

「次から次へと…」

一つ解決すれば、また問題が出てくる。壁を壊しても、また壁がある。敵を倒しても、また敵が現れる。その繰り返しに苛立ちが募る。
「だから、自分のことちゃんとしろっつったろうよ…」
しかも、今回のことは気を付ければ避けられたことだ。気を抜いた両親に対し怒りを覚えないわけもなかった。夜道を歩き、近くの自販機にたどり着いた。
「ふー」
大きく息を吐き、気持ちを落ち着かせる。荒れた気持ちのまま紅茶を飲みたくなかった。小銭を突っ込み、ボタンを押す。
「…ん?」
しかし、紅茶が降りてこない。見ると、赤いパッケージのストレートティーだけ、売り切れのランプが点灯していた。

バゴッ!

理が自販機を殴った。プラスチックのディスプレイに亀裂が入り、理が入れた小銭が音を立てて戻ってきた。

 
 「おはよう」
理が教室に入る。そこにはすでにジンがいた。「おう、おはよう」と返事が返ってくる。
「…あ、そっか。おめでとう」
「なにが?」
「受かったんだろ?」
当たり前のようにそう言う理にジンが笑う。
「いや、まぁ、受かったけどさ。聞いた事ねぇよ。祝福のフライング」
「はっはっは」と笑いながら理が自分の席に荷物を置いた。
「美緒ちゃんは?」
「受かったよ」
「お、いいじゃん。二人でキャンパスライフだ」
「うん」
「あの二人は?」
「晴香ちゃんは、受かった」
「晴香ちゃん『は』」
「…うん、あいつだけ落ちた」
「あらら」
「さすがに…ちょっと、可哀想だったね」
「落ち込んでた?」
「うん…晴香ちゃんが『あんたはよく頑張ったよ』って言ってあげてたけどね」
「なら良かったじゃねぇか」
「いや…」とジンが首をひねる。
「それでも、耐えられなくなって、その場から逃げ出しちゃったからな。やっぱ、相当堪えたと思うよ」
「まぁ、当然か」と付け足した。
「…甘えてんな」理が吐き捨てた。

 その後、宗悟は昼を過ぎても学校に現れず、ついに放課後になってしまった。
「あいつ、大丈夫かな」ジンが心配する。
「大丈夫だろ、死ぬ訳じゃないんだし」理は軽くあしらった。
「ん?」
「死にゃしねぇっつったの」
「あいつ、ショックで…」
「ねぇっつの、宗悟にそんな事する勇気ねぇよ」

「なにが?」

その時、宗悟が教室に現れた。
「おぉ、宗悟」ジンが安心したように迎える。
「ほらな」理が笑った。

 「ジン」
宗悟がジンの前に立つ。そして、「昨日は、すまなかった」と頭を下げた。
「何が?」
「途中で、帰っちゃって」
「いや、俺はいいけど。晴香ちゃんが心配してたよ」
「…そっか」と宗悟がつぶやく。その声は暗かった。
「でも、よかったじゃねぇか」理が口を挟む。
「好きな女から『よくがんばったね』なんて言ってもらえて。報われたじゃねぇか」
理がそう言う。宗悟は何も返さなかった。ジンは、理の言葉の真意が、励ましなのか嫌味なのか掴めなかった。
「…理」と牽制の意味を込めて名前を呼んだ。
「なんだ、落ち込んでんのか?」
理のその言葉には、明らかに挑発が見て取れた。理自身が苛立っているようにも見える。ジンがもう一度「理」と少し強めに牽制する。
「いいじゃねぇか、また来年受けろよ」
「来年…」
「また一年も努力できるんだからいいじゃねぇか」
「理、やめろ」
今度ははっきりと止めた。しかし、理は話すことをやめず、「だから言っただろ、お前は甘えてたんだよ」と続ける。
「良かったな。お前の大好きな努力、あと一年もできるな」
「やめろ!」
ジンが怒鳴った。
「宗悟は、よく頑張ったんだよ!結果は出なかったかもしれないけど、そんな風に言っていいもんじゃない!」
「おい」と宗悟が声を出した。
「お前、バカにしてんだろ」
その声は、怒りに震えていた。理が「当たり前だろ」と、見下した態度で言う。
「言ってんだろ。結果の出ない努力なんて何の意味も…」
「理は黙ってろ!」
宗悟の怒鳴り声と、怒りの矛先に二人が驚く。
「ジンよぉ、お前、俺の事バカにしてんだろ?」
「え?」とジンが戸惑う。
「あのなぁ、励ましのつもりかなんか知らないけど、『よく頑張った』なんて言葉は、俺たちみたいに頑張ってる人間にとっちゃ侮辱されてんのと一緒なんだよ!」
「そんなつもりは…」
「頑張るって事を理はよく理解してる。だから、理から何を言われても仕方ない。でも、何も頑張ってないお前が、人が頑張るって事を偉そうに語るのは我慢ならねぇんだよ!」
宗悟の目が、うっすらと涙に潤む。
「いいよなぁ、お前は。頑張らなくても結果が出るから。お前が頑張らなくても出せる結果を、俺は頑張らないと出せないんだよ!」
宗悟がジンの胸倉をつかむ。
「何かを必死に頑張ったこともないくせに、俺たちみたいに必死に頑張ってる人間を見下してんじゃねぇ!」

ゴッ!

宗悟の頬に拳が入った。その拳は、理の拳だった。殴られた宗悟が机にぶつかりながら床に倒れ、つられたジンの体がよろめく。
「…俺たちみたいに?」
理が宗悟を見下ろす。
「あのな、お前みたいに自分のやりたい事をやりたいだけやってる人間と俺を一緒にすんなよ?」
その声は、震えていた。
「努力は裏切らないとか言ってたな?てことは味方だろうが。苦労は敵なんだよ!本気で殺しにかかってくる敵なんだよ!裏切るもクソもないんだよ!」
宗悟は何も言い返せなかった。
「俺がどんなに頑張っても、賞状もない!トロフィーもない!『よく頑張った』なんて褒めてもらえることもない!血反吐吐いても傷を負っても、誰かの希望になるなんてこともない!負けたって生きていける、ダメだったら次に行けるお前みたいな甘ったれたクソガキと一緒にすんなよ!」
「なんだと…」宗悟が周りの机を乱暴にどかして立ち上がる。
「勝てもしない、結果も出せない、そんな努力しかできねぇくせに、一丁前に落ち込んでんじゃねぇ!」

バキッ!

宗悟が理を殴った。理の体が少しよろめく。

「だったら、お前に勝てばいいんだろ!やってやるよ!」

腰を深く落とし、理の腹にめがけて拳を打ち込む。

どっ!

腰の入った空手の正拳だった。
「入った」
宗悟がそう思う。そう思えるだけの確かな手応えがあった。ダメージを受け、腹を抑えて地面を転げ回る理が思い浮かぶ。

「…えっ?」

目の前には、拳を振りかぶる理がいた。

ガキッ!

理の、大振りの拳が宗悟の左頬に入る。宗悟は、顔の半分が吹き飛んだような大きな痛みを感じた。

「くそっ」

宗悟が素早く前に出て距離を詰める。そして、上段回し蹴りを繰り出した。

ゴッ!

宗悟の蹴りは、理の左側頭部を的確にとらえた。理が、近くの机に音を立てて倒れる。
「もう立てねぇだろ」
宗悟はそう思った。あそこまで的確に頭を打たれて、立ち上がれるはずがない。
しかし、理はすぐに立ち上がった。軽く首の骨を鳴らし、すぐに宗悟に近寄る。
「なっ…」
驚いた宗悟が、再び上段回し蹴りを打つ。「ゴッ!」と、また大きな音が響く。理が、再び机にぶつかり、音を立てて床に倒れた。宗悟は「今度こそ終わりだ」と思った。
「うっ…」
しかし、それでも理は立ち上がった。その姿に、再び驚く。しかし、宗悟は前に出た。前に進んで挑む力。それが自分の力だと誇示するように、理に向かっていった。

どっ!

