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井創灯
2020年9月4日 23:37
入り口から一番離れたバーカウンターの席に腰をかけ、グラスに注がれたジンジャーエールに口をつける。乾いた喉へ強烈な生姜の香りを纏った波が気泡と共にぶつかってきて俺は思わず瞼を閉じる。パチパチと弾ける泡が鼻先を湿らせた。本当なら美味さ故に込み上げてくる雄叫びをここで一声あげたいものだが、ダムを塞き止める様に俺はその思案を口に抑え込む。ここは美味い時に勢いで雄叫びをあげるような店じゃない。黙ってグラス
2020年8月26日 21:19
修平くんに渡されたお金をタクシーの運転手に支払うと、降り止まない雨の中市内に佇む某アパートの前に私は降り立った。自分の住む中心地から少し外れた場所にある目の前のアパートは、近隣の木造の民家と並ぶと幾分か近代的に見えるデザインだった。たぶん持ち主が捗々しくない入居状況を改善する為に、外装部分のみリフォームをしたのだろう。少し浮ついた印象が私には際立って見えた。改めて修平君に渡されたメモを見る。女
2020年8月22日 16:36
冷たいフローリングに腰を降ろし、神谷に渡された雑巾の様に皺くちゃなリュックの中身を漁る。俺は指先に感じるなだらかな感触から、それが何なのかを理解した。中学時代、いや、それより少し前に母親に与えられたポータブルCDプレイヤーだ。黒一色で光沢のある見た目は異世界から転送されてきた未知の乗り物みたいな印象だった事を覚えている。もう自分の目では見ることが叶わないそれを、俺は指先で触りながら物体の形状
2020年8月12日 19:46
排他的なデザインの真っ白な空間で、私は目の前の先生の喉元を呆然と見つめていた。隣には二枚のレントゲン写真が貼られており、全てを曝け出した肉体を青いライトが煌々と照らしている。先生は呼吸する様な自然な口調で、悠くんの、彼の目が見えなくなったことを私に伝えた。地下鉄の駅で突然意識を失った彼は、乗客のお婆さんの咄嗟の連絡で近隣の病院へ運び込まれた。職場の電話でその事を知った私はタクシーに飛び乗る