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脱学校的人間(新編集版)〈39〉

 全ての人間が、学校から社会に送り出されてくる。
 その学校に送り込まれていく人間とは、子どもでありさえすれば誰でもよいとでも見なされているかのような人間たちである。逆に言えば、どのような子どもでも学校に送り込まれさえすれば、「巷のどこにでもいるような一般的な子どもたち」としてその学校の中に回収され、それが社会に送り出されてくる頃には、誰でも皆だいたい同じようなものとして社会的に機能するように作り上げられた、「巷のどこにでもいるような一般的な人間」として送り出されてくることになる。
 そのように、どのような子どもであれ学校の中において「社会的=一般的」な人間に作り変えられた後、彼らはいよいよ社会に送り出されてくるわけだが、その彼らが送り出されていく先の社会の方においても、たとえどのような人間に対してであれ良くも悪くも一定の「社会的な」役割を与え、当のその社会の成員の一人として呑み込んでいく「一般的な社会」なのである。逆に言うと学校は、そのように全ての人間を当のその社会へと送り込むことによって、その社会を「一般的なもの」に作り変えている、ということにもなるわけだ。

 ほとんど全ての人間は、学校を経由することにより「社会においてどのようにでも機能しうる一般的人間」に作り上げられることになる。一方でそのように社会的・一般的人間を生産する機関としての学校を、具体的な「社会装置として機能させているシステム」であるところの、いわゆる「教育制度」についてもやはりまた、「一般に世界のどこででも機能しうる制度」として制度設計されているものなのである。
 「この世界を、基本的にはどこでもだいたい似たようなものにする」というのが、学校制度においてまず基本的に設定された機能の一つである。それによって「世界のどこででも基本的に通用するような政治的・経済的構造」を、「世界のどの個別の国あるいはその社会」においてでも、他の国あるいは社会と同様の様式・構造のものとして設計・構築することができるようになるわけである。
 そのように、世界のどこででも基本的に通用するからこそ、それはそれぞれ同じ基準のもとで互いを対比させることができるようになる。そしてそこに生まれる「ちょっとの差」が価値を生み出し、またそのような「差を生み出すこと」が、自らの国や社会の発展に繋げていくことができるようになるわけだ。 
 「全ての国において学校は、基本的には似たようなものになっている」(※1)とイリッチも言っている。繰り返すが、「学校や教育それ自体の制度や様式」といったものは、どこの国や社会でもだいたい同一であり、すなわちどこの国や社会においてであっても通用するような、一般的な制度や様式であることについては、それが適用されているどこの国や社会においてでもさして何も変わりがない。
 ということは、たとえばそのそれぞれ個別の国や社会の教育について、あるいはそのそれぞれ個別の制度設計について、何かそれぞれ個別に改革すべきポイントが見出されてきたように思われたとしても、おそらくそれは「どこの国や社会であれ基本的には似たようなものとして見出されてくる」ものなのだということになる。たとえそれによって「我が国や社会が、よりよい国や社会になった」としても、おそらくそれは「他の国や社会においても同様」なことなのである。
 しかし一般に多くの国や社会の人々は、「教育」というものは彼ら自身が属するそれぞれ個別の国や社会の、そのそれぞれ独自の色に染められていると考えている。そこで人々は、たとえば「我が国」の社会構造を変えたいと思うなら、「我が国固有の」教育構造を変えていくことによってそれを達成させようと考え、あるいは逆に「我が国固有の」教育体制を変えようとするならば、まず「我が国独自の」社会構造に手を加えようと考えるだろう。

 一般的に多くの人々は「学校を政治的・経済的構造に従属する一つの変数として考えることに慣れている」(※2)とイリッチは言う。要するに学校とは、その個別の国や社会を形成している制度や様式の「一つの変数あるいは構成要素」であるかのように考え、なおかつそのような「パーツ」としての有用性において見出すことに、一般の人々は感性的に慣れてしまっているわけである。その「パーツ」としての機能が自分たちにとって有用なものとして働くことにより、自分たち自身の属する国や社会の利益が確保・増進されたり、自分たち自身の属する国や社会の公的な施策が、自分自身の有する権利や資産を保護・増大させるものとなるかのように、一般的には考えられるようになっていく。
 人々は、そのそれぞれが属する個別の国や社会、つまり「我が国」の政治体制や社会構造が変革されれば、自分の国や社会の「教育の制度や様式」もまたそれにつれて改革されるものであるかのように仮定し、またそれに期待することもできるのだと考える。だからこそどこの国や社会でもみな一様に、自分の国や社会の政治的・経済的構造の発展のために、「それに従属する一つの変数あるいは構成要素」である教育の充実に血道を上げているわけである。それによってきっと「我が国あるいは社会」はさらによりよいものとなっていくことだろう。きっと「他の国や社会」より断然素晴らしいものになるはずだ、と。
 要するに、ここで人々は学校が「社会そのもの、あるいは構造そのもの」であるということを、すっかり忘れきってしまっているというわけなのである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 イリッチ「脱学校の社会」
※2 イリッチ「脱学校の社会」


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