再び正拳を打ち込む。理の体が揺れる。その勢いのまま、宗悟は何発も理を殴り、何度も蹴り飛ばした。打ち込んだ拳、繰り出した蹴り、その全ての攻撃に手応えを感じていた。その攻撃全てが、空手であれば試合を決める程の手応えだった。

「はぁ、はぁ」

力を込めた攻撃を重ねた宗悟が息を切らす。

しかし。目の前の男は、倒れない。宗悟の前に立ちはだかっている。

「おらぁ!」

宗悟が、渾身の力を込めた右手で理の顎を下から打ち上げた。「ガチッ!」と骨と骨がぶつかる音がする。普通の相手なら、背中からまっすぐに倒れ、そのままだ。

「…なんでだ」

理は、少し後ろによろけただけで、倒れることもなく宗悟の目の前に立ちはだかった。そして、左手で宗悟の胸倉を掴み、右手を大きく振りかぶった。これから来る攻撃に備えて、宗悟が左腕でガードを固める。

ゴギッ!

理のパンチが宗悟の左腕にヒットする。左腕に受けた痛みに「ぐっ…」と宗悟が顔を歪める。
ガードが、意味をなさない。その痛みに苦しんでいると、理が宗悟の髪の毛を掴み、低い位置に押さえつけた。宗悟は足を踏ん張って抵抗するが、体を起こせなかった。その事に地面を見つめたまま驚いていた、そのとき、

ゴッ!

宗悟の後頭部に理が拳を落とし、骨と骨がぶつかる大きな音が響いた。
「かっ…!」
宗悟は頭にくらった大きな衝撃に声を出すことすらできず、ただ、目の前の景色がゆがむのを見ていた。そして、その場に落ちるように俯せに倒れ、鼻を教室の床にぶつけた。一瞬、気が遠くなるが、ハッと気が付き、急いで体を表に向けた。
「なっ!」
自分の目の真上に、理の足の裏が見えた。
「やめろっ!」
そこで、ジンが理の背中から覆いかぶさった。

だんっ!

理の脚が宗悟の顔の真横に落ちる。ジンが止めず、理の狙いがズレていなければどうなっていたか。そう思うと、宗悟の胸を恐怖が襲う。
その間に理が勢いよく体を曲げた。ジンの体が理の背中の上を回転し、地面に体を激しくぶつける。
「いっ…!」
理は苦しむジンを無視し、すぐに宗悟を捕らえた。胸倉を掴み、地面にぶつけたばかりの鼻っ柱に頭突きを打ち込んだ。
「ぐっ…!」
宗悟の口の中に血の味が広がる。理は、左手は宗悟の胸倉をつかんだまま少し体を引いた。そして、宗悟の体を引き寄せるのと同時に、右手で顔を殴った。

ゴッ!

大きな音が響き、殴り飛ばされた宗悟の体が壁に激しくぶつかる。それを理が追いかけ、宗悟の目の前に立つと、攻撃の雨を降らせた。

ゴッ!ズドッ!ガチッ!ゴギッ!

空手を学んだ宗悟のものとは違い、大振りで乱雑なパンチが何発も宗悟の体に入る。

「理、もうやめろ!」
立ち上がったジンが間に入って二人の体を引きはがし、両腕を伸ばして二人の距離を離す。

ドッ!

理がジンを蹴り飛ばす。ジンが吹き飛び、理はすぐに宗悟との距離を詰める。

そして、理は再び攻撃の雨を降らせた。宗悟は、攻撃も効かず防御も意味のない相手になすすべもなく、その場に体を小さくするしかなかった。
「殺される」
今まで喰らった事のない大きな痛みと恐怖から、宗悟がそう思った。

「理!」
再び立ち上がったジンが、また二人の間に入る。理は乱暴にジンをどかし、宗悟に向かっていこうとする。しかしジンが、その理の両肩を両手でつかんで、理の前に立った。
「理!」
言い聞かせるように、理の目を見て叫ぶ。理の目が自分の目を見たことにジンが気づいた。
「理、やめろ」
今度は冷静に、落ち着いて言った。理が、ジンの肩越しに宗悟を見る。宗悟は、まるで恐怖におびえる子供のように体を縮こませ、今にも泣きだしそうな顔をしている。友達をそんな姿にさせてしまった事に、理は少しの罪悪感を感じた。
「ふー」
理が大きく息を吐く。そして、小さく舌打ちを打った。
「宗悟!」と理が叫ぶ。
「勝てないだろうが!『努力』なんて力じゃ、俺に勝てないだろうが!」
ジンが宗悟を振り返る。
「努力なんてのはな、生きていく事が当たり前にできる、安全な環境にいる奴がしてるだけの甘ったれた力なんだよ!」
理が言葉を続けた。
「俺は、頑張らなきゃ命を繋げない!今日を、明日を生きていけないんだ!」
宗悟は、何も言い返せなかった。理が、息を吸った。

「お前が頑張らなくても出せる結果をな、俺は頑張らないと出せないんだよ!」

宗悟がジンに言ったセリフと、全く同じセリフだった。

「俺とお前が同じだなんて、バカにしたこと二度と言うんじゃねー!」

それだけ言うと、理が自分のリュックを担いだ。「理…」とジンが理の肩に触れる。しかし、理はその手を払い、そして、体を小さくしたままの宗悟を「おい」と見下ろす。

「がんばれよ」

そう吐き捨てて、理は教室を出て行った。

「…はぁ」

ジンと宗悟が同時に息を吐き、その場に座り込んだ。
「強いな、あいつ」
ジンが、ポツリとつぶやいた。
「二人がかりでも勝てなかったなぁ…」
宗悟は、何も返事を返さなかった。
「…大丈夫か?」
ジンが宗悟を気遣った。
「こわかったか?」
ジンが更に聞くが、宗悟はやはり何も答えなかった。しかし、ジンは話を続けた。
「理が戦ってる敵っていうのは、そういう相手なんだよ」
「…敵?」とようやく宗悟が声を出した。
「やめろって言ってもやめてくれないし、泣いたってわめいたって許してくれないし、逃げたって逃がしてくれない。そういう敵と、あいつはずーっと戦ってるんだよ」
宗悟は、さっき感じた恐怖を思い出していた。
「あいつが頑張って、結果が出ない時っていうのは、死ぬときだからなあ…」
「そんな大袈裟な…」
「…大袈裟じゃないんだよ」
その言葉が宗悟の胸の中に重たく響いた。事実、宗悟は「殺される」と感じていた。あの恐怖を毎日感じているのか。
「はぁ」
ジンが立ち上がり、自分の荷物を持った。
「…宗悟、ごめんな」
宗悟が背の高い男を見上げる。その目を見て、残酷な事を言ってしまった気がした。
「…美緒が待ってんだ」そう言って謝罪の理由を別の場所に置いた。宗悟が「…んのやろう」と皮肉そうに笑う。
「じゃあな」
ジンが教室を出る。ドアを閉める音が聞こえた。

「…うるせーよ」

そうつぶやく。それは、理の言った「がんばれよ」に対する返事だった。

 宗悟が校舎の玄関を出る。空は、陽が沈み始めていた。その事に「どれだけ立ち上がなかったんだろう」と思う。
「宗悟」
正門を出ようとしたところで、声を掛けられた。晴香がレンガ造りの花壇の縁に腰かけていた。
「晴香」と名前を呼ぶと、彼女が立ち上がり、宗悟に近寄る。
「…どうかしたの?」
「…ん?」
「ケガしてるじゃない」
「…うん」
そのあと、宗悟はうつむいたまま何も話さなかった。その様子を、「どうしたのよ?」と気にする。
「あんたが元気ないと、こっちまで調子狂うんだけど」
いつもの、悪態めいた冗談だった。
「…ごめんな」
宗悟の謝罪に晴香が驚き、「え?」と声が漏れた。
「俺、バカだし弱いんだ」
「ごめんな」と、もう一度謝って、宗悟は晴香を残して走って学校を出て行ってしまった。
晴香が、手に持った三つのお守りを見つめる。受験勉強の時。試験の当日。このお守りが心の支えになってくれた。
「…お礼言いたかったんだけどな」
お守りをカバンの中に大事にしまった。

