可能なるコモンウェルス〈12〉

 「被支配者」の立場として人民が、いざ国家なるものと関わろうとするときにはいつでも、「支配者=主権者=絶対君主が独占的に有する国家の、その表象を代表し、その権能執行を代行する機関である政府」が、「国家そのものの代わり」として彼らの眼前に立ちはだかっていたものであった。人民は何をおいてもまずはその、政府という存在と相対するものでなければならなかったわけである。
 逆の見方をすれば、何者かが「国家およびその主権者と相対する」となれば、その「国家および主権者」は前面に立ってその何者かと相対することとなるわけであり、ゆえにそこでは「国家および主権者そのものが、全面的に露出してくる」こととなるわけだから、それだけ「国家および主権者そのものが無防備な状態」となるのも必然的なことになり、さらには「国家および主権者自体が、全面的な危機に晒される」こととなる恐れも生じてくるわけである。もちろん、そういった危険な事態を放置しておくわけにはいかないだろう。だから「国家および主権者そのもの」についてはあくまで、その具体的な有り様を前面に押し出していくようなバカ正直なことはしないでおき、「国家および主権の表象」として具体的に目に見え、なおかつ実際に形となって存在する「政府」の陰に巧妙に隠しておこうというのも、けっして姑息な工作というわけではなく、むしろ持続可能な安全策として、全く道理に適った話ではあるのだ。

 そういったわけで、人民・国民にとって「国家」とはいかなるものとして表れるものかと言えば、何よりもまず「政府の形態として見出されてくる」というのは、全くもって致し方のないことなのだと言えよう。何しろ国家なるものについては、人民の限定された視界においては、それしか他に見えてくるものがなかったのだから。
 そしていよいよ彼ら人民が、かつての支配者=主権者=絶対君主からその国家の主権、すなわち「その国家を独占的に支配する権能」を引き継いだときにおいても、「やはり何よりまずは、その国家の政府を我がものとすることこそが、国家そのものを我がものとすることと同義となるはずである」というように考えたのだとしても、それはけっして蒙昧な認識には当たるまい。他のやり方を何一つ知りようがなかったがために、彼ら人民=「新しい主権者」はただ、これまで知り得た限りでの国家そのものとの関わり方を、そのままそれ以後も継続させてきただけのことである。「かつての主権者もきっとそのようにして、国家そのものを我がものとしてきたはずだろう」というように、新しい主権者=支配者となる国民・人民は、何の疑念もなく考えていた。それ以外の仕方による国家との関わり方を、彼ら人民が「かつての被支配者として、何一つ知りようがなかった」わけなのだから、それは全く無理もない話なのだ。そして、これは少し後の話だが、そのような知見と考えにもとづく、そういった仕方・関わり方の彼らなりの国家の運用も、そこそこそれなりに何とかなってしまった側面はたしかにあるわけなのであった。
 結局のところ人間というものは、「たまたま今まではそれで何とかやってこられた」というようなことしか、それ以後も自分自身の行動の一切を考えることはできないものなのである。そして、結果的にはたしかにそれでそれ以後も、それなりにどうにかやっていけてしまうものなのだ。もちろんそれは何一つとして「新しくはない」ものなのではあるが、「新しいからよい、というわけでもないだろう」と言われてしまえば、そのように結果が出ている以上、仰せの通りという他ないのも実情なわけである。

〈つづく〉

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