 ジンと美緒は、ショッピングモールのドーナツカフェでデートをしていた。
「ジン君はなに食べるの?」
「美緒と同じのがいいな」
二人が微笑む。
「これ、美味しいね」
ドーナツを食べたジンが微笑んだ。美緒も、「でしょ?」と微笑み返す。チョコレート生地のドーナツにチョコレートがコーティングされた、甘味に甘味を重ねたドーナツだった。甘いものは苦手だが、美緒の好きな物なら何でも美味しかった。
「うん、本当においしい」と、ジンがコーヒーをすすった。その顔を、「ジン君」と美緒が覗き込む。
「…どうかしたの?」
そう言った美緒を、ジンが「ん?」と見る。
「なんか、落ち込んでる?」
そう聞かれ、ジンが「ふふ」と小さく笑う。
「すごいね、なんでもわかるんだね」
「なんでもわかるんだよ、私は」
美緒の笑顔を見て、今まで何度も思ったが、「この子がいてくれて、本当によかった」と改めて思った。
「ちょっと、あいつらとケンカしちゃってさ」
「…何があったの?」
「うん…」
ジンが、コーヒーをすすった。
「宗悟って、よく頑張るじゃん?」
「努力家だもんね」
「うん。だからさ、あいつが頑張る度に『よく頑張ったな』って、『すごいな』って言ってたんだけど、それが宗悟にとっては、バカにされてるように感じてたみたいなんだよな」
「そうなんだ…」
「理は理で宗悟に対して思う所があって、そのそれぞれの気持ちが爆発して、ぶつかっちゃったんだよな」
「…ケガしてない?」
「うん、俺は大丈夫。俺は間に入って止めようとしてただけだから、理から一発しか喰らってないよ」
「理君の一発は…」
「うん、結構効いたね」とジンが笑う。
「でも、ケガはしてないから。やられてたのは宗悟」
「…そっか」
「でも、二人がかりでも勝てなかったな。止める事すらできなかった」
「強いね、理くんは」
「うん、本当に強い。前に理のバイトを一緒にやった時、すっげーしんどくてさ、『こりゃ勝てねぇな』って思ったよ」
「そっか」美緒が左手で右のイヤリングにそっと触れた。
「宗悟君は、ぼろぼろ?」
「うん。結構やられてたね」
「生きてる?」
その質問に、「ははは」と笑う。
「うん、生きてるよ。宗悟だって弱い人間ではないから」
「じゃあ、きっと大丈夫だよ」と美緒が笑った。ジンが美緒の目を見る。
「宗悟君には、晴香がいるから」
ジンが「やっぱりそう?」と聞く。美緒は「うん」と頷いた。
「なんだかんだ言っても、晴香は宗悟君を気にしてるから」
「…うん。俺もそう思ったんだ。晴香ちゃんがいるから大丈夫だろうって」
「そっか」
「でね、そう思ったら、俺には美緒がいてくれて良かったなーって思ったんだ」
「ほんと?」
「うん。こうやって話すと、すごく楽になる」
「それなら、良かった」
「じゃあ、大丈夫だね」と美緒が言う。「理君はすごく強いし」と笑った。
「いや、どうかなぁ…」ジンが首をひねる。
「だって、理君が勝ったのに?」
「そうなんだよ」
その返事に、「え?」と小さく驚く。
「あいつは、負けないんだ。絶対負けない。負けたら、終わりだから」
「うん…」
「人を救うには、その人よりも強い必要があるから。誰にも、何にも負けない理を救える人なんてこの世にいるのかな…」
「そう?」
「うん、グーとグーがぶつかって、負けた方のグーが勝った方のグーを救う事はないんじゃないかなぁ」
そう言って、ジンが自分の両手で拳を作り、「ごつっ」と合わせた。そして、左のグーをテーブルに落とし、右のグーを目線に上げて「勝ち」のポーズをとった。ジンのグーは、とてもキレイだった。
「やっぱり、大丈夫だよ」美緒が笑いかける。
「え?」
「はい、私の勝ち」
そう言って、美緒がジンに手の平を見せた。

「ぱー」

そして、ジンのグーに自分のぱーを被せた。
「多分、誰か『ぱー』を持ってる人が、理君の『ぐー』を優しく包んでくれるよ」
「…よくわかるね」
「なんでもわかるんだよ、私は」
そう言って、美緒は笑った。その笑顔を見て、ジンは「本当に、この子がいてくれて良かった」と思っていた。

 理がアパートの階段を上がる。

「ぺっ」

口の中に違和感を覚え、唾を吐いた。赤い血が混じった唾液がコンクリートに染み込んでいく。
右手で顔に触れる。宗悟に殴られた頬が腫れて青あざになり、熱を持っていた。その熱が、冷えた手に伝わってくる。
 カギを乱暴に突っ込み、ドアを開ける。両親の怒鳴り合う声が聞こえてきたが、気にせず中に入り、靴を脱いで家に上がった。リビングに入ると二人の喧嘩が止まった。理が二人を見る。二人の周りはモノが散らかり、乱雑に荒れていた。
「…どうかしたのか?」
理が聞く。父親が「なんでもねぇよ」と乱暴に答えた。
「そうか」
それだけ言うと、理は自分の部屋に入った。両親の言い争う声が壁を通して再び聞こえてきた。
「うるせぇな」
理が舌打ちを打った。

 
 日曜日。晴香が家でくつろいでいると、スマホが鳴った。確認すると、美緒からの着信だった。通話ボタンをタップし、耳に当てる。
「もしもし」
「もしもし、晴香?」
「美緒、どうしたの?」
「ちょっと、伝えたい事があって」
「なに?」
「こないだ、ジン君たちがケンカしちゃったんだって」
晴香が黙る。「あのケガはそういう事だったのか」と納得した。
「聞いてる?」
「うん、聞いてるよ。どうせ、あいつ負けたんでしょ」
「まぁ、相手が理君だから」
「あんたの彼氏は?」
「ジン君は止めに入ってただけだって。だからケガはしてなかった」
「そっか」
「それでね、宗悟君がね…」
「慰めになんて行かないよ」美緒の話の途中で、晴香が割り込んだ。美緒は「ふふ」と笑った。
「でもね、その時、宗悟君が言ってたんだって」
「なに?」
「ジン君にね、いつも『よく頑張ったな』って言われるのが嫌だったんだって。バカにされてる気分になるって」
「それが、何よ?」
「だからね、晴香が言ってた『努力してる自分に甘えてる』っていうのは、違うかもしれないよ」
「…ふーん」
「ま、それだけ」
「そっか」と晴香が電話を切ろうとした。
「…あ、ちなみに」
「『それだけ』じゃないじゃない」
「ふふふ」と二人が笑う。
「今度、空手部の引退式があるんだってさ」
「…行かないよ」
「あっそ、じゃーね」
「うん、じゃーね」と言う前に、美緒は電話を切っていた。
「マイペースだなぁ」
晴香が呆れたように笑った。

 その頃、宗悟は学校の職員室にいた。担任の教師から今後の進路について話が聞きたいと呼び出されていた。
「悪いな、日曜に」
「先生こそ、日曜なのに大変ですね」
「まぁ、部活とか色々な」
「そうですか」
先生がコーヒーをすすった。インスタントコーヒーの安っぽい匂いが宗悟の鼻をつく。
「…浪人でいいんだよな?就職じゃなくて」
宗悟が、一瞬黙る。
「…正直、迷ってて」
「お前なら、もう一年頑張れば受かるとは思うんだけどな」
「…はい」
「まぁ、卒業しちまえば、俺には関係ないっちゃないんだけどよ」と前置きする。
「でも、頑張った方がいいんじゃねぇのか?お前は頑張れるんだから」
「…ちょっと、考えます」
「まぁ、いいけど。もし就職したいんなら、あんまり時間ねぇからな」
「…はい」と言って宗悟が職員室を出た。

 宗悟が校舎の玄関で靴に履き替え、外に出る。
「お前は、頑張れるんだから」
その言葉に、頑張ることができない男が頭に浮かぶ。そして、その男に強さで負けたことを思い知る。
晴香には、大学に合格したらもう一度想いを聞いて欲しいと言った。そんな大口を叩いた癖に、結果はこのザマだ。こんな自分に、また頑張る資格なんてあるのだろうか。
強さで理に負け、賢さではジンに勝てない。そして、自分から挑んだ勝負にも勝てなかった。ここまで負けているのに、これからも頑張ろうとする自分は、ただの我儘で往生際が悪いだけの男に思えた。頑張る資格も、戦う資格も、どちらも持たない、ただの弱くて馬鹿な男なんだ。
 正門の隣の、レンガ造りの花壇。宗悟が足を止めた。
「…お前、何やってんの?」
大山が花壇の縁に足を乗せて腕立て伏せをしていた。大山の大きな体と可愛い花は、とても不釣り合いだった。
「…宗悟さんですね?」
「あぁ」
大山は腕立て伏せを続行した。
「お前、まだがんばるの?」
「恥ずかしい試合はできないですから」
大山が体を落とす。その背中を見ながら「それはこっちのセリフだ」と思っていたが、言わなかった。
「宗悟さん」
「ん?」
「俺は、努力する宗悟さんを尊敬して、あこがれてます。強いか弱いかは、どうでもいいです」
「そっか」
大山が両腕を伸ばして体を持ち上げた。
「空手も、関係ないです」
「あぁ」
そして、腕立て伏せをやめ、花壇の縁に腰をおろし、宗悟を見上げた。
「だから、努力を続けるかどうかを自分で決めないでください。あなたの努力に希望を持ってる人を、ガッカリさせる決断はしないでください」
それだけ言うと、今度は地面に寝転がって脚を花壇の縁に引っ掛け、腹筋運動を始めた。
宗悟は、大山の言葉に、晴香の言葉を思い出していた。

「あんたは努力の他には何もないんだから、せめて努力ぐらいは百パーセント完璧にこなしなさいよ」

そうだった。自分の最大の武器は努力だ。晴香からも、尊敬する前の部長からも期待してもらえた力が「努力」だ。一度や二度負けたぐらいで、くじけてどうする。負けても、ダメでも、いずれ自分の臨んだ結果にたどり着く。その努力を続けることこそ、自分の生き方なんだ。
「…ありがとよ、思い出したわ」
「え?」上体を起こそうとしていた大山の動きが止まる。
「自分を見失ってたなぁ…」

ぱんっ!

宗悟が自分の頬を叩いた。そして、「よし」とつぶやく。
「お前、ちょっと待ってろ」
大山にそう言うと、職員室に走った。
 職員室に入り、担任の元に走る。
「先生」
「どうした?」
「俺、もう一年頑張ります」
「いや、時間ねぇとは言ったけど、そこまで慌てなくていいぞ?」
「いえ、決めました」
そう言う宗悟の顔は明るかった。
「そうか、わかった」と先生がうなずく。
「がんばれよ」
「はい!」
担任の先生に頭を下げ、次に、空手部の顧問の元へ向かった。
「どうした?」
「部室のカギ貸してください」
「…お前もか」顧問の先生が小さく微笑む。
「…ほらよ」と部室の鍵を渡してくれた。
「ありがとうございます!」
頭を下げて、職員室を出た。そのまま、レンガ造りの花壇まで走った。

 「大山」
宗悟が声をかけると、大山の腹筋運動が止まった。
「はい?」
「部室行くぞ」
「え?」
「カギ借りてきたから。俺も付き合ってやる」
「いいんですか?」大山が立ち上がり、嬉しそうに言う。
「稽古つけてくれるんですか?」
「ははっ」と宗悟が笑う。
「お前に稽古つけてやるだけの実力なんかねーよ」
そう言うが、その言葉に卑屈な様子はなかった。
「だから、付き合ってやる」
「よろしくお願いします」大山が立ち上がり、頭を下げた。
「恥ずかしい試合はできねーからな」
二人で部室に向かう。実力も、やれることも違うが、あの人のように、部長らしくなれてるだろうか。そうだったら嬉しいなと思った。

 「疲れた…」
バイトを終えた理がアパートの階段を上がる。頬に手を触れる。顔の腫れは引き始めていたが、治りかけの擦り傷に手が当たり、ヒリヒリと痛んだ。
「…ふぅ」
鍵を開け、ドアを開けた。
「ただいま」
家の中に入る。部屋の中は電気がついていて明るく、そして、静かだった。少し珍しい家の様子を不思議に思いながらリビングに向かう。そこでは、父親と母親がテーブルを挟んで向かい合う形で座っていた。
「…どうかしたのか?」
二人のその様子に、理がそう聞いた。
「ちょっと座ってくれ」
父親に言われ、テーブルの二人の横顔が見える位置に腰を下ろした。父親が、「実はな…」と話し出す。

「…そっか、わかった」

二人から、離婚するという事を伝えられた。理の高校卒業と同時に二人は離婚し、それぞれの故郷に帰ることに決まったとのことだった。
「お前は、どうする?」と父親が聞く。
「どっちについていく?」
理が二人を見る。どちらも一緒に行こうとは言わなかった。
「まぁ、今すぐ決めなくてもいい。ゆっくり考え…」
「いや、」と、父親の言葉を理がさえぎった。
「俺は、独りでこの町に残る」
理がそう言うと、二人は少し驚いたようだったが、引き止めるような事は何も言わなかった。
「それでいいのか?」
「…もう、独りで生きていきたい」
「そうか」
「うん」
「…風呂入ってくるわ」と理が立ち上がった。

 
 「風口」
体育科の先生が呼ぶ。しかし、返事はない。
「いねぇの?」
「朝からいないです」と生徒の一人が答えた。
「誰かなんか聞いてるか?」
誰も返事をする生徒はいなかった。
「しょうがねぇな…」
ぼやきつつ、先生は出席簿になにやら書き込んでいた。
月曜日のその日、朝から理の姿はなかった。ジンも宗悟も少なからず気にはしていたが、この間の事もあり、二人とも連絡を入れるのをためらっていた。

 柔道の授業。生徒同士の組手が始まっていた。ジンが、自分の手の平を見つめる。
「誰か、『ぱー』を持ってる人が理君の『ぐー』を包んでくれるよ」
美緒から言われた事をずっと考えていた。
「俺のじゃなぁ…」
自分の手には、何の力もないことがわかってしまった。
「おい」
その時、隣に座る生徒から肩を叩かれた。横を見ると、「呼ばれてるぞ」と前を示した。
「あぁ」と慌てて立ち上がる。「ぼーっとすんなよ」と注意され、「すいません」と頭を下げつつ、生徒たちの前に立つ。
「加賀」
先生が宗悟を呼んだ。「はい」と返事をして宗悟が立ち上がり、ジンの前に立つ。「よりによって」とお互いに思っていた。
「はじめっ!」
先生の合図で二人が近づく。ジンがすぐに宗悟の襟を掴んだ。
「よっ」
宗悟の体を投げようとする。だが、「ぐっ」と宗悟が力を入れて抵抗し、投げられなかった。「え?」と声が漏れる。

どんっ!

ジンの体が、床に叩きつけられる。
「まじか…」
立ち上がりながら、思わずそう声を漏らす。
「礼!」
先生の合図で頭を下げ、二人が並んで列に戻る。
「やられたわ」
「まぁな」
「さすが、空手部」
「空手関係ねーよ」
そう言いつつ、二人が座る。
「言い直すよ。さすが、宗悟だな」
「…努力してるからな」
その横顔にジンが微笑んだ。

 放課後。理が学校の門をくぐった。門の隣のラナンキュラスが、夕陽を浴びていつもと違う美しさを魅せている。
「なんだか不思議な感じだな」
いつも、朝にここを通るときは登校する生徒で騒がしい。独り静かに歩く校舎までの道を新鮮に感じていた。

 理が音楽室に向かう。近づくにつれて中からピアノの音色が聞こえてきて、理の頬が緩む。

こんこん。

演奏の邪魔をしないように小さくノックをし、ドアをそーっと開けて、中に入った。
松下がピアノを弾いている。二人の目が合い、理が小さく会釈をすると、松下は少し驚いたような顔をしたが、そのあとすぐに、小さく微笑んでくれた。
松下の演奏は続いた。松下のピアノを聴いている時間は、気持ちが安らぐ。この時間に何度救われただろうと理は思った。
そして、松下の演奏が終わる。
「終わっちゃった」
理がそう思うが、言わなかった。
「…どうだった?」
「はい?」
「私のピアノは」
「俺、大好きです、先生のピアノ」
「そう?嬉しいな」
松下が微笑んだ。そして、荷物をまとめた。
「…今日は、学校に来てないって聞いてたけど?」
「ちょっと、家がごたごたしてて」
「そうなんだ」
「はい。まぁでも、卒業するだけの単位はとれてるんで」
「…じゃあ、わざわざ掃除しに来てくれたの?」
「毎日きれいな部屋にするって、約束したので」
「そっか、ありがとね」
「いえ」と理がかぶりを振った。
「理君」
「はい?」
松下が理の目をじっと覗きこむ。理の心臓がドキドキする。
「…今日は、私の部屋の掃除を頼める時間はあるかな?」
「はい、もちろん」
「そう。じゃ、よろしくね」
「はい」
松下が音楽準備室に入る。理が音楽室の掃除を始めた。

 「ほんとに、理君の掃除は気持ちがいいな」
理が掃除した音楽準備室の様子を見て、松下が言う。理は「良かったです」と頭を下げた。
「ちょっと、お茶しようよ」
「ありがとうございます」
理が椅子に腰かける。松下が、ポットから二つのカップに紅茶を注ぎ、「どうぞ」と一つを手渡してくれる。
「いただきます」
そう受け取って、一口飲む。松下の淹れてくれた紅茶は世界で一番おいしい。
「どう?」
「世界で一番おいしいです」
そう答えた理に、松下は「大げさだなぁ」と笑い、紅茶を一口飲んだ。
「でも、いいよね、紅茶は」
「はい」と理が答えた後、松下がじっと理の目を見た。ついさっき経験したばかりなのに、また理の心臓がドキドキする。
「理君」
「はい?」
「…どうかしたの?」
「なんでですか?」
「君は、何というかこう…いつも気を張ってるじゃないか。でも、今日はそれをあんまり感じないからさ」
「いつもは殺気立ってますか?」理が笑う。
「『殺気』なんてそんな、こわいものではないけども」松下も笑った。
そしてまた、じっと理の目を覗き込む。まっすぐに目を見られ、また理の胸がドキドキする。
「…疲れてる?スッキリしてる?…いや、安心してるのかな?」
自分の心の内を見透かされ、驚くと同時に、嬉しくなる。
「…どれも正解です。疲れてますし、スッキリもしましたし、安心もしてます」
「さすが、鋭いですね」理の顔に小さな笑顔が浮かんだ。
「私は、ここに来る前は小学校で先生をやっててね。小学生は、高校生よりも自分の気持ちをうまく言葉で表現できないからね。よく見てあげる癖がついたのかな」
「何があったの?」と紅茶をすすった。
「…実は、親の離婚が決まりました」
「それは…」
「はい。俺が高校を卒業したら、母親も父親も、それぞれの故郷に帰る事になりました」
「バラバラか、寂しいね」
「いや、それが…」
「ん?」
「正直、安心した部分も大きくて」
「良かったら、聞かせてくれる?」
そう言うと、松下は紅茶を一口すすった。それに倣い、理も紅茶を飲む。
「俺は、卒業したら、バイトしてた清掃の会社に社員として入ります」
「うん」
「そうなると、これから先、俺が二人の面倒をみていかなきゃいけないのかなって思ってて…」
そこまで話すと、「先生」と松下の目を見た。
「ん?」
「俺に、ガッカリしないで欲しいんですけど」
「うん」
「親の事を、恨んだりはしてません。まぁ、感謝してるとも言い難いですけど」
「うん」
「でも、今までも思う事はあったんです。これからもずっと、二人のためにこうやって働いていくのか。それが一生続くのかって。それを考えると、ちょっと、しんどいなぁって思う時もあって」
「そっか」
「でも、二人は故郷に帰るとなると、ちょっと、安心したというか。なんだか、肩の荷降りたなぁって」
「そりゃあ、そうだよ」
そう言って、微笑んでくれる。その笑顔に、理が安心する。
「私は、理君にガッカリなんてしないよ」
松下が、優しい眼差しを向ける。
「私は、まぁ、割と恵まれた家に生まれたよ。音大に通わせてもらえるぐらいね」
「はい」
「そんな私を、『なんの苦労も知らないお嬢ちゃん』だと思う人も多くてね」
「そんな」
「そういう人に会うたびに、私は私で『こういう環境にはこういう環境なりの苦労があるのを知らないだろう』と思うわけだ。『人の気も知らないで』ってやつだね」
「…それは、俺にもわかります」
「環境は真逆だけどね」
「ですね」
「私はこうして教師をやっているけど、教師だって人間だ」
「はい」
「そして、君たち生徒も、生徒の前に人間だ」
「はい」
「だから、肩書を取っ払って、人間と人間で向き合った場合、私なんかよりも君たちの方がより深く知っている事もあると思っているんだよ」
今までに聞いてきた「教師だって人間」という言葉とは、大きく意味の違う言葉だった。
「その中でも、理君は、よりたくさんの事を知っていそうだなって思ってたんだ。私が生きてきた人生じゃ想像も付かないような事もね」
松下が視線を落とす。その先に、理の傷だらけの手があった。
「…そのたくさんの事を知るには、きっと、たくさん傷ついて、ボロボロになって、必死に戦ってきたんだね」
松下が、紅茶のカップを口に運び、そして、受け皿に戻した。
「理君」
「はい」
ちょいちょい、と松下が手招きをする。立ち上がり、誘われるまま理が近づく。
「ちょっと、手出して」
「え?」
「ほら」
「…はい」と理がボロボロの左手を出した。
松下が、その左手を取り、引き寄せた。手の平を上に向ける。
「えーと…」
引き出しを開け、何かを取り出した。
「理君には、これがピッタリだね」
「はい」と理の手の平にスタンプを押した。

(よくがんばりました)

赤い丸で囲まれたその言葉が、傷だらけの手の平に刻まれた。
「これじゃ、ちょっと足りないか」
そう言うと、松下が赤ペンを理の手の上で滑らせる。スタンプの周りが花丸で囲まれた。
「仕舞っとこうね」
そう言って、両手でその手を取り、一本ずつ指を折ってグーの形を作り、その拳の中に花丸を大事に仕舞いこんだ。
その拳を松下の両の手の平が優しく包む。
「理君」
名前を呼ばれ、理が松下の目を見た。

「今まで、よくがんばりました」

そう言って、微笑んでくれた。
理の顔がゆがむ。二つの眼が赤くなる。こみ上げてくる涙を抑えられず、溢れて流れ出す。右手を目に当てると、手の傷に涙が染みてヒリヒリと痛んだ。立っていられなくなり、その場に崩れ落ちる。しゃがみこんで左手だけを上に挙げる、不格好な体勢になる。しかし、松下は理の手を離さなかった。
傷だらけでボロボロの手が、松下の手に優しく包まれる。松下の手の温かさが理の凍った心を溶かし、涙となって流れ続けた。理が今まで流した血と汗と、口から漏れた溜息。体中に負ったたくさんの傷。それらが、初めて報われたのだった。その今までの苦しみを全部洗い流すように、理は涙を流し続けた。その間ずっと、松下は理の手を優しく包んでくれた。

「…はぁ」

理が息を吐き、鼻をすする。
「ありがとうございます」
そう言って、右手で涙を拭う。そして、立ち上がった。松下と目を合わす。
「…うぅ」
再び涙が溢れ、しゃがみこんで同じ体勢になった。松下が「ふふふ」と微笑む。
「泣いてていいよ」
そのままずっと、手を包み続けてくれた。

 松下が紅茶をすする。理も泣き腫らした顔で紅茶を飲んだ。
「冷めちゃってるね、淹れ直そうか」
「すいません、泣きすぎですよね」理が鼻をすすった。
「少しは、なんとかなったかな?」
「少しなんてもんじゃないです」
「それなら良かった」と松下が立ち上がり、電気ケトルに水を注ぎ、お湯を沸かし始めた。
「もう、手洗わないです」
「いやいや、ちゃんと洗いなさい」
「嫌です」
理のその言葉には強い意思が感じられ、松下は心配になった。
「よし、ちょっと待ってて」
そう言うと、メモ帳サイズの五線紙を一枚とった。そして、そこにスタンプを押して花丸で囲い、手の平の宝物のコピーを作ってくれた。
「ほら」と松下が宝物を贈る。
「ありがとうございます」
両手で丁寧に受け取り、両腕で大事に抱きしめた。
「宝物にします」
「本当に、よくがんばったね」松下がそう言う。
「…うぅ」理がまた涙を浮かべる。松下が小さく微笑み、「好きなだけ泣いていいよ」と言った。しかし理は、「いえ、大丈夫です」と力強く言い、鼻をすすった。
「そっか、強いね」
松下が、紅茶を新しく淹れてくれた。
「いただきます」
理が、一口すする。松下の淹れてくれた紅茶は、世界で一番おいしかった。

 ジンと美緒が、校舎を出て正門に向かって歩いていた。
「あれ、ジン君」
美緒が指さした方向を見る。正門の隣のレンガ造りの花壇に理が腰かけていた。理のたくましい体の後ろでラナンキュラスがきれいに咲いている。ジンは「似合わないな」と思い、心の中で笑った。
「理君!」
花壇の近くまで来ると、美緒が理を呼んだ。理が美緒に気づき、「あぁ、美緒さん」と立ち上がる。一瞬、ジンと理の目が合う。二人の間には、まだ少し気まずい空気があった。美緒がいなければ、どう声をかけていいかわからなかったかもしれない。ジンは美緒の存在に感謝した。
「今日、お休みじゃなかったの?」美緒が聞く。理は「うん、授業はね」と小さく微笑んだ。
「あ、サボりだ。ずるい」
そう言って笑う美緒に、理も「ばれたか」と笑った。
「じゃあ、何しに来たの?」
「授業はサボっても、約束は守らないとね」
「そっか、良かったね」
そう言って笑う。笑ったあと美緒は「…わたし、変な事言ったね?」とジンを見上げた。
「ううん、合ってるよ」と理が言う。
「美緒さん」
改めて名前を呼ばれ、美緒が「ん?」と理に視線を戻す。
「ごめんね」
そう言って頭を下げた。理のその姿に、ジンも驚いた。
「私、授業サボった事そんなに怒ってないよ?」
小さな女の子の可愛い返事に男二人が思わず笑う。理が「いや、そうじゃなくて」と右手を振った。
「こないだ、ジンを蹴り飛ばしちゃったんだ。ごめんね」
理が美緒にまた頭を下げる。美緒が再び隣のジンを見上げた。
「ううん、いいよ。ジン君がケガしたわけじゃないし」
「…ありがとう」
理が頭を上げた。その時には、ジンと理の間にあるわだかまりはすっかり溶けて無くなっていた。
「いや、俺に謝れよ」
ジンが冗談めかして言う。
「お前は、弱いのが悪いんだよ」
「なにぃ!?」とジンが大袈裟に返すと、三人が笑った。
ジンは再び美緒の存在に感謝した。そして、これはきっと理も感じているだろうと理解していた。

 「じゃあ、帰るか」
「そうだね」
「俺はもう少しここにいる」
そう言った理に、「別に、気つかうなよ」とジンが言ったが、理は「いや、もう少しここにいたいんだ」と花壇の花に目をやった。その様子に、ジンと美緒がうなずき合う。
「そっか、じゃあ、またな」
「おう」
そう言うと、二人が歩き出した。しかしまた、「理」とジンが呼ぶ。理が「なんだよ、帰れよ」と笑いながら振り返った。
「今度、宗悟の引退式見に行こうぜ」
「…えー」
「行こうぜ」
「…どうせ負けるんだろ」
「理」
「ん?」
「俺、今日あいつに柔道負けたんだよ」
「…まじ?」
「努力も、捨てたもんじゃないかもよ?」
「…考えとくよ」
そう答えた理を残して、ジンと美緒はまた歩き出した。

 理が立ち上がった。太陽は沈んで、空は夜の入り口に入っていた。そんな中でも、花壇に咲く花は輝いて見えていた。
 正門を出て歩く。ふと、明かりのついた部屋を見つけた。空手部の部室だ。
『努力も、捨てたもんじゃないかもよ?』
ジンの言葉を思い出す。宗悟は、大将の座にはつけなかったものの、勝てなかった荒木に勝てるようになっている。あんなにあっさり負けた柔道もジンに勝ったらしい。それは、宗悟が努力をし続けた末に出した「結果」だ。まぎれもない「結果」をあいつは出している。
「努力」は、途中で辞めたからといって死ぬなんて事はない。生活が危うくなることもない。空手も柔道も、頑張らなくても生きていける。ということは、宗悟は頑張る必要のないことを、あれからずっと努力し続けた。
頑張る必要もないのに、頑張り続ける。それはもしかしたら立派ですごいことなのかもしれない。仮に、自分のしているアルバイトや戦っている敵が、向き合わなくても生きていける事だとしたら、自分は「がんばりやさん」になれただろうか。理は、そんな風に思っていた。
「…しょうがねぇなぁ」
ポツリと、つぶやいた。 


 「ジン」
市民体育館の最寄りの大きな駅に理が現れた。ジンが「お、ちゃんと来たね」と言うと、「まぁな」と答えた。
「じゃあ行くか」
ジンがそう言って、二人は市民体育館に向かった。

 「でかいんだな、市民体育館って」
建物を見上げて、理が呟いた。
「そうか、お前は初めてか」
「どこでやんの?」
「えっと、ホールCだな。だから地下だ」
二人は階段に向かった。

 どん!

理が人とぶつかり、尻もちをついた。「おい、大丈夫か?」とジンが声をかける。
「あぁ、ごめんね。よそ見しちゃってて」
理とぶつかった男性が謝りながら左手を出す。捲った袖から出ている腕には、無数の傷跡が見えた。
「いや、俺の方こそ、すいません」
理がその手を掴む。男性に、ものすごく強い力で引き上げられて立ち上がる。並ぶと、その男性は理よりも小柄だった。この力は、この小さな体のどこから出てるのだろうと思った。
「こら、ちゃんと前見なきゃ危ないでしょ」
その小柄な男性の隣にいた女性が優しく叱る。そして、二人にも「ごめんね」と謝った。
「あ、いえ…」
二人は、その女性に見とれてしまった。
「すいません」
小柄な男性が女性に照れくさそうに謝る。その姿は、まるで子供のようだった。
「早く行かないと、さやかちゃん帰っちゃうよ」
「そうですね」と、二人はそれぞれの時計を見た。
「ほんと、ごめんね」
「ごめんねー」
その二人はジンと理にそう言って、その場を去って行った。二人は、その綺麗な女性をしばらく目で追っていた。
「おい」
理がジンを肘でつつく。
「美緒ちゃんに言うぞ」と理がからかう。
「お前だって見てたろ」
「先生には言わないでくれ」
そのやり取りで、二人で笑った。
「っていうか、俺たちも急がないと」
「ん?」と時計を見た。
「おぉ、やばいやばい」
二人はホールCに走った。

 「うわ、すごいな」
地下にあるホールCは大きく、観客席から競技場を見下ろす構造になっている。会場には、もうすでに三年生の家族や友人、後輩たちが集まり、観客席を埋めていた。その熱気あふれる会場の様子に二人が驚く。
「…あ、あの人」
ジンが指さす。理が「知り合い?」と聞く。ジンの示す先には風格のある青年達が集まっていた。その中心にいる人物。
「あの人、確か宗悟の前の部長だよ」
「おぉ、宗悟を先鋒部長に指名した」
「そうそう」
「へぇ~」
理がその人を観察する。風格のある男たちの中にいて、一際目を惹く雰囲気があった。その空気はジンも感じ取っていて、あの人に認められた事は、宗悟は嬉しかっただろうなと思っていた。
「…あ、あそこいいじゃん」
理が最前列に空席を二つ見つけ、二人はそこに座った。理が競技場を見下ろす。中では、たくさんの道着を着た学生たちがスタンバイを始めていた。
「あ、あいつ」
ジンが指さす。理がその先を見る。
「だれ?」
「あの、ほら、一年の時お前が腕ひきちぎった」
「ひきちぎってはねぇよ」
そう言って、二人で笑う。
「名前なんだっけ?」
「いや、それを理に聞こうと思ったんだよ」
「…なんだっけなぁ?」
結局、二人が名前を思い出すことはなかった。
「あ、宗悟」
次に、ジンが宗悟の姿を見つけた。理もその姿を視界にとらえた。宗悟の周りをたくさんの後輩が囲んでいる。その中で、大山の大きな体は一際目立っていた。
「慕われてんなぁ、あいつ」理がこぼす。
「しっかり、頼もしい部長なんだな」ジンも微笑んだ。
「…あれ?」
理が、競技場を挟んで向かい側の観客席に見覚えのある女の子を見つけた。
「おい、ジン」
「ん?」
「あれ、晴香ちゃんじゃねぇ?」
理が指さした方向。その先に、晴香がいた。
「あ、ほんとだ」
「こりゃ、あいつ負けられないな」
「だな」と、二人が頷いた。

 「本日、お集りのみなさま…」
空手部の顧問の先生がマイクを使い挨拶を始めた。二人も、「お、始まるな」と姿勢を正す。
「引退式にお越しくださり、ありがとうございます。今日は、卒業していく三年生の最後の晴れ舞台であり、後輩たちにとっても、大事な日です。どうぞ、あたたかく見守ってやってください」
顧問が頭を下げる。観客から拍手が起こった。
「では、部長の加賀から挨拶があります」
先生がマイクを宗悟に渡す。宗悟が観客席を向いて話し出す。
「部長の加賀宗悟です」
そこで、一つお辞儀をした。
「自分は、空手部の部長という役目を二年間務めさせていただきました。逆に、大将という役目は一度も務めることができませんでしたが」
そこで、少しの笑いが起こった。宗悟の話は続く。
「部長という役目は、大きな責任とプレッシャーがありました。なので、今は、その重圧から解放される喜びも多少あります。しかし、空手部の部長として過ごした二年間は、ものすごく幸せで、充実した毎日でした。それはひとえに、こんな、大将にもなれない弱い俺を支えてくれた先輩方、共に戦ってくれた同年代の仲間、そして、ついてきてくれた後輩たちのおかげだと、感謝しています」
「本当に、ありがとう」と、今度は部員たちに頭を下げた。そして、また観客席に向き直る。
「今は、その役目を終える寂しさももちろん感じていますが、それ以上に、今日の試合が楽しみで、わくわくしています。みなさんも、どうぞ、僕たちの試合を楽しんで頂けたら嬉しいです」
「最後に、今日は、来ていただいて、本当にありがとうございます」と宗悟が頭を下げた。観客から、拍手が起こる。宗悟は顧問にマイクを渡し、部員たちの元へと戻った。
「なんか、あいつ、ちゃんと部長してるな」
ジンが言う。理も頷いていた。

 引退式が始まった。顧問から名前を呼ばれた三年生が、後輩を指名する。親しかった後輩を指名する者、可愛がっていた一年生を指名する者、実力が近い、ライバル関係にあったであろう二年生を指名する者、様々だった。

「おもしろいな」ジンが理の顔を見る。
「俺の方が強いよ」理が返事を返す。
「まぁ、そうだろうけど」ジンが笑った。

 「次、荒木」
先生が呼ぶ。
「荒木だ!」
二人が叫び、そのあと笑った。
荒木が相手を指名し、立ち上がる。
荒木と後輩の試合が始まる。実力には差があった。荒木が手心を加えて胸を貸し、後輩がそれに甘えるような試合だった。
試合は、荒木の勝ちだった。二年生が頭を下げると、荒木が肩に手を回し、二人そろって退場した。
「あんなやつでも慕う後輩もいるんだな」
「そりゃあ、中堅だもん」
「すごいか?中堅」
「いや、あの人数見ろよ」ジンがたくさんの部員を指さす。
「あの中で、選手に選ばれるってだけでも相当すごいだろ」
理は、何も言わなかった。

 宗悟以外の、全ての三年生が試合を終えた。「加賀」と顧問が呼ぶ。
「はい!」
宗悟が立ち上がり、前に出て部員たちを見る。そして、対戦相手を指名する。
「大山」
その名前に、会場から「おぉ…」と声が上がる。
「はい!」
指名された大山が立ち上がり、宗悟の前に立つ。
「よろしくお願いします!」
大山が頭を下げる。宗悟も「よろしくな」と礼をした。
「手加減しやがったら殺すぞ」
「手加減して勝てる相手じゃないですよ」
誰にも聞こえない二人だけの会話をして、距離を置いた。

「はじめっ!」

試合が始まった。宗悟と大山が近寄り、間合いに入る。宗悟が先に仕掛けた。腰の入った正拳を大山の腹に打ち込む。

どんっ。

お互いに、相手の強さを腹と拳で感じていた。二人が、「にやり」と笑い合う。
それをきっかけに、お互いの体に激しく拳を打ち込み合った。肉と肉がぶつかる音は、ジンと理の耳にも届いていた。

ゴッ!

二人が、同時に上段回し蹴りを打った。そして、二人同時にその場に倒れる。
「おぉ…」
観客席から声が漏れる。先に立ち上がったのは宗悟だった。
「終わりか?」
そう言われ、大山も立ち上がる。
「いえ、まだまだ」
仕切り直した二人が近づき、また拳を打ち込み合う。
「お前、大山に勝てるか?」
激しい音が響く中、ジンが理に聞く。
「…あいつが敵になるなら、勝たなきゃいけねぇんだよ」
ジンも「なるほど」と頷いた。

 二人の試合は、今日一番の熱い試合だった。宗悟の同級生、大山の同級生、卒業した先輩たち、今まで共に過ごした空手部の仲間。その誰もが、息を飲んで見守っていた。

どっ!

二人の拳が、お互いの胸に入った。最後の一撃だった。

「やめっ!」

審判が試合を止める。会場から全ての音が消え、観客の目が審判に集まる。
「大山!」
審判の手が大山に上がる。観客席から「おぉ…」という歓声が上がる。
「ほらな」
理が一言、そう言う。ジンは「惜しかったなぁ」とこぼした。

 宗悟と大山が礼をする。そして、二人が頭を上げた。その時、観客の目に大粒の涙を流す大山の姿が映った。宗悟は、満足そうに笑っている。
「加賀、何か話せ」
顧問の先生が宗悟にマイクを向けた。
「お前、勝った方が泣くんじゃねーよ。みっともねーだろ」
その言葉がマイクを通して会場に響き、優しい笑い声が起きる。先生が、マイクを大山に向けた。
「ずずー!!」
大山が鼻水を豪快にすする音が響き、大きな笑いが起きた。「泣きすぎなんだよ!」と宗悟が笑う。
「宗悟さんがいなくなって、俺、これからどうすればいいんですか…」
大山のその言葉が観客に届く。客席からも、鼻をすする音があちこちから聞こえて来た。
「おめーなら大丈夫だよ」
宗悟が微笑んだ。
「あと、頼んだぞ」
そう言われ、大山が深く頭を下げた。その頭に、宗悟が優しく手を置いた。
会場が、あたたかい拍手に包まれた。宗悟と大山が二人で四方に頭を下げる。そして、宗悟が大山の肩に手を回した。
「お前も組めよ」
「いいんですか?」
「はやくしろ」
大山も宗悟の肩に手を回す。二人で肩を組んで、男が二人、退場していった。

 「かっこいいなぁ、あいつ」
ジンがつぶやく。理は何も言わなかったが、宗悟の後姿を真っすぐに見ていた。
ジンが晴香がいた方に目を向ける。しかし、もう席を立った後なのか、その姿は見つけられなかった。

 「あ…」
試合を終えた宗悟が体育館を出ると、ジンと理が待っていた。ジンが「おつかれさん」と声をかける。「うん」と返事をして、近寄った。
「来てくれたのか」
「まぁな」と返事をしたのはジンだった。
「お前、弱ぇなぁ」
理がそう言う。宗悟は「うん、勝てなかった」と笑った。
「…まぁでも、カッコよかったよ」
そう言って、理は先に歩き出した。理の言葉に驚いて宗悟は目を見開いて理の背中を見ていた。
「良かったな」
ジンが宗悟の肩に手を置くと、理の後に続いた。その二人の背中を、宗悟も走って追いかけた。

 「そろそろ、卒業だね」
松下が紅茶をすする。理がわかりやすく絶望を顔に浮かべてみせると、小さく笑った。
「全然、卒業したくないです」
「そんなこと言わずに」
「なんか問題おこして留年してやろうかな」
「こら」と松下が叱り、二人が笑った。理が紅茶を飲む。松下の淹れてくれた紅茶は世界で一番おいしい。
「夢みたいだな」
そう思っていた。入学したての頃は、松下の姿を見かけるだけで、その日が「いい日」になった。美化委員に入って音楽室の掃除を担当するようになり、少しだけ会話が出来るようになった。次第に早めに音楽室に来ると松下のピアノが聴けると知り、授業が終わるとすぐに音楽室に来るようになった。
「今日は、寒いね」
そう声をかけてもらってから砕けた会話もできるようになり、名前を呼んでもらえるようになって、部屋の掃除まで任せてもらえるようになった。そして、今では二人きりでお茶をしている。この時間に、何度救われただろうか。
「先生が、先生でいてくれてよかったです」
突然の言葉に、松下が「ん?」と眉を上げた。
「先生がいてくれなかったら、俺、どうなってたか…」
「…どうなってた?」
「…どっかで、限界きてたと思います」
「つぶれてた?」
「いや…」と首をひねる。
「誰かを、つぶしちゃってたかもしれません」
理が自分の手を見た。傷だらけでボロボロの手。その手を、松下はあのとき優しく包んでくれた。
「俺、先生に会えなくなったら…」
理は、その先は言わなかった。
「このお花、可愛いでしょう」
松下が、部屋に飾ってあった鉢植えの花を手に取った。鉢の中には、赤やピンクの可愛い花がたくさん咲いていた。
「スイートピーですよね」
「お、よく知ってるね」
「それぐらいなら」
「これ、あげるよ」松下が鉢植えの中から一枚のカードを取り、理に渡した。カードには花屋の名前と電話番号、そして小さな地図が書いてある。
「…花屋?」
「私はよくその花屋に行くんだ。季節ごとに、その季節のお花を飾るのが定番でね」
理が松下の目を見る。
「だから、運が良ければ会えるかもね」
理が、渡されたカードをもう一度見る。花屋の最寄り駅は、近くの駅から八つ先だった。
「必ず、行きます」
「うん」
「会えるまで行きます」
松下が「ふふふ」と笑った。
「楽しみにしてるよ」
理も、微笑んでいた。

 「そろそろ、卒業ですね」
両手を地面に置き、足を花壇の縁に置いた大山が体を落とす。
「だなぁ」
隣で、宗悟も同じ動きをした。
「寂しいです」
大山が両手で体を持ち上げた。
「お前、そういうこと言うの恥ずかしくねぇ?」
宗悟がまた同じ動きをしながら笑う。
「あんな大勢の前で散々泣きましたからね、今更恥ずかしいことなんてないですよ」
腕立て伏せをやめて、花壇に腰かけた。
「それもそうだな」
宗悟も、また笑いながら大山の隣に座る。寒い季節なのに、二人とも汗だくだった。
「相変わらず、宗悟さんのトレーニングについていくのはしんどいです」
「俺より強いくせに」
「暇な時は遊びに来てくださいよ」
「お前な、浪人生に暇な時なんてあるわけねーだろ」
「それもそうですね」大山が笑う。
「でも、後輩たちみんな喜びますから。なんかのついででもいいので、顔出してください」
「…まぁ、暇なときな」
二人が笑った。
「大学は同じところリベンジするんですか?」
「おう」
「じゃあ、俺も同じとこ受けようかな」
「やめろよ、同級生になっちまうじゃねーか」
また、二人が笑う。
「…あ、でも」
「はい?」
「その大学には前の部長もいるから。その時は紹介するよ」
「ぜひ、よろしくお願いします」
「引退式、見に来てくれてたんだ」
「そうなんですか」
「お前の事見て、『卒業してて良かった』っつってたよ」
「なんでですか?」
「あんなデカい声で泣く後輩がいたら嫌だろ」
「空手関係ないじゃないですか」
二人が大きく笑う。
「ウソだよ、『俺でも、勝てるかどうかわかんねー』ってさ」
「…うれしいです」
「会ったこともねーのにか?」
「尊敬してる人の尊敬してる人のことは、尊敬しますよ」
「そっか」
宗悟が嬉しそうに笑った。
「よし、もう一セットいくぞ」
「はい」
二人が、トレーニングを再開した。

 「なにしてーんの?」
「わぁ!」
晴香の背後から美緒が声をかけた。突然のことに晴香が驚く。
「なによ、ビックリさせないでよ」
「なにボーっとしてんのよ?」
美緒が晴香の視線の先を追いかける。トレーニングに汗を流す二人の男がいた。
「…宗悟君?」
「うん」
「声かけてあげれば?」
「…邪魔しちゃ悪いかなって」
「そっか」
宗悟を見つめる晴香の横顔を、美緒が微笑んで見つめた。

 「なにしてんだ?」
「わぁ!」
今度は美緒が驚く。振り返るとジンがいた。自分がした事をやり返された美緒を見て晴香が笑う。
「お、宗悟と大山君だ」
「ジン君も一緒にトレーニングしてくれば?」
「やだよ、このクソ寒いのに」
その答えに三人が笑う。
「…じゃあ、帰ろうか」
「そうだね」
三人が努力家の姿を見ながら学校を出た。三人はあの男の努力がいつか必ず、本人の望んだ結果を出すと確信していた。

 「そろそろ卒業だねぇ」
晴香と別れたあと、二人で歩きながら美緒が笑う。
「寂しい?」
「ちょっとはね。もう会えなくなっちゃう友達もいるし」
「そうだよな」とジンが言う。少し寂しそうに聞こえた。理は大学には進学しない。宗悟は浪人だ。来年は、三人での学校生活は実現しない。美緒が、そっとジンの手を握った。
「私がいるよ」
そう、笑いかける。ジンも安心した笑顔を見せた。
「ありがとう」
美緒が頷く。
「なんでもわかるんだね」
「なんでもわかるんだよ、私は」

 三月の終わり。卒業式が執り行われた。ジンと理は涙を流す事はなかった。宗悟は一筋だけ涙を流した。美緒が誰よりも大きく泣いていて、それを晴香が慰めていた。

 そのあとの教室。生徒たちは友達同士で写真を撮ったり、卒業アルバムの最後のページにメッセージを書き合ったりしていた。騒がしい教室に理が入ってきてジンの隣に座った。
「おぉ、理。どこ行ってたの?」
「先生んとこ。挨拶だけしてきた」
「もっと話してくればよかったのに」
「いや、こういう日だからさ、色々忙しそうでな」
「そっか」
「お前はいいのかよ?美緒ちゃんとこ行かなくて」
「今、クラスの子たちと写真撮ったりしてるって」
「お前も撮って来いよ」
「ふふふ」とジンが理にスマホを見せる。二人でピースサインを作っているツーショット写真があった。
「かわいいだろ?」
「はいはい、可愛い可愛い」と理が呆れて笑った。
「お前は?先生とは写真は撮れた?」
「そんな時間ねぇよ」
「あら、最後なのに」
「大丈夫、俺には宝物がある」
「なに?見せてよ」
「ほら」と理が左手で拳を作ってジンの前に出す。傷だらけでボロボロの拳だった。
「わかんねぇよ」ジンが笑う。
「この中に大事に仕舞ってくれたんだ」
「…そっか」と微笑んだ。
「それに、別に『最後』ってわけじゃないんだ」
「そうなの?」
「俺の場合、お前らみたいに毎日会えるわけじゃないし、かなり根性いるけどな」
「根性なら、お前の得意分野じゃん」
「まぁな」
そう言って、二人が笑った。そして、理が教室を見回す。
「…そういや、宗悟どこ行ったのよ?」
「今、晴香ちゃんとこ行ってる」
「お、最後の勝負?」
「いや、それがな、晴香ちゃんが呼び出したらしいんだよ」
「…なにぃ!?」
「うん、俺も驚いた」
「え、まさか、逆?」
「…どうなんだろ」
丁度そこに、宗悟が教室に戻ってきた。理が「おう」と手を挙げて声をかけ、宗悟も「おぉ」と近くの席に座った。
「おい、何話してたんだよ?」とジンが聞く。
「もしかして、付き合えんの?」と理も身を乗り出した。
「…いや、そうじゃない」
そう言って首を横に振った宗悟だが、あまり悲しそうに見えなかった。しかし、なかなか話さない。じれったくなった理が、「なんだよ、どうしたんだよ?」と催促する。
「いや、俺さ、『大学に受かったら告白聞いてくれ』って言ったんだよ」
「うん」理が頷く。
「晴香がさ、」
「うん」理が頷く。
「『来年まで待ってやるから、もう一回がんばれ』ってさ」
「…うん?」理が頷けなかった。
「…これってさ、どういう事かな?」
二人の眼がジンに集まる。ジンは「んー…」と腕を組んだ。
「まだ付き合う事は考えられないけど、好きだっていう気持ちは受け入れてあげるって事…だと思うよ」
次は、宗悟が二人の視線を集める。宗悟の顔が、みるみる笑顔へと変わっていく。

「ぃよっしゃぁぁああああ!」

宗悟が両手を広げ高く挙げた。その大声に教室の生徒たちがビクッとする。理が「ばか!」と笑って宗悟の頭をはたいた。
「声でけぇんだよ!」
「だって、だってよ!」
「宗悟、喜んでるけど、来年受かったらって話だからな?まだ努力はしなきゃいけねぇんだぞ?」
「大丈夫だよ!」
「そうかなぁ?」
「理、大丈夫だよ」とジンが割り込む。
「努力なんて、それこそこいつの得意分野だ」
「おう、そういう事だ!」
「そうやって浮かれてっとまずいんだよ」と理が注意する。
「いいじゃんか、今日ぐらい、浮かれさせてやろうぜ」
「大丈夫かなぁ?」と理が腕を組んで首をひねる。宗悟は両の手の平を高く挙げて、「わははははは!」と笑っていた。
「いま世界で一番幸せなの、確実に俺だわ!」
そう言って、また高らかに笑う。
「それはどうかな?」
そう言って、ジンが美緒とのツーショット写真を見せた。写真の中で二人が幸せそうに両手でピースサインを作っている。
「あほ、俺だって負けるか」
理が左手の拳を見せる。二人が「わかんねぇよ」と笑った。
 三人の男が、グー、チョキ、パーを出し、いかに自分の持つ幸せが素晴らしいかを言い合っていた。

「誰が一番幸せか」

その勝負は、永遠にあいこだった。

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